第11話「いたい、と言えた」
残ると決めてから三日が経つ。
正式な肩書きはまだない。「元処刑予定者が城でうろうろしている」という奇妙な状態のまま、私は毎日書類の山と格闘していた。
レオンハルトに「肩書きは?」と聞いたら「考え中」と返ってきた。王子のくせに段取りが悪い。
「セラフィーナ様、お茶をお持ちしました」
ミリアがティーカップを差し出す。湯気の向こうに、ベルガモットの香り。
「ありがとう。……ミリア、なんでにこにこしてるの」
「してません」
してる。明らかにしてる。この三日間、ミリアは常に口角が上がっている。寝ているときも上がっているんじゃないかと思うくらいに。
お茶を一口。熱い。舌の先がひりっとする。でもこの苦みの奥にある柑橘の爽やかさが好きだ。
「お嬢様」
「ん?」
「残ってくださって、本当に——」
「その話はもう五回聞いた」
「六回目です」
数えてたのか。
ミリアが満足そうに去っていく。扉が閉まる直前に「お嬢様のお部屋、もう準備できてますから!」と弾んだ声が聞こえる。
部屋。
そう、部屋をもらった。ソファじゃなくて、ちゃんとしたベッドがある部屋。エリックが「空き部屋があります」と手配してくれて、ミリアがカーテンからシーツまで全部揃えてくれたらしい。
初めてそのベッドで眠った夜のことを、覚えている。
柔らかいマットレスに体が沈んで、洗いたてのシーツがひんやりと肌に触れて、ラベンダーのポプリが枕元に置いてあった。
涙が出た。
理由はよくわからない。悲しいのとも違う。嬉しいのとも違う。「ああ、ここで寝ていいんだ」と思った瞬間に、何かが決壊しただけ。
——感傷はここまで。仕事をしよう。
午後、会議室で税制改革の最終案を詰めていると、リゼットが来た。
ヒロイン。ゲームの正規ヒロイン。ピンク色の髪に大きな瞳の、絵に描いたような乙女ゲームのヒロインが、会議室の入り口で小さくなっている。
「あの……セラフィーナ様、少しだけお時間いただけますか」
「どうぞ。何でしょう」
リゼットが椅子に座る。彼女の手元に、紙束がある。
「これ……私が調べたんです。セラフィーナ様が処刑される前に、断罪の根拠として提出された証拠書類」
「ああ、横領の偽証と、毒殺未遂の——」
「全部、捏造でした」
知ってる。ゲーム三周したから知ってる。
でもリゼットは、知らなかった。彼女は自力で調べて、自力でここに辿り着いている。
「私、あなたのことをずっと——悪い人だと思ってました」
リゼットの声が揺れる。
「断罪イベントの時も、『やっと正義が果たされる』って……そう思ってた」
彼女の指が、紙束の端をぎゅっと握りしめている。爪が白くなるくらい強く。
「でも違った。調べれば調べるほど、あなたが裏でどれだけのことをしていたか出てきて——」
「リゼットさん」
「——私が何も知らずに笑っていた場所は、全部あなたが守っていた場所でした」
あ。泣いてる。ヒロインが泣いてる。
ゲーム三周、一度も見たことがない。だってヒロインは悪役令嬢を断罪して、王子と結ばれて、ハッピーエンドを迎える側の人間だから。泣く必要がない。
でも目の前のリゼットは泣いている。自分が信じていたものが間違いだったと知って、その間違いの上で笑っていた自分が許せなくて。
——この子は、「装置」じゃない。
ゲームではヒロインという役割を背負わされていただけの、一人の女の子だ。
「リゼットさん」
「はい……っ」
「泣かないで。あなたが知らなかったのは当然です。私が勝手にやっていたことだから」
「でも——」
「でも、ありがとう。調べてくれて」
リゼットの涙が一粒、紙束の上に落ちる。インクが少しだけ滲む。
「……お菓子」
「え?」
「今度、お菓子を焼いてきます。前にお渡しした時は全然足りなかったから、今度はもっとたくさん——」
「いや、前回も十分すぎる量だったと思うんですけど」
「足りません! 全然足りません!」
ヒロインの謝罪が菓子の量で測られている。この世界の価値基準がよくわからない。
リゼットが鼻を赤くしながら出ていった後、一人になった会議室で、私はぼんやりと天井——じゃなくて、壁の紋章を見上げる。
クレスティア家の紋章は、もうこの城のどこにもない。
代わりに、ヴァレンシュタイン家の双翼の鷲が見下ろしている。
ここは、私の城じゃない。
でも。
エリックが「ここでいい」と言い、レオンハルトが「そばにいてほしい」と言った。ミリアは六回「残ってくれてありがとう」を繰り返し、リゼットは泣きながら「お菓子を焼く」と宣言している。
足りない。まだ、足りないものがある。
私自身の言葉だ。
みんなが「いてほしい」と言ってくれた。でも私は「残る」と言っただけで、「いたい」とは言っていない。
残るのは判断だ。でも「いたい」は——感情だ。
ゲーム三周、一度も使わなかった選択肢。悪役令嬢の台詞リストには存在しない言葉。
扉が開く。ミリアが夕食の支度を告げに来て、私の顔を見て、きょとんとする。
「お嬢様? どうかされましたか?」
「ミリア」
「はい」
「私——ここにいたい」
声が震えた。情けないくらいに。
判断じゃなく、感情。「残る」じゃなく、「いたい」。
ミリアの目が大きく見開かれて、それから——
笑った。
満面の、笑顔。
泣きそうな、でも泣かない、光るような笑顔。
「——おかえりなさい、お嬢様」
ああ。
この言葉を聞くために、私は四周目を始めたのかもしれない。
目の奥が熱くて、鼻の奥がつんとして、唇を噛んだら微かに血の味がする。
泣くな。泣くな、セラフィーナ。
——泣いた。
盛大に泣いた。
ミリアのエプロンがびしょびしょになった。彼女は「お嬢様、鼻水は勘弁してください」と笑いながら、でも自分もぐしゅぐしゅに泣いていた。
二人で泣いて、二人で笑って。
馬鹿みたいだ。
でも、いい。馬鹿みたいで、いい。
——明日はきっと、目が腫れる。会議があるのに。
最悪だ。でも、ちょっとだけ楽しみだ。




