目覚め
わたしはべちゃりと床に突っ伏した。
とてつもなく身体が重い。酷い倦怠感だ。こんなの今まで味わったことがない。
(ええーっと、何が起きてたんだっけ……?)
十五の夜を〈タイム・スリップ〉で越えようとしたわたしは逆に過去に飛んでしまった。お祖父様の協力を得て、月光石の力で未来の新月に再び〈タイム・スリップ〉しようとしたんだけど、その寸前で……。
「そうだ、〈愛し子の印〉!」
わたしは慌てて自分の胸元を見下ろした。ドレスをずらして確かめたその箇所に、見覚えのある印はどこにもない。
(ギーンシュ)
思い出すのは、夢か幻かも分からぬ世界で出会った女神のことだった。彼女は別れの際に「すべての矛盾が解ける時に、あなたを送る」と口にしていた。
矛盾が解ける時っていつなのだろう。少なくとも、ここはお祖父様と一緒に訪れた神殿の中ではなさそうだけど。
わたしは重い体を引きずるように起き上がって、周囲を見渡した。
部屋の中は暗いものの、絵画や彫刻が並べられていることが分かる。美術品の保管庫だろうか。そこまで考えて、わたしは妙な既視感を覚えた。
(ここ、どこかで見たような……?)
しかも、それほど前のことではなかったような気がする。ここと同じような保管庫に逃げ込んだような……。
唐突に答えに辿り着いて、わたしはぽんと手を打った。
「アンディ・ラタコウスキー男爵邸!」
わたしは頭を抱えた。
記憶が正しければ、あの変態好色貴族の屋敷ということになる。そんなところ、金輪際関わるのもごめんだと尻尾を巻いて逃げ出したというのに、一体何でまた戻って来てしまったのだ。
「いやいやいや、ちょっと待った」
認めたくはないが、ここが例の男爵邸だとしよう。
以前あった石像は失くなっているようだけど、それ以外にこれといって大きな変化はない。だとすれば、今はわたしが本来いた時間に限りなく近いのではないだろうか。
(リアは……)
彼が刺された時の状況を思い出す。手のひらにべったりと張り付いた血の感触が蘇ってきて、わたしは身震いした。
悪い方向に考えちゃ駄目だ。まずは今のわたしがどういう状況にあるのか理解する。その上で、次に何をするのか考えないと。
「とりあえず逃げよう」
こんなところにいても、絶対ろくなことにならない。わたしはのろのろと立ち上がった。
杖は失くしていなかったようだ。
不幸中の幸いにも、今は夜半だ。夜魔法が最も効力を発揮する時間帯であることを考えると、前回同様〈転移〉でサッと学校まで移動すればいい。
わたしは杖を握り、言ノ葉を紡ぐ。
『転移』
うんともすんとも言わない。
……というか、そもそも魔力が籠っていないような気がする。いやいやいや、そんな、まさかぁ。
『転移』
もう一度、魔法を唱えてみる。魔力のまの字も感じられなかった。
これ、魔法を唱える以前の問題なんじゃない……?
わたしはだらだらと冷や汗が流れ始めることを自覚した。
ここは(多分)変態好色貴族のアンディ・ラタコウスキー男爵邸の保管庫で? わたしの体調は最悪で? おまけに魔力が失くなってるって……詰んでない?
逃げなくちゃいけないのは確定だ。だけど、満足に逃げおおせる要素が皆無だ。ねえ、ギーンシュ。どういう理屈でわたしを現代に連れて行ってくれたのかは分かんないけど、もうちょっとどうにかならなかったのかな!?
女神に訴えかけてみても今更どうにかなるものでもない。
とにかく、なんとかしないと。藁にも縋る思いで、わたしは身の回りを探ることにした。
(ん?)
コツン、と指先が硬質なものに触れた感触があった。わたしは懐の中にあった小袋を持ち上げる。
『どこかの誰かさんは一度も使ってくれない水晶玉だねー』
そう口にして、唇を尖らせていたのはルークだった筈だ。
『後で袋を用意しておくから、ちゃんと持ち歩くようにしときな』
嵩張るよぉ、とふてくされるわたしに、ステラは言ったのだ。
『防犯。いざって時に、アタシやルークと連絡取れた方が絶対いいでしょーが!』
(絶対いいですッ!! わーん、ありがとうございます!)
