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(閑話)果たされた務め

 滲む視界の中に石畳が浮かび上がり、儂は慌てて目蓋を押し上げた。


(不覚! 気を失っておったとは……!)


 戦いの最中に意識を失うとは言語道断。敵に背中を見せるようなものだ。

 儂は素早く身を起こした。注意深く様子を伺う。


「……?」


 儂とディアナは月光石を目指して、神殿に入っておった筈だ。そこで常ならぬ眷属の襲撃を受けた。特にあの全ての眷属を飲み込んだデカブツは厄介で……そうだ。戦いはどうなった!?

 辺りは奇妙なほどに静まり返っていた。

 あれほど暴れまわっていた眷属は一体たりとも姿はない。それどころか、神殿内には静謐な空気が漂っているようだ。

 儂は立ち上がった。


「ぬぅ、出血しておったか」


 石畳の上に赤い筋が流れ出ていることを確認し、儂は自分の身体を見下ろした。打ち身にはなっていそうだが、傷自体は大したものではない。うむ、我が筋肉の賜物だな。鍛え上げられた肉体は鋼の強度を誇るのである。


「……ディアナはもう行ったのだろうか」


 未来からやって来たという我が孫娘のことを思い出す。

 銀色の髪に満月色の瞳は、まさに我らの祖とも呼べる夜の女神の血を強く受け継いだ証と言えよう。身内の贔屓目も多少はあるとはいえ、器量良しな娘だ。何より儂の孫娘でもある。当然、可愛いに決まっておる。


 ディアナは、何の因果か満月の日に十五の夜を迎えることになってしまった哀れな娘でもあった。

 エジャートン家は、月光族と呼ばれた一族の末裔だ。

 気の遠くなるほど遥か昔、それこそ神話の時代に、夜の女神ギーンシュによって月の魔力を扱う力を授けられたとされている。

 時を同じくして与えられたのが、月の魔力を溜め込むという月光石だ。この二つの力を授けられ、エジャートン家は絶えることなく細々と続いてきた。……いつの日か、女神に力をお返しするその日の為に。


 〈夜の愛し子〉などという哀れな贄が生まれるようになったのは、ひとえに女神の力が弱まった為だ。であるなら、我らが「今こそ女神に力をお返しする時」となるのは、自明の理。

 月光族であるエジャートン家の者が祭壇に月光石を掲げ、満月の夜に言ノ葉を奉じれば夜の女神の力は満たされる。確かにそう信じられていたし、手段は間違っていない。問題は、現世に降りてこられなくなるほど女神の力が弱っていたということだった。


 夜の女神を呼び寄せられないのであれば、つがいである闇の神に託せばよい。エジャートン家は、闇の神が選ぶという〈夜の愛し子〉の誕生をただひたすらに祈った。

 そうして生まれたのがこの儂。十五の夜に新月を迎えた〈夜の愛し子〉だ。


 ……儂は務めを果たすことが出来なかったのだ。

 突如未来からやってきたディアナには〈愛し子の印〉があり、今宵は満月だ。この状況にどれほど儂が動揺させられたのか、きっと誰にも分かるまい。

 同時に思ってしまったのだ。新月という覆りようのない環境故に生き永らえてしまった儂が「帰りたい」と強く願うあの子をどうして引き留められよう、と。


 先ほどの戦闘が嘘であったかのように、神殿は清らかな空気で満たされていた。

 石畳の上を歩いていく。不意に神殿の天井が途切れるのが分かった。

 漆黒の夜空には欠けたところなど一つもない満月が浮かび上がっている。

 ああ、かの月のなんと美しいことか。

 祭壇は月の光を受けて仄かに輝いている。まるで光に吸い寄せられる夜光虫のように、儂は祭壇へと歩みを進めていった。


「……そうか」


 吐いた吐息は自分でも驚くほど頼りなかった。

 務めを果たせぬ儂は、エジャートン家の面汚し。今は亡き血族の者に罵られる度、理不尽だと思ったものであった。

 果たせるのであれば、務めを果たしたかった。望まれていると分かっていたから、この全身全霊をもって応えてやりたかったのだ。神の国ルキギナロクへ行けるのであれば、この命など惜しくない。そう言い聞かされて育ってきた儂には、それだけの覚悟があった。

 ディアナにその覚悟などなかった筈だ。この時代に迷い込んできたというあの子は、未来に帰ることを望んでいた。ただ、それだけだったのだ。

 儂は生まれて初めて、運命とやらを呪った。


「ディアナ……」


 エジャートン家が代々守り継いできた月光石は、今やその形を大きく変えていた。

 柔らかな曲線を描く頬。腰まで伸びた長い髪。身に纏っているのは美しいドレス。

 そこにあったのは、精巧な少女の石像だった。

 これは職人によって造られた石像でもなんでもない。ディアナだ。儂の可愛い孫娘のディアナだ。あの子は、月光石と一つとなって、夜の女神にその身を捧げた……。


「ぬおおおおおっ……!!」


 儂は祭壇に膝を付いた。とてもではないが、立っていられなかったのだ。


「すまない……すまない、ディアナ……っ」


 あの日、儂はルキギナロクに行きそびれた。その代償が孫娘になろうとは、一体誰が予言出来ただろうか。

 この子が生まれた時には〈夜の愛し子〉ではなかったのに!

