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純愛

作者: 文星 結
掲載日:2026/04/14

してあげている。

その言葉が出るようになったらカップルは別れる道を辿るのだとか。今私が読んでいる本にはそう書いてある。


頁の端は指の脂でわずかに波打ち、古びた紙の匂いが、まるで過去そのものを圧縮したように静かに漂っていた。窓の外では、春の終わりにしては冷たい風が吹いている。カーテンはわずかに揺れ、その隙間から差し込む光が、部屋の中に曖昧な境界線を描いていた。

私はその一文を、何度も読み返していた。


「してあげている」

それは、与えている側が優位に立つ言葉だ。愛情を“行為”として定義し、それを差し出す自分を無意識に高い場所へと押し上げる。つまりそれは、対等であるはずの関係を、知らぬ間に歪めてしまう言葉でもある。


思い当たる節は、あまりにも多かった。


彼女と出会ったのは三年前、雨の匂いが街に沈んでいた六月の午後だった。駅のホームで、彼女は傘も差さずに立っていた。濡れた髪が頬に張り付き、視線はどこか遠くを見ているようで、現実の輪郭から半歩だけ外れているような、そんな佇まいだった。


雨なのか涙なのか分からないその放物線に見惚れ私はなぜか、声をかけた。


理由は今でも分からない。ただ、あの時の彼女は、放っておけば消えてしまいそうだったのだ。存在が希薄で、まるで世界に馴染んでいないような、危うさを帯びていた。


「風邪、引きますよ」

そう言って差し出した傘を、彼女は少しだけ躊躇してから受け取った。あの瞬間から、私たちは緩やかに繋がっていった。


最初は、対等だったと思う。

彼女の言葉は少なかったが、その沈黙には確かな温度があった。何も語らないことすら、ひとつの意思表示のように感じられた。私はそれを尊重し、彼女もまた、私の拙い言葉を丁寧に受け取ってくれていた。


だが、関係というものは静かに形を変える。

気づかないうちに、私は彼女に何かを“与える側”へと回っていた。


「大丈夫?無理しなくていいよ」

「今日は俺がやっておくから」

「君のために考えたんだ」


そのどれもが、優しさの形をしていたはずだった。けれど今思えば、それは彼女の領域に踏み込み、彼女自身の選択を奪っていく行為でもあったのだろう。


彼女は次第に、何も言わなくなった。

いや、正確には言えなくなっていたのかもしれない。


ある夜、彼女はぽつりと呟いた。

「ねえ、それって本当に私のため?」

その問いに、私は即答できなかった。

頭の中では「当然だ」と何度も繰り返していたのに、言葉にしようとすると、どこかで引っかかる。まるでその言葉自体が、薄い嘘を孕んでいるかのように。


私は結局、「そうだよ」としか言えなかった。

彼女は小さく頷いたが、その仕草には、以前のような柔らかさはなかった。


それからしばらくして、彼女は去った。

理由は、最後まで明確には語られなかった。ただ、最後に残した言葉だけが、今も鮮明に耳の奥に残っている。


「あなたは優しすぎるの」

それは賞賛ではなかった。


むしろ、関係を終わらせるための、静かな断罪に近かった。


本を閉じると、部屋の静寂が一層濃くなった。外の風はいつの間にか止み、世界は何事もなかったかのように穏やかさを取り戻している。


私は立ち上がり、窓を開けた。


冷たい空気が流れ込み、思考の奥に溜まっていた澱を少しだけ攫っていく。遠くで電車の走る音が聞こえ、その規則的な振動が、時間の流れを現実へと引き戻した。


「してあげている」


その言葉は、もう口にすることはないだろう。


けれど、完全に消し去ることもできない。あれは確かに、私の中にあった感情の形だった。歪ではあったが、偽りではなかったのだ。


愛とは、おそらく均衡の上に成り立つものだ。

与えることと、受け取ること。守ることと、委ねること。そのどれか一つでも傾けば、関係は静かに崩れていく。

私はそれを理解するのが遅すぎた。


窓の外には、薄く雲が広がっていた。春の終わり特有の、どこか曖昧な空だ。季節が移ろうその途中で、世界は一瞬だけ輪郭を失う。


まるで、あの頃の私たちのように。

机の上に置いた本を、もう一度開く。

同じ一文が、そこにある。

けれど今は、少しだけ違って見えた。


それは単なる警告ではなく、記録のように思えたのだ。誰かが同じ過ちを繰り返し、その果てに辿り着いた結論。


私は指でその行をなぞり、静かに息を吐いた。


もし次に誰かを愛することができるなら、そのときはきっと、「してあげる」ではなく、「共にある」と言える関係を築きたい。


そう思えたことだけが、せめてもの救いだった。

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