ここにはいないルークとステラの二人に心の底から感謝を述べて、わたしは水晶玉の前にひれ伏した。
「発動……出来ない……ッ!!」
そもそも、魔力がなかったんでした。
動力になる魔力さえあれば一般人でも動かせる便利アイテムではあるけれど、肝心の魔力がないことにはどうしようもな――…
わたしの視界にお茶の出がらしみたいにうすーい黄色の破片(……っていうか粉?)が目に入った。よく見れば足元に散らばって落ちているけど、これって月光石……の残骸だよね?
(ルキギナロクからのお助け!)
いや、女神のお助けと言うべきか。とにかく、水晶玉が動かせるなら一回限りでも何でもいい。わたしは足元に散らばる破片を両手で掻き集め、その上に水晶玉を乗せた。
「お願い、ルークの持っている水晶玉に繋げて!」
月光石の魔力があまりにも頼りなさ過ぎて、機能してくれるかどうかはかなり怪しい。粗悪品だったら、そもそも無理だったと思う。
ルークの渡してくれた水晶玉は小ぶりながらもかなり品質の良いものだったようだ。淡い光を宿して、水晶玉にぼんやりと風景が浮かび上がる。
(講堂外れ……!)
覚えのあり過ぎる風景を前に、ぞわりと背筋が凍った。
今は夜半だ。ルークがわざわざ講堂外れに向かうタイミングなんて、どう頭を捻っても限られてくる。嫌な予感を覚えながら、わたしは必死で水晶玉に語り掛ける。
「ルーク。聞こえたら返事して、ルーク!」
どうか、どうか無事でありますように。祈るように両手を組んだわたしの前で、水晶玉の風景がぐるりと回転するのが分かった。直後、灰色の瞳がこちらを覗き込む。
『ディアナ先輩!?』
驚いたようなその声音は、聞き覚えのあるルークの声そのものだ。わたしは水晶玉相手にコクコクと頷いた。
「リアの怪我は大丈夫っ!?」
大分前のめりになっていたようだ。ルークは目を丸くした後、ゆっくりと頷いた。
『……さっき止血が終わったとこ。すぐに塞いだから大丈夫だよ』
リアが刺された直後に帰って来たんだ。
ルークの言葉によってわたしが戻ってきた時間が確定する。
今は十五の夜だ。つまり、わたしが過去に〈タイム・スリップ〉してしまった直後の時間に帰ってきたということになる。
わたしはふーっ、と息を吐いた。
「リアは生きてるんだね……」
『ん。このまま安静にしてれば問題ないと思う。だからそんな泣かなくったって大丈夫だよ、ディアナ先輩』
「うん……うん……ありがとう、ルーク……」
張り詰めていたものが緩んでしまったみたいだ。べしょべしょと目から涙が零れ落ちてしまう。加えて言えば、鼻水まで垂れてきたので、きっと今のわたしは酷い顔をしている。
「……良かった」
『ディアナなのかい!?』
驚いたように若草色の瞳が水晶玉に映り込んでくる。
ステラだ。わたしは彼女の言葉に頷いた。
『十五の夜は!?』
「色々あって越えられたの。今はもう平気だよ」
まさかあの後、過去に〈タイム・スリップ〉して夜の女神と直接やりとりをすることになったとは誰も思うまい。体験したわたしでさえ、今も実際にあったことなのかと疑いたくなるくらいだからね。
『良かった……』
ぐすっと鼻を啜る音が聞こえる。ステラ達にも物凄く心配をかけてしまったみたいだ。
……そうだよね。本来〈タイム・スリップ〉に必要な言ノ葉と全然違う言ノ葉を発して消えちゃったわけだから、心配しない訳がない。
『なんかいい雰囲気でまとまってるとこ悪いけど、ディアナ先輩ってば今どこにいるのー?』
再び水晶玉に割り込んできたルークの声にわたしは目を瞬かせた。
そうだった! わたし、助けを求める為に水晶玉を繋げたんでした!
