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月の言ノ葉

 袖を引かれたような気がして、わたしは振り返った。

 ……誰もいない。気のせいだったのだろうか。


「こっちこっち」


 思いがけず、わたしの目線の下から声は聞こえた。見れば、小さな女の子がわたしを見上げている。


「ああ、ごめんね」


 見たところ、五、六歳くらいだろうか。その年頃の子供らしく、頬はふっくらとして、手なんて作り物のように小さい。

 何より目を惹いたのは、銀色の長い髪と満月色の瞳だった。

 うちの親戚にこんな子いたかな?


「どうかしたの?」


 わたしは膝を折って彼女に目線を合わせた。


「あのね。探し物をしているの」

「探し物?」

「うん。お姉ちゃんも探すの、手伝ってくれる?」


 乞われて、わたしは考え込んだ。そう言えば、何かしなければいけなかった気がするのだけど……何だったっけ?


「……だめ?」


 女の子はうるうるとわたしを見上げている。そんな顔で見られてしまうと、否とは言えない。わたしは頷いた。


「いいよ」

「ありがとう!」


 にっこりとする女の子に目線を合わせて、わたしは名前を告げる。


「わたしはディアナだよ」

「知ってるよ! わたしはギーンシュって言うの!」

「ギーンシュ?」


 どこかで聞いたことがあるような……どこで聞いたんだっけ? 首を傾げるわたしを他所に、ギーンシュはすたたっと走り始める。


「ねえ、ディアナ。ここっていいところだね。温かくて、きらきらしていて、いい気持ち!」


 ギーンシュに言われて、わたしは周囲を見渡した。一気に視界が開けていくような感覚がある。

 抜ける様な青空があった。その下に広がっているのは黄金の麦畑だ。豊かに実った麦の畑の傍を、ギーンシュはくるくると楽しそうに走り抜けていく。


「そんなに走ったら転んじゃうよ。気を付けて!」

「平気だよー!」


 わたしの言葉をちゃんと聞いているのかいないのか、駆けまわるギーンシュの足取りは軽い。不意に、その小さな身体が岩のような大男とぶつかった。


「わぷっ」

「どわっはっはっは! ギーンシュや、前を見て走らないからだぞぅ?」

「お祖父様!」


 豪快な笑い声はまさしくお祖父様そのものだ。お祖父様は小さなギーンシュをひょいっと持ち上げると、緩み切ったデレデレ顔で頬ずりした。


「ほーれ、捕まえてしもうたわい。お髭の刑だぞ!」


 宣言通り、お祖父様の髭がギーンシュのふっくらほっぺの上を往復している。ギーンシュは「きゃー!?」と高い声を上げた。


「ごわごわする~!」

「儂はお髭の手入れを怠ったことはないぞ!」

「それとこれとは別ですって! そろそろギーンシュを放してあげないと!」


 案の定、ギーンシュはグッタリしている。慌てて声をかけるものの、お祖父様は「ぬぅ?」と不思議そうだ。


「義父様、女の子は優しく扱ってくださいな」

「父上は本当にギーンシュのことが大好きだねえ」


 絵に描いたようなお祖父様の猪突猛進ぶりを嗜めたのは、見覚えのある二人だった。わたしは顔を綻ばせる。


「お父様! お母様!」


 長い髪を緩く纏め、ショールを羽織ったお母様の顔色はいつになく良さそうだ。


「今日は具合が宜しいのですか?」

「ええ、随分と気分がいいのよ。たまには外に出たいわってサイモンにお願いしたところなの」

「可愛い妻におねだりされちゃねえ」


 お祖父様に負けず劣らずデレデレ顔をしているのはお父様だ。血は争えないというか、何と言うか。


「相変わらずお母様べったりだねえ……お父様は」

「勿論ギーンシュのことだって可愛いと思っているよ!」

「はいはい」


 本当にお父様ってば調子がいいんだから。わたしは息を吐いて、ギーンシュの傍まで歩いて行った。


「大丈夫だった?」

「う~ん。お髭が……お髭が……」


 案の定というか、ギーンシュは目を回している。お爺様、どれだけスリスリしたんだろう。


