第2話「国が回っていない」
土下座から十五分が経過している。
王子はまだ額を床につけたままだ。体幹がすごい。さすが剣術大会三連覇。その筋力をもっと別のことに使ってほしい。
「殿下、お体に障ります」
「返事をもらうまで立たないと言った」
頑固か。
周囲はもはやお通夜みたいな空気になっていて、騎士団の誰かが小声で「水持ってきたほうがいいか?」と相談している。処刑場で給水の心配をするな。
観衆のほうからは「結婚してあげなよ!」「いや処刑は?」「処刑どうなったの?」と囁きが飛び交っていて、完全に野次馬の質が変わっている。
仕方ない。このままでは王子が脱水症状で倒れる。夏じゃないからすぐには倒れないだろうけど、大理石の床は冷たい。膝が冷えたら腰に来る。王族が腰痛で政務を休んだら私のせいになりそうだ。
「……少しだけ、お話を聞きます。立ってください」
レオンハルトがゆっくり顔を上げる。額に大理石の跡がくっきりついている。赤い。かなり本気で押しつけていたらしい。
「ありがとう」
「感謝はお話を聞いてからにしてください。それで──国が回らないとは、どういう意味ですか」
王子が立ち上がり、靴を履き直す。丁寧に。右足から。几帳面なのは知っていたけど、このタイミングでもそうなのか。
「お前が投獄されてから三ヶ月だ」
「存じております。数えていましたので」
牢の壁に正の字を書いて数えていた。やることがなさすぎて。
「三ヶ月で財務が崩壊した」
……は?
「北部の灌漑事業の予算が二重計上されていた。お前が組んだ予算管理表を誰も引き継げなかった」
あの予算管理表、私が夜なべして作ったやつだ。項目ごとに色分けして、相互参照を組み込んで、誰でも使えるように注釈まで入れた力作。あれを「誰も引き継げなかった」?
「……注釈、読みましたか?」
「読んだ。誰も理解できなかった」
嘘でしょう。あんなに丁寧に書いたのに。各セルに「ここを変更すると連動します」って注記を入れたのに。前世でExcelの関数に泣かされた経験を総動員したのに。
「財務だけではない」
王子の声が低くなる。
「外交文書の書式が統一されなくなった。お前が標準化した書式テンプレートを、後任が『古臭い』と言って廃止した」
「廃止!?」
思わず声が出た。あのテンプレート、隣国の慣習に合わせて敬称の位置まで調整してある。それを廃止?
「結果、隣国ヴァイセンから『書式が違う、無礼だ』と抗議が来た」
だから言ったのに。いや言っていない。投獄されていたので言えなかった。
「それから──」
「まだあるんですか」
「社交シーズンの調整を誰もやらなかった。貴族同士の会食スケジュールが重複して、ブランシュ伯爵とカルディア侯爵が同じ日に同じ会場を予約した。当日、二人が鉢合わせて決闘になりかけた」
それは調整しないほうが悪い。でもなぜ私がやっていた仕事の量、こんなに多いのか。前世でいうところの「あの人が辞めてから回らなくなった職場」そのものでは。
ゲームのセラフィーナは「傲慢で横暴な悪役令嬢」だった。少なくともシナリオ上はそう描かれていた。横暴、だったのかもしれない。やり方は。でもそれは──。
「つまり殿下は」
私は王子の目を見る。青い。湖みたいに深くて、その奥にあるのは王族のプライドじゃなくて、たぶん、疲労だ。目の下に薄い隈がある。
「私の仕事を引き継げる人がいないから、処刑を取り消して連れ戻したいと」
「……そうだ」
正直だな、この王子。
ゲームのレオンハルトはもっとスマートだった。感情を見せず、的確な言葉で状況を支配するキャラクターだったはず。今、目の前にいるのは三ヶ月の睡眠不足で判断力が鈍った青年だ。
「結婚は」
「結婚すればお前の罪状は帳消しにできる。王族の配偶者は不可侵だ」
法律の抜け道を使う気か。感情じゃなく実務として提案してきている。ある意味レオンハルトらしいと言えばらしい。
「ちなみに殿下」
「なんだ」
「私を断罪したのは殿下ご自身では?」
王子が黙った。
沈黙が三秒。五秒。目を逸らした。逸らしたぞこの王子。
「……あれは、必要な措置だった」
「で、三ヶ月で崩壊した」
「…………」
沈黙が痛い。空気がぴりぴりと肌を刺す。中庭に残った朝露の匂いが、この気まずさにはあまりにそぐわない。
背後でミリアが小さく「ぷっ」と吹き出したのが聞こえた。笑うな。いや、笑いたい気持ちはわかるけど。
「お嬢様」
ミリアが私の袖を引いた。彼女の指先は冷たい。牢屋の差し入れ担当として三ヶ月通い詰めた手だ。
「お話の続きは場所を変えましょう。ここ、まだ処刑場ですし」
処刑場で求婚の返事を検討するのは、確かに場所を間違えている。処刑人がまだ斧を持ったまま所在なさそうに立っているし。
「そうね。──殿下、場所を変えましょう。ここでは落ち着いて話せません」
「……わかった」
王子が歩き出す。その背中を見ながら、私は思う。
ゲーム三周分の知識が、まるで役に立たない。
攻略wikiにも、二次創作にも、こんなルートはなかった。
処刑台の上から降りる階段を踏むとき、足の裏に木の軋みが伝わる。降りるのは初めてだ。ゲームのセラフィーナは、この階段を降りることなく終わるのだから。
──これは、どこにも書かれていない第四周目の始まりなのかもしれない。