「それが、アンディ・ラタコウスキー男爵邸の保管庫にいるみたいで……。おまけに今、わたし〈魔力なし〉になっちゃってるから、助けてほ――」
言葉は最後まで言い切ることが出来なかった。わたしが覗き込んでいた水晶玉が取り上げられたからだ。
「誰もいない筈の保管庫で声がすると思ったら、ずいぶんと久しぶりじゃあないか」
なあ、ディアナ。
囁くその声は、本来この場所で聞こえる筈のないものだ。
水晶玉を片手に弄んでいる男の髪はわたしと同じ銀色だった。薄く細められた目が、じっとりと品定めをするように見下ろしている。
金欲しさに実の一人娘を売り飛ばす悪魔のような男だ。忘れられる筈がない。
「お父様……」
わたしの恨みがましい眼差しも、実父であるサイモンにはまるで効く様子はない。それどころか、にっこりと満面の笑みさえ浮かべてみせるのだ。
「実の父は苦労しているというのに、お前はこんな高価な水晶を持っているだなんて……随分といい暮らしをしているじゃないか」
「それは友達からの借り物だよ。わたしのものじゃないの。だから返して、お父様」
「だとしても、娘が借り受けたものは父が管理するのが当然だ。これはボクが管理することにしよう」
「……そう言って、わたしのものを全部売り払ってきたじゃない。その水晶玉もお金になると思っているんでしょう?」
「ディアナはボクの苦労なんて全然考えてくれないんだねえ。お前が男爵から逃げ出したりなんてしたから、ボクが使用人のようなことをしなければならなくなったと言うのに」
完全に自業自得なので、どうぞご勝手にと言ってやりたい。
「使用人って言っても、保管庫にすぐ飛び込んでくるくらいだもの。お父様が金目のものを盗み出そうとしても全然おかしくないよ」
「ボクは娘をそんな親不孝なことを言う子に育てたつもりはないよ」
「……お父様」
わたしはホワイトバーチの杖を取り出して、サイモンに向けた。
「わたしが魔法学校に行ってたことは知ってるよね? だったら、これが持つ意味も分かる筈」
今のわたしは〈魔力なし〉である以上、これは単なるはったりでしかない。だけど、お祖父様が偉大な魔法騎士であったことを知っているお父様には十分に効果があった。
「水晶玉を返して」
「……」
「早く、返して」
サイモンから水晶玉が返ってくる。
わたしはサイモンから目を離すことなく、じりじりと保管庫の扉へと後退していった。
「なあ、ディアナ」
扉に手をかけるわたしを前に、サイモンが尋ねてみせる。
「お前、用は済んだのに今回はパッと消える魔法を使ったりしないんだね?」
その問いかけにギクリとしてしまう。
「ああ、そうかい。よく分からないけれど、今は使えないんだね。分かった。」
本当に、お前は全部顔に出る子だよ。
ニッコリと笑ったサイモンの笑顔に、わたしは今度こそ両開きの扉を開いた。そのまま脱兎の如く駆け出した――ふりをして扉の裏に隠れる。
残念ながら、わたしの身体は走れるほど満足に回復していない。
「いけない子だねえ。ボクを騙すだなんて」
サイモンが足早にわたしの隠れている扉の向こう側を通り過ぎていく。その後ろ姿が遠ざかっていくのを見送って、わたしはそうっと保管庫に再び潜り込んだ。こうなってくると、もはやサイモンとわたしの化かし合いだ。
前回隠れた石像の姿はなかったので、大きめの絵画の裏側に身を潜める。暗がりの中に包まれる保管庫は、不気味なほどに静まり返っていた。
(ルークに連絡はした。途中で途切れちゃったとは言え、ステラも聞いていたし、きっとなんとかして助けに来てくれる……筈)
自分に言い聞かせる。なのに、もう一人のわたしが囁くのだ。「でも、それっていつになるの?」と。
(リアは怪我したばかりで安静にしないといけないし、商人の身分でしかないルークとステラが男爵家に乗り込むなんて無理……だろうし)
ともすれば暗い方向に考えてしまいそうになる。
わたしはぎゅっと手のひらを握り締めた。そうでもしなければ、手の震えを誤魔化せそうにもない。
もし助けに来てもらえなかったら。サイモンに見つかってしまったら。
冷え切っていく身体を両腕で抱きしめる。もはや隠しようもなく、わたしは震えていた。魔力もなく、体力もなく、ただ隠れてやり過ごすしかないわたしは無力だ。
(大丈夫。きっと……きっと……)
一体どれほどの間そうしていたのだろう。ふと、遠くから靴音が近付いてくることに気が付いて、わたしは背筋を正した。
こつこつ、こつこつ。こつ。
やがて、靴音は保管庫の前で立ち止まる。
(助けなの……? それとも……?)
わたしはそっと絵画の裏から部屋の様子を伺おうとした。
「ああ、やっぱり」
明るい声が聞こえた。
「お前は昔から、人の死角を突くような隠れ方をする子だったからね。そうじゃないかと思ったんだ」
覗いたのは銀色の髪。それから目尻を細めて笑う、サイモンの姿だった。




