第二章 不可解な通報
その夜、私は事務所で書類整理をしていた。ふと見上げると、壁際のアナログ時計が21時を回っている。残暑の夜は蒸し暑い。古いクーラーはまだ健気に動いているが、吹き出す風はなんとなく生ぬるい。東川は「先に失礼します」と言って帰ってしまい、事務所には私だけが取り残されていた。
書類を放り投げるように机の上に置き、背伸びをしていたところに、一本の電話がかかる。事務所の黒い固定電話だ。こんな時間に誰だろうと思いながら受話器を取ると、少し震えた男性の声が聞こえた。
「もしもし……警察の方ですか?」
「はい、こちらは捜査連絡室です。どうなさいましたか?」
「え、えっと……こんな時間に申し訳ない。実は、先ほど自分のビルの一室で、妙な物音がして……人の声がしたんです。でも、そこは何もない空き部屋で……」
「空き部屋?」
「はい。誰も入居していないはずなんです。ビルの管理人は私なんですが、夜中に人が入り込むのはおかしいでしょ? それで、確かめに行こうとしたら……鍵が……内側から閉まっていて開かないんですよ!」
かなり怯えている様子だ。私は男性から住所を聞き出し、詳しい状況を確認する。場所はここからさほど遠くない雑居ビルだった。ビルの管理人である彼は、夜間に巡回に回るのが日課らしい。しかし、今夜その空き部屋から人の声が聞こえ、さらにドアが開かない。酔っ払いか不法侵入者が入り込んだ可能性は高いが、鍵が内側からというのが少々気になる。
私は必要最低限の装備を整え、現場へ向かう決意をした。
ビルへと向かう道すがら、山科から教えられた“この辺りに不審者がいる”という話を思い出す。とはいえ、夜の繁華街を抜ければ人通りは少なく、街灯がついているとはいえ暗い路地が続く。都会の喧騒の裏に沈む静寂が、不気味に私を包み込んでいた。
目的の雑居ビルは比較的新しく、先ほどまでいたレトロな建物よりはしっかりとした外観だ。ただし内部は夜で照明が落とされ、薄暗い雰囲気が漂っている。正面玄関の前で待っていた中年の男性が、通報者の増岡と名乗った。
「こちらです。ご足労いただき、すみません」
「大丈夫ですよ。詳しい状況を教えてください」
「は、はい。夜の見回りをしていたら、四階の空き部屋から人の声がして……ドアを開けようとしたんですが、鍵が開かないんです。それに、明かりは点いてないし、廊下も真っ暗なのに、中で話し声が聞こえたような……」
増岡は心なしか青ざめている。私は懐中電灯を用意し、増岡を伴ってエレベーターに乗った。四階へ着くと、細い廊下に蛍光灯が一つだけ点いているが、光量が足りずに陰影が強い。空き部屋の扉の前まで来ると、管理者用のマスターキーを使ってみるが、鍵が回らない。確かに、内側から施錠されているようだ。
「聞こえますか……?」と私は扉に耳を当ててみる。だが、今は物音ひとつしない。しんと静まり返っている。
「おかしいな、さっきまで確かに声が……」と増岡は首を振る。
「とにかく中を確認しないとわからないですね。消防用のハシゴか、非常階段から回り込めませんか?」
「非常階段はありますが、窓の鍵も閉まってるはずです。中から侵入しないと開かないタイプなんですよ」
私が廊下を見回したところで、一瞬ゾッとするような“気配”を感じた。扉の隙間から、誰かがこちらを覗いているような……しかし、視覚的には何もわからない。自分の神経が高ぶっているだけかもしれない。
増岡に促され、私はドアを蹴破るか、あるいはドアノブを力ずくで壊すか考えたが、さすがにそこまでの強行は許可が必要だ。何かの事件性を確信できる証拠があれば話は別だが、今のところ“声がした”だけでは動きづらい。私は部屋の外壁に回って窓ガラス越しに内部を覗こうと試みるが、窓には厚手のブラインドが降りていて中は真っ暗だ。とにかく痕跡が見当たらない。
「とりあえず、今日は私が巡回を続けますので……もし人がいるなら出てくるかもしれませんし……」
「そうですね。すぐに危険な形跡がないなら、私も上に報告してからでないと大がかりな捜査はできません。それでも、もし万が一、明らかにおかしな状況になったらすぐ連絡をください」
「はい……すみません。お手数をおかけしました」
結局、何もはっきりしないままビルを後にすることになった。しかし、私は内側から施錠されているという不可解さに加え、増岡が本当に聞いたという“人の声”が妙に引っかかっていた。