第1話「額が、床についている」
死ぬ準備は、完璧だった。
遺書は三通。父上宛、ミリア宛、そして飼い猫のシャルロッテ宛。猫に遺書を書く令嬢がいるかと問われれば、いる。ここに。
部屋は塵ひとつなく片付け、紅茶は最後の一杯をミントの葉を浮かべて飲みきった。あの爽やかな苦みが、舌の奥にまだ残っている。
セラフィーナ・クレスティア、二十歳。本日、処刑される予定である。
何しろ前世の記憶がある。このゲーム──『聖輝のエトワール』を三周した。一周目は普通にプレイして、二周目は全ルートコンプリートして、三周目はやることがなくなって悪役令嬢の好感度だけ上げるという意味不明な遊び方をしていた。
だから知っている。断罪イベントのあと、セラフィーナは処刑される。王子に婚約破棄を突きつけられ、国外追放か処刑かの二択を迫られ、追放を選べば道中で暗殺されるので実質一択。
……まあ、ゲームとして見たら「悪役令嬢の末路」テンプレそのものである。プレイ中は「うわ、えぐ」とポテチをつまみながら見ていた。まさか当事者になるとは。
ポテチの油っぽい指でコントローラーを握っていたあの日の自分に言いたい。画面の向こう側は地獄だぞ。
処刑場は王宮の中庭だ。磨かれた大理石の壁に朝の光が反射して、やたら眩しい。処刑されるのにこの天気の良さはなんだろう。せめて曇っていてほしかった。演出として。
首元に朝の冷気が触れるたび、これから刃が当たる場所を意識してしまう。いやだなあ、と他人事のように思う。三周分の予習があると、恐怖より「ああ、ここか」という妙な納得が先に来る。
処刑人が斧を構えている。観衆が集まっている。騎士団が整列している。
完璧な処刑日和である。
──なのに。
「頼む、俺と結婚してくれ」
視界の端に、金色が落ちた。
落ちた?
いや、違う。あれは人だ。金髪の。めちゃくちゃ見覚えのある金髪の。
第一王子レオンハルト・ヴァレンシュタインが、処刑台の前で、額を床につけている。
……え?
土下座。あれはどう見ても土下座だ。
この世界に土下座という文化があるのかは知らない。でも額を床につけて「頼む」と言っている以上、あれは土下座以外の何物でもない。
観衆がざわめいている。騎士団が固まっている。処刑人に至っては斧を持ったまま「俺どうしたらいい?」という顔をしている。わかる。私もわからない。
「王子殿下」
声が震えないように気をつけながら、私は口を開く。
「あの、立っていただけますか」
「断る。返事をもらうまで立たない」
立って。お願いだから立って。
王族が地面に額をつけている光景、控えめに言って国際問題では? 隣国の大使がいたら外交カードにされる。確実にされる。
「殿下、私は本日処刑される身です。結婚以前の問題かと」
「だから処刑を取り消す。俺にはその権限がある」
え、あるの?
いや待って。ゲームでそんな設定あった? 三周したのに?
「……どういう、おつもりですか」
「お前がいないと国が回らない。頼む。戻ってきてくれ」
それは告白じゃなくてヘッドハンティングでは?
私の脳が処理を拒否している。三周分の知識がまったく役に立たない。攻略wikiにも載っていない。当たり前だ、こんなルート存在しない。
額をつけたままの王子の金髪が、朝の光を受けて輝いている。土下座なのに神々しいのは何かの間違いだと思う。
処刑人が斧をそっと下ろした。もう処刑の雰囲気じゃない。それはそう。
「──あの」
ミリアの声がした。私の侍女の。処刑を見届けるために来ていた彼女の声が、背後から聞こえる。
「お嬢様、あの王子様、本気ですわ。だって靴、脱いでますもの」
見ると確かに、レオンハルトは革靴を丁寧に揃えて脱いでいた。
何その覚悟の示し方。
死ぬ準備は完璧だったのに。予定が、盛大に狂った。