 ああ、ディアナ……。女神はどうして儂ではなく、ディアナを連れて行ってしまったのだ……っ!

 ダァン、と石畳を叩く。強すぎる力のせいで、石畳にはひびが入ったが、そんな些末は気にならなかった。

 目からは滝のような涙が流れ出る。唇から吐き出される嗚咽は、まるで獣の咆哮のようですらあった。


 美しい満月だった。ディアナが月光石と一つになったことを除けば、信じられないほど穏やかで心地の良い〈夜〉だったと思う。


 その日、儂はディアナの石像を背負い、エジャートン家まで連れ帰った。

 可愛い孫娘を、あのような冷たくて暗い神殿に置き去りにすることなどどうして出来ようか。

 儂はディアナの為に、屋敷に一室作らせた。跡取り息子は嫌な顔をしたが、当主の座を譲ることを約束すると、儂の願いを聞き入れてくれた。頑固な所もあるが、あれはあれで良き後継者なのだ。


 月光族の因縁はこれですべて終いだ。これからは新しい世代がエジャートン家の歴史を紡いでいく。なればこそ、家に残る古文書はすべて火にかけて焼き払うべきだと思った。

 灰になる古文書を見送り、儂は夜空を仰いだ。燃え盛る炎は、夜を煌々と照らしている。儂らの戦いは真の意味で終わりを告げたのだ。

 もはや女神は救われた。このような書物を残していても、無用な混乱を生むのみ。

 無駄だと知りながら、それでも儂は運命に抗いたかったのだ。

 小さな、儂の可愛いディアナ。どうかあの子が、健やかに大きくなってくれと願わずにはいられなかった。


   * * *


 あの無駄に頑丈なことだけが取り柄ともいえた父上が、山の主と呼ばれる猪と素手で殴りあった末、しっかり勝利を収めてから死ぬことになるとは一体誰が想像出来ただろうか。

 誰もが認める変わり者だった。当主の座を私に譲ってからは悠々自適な山籠り。本当に貴族なのかと何度問いかけたことだろう。その度に「どわっはっはっはっ!」と唾を飛ばさん勢いで笑い飛ばしていたことが、昨日のことのように思い出せる。


「……不死身、という訳ではなかったのだな」


 あの屈強な父上が死んだという事実を未だ飲み込めていないのは、その背中が無駄に厚くて、逞しくて、太すぎたせいもあると思う。

 父上は死の間際に、私に一つ頼み事を遺していった。


「例の部屋に安置してある石像を、其方の代も守り抜いてくれまいか」


 施工した際、私が散々苦言を零した部屋だった。

 石像を安置するのはまだいい。腕のいい技師を雇ったのか、なかなか精巧に造られた美しい女神像だったからだ。しかし、やれベッドやらクローゼットやら、果ては鏡台まで運び入れようとしたのには辟易した。当時、女神像相手に父上は気でも狂ったのだろうかと心配したほどだ。


 とはいえ、父上がその女神像を大切にしていることは周知の事実だった。父上には、曲がりなりにも育てて貰った恩もある。変わり者ではあったが、けして私にとって悪い父上ではなかったのだ。……最期の願いくらいは叶えてやろうという気になったのは、私にとってごく自然な感情とも言える。


「お任せください。……どうか、父上にルキギナロクの門が開かれますように」


 口にしたのは紛れもなく本心だった。


「これで安心して逝ける」


 穏やかな顔をして、父上は眠るように逝った。

 だから、父上の葬儀と共に屋敷に入り込んだ弟のサイモンが女神像を盗み出し、あまつさえ売り飛ばしたことを知った時、私は酷く失望したのだ。

 何故売り飛ばしたりなどした。あれは、父上が大切にしていた女神像だとサイモンも知っていただろう。

 その時のサイモンの返答は今なお忘れていない。


「部屋が一つ空いたから良かったじゃないか、兄上」


 サイモンはまるで悪びれもせずそう言い放ったのだ。

 金にだらしがないことは知っていた。幾度となく無心されたし、サイモンは既に分け与えられた土地も財産も失っている。それでも金を用立ててやったのは、血の繋がりがあったからに他ならない。


 だけど、この男は。サイモンは。

 幼い頃、あれほど私が望んだ銀の髪を持ちながら、父上の顔さえろくに見ていない。

 金になるか、そうでないか。判断基準がただそれだけになってしまった男と、これ以上付き合う道理などどこにもない。

 私はサイモンを亡き者として扱い、その家族全て、エジャートン家の敷居を跨ぐことを禁ずることにした。それだけの大罪をこの男は犯したのだ。

 事実、あの女神像は唯一この家の家宝とも呼べるものであったことには違いがないのだから。


 まさかその二年後、失われた女神像と瓜二つの姿を持つ娘がロフタス家の次男に見初められることになるとは、この時の私はまだ知らないでいる。

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