第7話「お菓子、持ってきました」
手伝い四日目の昼下がり。
書類の山はだいぶ低くなってきていて、優先度Bの処理に入っている。地味だけど大事な仕事ばかりで、たとえば領地間の境界線の確認とか、街灯の修繕申請とか。
指先がインクで黒いのはもう諦めた。爪の間にまで染みていて、三回洗っても落ちない。
コンコン、と控えめなノック。
ハンスさんかな、と思って「どうぞ」と言ったら。
入ってきたのは、淡い金髪の少女だった。両手に包みを抱えている。
リゼット・フォンティーヌ。
この乙女ゲームのヒロインである。
「あ、あの……セラフィーナ様。お、お邪魔じゃないでしょうか」
おどおどしている。まあ、そうだろう。ゲームのシナリオでは「悪役令嬢セラフィーナ」は彼女をいじめていた存在なのだから。
(いや、正確に言うとゲームのセラフィーナがいじめていたのであって、前世の記憶持ちの私はいじめてないんだけど——でもこの子からしたら同じ人間に見えるよね)
「いいえ、大丈夫ですよ。どうぞ」
リゼットが恐る恐る入ってくる。小動物みたいな動きだ。ゲームでも「天然で悪意のないヒロイン」という設定だったけど、実物は本当にそのままで、むしろ画面越しよりもっと小動物感が強い。
扉の横で、エリックさんがリゼットをちらりと確認して、そのまま石像に戻った。危険なしと判断したらしい。判定が速い。
「これ、その……お菓子を焼いてきたんです」
リゼットが包みを開く。
レモンの香りがふわっと広がった。黄色いマドレーヌがきれいに並んでいる。焼き色が均一で、形も揃っている。これはかなりの腕前だ。
「わあ、おいしそう。いただいていいんですか」
「は、はい! あの、迷惑じゃなければ」
迷惑なわけがない。四日間インクと羊皮紙しか見ていない人間に甘いものを差し出すのは、砂漠の旅人にオアシスを見せるようなものだ。
一つ手に取る。外はさくっとしていて、中はしっとり。レモンの酸味とバターの風味が口の中に広がって、思わず目を閉じてしまう。
「おいしい……これ、本当においしいです」
「よ、よかった……!」
リゼットの顔がぱあっと明るくなる。この表情、ゲームの好感度MAXイベントで見たやつだ。ただしあのイベントでは攻略対象の王子に向けられる表情であって、悪役令嬢の私に向けられる想定ではない。
(ヒロイン攻略してどうするの私)
「あの、それで……今日来たのは、お菓子だけじゃなくて」
リゼットが両手を膝の上で握った。さっきまでの嬉しそうな表情が消えて、真剣な顔になっている。
「セラフィーナ様。私——あなたのこと、誤解していました」
来た。
ゲームにはないイベントだけど、作品概要——じゃない、何となく予感はあった。
「誤解、ですか」
「はい。私、ずっと……セラフィーナ様は怖い方だと思っていました。学園でも、社交界でも、みんながそう言っていたから」
リゼットの声が少し震えている。でも目は逸らさない。
「でも、最近になって知ったんです。私が学園に入学できたのは、奨学金制度が新設されたからで——あの制度を提案したのが、セラフィーナ様だったって」
……ああ。
それはゲーム一周目の冒頭で、テキストの端にちらっと出てくる設定だ。「クレスティア公爵令嬢の提案で平民向け奨学金制度が設立された」という一文。ゲームの本筋には関係ないから、たぶんほとんどのプレイヤーは読み飛ばす。
「それだけじゃなくて、南部の薬草園の整備も、孤児院の運営費の見直しも、全部セラフィーナ様が——」
「リゼットさん」
私は彼女の言葉を遮った。
遮らないと、困るのだ。
「それは、私がやりたくてやったことです。感謝されるためではありません」
嘘だ。正確には、ゲームのセラフィーナがやったことで、私は前世の記憶を引き継いだだけ。でも、この体が、この手がやったことに変わりはない。その線引きが、自分でもよく分からなくなっている。
「でも!」
リゼットが立ち上がった。椅子がガタッと鳴る。
「でも、それなのに私——断罪イベントの時、何も言わなかった。セラフィーナ様が連れていかれるのを、見ていただけで——」
ああ、泣きそうだ。この子。
「リゼットさん、あの場であなたが何か言える状況じゃなかったでしょう。王子が壇上で宣言して、貴族たちが同意して、あの空気の中で反論するなんて——」
「でも、知っていたら! あなたがどれだけのことをしてきたか知っていたら、私は——」
リゼットの目から涙がこぼれた。ぽろぽろと、マドレーヌの上に落ちそうになるのを慌てて包みをずらす。
(お菓子は守る。お菓子に罪はない)
「リゼットさん。顔を上げてください」
彼女がしゃくりあげながら顔を上げる。泣き顔がまた小動物的で、保護欲をそそる。ゲームの攻略対象たちが軒並み落ちた理由が分かる。
「過去のことはいいんです。それより——あなた、今日はお菓子を持ってきてくれましたよね」
「え……はい」
「それで十分です。四日ぶりにまともな甘味を食べられました。それだけで、私はあなたに感謝しています」
リゼットがまた泣いた。今度は違う涙で、ぐしゃぐしゃの笑顔と一緒に。
「また、持ってきていいですか」
「ぜひ」
リゼットが涙を拭いて、笑って、ぺこりと頭を下げて出ていった。
しばらく、レモンの残り香だけが執務室に漂っている。
私はマドレーヌをもう一つ手に取って、口に入れる。やっぱりおいしい。泣いた後のリゼットの顔を思い出しながら食べるから、ちょっとだけしょっぱい気がするのは気のせいだろう。
「……エリックさん」
「……」
「マドレーヌ、食べます?」
「…………」
エリックさんが無言で一歩前に出て、無言で一つ取って、無言で口に入れて、無言で定位置に戻った。
咀嚼音だけが聞こえる。
「おいしい?」
「……悪くない」
四文字。エリックさんの語彙で言えば、最上級の褒め言葉だと思う。
さて、と。書類に戻ろう。
リゼットが帰った後、ふと考える。奨学金制度。薬草園。孤児院。ゲームのテキストではほんの一文だったものが、この世界では誰かの人生を変えていた。
ゲームの「悪役令嬢」って、つまり何だったんだろう。
——いや、考えるのは後にしよう。優先度Bがまだ二十件ある。それに明日は、もっと厄介な案件が控えている。
南部の橋梁予算の財務卿からの回答が届く日だ。グレーゴル卿、承認してくれるかな。
してくれなかったら——まあ、また別の手を考えるだけだ。三周分の知識はまだまだ残っている。




