第一章 錆びた噴水のある街並み
都会のど真ん中にありながら、まるで時代に取り残されたような街並みが残る一角がある。高層ビルやネオン看板が立ち並ぶ大通りを一本奥に入るだけで、敷石の敷かれた細い路地が現れ、昭和の趣を色濃く残すレトロな建物が建ち並ぶ。コンクリートに侵食されきらない雑草が、緩やかに夏の終わりを告げるように揺れていた。
私――正確には、“刑事”という職務につく二階堂真央は、この街に足を踏み入れるたび、どうしようもない郷愁を感じる。昔から理由もなく、昭和の雰囲気を漂わせる狭い路地が好きだった。古びた喫茶店や小さな定食屋の軒先にぶら下がった暖簾が、子どもの頃の夏休みを思い出させるのだ。
季節は八月から九月へと移り変わる境目。日中の暑さはまだ厳しいが、朝夕には微かな涼風が吹き、どこか寂しさをはらんだ空気が漂う。セミの声も日ごとに勢いを失い、街の隙間に小さな静けさを落としていた。
そんな夕暮れ時、私は捜査のため、とある古びたビルを訪ねようとしていた。ビル全体が薄汚れ、窓にはひび割れたガラス、扉にはところどころ塗装の剥がれた鉄製の看板。昔は企業のオフィスやら倉庫やらが入って賑わっていたというが、今は閑散としている。外には、錆びついた噴水が中央にあるちょっとした広場があった。噴水の水はもう止められて久しいのか、底には落ち葉と砂が溜まっている。
このビルには「広域犯罪捜査連絡室」の分室がある。もっとも大げさな名前とは裏腹に、私のように中央署から飛ばされてきた刑事が机を借りる程度の場所だ。ときどき、小規模な事件の捜査会議や情報共有が行われるに過ぎない。言ってみれば“名ばかり”の施設である。
古めかしい自動ドアをくぐると、廊下の電灯は薄暗く、壁際に古いソファが置かれていた。そのソファには一人の男が座っている。私より少し年上に見える、しがないフリージャーナリスト――山科透だ。少々やつれ気味であるが、目は輝いていた。
「お、二階堂さん。今日も精が出ますね」
「……また何かネタを探してるの?」
山科はいつもと変わらぬ気楽そうな口調で言う。
「ネタっていうより、こういう街で起きそうな事件の匂いを嗅ぎつけるのが仕事だからね。最近、この辺りでちょっと不審な動きがあるって噂を聞いてさ。知らない?」
「不審な動き?」
「まあ、夜中にこのビルの近くで黒いワゴン車を見かけたとか、ビルの裏に住み着いているホームレスが謎の男に追いかけられたとか、そういう小さな話がポツポツ出てるのよ。実際にどこまで本当かは知らないけど」
私は曖昧に頷いた。こんな場所に怪しげな人間が出入りしてもさほど驚きはない。だが、記録に上がってきていない動きなら、いずれ何か大きな事件に繋がるかもしれない。
「ところで、君は?」
「俺は自称“ジャーナリスト”だけど、それなりのルートがある。警察はなかなか動きづらいだろ? こういう地味な噂話は、マスコミの方が情報収集しやすい場合もあるし」
「それで私を利用して、事件の真相に近づこうってわけ?」
「へへ、持ちつ持たれつ、ってやつさ」
山科は苦笑いを浮かべる。私は半ば呆れながらも、その情報を頭の片隅に留めることにした。
ビルのエレベーターは古く、がたがたと軋む音を立てて上昇する。ドアが開くと、そこは小さな事務所。部屋の奥にはデスクが二つ、書類を積んだキャビネットが一つ。椅子に座りパソコン画面と向き合っていたのは、同僚の刑事・東川香織だ。私より若いが、仕事ぶりは優秀で、すでに数件の難事件を解決に導いた実績を持つ。
「お疲れさま。今日も暑いわね、二階堂先輩」
「ご苦労さん。何か面白い事件が入った?」
「これといって大きな案件はなし。でも、地方の温泉地でちょっと不審な死亡事故があったってニュースが入ってる。それと、廃墟になった洋館に不法侵入者が何人か入ったらしいって通報もあったわ。どっちも微妙に謎めいてるけど、まだ正式にうちが動く話ではないみたい」
東川はパソコンに向き直りながら続ける。
「上の指示では、当分ここを拠点に“広域”に関する事件に目を光らせておけ、とのこと。退屈はしないと思うけどね、先輩が好みそうな匂いがする案件はいくつかあるわ」
「へえ、わざわざここに左遷された私にはうってつけだよ」
「左遷なんかじゃないわ。あなたが失敗に見せかけた大手柄を立てたの、私は知ってるんだから」
にやりとする東川。その言葉に少し救われた気分で、私は彼女の隣の机へ腰を下ろす。相変わらず薄暗い蛍光灯の光が、夏の夕暮れよりもどこか寂しく見えた。