死なない為の未来
目が覚めたら見知らぬ天井があった。
ことり、と首を傾げる。随分長い間眠っていたような気がする。だけど、途中でアドリアーノ先生に追いかけられたような気もしたのだ。夢にしても妙に生々しかった。
「ディアナっ! 目が覚めたのかい?」
影が落ちた。そう思った直後、ステラの顔が視界いっぱいに入ってくる。
「ステラ?」
「もうっ、ずっと心配したんだよ!」
「う……。ごめんね、ステラ」
喉が思った以上にカラカラだった。わたしの掠れ声に気が付いたステラが、水の入ったゴブレットを差し出してくれる。
「ほら、飲みなよ」
今のわたしが一番欲していたものだ。ゴクゴクと飲みきって、ようやく一息つく。そうこうしている内に、ステラが水を張った桶と布、それから新しい服を持って来てくれた。
「汗をたくさんかいて気持ち悪いんじゃないかい? 身体、拭いたげるよ」
至れり尽くせりだ。わたしはステラの申し出にありがたく甘えることにした。服が大分汗を吸っているのか、なんだか重い気がする。
「ディアナ、最初に寝込んでからもう五日も経ったんだよ」
ということは、今日は光ノ日ということになる。そんなに寝込むことになるとは自分でもびっくりだ。
「なかなか具合が良くならないから、途中で保健室に移ったんだよ。本当に大変だったんだから……」
口にしながら、ステラは手際よくわたしの背中を濡らした布で拭っていく。わたしは思わず目を細めてしまった。
ステラの力加減は強すぎず、弱すぎず、丁度いい塩梅だ。丁寧に拭き清めて貰ったおかげで、かなりすっきりした。
「ありがとう、ステラ」
感謝を述べると、ステラは「どういたしまして」と笑って櫛を手に取った。
「髪も梳いておくよ」
寝ている間に乱れたわたしの髪を掬い、ステラは丁寧に梳いていく。その手付きを見守りながら、わたしは先ほどから気になっていたことを尋ねることにした。
「そういえば保健室の先生は?」
ここが保健室なら、担当の先生がいる筈だけど姿は見えない。わたしの問いかけにステラは「ああ」と合点のいったように声を上げた。
「先生も連日看病ってなると大変だから、今日は交代なのさ」
「あ、そっか。そうだよね。……ってステラも大変だったよね。ちゃんと寝てる?」
わたしの言葉に、ステラは少しだけ恥ずかしそうに頬を掻いた。
「実はあんまり寝れてないんだ」
「ちゃんと休まなきゃ駄目だよ!」
わたしは慌てて声を上げた。今度はステラが倒れるようなことになってしまったら洒落にならない。
「じゃあ、お言葉に甘えちゃおうかな」
わたしの言葉に、ステラはにっこりと笑みを浮かべる。「休んで休んで!」とわたしはその背を押した。
「じゃあ、代わりの先生を呼んでくるから」
そう口にして、ステラは扉の向こう側に消えていった。
……あれ? そういや、保健室の先生って今日交代って言っていなかったけ?
わたしが疑問符を浮かべている内に、バタンと扉が開かれる音がする。
「起きたか」
「…………へっ?」
扉の向こう側から姿を現したのは、黒髪黒作業着のその人だ。本来保健室にいる筈のない人物の登場に、わたしは思わず目を丸くしてしまった。
「アドリアーノ先生、どうして……?」
「二日前、学内を走り回ったのを覚えていないのか?」
「学内って……あれ、夢じゃなかったんですか!?」
確かにアドリアーノ先生に追いかけ回される妙にリアルな夢は見た。見たけど、実際にあったことだとするならば、わたしはとんでもない大立回りをしたということになる。
「病み上がりの身体でよく走り回ったものだ。講堂外れの林で話している途中に気を失ったんだ」
「そ……それは、ご足労おかけしました……」
わたしを見るアドリアーノ先生の目は据わっている。
「ようやく、続きを話せる」
ああああ、逃げ出していいですかね!? ステラ~ステラ~、戻っておいで~~。はっ、もしかして、分かっていて二人きりにされた!?
