第4話「一週間だけ、ですからね」
交渉は翌朝から始まった。
場所は応接室ではなく、王子の執務室。入った瞬間にインクの匂いが鼻を突く。乾ききっていない、書きかけの──いや、これは。
「殿下、この机の上の書類……」
「見るな」
「見えてます。縦に積んで三十センチはありますね」
書類の山。いや、山脈。ヒマラヤかここは。未処理の決裁書が地層のように重なっていて、一番下のほうは紙が黄ばんでいる。二ヶ月は放置されている。確実に。
「私が投獄される前は、この机に書類は五枚しかなかったはずですが」
「……お前がいなくなってから増えた」
「正確には、私が処理していた分が処理されなくなって堆積しただけですね」
王子が何も言わない。図星。
前世の会社員時代を思い出す。有能な先輩が辞めたあと、その人が抱えていたタスクが全員に降りかかって部署が機能不全になったやつ。あれだ。まさにあれ。
ゲームのテキストには「セラフィーナは権力を笠に着て国政を私物化した」と書かれていた。私物化じゃなくてワンオペだったのでは?
「座ってくれ」
レオンハルトが椅子を引く。自分のではなく、来客用の。わざわざ立ち上がって引いた。
「お前に見てほしいものがある」
王子が一冊の帳簿を差し出す。革の表紙がすり切れていて、角が丸くなっている。開くと、数字の羅列。だが途中から筆跡が乱れ、計算式に明らかな間違いが混ざっている。
「これは王室財務の月次報告です。……殿下、三ヶ月目の記入、足し算が合っていません」
「わかっている」
「引き算もです」
「……」
「かけ算は合ってますね。九九は偉大です」
褒めてはいない。
帳簿をぱらぱら捲る。指先に紙の繊維がざらりと触れて、使い込まれた質感がわかる。最初のほうは私が書いた字だ。几帳面な、線の細い文字。途中から別人の、ぐらぐらした字に変わっている。
ため息が出そうになって、飲み込んだ。
「殿下。正直に言います」
「言ってくれ」
「これは三ヶ月の放置で済んでいるのが奇跡です。外交書式の問題、財務の二重計上、貴族間の調整不全。どれか一つでも大きく転べば、内政の信頼が連鎖的に崩壊していました」
「……わかっている」
「わかっていて放置していたのか、わかっていたけどどうにもならなかったのか、どちらですか」
レオンハルトが正面から私を見た。青い目。昨日より隈が濃い。一晩で濃くなるものなのか。
「後者だ」
短い答え。でも、嘘はない。この人の声は嘘をつくとき微かに高くなるのを、ゲーム三周で学んでいる。今の声は低い。本音だ。
「それで、殿下の要望は?」
「国政を立て直してほしい。俺ではなく、お前にしかできない」
「お世辞ですか」
「事実だ」
事実と言われると困る。お世辞のほうが断りやすかったのに。
窓の外で鳥が鳴いている。種類はわからないけど、暢気な声。平和でいいね、鳥は処刑とか国政とか気にしなくて。
「……条件があります」
「聞こう」
「一週間だけです」
王子の眉がぴくりと動く。
「一週間で、現状の問題を整理して応急処置をします。恒久的な対策は後任に引き継ぎ書を作ります。それで私の役目は終わりです」
「一週間で足りるのか」
「足ります」
足りるかどうかは正直わからない。でも期限を切らないとずるずる居座ることになる。ゲーム知識で唯一わかっているのは、この国の政治は構造的に一人の有能な人間に依存しやすいということ。そこに嵌ったら抜けられない。
「その後は?」
「処刑が取り消されたのなら、領地に戻ります。父上の屋敷で猫と暮らします」
「猫か」
「シャルロッテです。一歳半の三毛猫で、右耳の先だけ黒いのが特徴です。詳しく聞きますか」
「いや、いい」
興味なさそう。猫の魅力がわからないとは。
「一週間だけ、ですからね。延長はありません」
「ああ」
「絶対にですよ」
「わかった」
二度念を押す。大事なことなので。
「ミリア」
ドアの外に控えていたミリアが、即座に入ってくる。耳をつけていたな、今。ドアの木目の跡が頬についている。
「お嬢様、決まりましたの?」
「一週間だけ国政の手伝いをすることにしたわ。一週間よ」
「まあ」
ミリアの目が輝く。輝かないでほしい。長期雇用じゃないから。
「では私も、一週間分のパイの材料を買い込まなくては!」
「パイの心配しかしてないでしょう」
「パイはお嬢様の活力の源です。林檎にしますか? 洋梨にしますか?」
「……洋梨で」
注文を答えてしまった。もう巻き込まれている。
レオンハルトが何か言おうとして、口を閉じた。開いて、閉じた。魚か。
「殿下、何か?」
「いや。──洋梨のパイは俺も好きだ」
知らない情報が追加された。攻略wikiに載っていなかった。レオンハルトの好物は「ハーブティー」としか書かれていなかったのに、洋梨のパイが好きなのか。
ミリアが「まあ、殿下もですの? ならば大きめに焼きますわね!」と張り切り始めて、王子が微かに口角を上げた。
笑った?
いや待って。この人が笑うのはゲームだとエンディングの一枚絵だけでは。序盤から笑顔を見せるキャラじゃなかったはず。バグか? 仕様変更か?
帳簿をもう一度見下ろす。ぐちゃぐちゃの数字。崩壊した書式。未処理の山。
一週間。たった一週間。
「では殿下、まず優先度の高い案件から片付けましょう。この帳簿の三ヶ月目をやり直しますので、元の資料を全部出してください。全部です」
「どれだけある」
「さあ。でも殿下の部屋だけで三十センチですから、財務局にも相当溜まっているはずです」
レオンハルトの顔が一瞬、絶望に染まった。自分で蒔いた種である。同情はしない。
「一週間後には笑えるようにしてあげますよ」
その言葉に、王子がまた少し口元を動かす。
──あれは、どう見ても笑顔だった。
困った。一週間で終わらせなきゃいけないのに、この人がゲームと違いすぎて、計算が狂い始めている。