「もうここはいいや。次行こ! 次!」


 ギーンシュがそう口にすると、目の前の風景がぱっと切り替わった。

 組み上げられた立派な石壁が続いている。元は砦を改装したとされるティリッジ魔法学校は、古めかしい造りでありながら、どこかほっとするのはどうしてだろう。

 遠くから「おーい」と呼びかける声が聞こえて、わたしは意識を向けた。


「ギーンシュ、一体どこに行ってたんだい?」


 息を切らせながら走ってきたのは、見覚えのある赤毛のポニーテールの女の子だ。彼女の姿にギーンシュはぱっと顔を輝かせる。


「ステラっ!」


 ギーンシュがステラに飛びつく。小柄なステラに小さなギーンシュが抱き着くと、丁度胸の位置に頭が収まる。ギーンシュは嬉しそうに満月色の目を細めて笑った。


「ふかふか~」

「いいなー」


 息も切らせもせず、後ろから長い足で追いかけてきたのはルークだ。ステラに抱き着くギーンシュを前に、羨ましいという感情を隠してもいない。


「俺も俺もー」

「もうっ、何やってるんだいっ!」

「そりゃあ、ギーンシュに交じって俺もぎゅーに加わろうかと」

「却下だよっ! 時と場所を考えな!」

「時と場所を考えたらいいなんて、お熱いねー」


 ギーンシュはくすくすと笑っている。ステラはもう、見ているこっちが可哀想になるくらい真っ赤になっていた。当然、決壊するのも早い。


「ルークッ! ギーンシュッ!」

「「きゃーっ!」」


 両手を振り上げるステラを前に、ルークとギーンシュは悲鳴を上げて逃げ回っている。なんとも楽しそうな光景だ。

 不意に、呆れたような声が響き渡った。


「何の騒ぎだ」


 耳に残る心地のいい声だった。

 穏やかな日差しに不釣り合いな全身黒づくめのいで立ちでその人は立っている。

 艶やかな黒い髪。魔法書の匂いがする黒作業着(ローブ)。それから、忘れられないすみれ色の瞳。


「……また君達は騒ぎを起こしているのか」


 ため息を吐くその人を前に、ギーンシュの満月色の瞳がぱっと輝く。


「リアっ!」


 ――やめて。

 花が綻ぶように笑うギーンシュを前に、すみれ色が細められる。穏やかで、優しい横顔。その眼差しがギーンシュに向けられているというだけで、こんなにも胸がかき乱されてしまう。


「ギーンシュ」


 彼が、その名を呼ぶ。

 ――そこはわたしの場所なの。これ以上は、もうやめてぇっ!!

 パチンッと何かが弾ける音がして、周囲の風景が掻き消えるのが分かった。辺りが暗闇の中に包まれる。


「驚いた。もうあと少しのところだったのに」


 わたしの前には銀色の髪に満月色の瞳を持った女の子が立っている。彼女は先ほどよりも一回り程小さくなっていて、もはや三歳くらいの姿に見えた。


「……わたしが小さくなっていて、驚いた?」


 幼い見た目に反して、その口ぶりには妙な落ち着きがあった。凄味があると言えばいいのだろうか。そのちぐはぐさが、彼女をより一層不可解な存在に見せていた。


「力が流れ出ていくのを止められないの」


 ギーンシュは言った。このままいけば、わたしは消えてしまう、と。


「あなたが望むなら、あなたの望むものを与えてあげるわ」


 優しいお祖父様。素敵な両親。仲のいい友達に……それから大好きな恋人。全部、あなたの望む形で与えてあげられる。


「ねえ、それって素敵でしょう?」


 満月色の瞳を煌めかせて、ギーンシュは内緒話をするようにわたしに囁きかける。その姿は確かに幼いのに、目が離せないほど蠱惑的で、わたしは思わずごくりと唾を飲み込んでしまった。


 生きていくその過程は、ままならないことの連続だ。

 例えば両親。子供は生まれてくる親を選べない。

 育つ環境だって、小さい内なんて特に、与えられたものを享受する他ないだろう。自分の足で立って歩いて行こうにも、力がなければ踏み潰されてしまうし、いとも簡単に強者に奪われていく。わたしはそれを、父親という存在を通して嫌と言うほど思い知った。