まさに気分は市場に売られる子牛だ。わたしは恐る恐るアドリアーノ先生を見た。
「この期に及んで逃げ出そうなどとは考えていないだろうな?」
びくんと肩が揺れてしまう。そ、そんなに顔に出てる!?
わたしを見下ろして、アドリアーノ先生は
「はあ」
と深いため息を吐いた。
まったく、君はどうして……。
なんだか悪態までつかれている気がする。なんでだ。
「単刀直入に返事をしよう」
「へ、返事……?」
一体何のことだろう。キョトンとするわたしを前にアドリアーノ先生は真顔で言った。
「君の告白に対する返事だ」
一気に血の気が引いた。
夢の中でも「言うだけ言って返答も聞かず、勝手に気持ちを断じて理不尽」だと告げられたばかりだ。あっ、夢じゃなかったんだっけ。なお悪いよ!
今すぐ逃げ出したいのに、その逃げ道をアドリアーノ先生自身に塞がれてどうしようも出来ない。まさに万事休すだ。斬るならいっそ一思いにざっくり斬ってほしい。
断頭台に上がる心地でわたしはアドリアーノ先生を見上げ、そして意外な言葉を耳にした。
「私は君を得難い唯一だと思っている」
わたしはぱちりと瞬きをした。
「えがたいゆいいつ」
それってどういう意味だっけ。得難い……手に入れにくい、たった一つ?
「……かけがえのない女性だということだ」
言い換えられて、ぼっと火が付いたように熱くなった。きっと、顔中真っ赤になっていると思う。
わたしはアドリアーノ先生を見上げた。相変わらずの真顔だけど、その耳が薄っすらと赤いのは多分、見間違えじゃない。
「君に触れることは叶わないと思っていた。だけど、それは当たり前のことだったな。……手を伸ばさなければ、触れることは出来ない」
さらりと衣擦れの音がした。そう認識した時には、影が降ってくる。魔法書の匂い。それから、わたしを見るすみれ色の瞳。
「三秒だけ待つ」
先生は言った。火照ってぼうっとしてしまっていたわたしは、その言葉で我に返る。
「三秒?」
「わたしが君に触れるまで待つ時間だ。嫌ならその間に逃げなさい」
言うや否や「三」と宣言が始まる。
「うえっ!?」
わたしは今度こそ飛び上がりそうになった。アドリアーノ先生の指がわたしの頬に触れたからだ。
長い指が顎を伝い、ゆっくりと唇にまで登ってくる。妙に艶かしいその動きに背筋がぞわぞわした。
「あっ、あああの! アドリアーノ先生!」
「指が触れています」と口にすることは叶わなかった。すみれ色が思った以上に近い場所にあったからだ。
「二」
「ひゃうっ」
指の腹が唇を撫でる感触があって、わたしは思わず変な声を上げてしまった。
アドリアーノ先生の意思は明確だ。わたしは苦し紛れに唇を開いた。
「せ、先生! そう言えばクラリッサとの婚約が……」
「あれは私の婚約者ではない。従って、今は関係ない」
簡潔な返答だ。ついでと言わんばかりに「一」と宣言されてしまった。
「えっと、えーっと! ちょ、ちょ、ちょっと待っ……」
告げられた情報の処理が追い付かない。目を回すわたしの真正面には、アドリアーノ先生の整った顔が間近に迫っていた。眼鏡のつるまでくっきりだ。
「もう十分待った」
唇に柔らかいものが触れた感触があった。
それが何なのか、しらを切り通せる状況はとうに逃している。なんだか信じられなくて、わたしはアドリアーノ先生の作業着を掴んだ。魔法書の匂いが一層強くなったような気がする。
触れた時と同じ唐突さで唇が離れたのが分かった。微かにアドリアーノ先生の眼鏡がずれている。その意味を改めて理解して、作業着を握りしめるわたしの指先に自然と力が籠ってしまう。
