前夜
とうとう明日、十五の夜を迎えるばかりとなった。
振り返って考えてみれば、飛ぶような日々だったように思う。なにせ、〈タイム・スリップ〉に使える月光石は一つきりで失敗は許されない。月光石に魔法論理を刻み終えたのは丁度昨日のことで、明日がいよいよ卒業パーティー当日となる。
(午前中に卒業式があって、十二の鐘が鳴ったらパーティーが始まるんだよね)
明日の段取りを確認する。
卒業式は普通に出席予定だ。それから昼食を取り、着替えが終わったら講堂外れの林に集合。当日、講堂外れの林は人気がないのは分かっているので、ここで〈タイム・スリップ〉を行うことになる。
目指すは半月後の新月の夜だ。十五の夜を迎える今日、わたしは新月の夜に〈タイム・スリップ〉する。
成功すれば、わたしにとっては一瞬の移動になる筈だ。逆に、半月間ただ待つだけとなるリアやステラ、ルークにはやきもきさせてしまうことになる。
こればかりはしょうがないものの、上手く成功させて皆を安心させてあげるしかない。わたしはわたしで、やれることに全力を尽くすのだ。
(絶対に生き延びてみせるんだ)
ここまで協力してくれたステラやルーク。なによりリアの為に、わたしは自分の明日を掴みたい。十五歳のその先に進んでみせるのだ。
明日に備えて、ステラは既にベッドの中に入っている。わたしも同じように横になったものの、緊張しているのか、どうにも寝付くことが出来なかった。
窓の外を見上げれば、少しだけ欠けた月が空に浮かび上がっている。
闇の神が刻んだ〈愛し子の印〉で死ぬか、はたまた〈タイム・スリップ〉を成功させて新月まで逃げ延びるか。
泣いても笑っても、明日で全てが決まる。
(リアに、会いたいな)
姿なら授業で何度も見ているし、打ち合わせで顔も突き合わせている。それでも、このひと月ほどは魔法論理の完成にお互い全力を尽くしていたこともあってか、普通の会話をしていないような気がする。ドレスを贈ってくるくらいだったら、そういうこと話してくれればいいのにね。
なんというか、リアは講師なのに時々説明を省くきらいがある。良くない癖だ。
「……魔法準備室に行っちゃおうかな」
もう夜も遅いので、流石にリアの姿はない筈だ。それでも、彼がいた痕跡に触れたいと思ってしまう。
いずれにせよ、明日でわたしは卒業する。一晩くらいなら許されると思う。多分!
「そうと決まれば!」
言ノ葉を紡ぐ魔法は決まっている。月夜なら夜属性は万能選手だ。わたしは杖を取り出し、瞼を閉じた。散々研究を重ねたおかげで、もはや手足のように使いこなせる。
『転移』
寮の風景が一瞬のうちに掻き消える。
次に現れたのは、見覚えのある石壁の風景だ。ランタンの光に照らし出された魔法書の山が長い影を作り出している。
「あれ?」
ランタンを前に、手紙のようなものを読んでいるその背中には覚えがある。想像していなかった姿に、わたしは目を瞬かせた。
「っ……ディナ、か」
驚いたように身構えたその人は、わたしの姿を確かめてから息を吐く。彼は手紙を引き出しの一番上にしまい込むと、改めて私に向き直った。
「こんな夜半に何をしている。明日が本番なのだから、早く寝なさい」
「その言葉、そっくりそのまま返しておきますね」
もう〈タイム・スリップ〉の魔法は出来上がった筈だ。そうだというのに、どうしてリアはこんな時間まで魔法準備室に居座っているのだろう。思わず眉を吊り上げると、リアはため息を吐いた。
「……以前から調査していたものの証文が揃ったのでな」
「体調を整えるのも準備の一つですよ。やることやったんですから、手を止めて。あとは、もののついでにちょーっとばかしわたしに付き合ってくれるとなお良しです!」
「それが本音か」
呆れたようなリアの言葉にわたしは「へへっ」と笑う。
「だって、最近こういう時間ありませんでしたし」
二人きりなんてもっての他だ。だから、このチャンスの内にリアを堪能したってバチは当たらないと思う。……曲がりなりにも婚約者、なんだし。
リアはふう、と息を吐いてわたしに向き直った。
「少しだけだぞ」
その言葉に頷いて、わたしは空いている椅子を引き寄せた。リアの隣に腰かける。たったそれだけのことで、自然と頬が緩むのが分かった。
「君は楽しそうだな」
「そりゃあ、リアが隣にいますから」
「……そうか」
わたし達の間に静寂が訪れる。だけど、不思議と居心地の良い静寂だった。ずっとこうしていたような、そんな安心感がある。
『あんなに惚気ておきながら最初のチュー以外は進展なしってこと?』
不意に、先日交わしたルークとのやりとりを思い出してしまった。
今まで忙しさにかまけて忘れていたけれど、これっていい雰囲気じゃないのかな?
わたしはそうっとリアを見上げてみた。途端、すみれ色の瞳と目線が合う。思考はぽろっと口から出た。
「手を出したりしないんですか?」
「…………どこでそんな言葉を覚えてきた」
いや、ちゃんと知ってますよそのくらい!
