第五章 容疑者たちの影
旅館のロビーに戻ると、そこにはすでに数人の客が集まっており、なにやらざわめいている。どうやら警察が来ていると聞きつけて心配になったらしい。私は東川とともに、可能な範囲で状況を説明しながら、話を聞けそうな人物にさりげなく質問を試みた。
1.小宮千景
30代後半くらいの女性で、一人旅をしているらしい。部屋は被害者・川添の隣室だったという。柔らかい物腰だが、どこか沈んだ表情をしている。川添の名前を聞くと、少し目を伏せるような仕草を見せた。
「あまりお話できることはないんですけど……夜中、隣の部屋でバタバタと音がして、落ち着かなかったんです。男性の声が聞こえたような気もするけれど、それ以上は……ごめんなさい。私、ここにちょっと癒やしを求めて来ただけで、変なことには関わりたくなくて」
2.蟹江輝
60代前後の初老の男性で、定年退職後に気ままな旅を楽しんでいるという。飄々としていて、やや大柄な体格。旅館に四日間滞在しており、川添とは何度か顔を合わせていたらしい。
「川添さんは落ち着かない様子だった。私が話しかけても『すみません…』とすぐにどこかへ行ってしまう。何やらノートPCで仕事をしているようでもあったね。私も昔IT系の仕事をしていたから、話が合うかと思ったんだが、あまり交流を望まないみたいだったよ」
3.大山田ふみ
40代後半くらいの女性で、この旅館に長期滞在している“常連客”らしい。旅館のスタッフとも顔なじみのようで、ロビーでスマホを弄っていたが、私たちが話しかけると積極的に口を開いた。
「川添さん? ああ、あの人ね。毎日落ち着きがないから、気になってたのよ。私、昔から人の観察が好きでね。夜中に廊下をウロウロしてる姿を見たことあるわ。まるで誰かに追われているみたいだったの。で、何度か声をかけたんだけど、無視されちゃってさ。ちょっと傷ついたわ」
4.安藤雄一
30代前半で、ビジネススーツ姿。どうやら会社の研修か何かでこの旅館を訪れているようだが、詳細は曖昧にしか話してくれない。どこかそわそわして落ち着かない雰囲気を醸し出している。
「俺は…その、ここの温泉が有名だから来ただけで、川添さんなんて人は知りませんよ。関係ないっす。警察に用事なんてないんで、失礼します」
安藤の態度には少し違和感があった。視線が落ち着かず、何かを隠しているような気配がある。もしかするとただ気が弱いだけかもしれないが、どことなく不自然だ。
さらに、旅館のスタッフや女将から話を聞いていくと、もう一人、野々村サキ という女性が昨夜から行方不明らしいことがわかった。彼女は二十代前半で、旅館のアルバイトスタッフとして数日前から働きはじめたが、今朝になって連絡がつかない。部屋にも荷物を残したまま失踪したという。
「どうもあの子、何か悩んでいたようで、夜中にこっそり泣いてる姿を見たって人がいるんです。川添さんとは直接関係ないと思うんですが…」と女将は心配そうに眉を寄せる。
殺人事件の可能性を感じる中での、この不可解な失踪。二つの出来事が全く無関係とは考えにくい。川添が抱えていた闇と、野々村サキの失踪、その裏で糸を引く存在があるのかもしれない。私は徐々に、複数の糸が絡み合う“大きな謎”の入り口に立っていると実感する。