第9話「帰る場所がない」
一週間が終わる。
正確には、明日の朝で終わる。私がレオンハルトに「一週間だけ」と約束した期限。あと半日もすれば、この仕事部屋ともお別れだ。
書類の山に埋もれた机を眺める。一週間前は「国が滅びかけてるじゃないですか何これ」と絶叫したあの机が、今は嘘みたいにすっきりしている。
——いや、すっきりさせたのは私なんだけど。
窓の外に夕焼け。オレンジの光が書類棚の金具に反射して、壁に小さな光の粒を落としている。インクの匂いと、誰かが淹れっぱなしにした冷めた紅茶の香りが混じる。
ミリアに借りた羽織の襟元を引き寄せる。春とはいえ、執務室は夜になると冷える。薄い布の下、腕に鳥肌が立つのがわかる。
さて。帰ろう。
……帰る?
どこに?
ペンが止まる。
公爵邸は処刑宣告の翌日に王室に接収されている。ゲーム三周分の知識でそれは知っていた。家財道具は競売にかけられ、使用人は解雇された。
知っていた。知っていたから遺書を書いて、身辺整理をして、最後の紅茶を飲んで、処刑台に向かったのだ。
死ぬ前提で準備を済ませた人間に、帰る場所なんて残っているわけがない。
「……あれ」
声に出して、ようやく気づく。
私、この一週間どこに泊まっていたんだっけ。
答えは簡単だった。この執務室だ。ソファで仮眠を取って、ミリアが持ってきた着替えで凌いで、三食は厨房のおこぼれ。
それを「帰る場所」とは呼ばない。
「セラフィーナ様」
ノックもなしに扉が開く。エリック・ヴェルナーだ。騎士団副団長にして、この一週間ひたすら私の護衛をしていた男。
彼の無口さには慣れた。一日の会話が「おはようございます」と「お先に失礼します」の二往復で終わる日もある。第6話の時点で「この人とどう会話すればいいんだ」と悩んだ私の苦労を返してほしい。
——って、第6話って何だ。ゲーム脳が過ぎる。
エリックは私の前に紙の束を置いた。
「……明日の警備配置表です」
ああ、いつもの業務引き継ぎか。私がいなくなった後の——
「それと」
エリックが口を開く。
いや、それ自体は珍しくない。彼だって喋る。必要最低限は喋る。
でも彼は、必要最低限以外のことを言おうとしている。
その違和感に、思わず顔を上げた。
エリックの眉間に皺が寄っている。口元が微かに動いて、止まって、また動く。普段は鉄面皮のこの男が、明らかに言葉を探していた。
「——俺は、口が下手です」
知ってる。
「だから、こういうことを言うのが得意じゃない」
うん、それも知ってる。
「でも」
彼の声が、少しだけ大きくなった。
「あなたが七年前に妹の薬を手配してくれたこと、俺はずっと——いや。俺だけじゃない。この城で働く人間の半分以上が、あなたに何かしてもらっている」
……え。
「経理部のアンナは、あなたが予算を通してくれたおかげで息子を学校にやれた。厨房のベルトは、あなたが食材の仕入れ先を変えたから腰を壊さずに済んだ。庭師のヨハンは——」
「ちょっと待って」
待って。待ってほしい。
エリックが「長い台詞」を喋っている。この事実だけで脳の処理が追いつかない。
あの無口なエリックが。一日二往復のエリックが。
「——だから」
彼が私を見る。
「帰る場所がないなら、ここでいいんじゃないですか」
言い切って、エリックの耳が赤くなっている。
あ、照れてる。鉄面皮が照れてる。無口属性のキャラが長台詞を言った後に照れるの、ゲームのイベントCGで見たことある。というか三周目のサブルートで見た。
——違う違う違う。ゲームの話じゃない。
「……エリック」
「なんですか」
「あなた、今まで聞いた中で一番長く喋りましたね」
「……そうですか」
耳がさらに赤くなる。
可愛いな、この人。いや、可愛いって言ったら怒るだろうけど。身長190センチの騎士団副団長を可愛いって言ったら確実に怒る。
でも。
胸の奥が、じわりと熱い。
「ここでいいんじゃないですか」という言葉が、まだ耳の中に残っている。温かくて、不器用で、だからこそ嘘じゃないと思える響き。
——帰る場所がない。
それは事実だ。
でも、「ここにいていい」と言ってくれる人がいるなら。
それは、帰る場所がないこととは、少し違う意味を持つんじゃないだろうか。
「……考えさせてください」
私がそう言うと、エリックは一つ頷いて、部屋を出ていった。
足音が遠ざかる。
机の上の警備配置表に、明日以降の私の名前はない。当然だ。一週間の約束だったのだから。
でも、余白がある。
配置表の一番下に、わざわざ一行分の空白が残してある。
——この不器用な人は、そういうことをする。
私は鼻の奥がつんとするのを堪えて、冷めた紅茶を口に含んだ。苦い。砂糖を入れ忘れている。
明日の朝、答えを出さなければならない。
でも今はまだ、この苦い紅茶の味をゆっくり味わっていたかった。