 どんな望みでも叶う世界であれば、きっと幸せに違いない。ギーンシュがそうであったように、皆が優しく大事にしてくれて、何もかもが思いのままであるのなら。


「だから、ディアナをギーンシュに『全部』……ちょうだい?」


 うっとりと夢見るようにギーンシュは囁いた。その満月色の瞳を見つめていたら、何でも差し出したくなってしまう。

 だって、ギーンシュはこんなに小さくなってしまって可哀想。「いいよ」って言って、抱きしめてあげれば、きっと……ううん、すっごく喜んでくれるに違いない。

 わたしは不安がるギーンシュを安心させる為に、にっこり笑って唇を開いた。


『ディアナ先輩ってチョロイって言われなーい?』


 失礼な声を思い出した。

 いやいやいや、なんで早々にチョロイなんて言われなきゃいけなかったのか。


『馬鹿正直にもほどがある! なにかやってくれって言ってるようなものじゃないか!』


 わたしを案ずる声を思い出す。

 何でもかんでも鵜呑みにして、貧乏くじを引いていくわたしをいつも心配してくれた。


『君の防犯対策は一体どうなっているんだ……』


 呆れたようなその声の主が、誰よりもわたしのことを考えてくれていたことを今更ながらに思い知る。結局心配をかけさせて、だけど、今のわたしが一番心配している人。


 ねえ、リア。わたし、あなたにもう一度会わなきゃいけない。

 あなたに会って、どうしてあんな無茶したの。わたしのことなんて全然言えないじゃないって、叱らなきゃいけないの。そうじゃなきゃ、全然納得なんて出来ないよ。

 だから、わたしは……女神と一緒にはなれない。


「あげないよ」


 わたしはギーンシュを見た。ギーンシュはいよいよ身体が縮んで、もはや赤ん坊のような姿をしている。


「なんでぇ!? どうしてわたしの声に応えないの!」


 ギーンシュはほとんど涙目だ。わたしはふふんと胸を張った。


「ありとあらゆるところで騙されてきたからね!」

「じゃあわたしにも騙されてよ!?」


 赤ん坊姿も相まって、ギーンシュは癇癪を起しているようにしか見えない。わたしは彼女を見下ろして、首を振った。


「『全部』ってことは、わたしのこの気持ちも、あなたに委ねるってことでしょう? そうなってしまったら、もうそれはわたしじゃない」


 だから、わたしはあなたにあげられないの。

 口にして、わたしはひたとギーンシュを見つめる。


「ディアナはそれで良くても、わたしは死んじゃうの!」


 ギーンシュは声を張り上げた。


「わたしはまだ死ねない! わたしが死んじゃったら……遺されるキィロはどうなっちゃうの……っ!」


 口にして、ギーンシュはポロポロと涙を零す。もはや今の彼女から得体の知れなさは感じられなかった。小さな体で精いっぱい手を振り上げ、ギーンシュは虚空を掴もうとする。


「キィロ……ごめんねぇ……っ」


 そんな風に泣かれたら、なんだかすごく悪いことをしているみたいだ。

 これが散々チョロイなんて言われる所以なんだろうなあ。そんなことを考えながら、わたしはギーンシュの前に膝を付いた。


「わたしに大切な人がいるように、あなたにも大切な人がいるんだね」


 わたしがリアの元に帰りたいように、ギーンシュにはキィロがいる。分かってしまえば当たり前の事実で、気付いてしまえばごくありふれた感情だ。

 ねぇ、ギーンシュ。大事な人を想って泣くあなたを見ていたら、見捨てることなんて出来なくなっちゃうじゃない。


「『全部』はあげられない」


 わたしはギーンシュに言った。


「わたしの大切な人達はあなたに渡せないの。それは、わたしがわたしであるために大事なことだから」


 お祖父様。お母様。……お父様はいいや。

 ステラにルーク。それから、リア。わたしの大好きな人達。

 今のわたしがあるのは、わたしの心に触れてくれた人達がいたからだ。それを誰かに明け渡すなんてことは、絶対に出来ない。


「……だけど、それ以外のことで協力出来るなら、大好きな人がいる女の子同士だもの。話を聞くよ」


 ギーンシュは涙に濡れた満月色の瞳でわたしを見上げている。その呆気にとられた表情は、なんというか……不思議と親しみが持てた。


「じゃあ、『月の魔力を扱う力』と『月の魔力を溜め込む力』……わたしに返してくれる?」


 わたしは思わず瞬きをしてしまった。


「そんなことでいいの?」

「わたしには重要なことなの!」


 ギーンシュは声を張り上げる。わたしは笑ってしまった。


「だったら、最初からそう言えば良かったのに」


 惜しくないと言えば嘘になる。だけど、ギーンシュが大切な人と共にいる為に必要だと言うのなら、たとえチョロイと言われようとも、わたしはそれを差し出したい。

 言ノ葉は考える必要もなく、わたしの口から紡がれた。


「わたし、ディアナ・エジャートンはギーンシュに『月の魔力を扱う力』と『月の魔力を溜め込む力』を返します」


 次の瞬間、黄金色の光がわたしの中から二つまろび出て、赤ん坊のギーンシュに吸い込まれていくのが分かった。

 光が、消える。

 そう思った刹那、ギーンシュは目も眩むような輝きに包まれた。


「ずっと見ていた。……わたし、あなたが羨ましかったの」


 声が聞こえる。


「でも、あなたとわたしは違う。そんな当たり前のこと、言われてから初めて気が付くなんて不思議よね」


 輝く光は暗がりを突き抜けて天へと昇っていった。昇り行くその最中、もう一つの輝きが伸びてゆき、ギーンシュに寄り添うように交わり合う。

 ギーンシュはキィロとまた会えたのだろうか。会えたらいいな、そう思った。


「またいつか、どこかで」


 天高く昇った輝きの欠片が、一粒落ちて、弾けた。視界が真白に覆い尽くされていく。


「すべての矛盾が解ける時に、あなたを送るわ」


 最後に聞こえたのは、酷く大人びた声だった。

 わたしがその言葉の意味を確かめるよりも先に、世界はひび割れ、まもなく崩れ落ちた。

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