第3話「死ぬ予定だったのに」
場所を変えた先は、王宮の応接室だった。
壁一面に歴代国王の肖像画が並んでいて、全員がこちらを見下ろしている。どの顔も渋い。五代前の国王に至っては眉間の皺が溝のようだ。この血筋から生まれたレオンハルトが無表情なのも頷ける。
革張りの椅子に座ると、ぎし、と微かに鳴る。三ヶ月ぶりのまともな椅子。牢屋の板床とは雲泥の差で、背中が「よかったね」と言っている気がした。
「──それで、殿下」
テーブルを挟んでレオンハルトが座っている。隈のある顔。揃えた手。姿勢だけは完璧なのに、どこか全体がくたびれている。
「改めて確認させてください。殿下の要求は『私との結婚』ではなく『私の能力の確保』ですね」
「……言い方を選ぶつもりはないのか」
「事実確認に装飾は不要です」
レオンハルトが小さく息を吐く。その仕草、ゲームでは見たことがない。三周で一度もなかった。シナリオにないということは、これはこの人自身のものだ。
「お前の言う通りだ。国に必要なのはお前の能力だ。──だが」
「だが?」
「土下座は、俺個人の判断だ」
意味がわからない。国の要請と個人の判断を分けて言う必要あります?
「殿下、私は死ぬ準備をしていました」
そう言いながら、懐から紙を出す。三つ折りの便箋。牢屋で書いた遺書だ。
「遺書も書きました。三通。父上宛と侍女宛と猫宛です」
「猫に遺書を書いたのか」
「シャルロッテは家族です」
王子の口元がわずかに動いた。笑ったのか引いたのかは判別不能。
「部屋も片付けました。引き出しの中まで整理して、見られたくない日記は処分して、薬草の在庫リストも後任がわかるように書き直しました」
「……」
「死ぬ準備が整った人間に、いきなり『結婚しろ』は混乱します」
「それは──」
「しかも理由が『国が回らないから』」
レオンハルトが何か言いかけたが、私は構わず続ける。
「殿下。私がどれだけ覚悟を決めたか、おわかりですか。最後の紅茶を選ぶのに二時間かけたんです。ミントかカモミールかで四十分悩んで結局ミントにしたのに、飲み終わった後『やっぱりカモミールにすればよかった』と十分後悔しました。あの後悔を返してください」
「紅茶の話をしているのか?」
「最後の一杯の重みの話をしています」
王子が黙る。こういう黙り方、ゲームだと「好感度が下がりました」のサインなのだが、今の表情は怒りではない。たぶん、困惑。
困っているのはこっちなんだけど。
「お嬢様」
後ろに控えていたミリアが、唐突に泣き出した。
泣き出した。
「ミリア?」
「だって……だってお嬢様、死ぬおつもりだったんでしょう?」
「……うん、まあ、そういう予定だったけど」
「予定って言わないでくださいまし!」
ミリアの声が応接室に響く。歴代国王の肖像画がびりびり震えている気がする。音量調節を知らない子だとは思っていたけど、今日は特にすごい。
「私、毎日お嬢様に差し入れを届けながら、ずっと考えていました。どうすればお嬢様を助けられるか。でも何も思いつかなくて。パイを焼くことしかできなくて」
「あのパイおいしかったよ」
「おいしいとかそういう話じゃないんですの!」
そういう話だと思うんだけど。あの林檎のパイ、牢屋生活の唯一の楽しみだったのは事実だし。シナモンの効かせ方が絶妙だった。焼きたてのバターの香りが鉄格子越しに漂ってきて、思わず一瞬、ここが牢屋だということを忘れた。
「お嬢様が処刑されたら、私も後を追うつもりでした」
「追わないで。絶対に追わないで」
「でも──」
「ミリア」
私は椅子から立ち上がって、ミリアの手を取る。冷たい。泣きすぎて震えている。指の先が白くなるほど力が入っていて、三ヶ月分の不安が、この小さな手に全部詰まっているのだとわかる。
「あなたがパイを届けてくれたから、私は九十日間ちゃんと生きていたの」
「……お嬢様」
「だから後を追うとか言わないで。あなたまで死んだら、シャルロッテの世話は誰がするの」
「猫の話ですの!?」
猫は大事。命に関わる話をしているときも猫は大事。
ミリアが鼻をぐすぐす言わせながら、私の手を握り返す。温かさがじわりと戻ってくる。
「……お嬢様がご無事なら、なんでもいいですの」
「なんでもは困る。結婚しろとか言われてるんだけど」
「あ」
ミリアがレオンハルトのほうを見た。王子は椅子に座ったまま、この一連のやりとりを黙って見ていた。どんな顔をしているかと思ったら──。
困っていた。めちゃくちゃ困った顔をしていた。
主従の感動シーンに口を挟むタイミングを完全に見失ったらしい。いつからだろう。たぶんパイのあたりからだ。
「……話は、まとまったか」
「まとまっていません」
「だろうな」
王子の声に、ほんの少し柔らかさが混じった。気のせいかもしれないけど。
ミリアが涙を拭きながら、ずい、と前に出る。
「王子殿下」
「なんだ」
「お嬢様を泣かせたら許しませんわよ」
いや、泣いているのはあなたでは。
レオンハルトが真面目な顔で頷いた。「善処する」と。
善処って何。
死ぬ準備は完璧だったのに。遺書は出す先を失い、片付けた部屋に戻る可能性が出てきて、最後の紅茶は最後じゃなくなった。
予定が狂うどころの騒ぎじゃない。
でも──ミリアの手の温度が、まだ掌に残っている。
「……殿下」
「なんだ」
「結婚はしません。ですが」
王子の目が、わずかに見開かれる。
「お話だけは、もう少し聞きます」




