第10話「二度目の、額」
朝だ。
約束の期限の朝。一週間が終わる朝。
ソファで目を覚まして、体中がばきばきに軋む。仮眠用のソファは三日目から腰に来ると学んだのに、結局七日間使い倒してしまった。
羽織を肩にかけ直す。ミリアが毎朝替えてくれるこの羽織は、いつもラベンダーの香りがする。彼女が好きなポプリの匂いだ。
さて。
荷物をまとめよう。と言っても、荷物なんてほとんどない。ペンが二本と、メモ帳と、ミリアが持ってきてくれた替えの手袋。死ぬ気で来た人間の持ち物なんて、この程度のものだ。
机の上を片付ける。引き継ぎ資料はもう書いてある。「外交文書の優先順位」「税制改革の進捗」「厨房の予算は削るな(ベルトの腰が本当にやばい)」。
……我ながら、丁寧すぎる引き継ぎだ。死にたがりのくせに責任感だけは一人前。前世の社畜根性が悪い方向に出ている。
ノックの音。
「失礼します、セラフィーナ様——」
ミリアが朝食のトレイを持って入ってくる。焼きたてのパンの香ばしい匂い。バターが溶けかけている。
「ミリア、ありがとう。でも今日で最後だから」
「……はい」
彼女の表情が曇る。泣きそうな顔をしているけれど、今日は泣かない。第3話で散々泣いたから。
——また話数で考えてる。本当にゲーム脳だな、私。
「ミリア、この一週間ありがとう。あなたがいなかったら私は三日目で倒れてた」
「お嬢様……」
「次の主人にもちゃんと仕えてね。あ、でも料理だけはしないで。あなたの料理は生物兵器だから」
「ひどいっ! 前より上達しましたよ!」
「スープに砂糖を二百グラム入れるのは上達とは言わない」
ミリアが頬を膨らませる。この顔を見るのも、今日で最後だと思うと——
いや。感傷に浸るな。
私はゲームの悪役令嬢だ。処刑される予定だった女だ。一週間の延長戦をもらえただけでも十分すぎる。
パンを一口齧る。外はかりっとして、中はもちもちだ。厨房のベルトの焼くパンは本当においしい。この味も、今日で——
扉が、勢いよく開いた。
ノックなし。朝の執務室に、嵐みたいに飛び込んできた人物。
レオンハルト・ヴァレンシュタイン。
第一王子殿下が、息を切らしている。走ってきたらしい。王子の身分で廊下を走るなんて、護衛が卒倒するやつだ。
「——セラフィーナ」
名前を呼ばれる。敬称なしの、ただの名前。
「約束の期限だ。お前はこれから出ていく」
「ええ、そのつもりですけど」
「だから俺は、もう一度頼みに来た」
レオンハルトが、膝をつく。
床に。
あの日と同じように。処刑台の前で見た、あの光景と同じように。
額が、床につく。
——二度目の土下座。
「ちょっ……! 殿下、起きてください! また土下座はやめて!」
「断る」
「断るって、あなた王子でしょう!?」
「王子だから何だ。必要なことはする」
このひと、本当にブレない。プライドの使い方が斜め上すぎる。王族としてのプライドを「土下座で示す」って、どういうバグだ。ゲーム三周したけどこんなルート知らない。
「前回と同じ話なら——」
「違う」
レオンハルトが、額を床につけたまま言う。
「前は、国のために残れと言った」
「ええ」
「今度は違う」
沈黙。
一秒。二秒。ミリアが息を呑む気配がする。
「——そばにいてほしい」
……は?
「国とか政治とか、そんなものは関係ない。お前に、そばにいてほしい」
待って。
待ってほしい。
それ、前回と全然意味が違うんだけど。前回は「ヘッドハンティングでは?」ってツッコんだけど、今回のはどう聞いても——
「それ告白ですか」
「……知らん。自分でもよくわからん」
自分でわからないのに土下座してるの? それはそれで問題では?
でも、レオンハルトの声が震えている。小さく、かすかに。この不器用な王子が、自分の気持ちに追いつけないまま走ってきたのだということが、その震えでわかる。
ゲーム三周分の知識が、頭の中でぐるぐる回る。
一周目。セラフィーナは処刑されてゲームオーバー。
二周目。フラグを回避したけど、追放エンドで終わった。
三周目。何をやっても悪役令嬢には幸せな結末がなかった。
三周、全部やった。全ルートを見て、全選択肢を試し尽くしている。
でも——四周目はない。ゲームにはなかったから。
「……殿下」
「なんだ」
「顔を上げてください」
レオンハルトが、ゆっくりと顔を上げる。額に赤い跡がついている。本気で押しつけていたらしい。
私は彼の目を見て、息を吸った。
「四周目は——私が書きます」
ゲームにはなかったルート。誰も用意してくれなかったシナリオ。攻略wikiにも載っていない選択肢。
でも、これは現実だ。
ゲームじゃない。
だから——自分で書いていい。
レオンハルトが目を見開く。その瞳に、朝の光が映り込んでいるのが見える。
「……それは」
「残るという意味です。鈍いですね、殿下」
「鈍くない。確認しただけだ」
「額に床の跡がついてますよ」
「……黙れ」
ミリアが後ろで、静かにハンカチを顔に押し当てている。泣いてる。やっぱり泣いてる。
私はもう一口パンを齧って、立ち上がる。
「じゃあ引き継ぎ資料は破棄ですね。書くのに三時間かかったんですけど」
「……すまん」
「すまんで済むなら騎士団はいりません。——さて、仕事しますか」
新しい朝だ。
四周目の、一日目。