思わず頬を膨らませると、リアは困ったように目線を外した。
「君が、大人になったら出す」
「……今じゃないんだ」
「頼むから、煽らないでくれ……」
ランタンの灯りに照らされているから分かり難いけれど、リアの頬は仄かに赤い。多分、わたしの頬はもっと赤いと思う。
「ちゃんと大人になれるかな」
レウカンサでは、女性は一般的に婚姻すると成人とみなされる。リアの言う大人とはつまり、わたしが彼と婚姻の儀をつつがなく終えた状態を指すのだろう。
十五の夜を越えたその先の未来を指し示すリアの意図が分からないほど子供ではないつもりだ。
「なれるさ。……事実、私は十五を越えた」
「リア?」
わたしを見下ろして、リアは静かに笑う。そうして彼は口にした。
かつて彼は〈夜の愛し子〉であったということ。そして、十四歳のある日、黄金の麦畑の中でわたしに出会ったということを。
「……君は覚えていないだろうが」
結んだリアの言葉に、わたしはぽかんとしてしまった。以前、どうしてわたしを助けてくれたのか尋ねた時は曖昧にしか答えてくれなかった答えがそこにはあった。
まさか、こんな出来事があったなんて。
「ごめん……」
まるで記憶に残っていなかった。そんなわたしを前に、リアは困ったように眉根を寄せる。
「たった数時間のことだからな。当時七歳だった君が覚えていないのも無理はない」
リアの持っていた〈愛し子の印〉をまだ七歳だったわたしが自分の身体に〈転移〉させる。聞けば聞く程、不可解な行動だ。そもそも、その年のわたしは魔法学校に通っていないので、本来なら〈転移〉なんて知っている訳がないのに。
……いや、でも……魔法使いごっこには微妙に覚えがあるような……?
「ディナ。君は自分で思っているよりずっと、規格外な存在であることを認識した方がいい」
多分、いつも通り疑問は顔に出てしまったのだろう。わたしを前にして、リアがふっと表情を緩めるのが分かった。
「たった数時間のことだ。だけど、僕にとっては一生忘れられない出来事だったよ」
わたしはリアを見上げた。すみれ色の瞳は、何かを懐かしむような遠い目をしている。その眼差しにわたしは思わず見とれてしまった。
「君が覚えていないことを今更詮索したりしない。いずれにせよ、あの日君が救ってくれたから、今の僕がある。その事実は揺らぎようもない」
リアは、恭しくわたしの手を取って額を押し付ける。
「僕に十五の先を見せてくれてありがとう」
「ど、どういたしまして……?」
わたしはどぎまぎしてしまった。自分のことを僕と呼ぶリアは……なんというか、講師というよりは寧ろ、同い年の少年のように見えたのだ。
「ずっとそれが言いたかったんだ」
すみれ色の瞳を細めて柔らかく微笑むその横顔に、きゅううっと胸が締め付けられる。
……どうしよう。わたし、この人のことが好きだ。すごく好きだ。今更のようにそれを実感して、叫び出したくなる。
「わ、わたしも!」
気が付いたら言葉は滑り出していた。
「わたしも、リアと会えて良かった。あなたのことを好きになって、知らない自分をいっぱい知ったよ」
ドキドキしたこと。苦しんだこと。泣いたこと。思わず笑ってしまったこと。リアの傍にいると、わたしはどんどん新しい自分に生まれ変わっていく。
「リア、大好き」
恥ずかしいとか、照れ臭いとか、そういうことは考えなかった。
ただこの人のことが好きだ。
そう思ったら、自然と言葉は飛び出していた。すぐ傍にあるすみれ色の光が、微かに煌めいている。
(……あ)
キス、するのかなと思った。
根拠とかそういうのはない。ただ、漠然とそうなるのかなと思った。
「ディナ」
「ひゃい」
「後ろを向きなさい」
「後ろ……?」
リアに言われるがまま、わたしは後ろを向く。さらりと大きな手のひらがわたしの髪をかき上げた。
「リア……?」
思わず首を捻ろうとすると、「そのままで」と囁かれる。
耳元ダイレクトに響いたのは大変良いお声で、わたしは思わずぞくぞくしてしまった。これは反則だ。腰砕けになる。
「もうこちらを向いて構わない」
「……?」
一体何だったのだろう。疑問符を浮かべながらもわたしが振り返ると、首元でチャリ、と微かな音が聞こえた。
「……ペンダント?」
「指輪に使っていた月光石を加工したものだ。以前、コリンズ商会に行っただろう? その時に依頼していた」
君はよく失くすから、手放すことがないように。
リアの言葉通り、わたしの胸元には薄黄色の石が嵌まったペンダントがぶら下がっている。
溜め込んだ月の魔力を既に消費しているので石自体の色彩は薄くなっているものの、細工は流石としか言いようがなかった。繊細な飾り紐はコリンズ商会の得意とするところでもある。
(というか、このペンダントって……)
「ディナ」
名前を呼ばれて、わたしは顔を上げた。
「私の未来を君に託そう。これはその証だ」
月の光を浴びて、石はほんのりと淡く光っている。
「だから、君の未来も私に託してくれ」
「……っ!」
好きな人にそんな風に言われて、舞い上がらないでいられる方法があるのなら教えて欲しい。
込み上げてくる衝動に任せて、わたしはリアの作業着を握り締めた。魔法書の匂いがする。縋りついたその体温は、ちゃんと温かい。
少しだけ欠けた月の光が窓の向こう側から差し込んできていた。
泣いても笑っても、明日で全てが決まる。だとすれば、この人との未来を信じたいと思った。
だから、名残を惜しみながら魔法準備室を後にしたわたしには届かなかったのだ。
「もし、駄目だとしても……その時は……」
リアの微かな呟きは、宵の中に解け、そうして消えていった。