「あの……」
何を口にしたらいいのだろう。うまい言葉が見つからずにアドリアーノ先生を見上げれば、彼は困ったように眉を下げたのが分かった。
「なんて顔をしているんだ」
そんなこと言われたって、分かんないよ。
わたしは先生の作業着を握り直した。
「…………よく分からなかったので、もう一回、教えて貰えませんか」
アドリアーノ先生、という言葉は最後まで言い切ることはなかった。先生は眼鏡を置いて、再びわたしの言葉を遮ったからだ。
* * *
「えーっと、つまり、クラリッサはアドリアーノ先生のお兄さんと婚約が決まったってことなんですか?」
わたしの問いかけに、アドリアーノ先生は「そう言っているだろう」と呆れたように息を吐いた。
「そもそも私はロフタス家の次男であって、家督を継ぐ立場にはない。トンプソン家がロフタス家との繋がりを強固にしたいのであれば、次男ではなく未婚の長男と婚約関係を結ぶのは当然だろう」
事実、クラリッサはロフタス家の婚約者としか言っていない。
アドリアーノ先生の言葉に、わたしはへなへなと脱力してしまった。
「わたしの涙は一体何だったの……」
「……泣いたのか」
「いえっ! 何でもございません!」
わたしはぶんぶんと頭を振った。真相を知った今となっては、雪降る展望台で泣き叫んで寝込んだわたしは間抜け以外何者でもない。
「言われてみればそうなんでしょうけど、結構な人が先生とクラリッサのことを勘違いしてると思いますよ」
事実、わたしだって勘違いをした。先生が否定さえしていれば、ここまで誤解は広がらなかった筈だ。
クラリッサの動機はまだ分かる。彼女は自他共に認めるアドリアーノ先生の熱心なファンだ。少しでも親しい姿をより多くの生徒に見せびらかしたかったのではないだろうか。
「どうして否定しなかったんですか?」
問いかけると、アドリアーノ先生はバツが悪そうにそっぽを向いた。
「…………トンプソン家が持つ、『闇と夜の書』を借り受ける約束をしていた」
「『闇と夜の書』?」
「貴重な古文書だ。〈夜の愛し子〉に関する記述がありそうだと睨んでいた」
アドリアーノ先生はわたしとはまた違う手法で〈夜の愛し子〉について調べてくれていたのだ。
分かってしまえばどうということはない。アドリアーノ先生がクラリッサの振舞いを真正面から否定しなかったのは、貴重な古文書に釣られていたという訳だ。
「手掛かりになればいいと思っていたが、君を泣かせるつもりはなかった。……すまない」
「い、いえ。元はと言えば、噂をよく確かめなかったわたしが悪かったんです」
アドリアーノ先生がロフタス家の次男であることは随分前から知っていた。貴族の慣例を当てはめて考えればすぐに分かった筈だ。それだけ正常な判断が出来なくなっていたとも言える。
「あの……。これからどうするんです?」
わたしの問いに、アドリアーノ先生は難しそうに眉を潜めた。
「引き続き『闇と夜の書』を探ることも出来なくはないだろうが……」
それは、クラリッサと疑似婚約関係を続けるということだ。わたしは首を振った。
「出来ればそれはやめて欲しいです」
「君がそう望むのなら、了承した」
もうあんな風に苦しいのはごめんだ。そこまで考えてから、はたと気が付く。
「あの……、わたし達の関係ってこれからどうしたらいいんでしょう?」
生徒と講師であるという事実は揺らぎようもない。だけど、アドリアーノ先生とは……その。キ、キス、してしまった訳だし。そうなると、曖昧なわたし達の関係にも名前が付……あれ?
「あっ」
「どうかしたのか」
「い、いや。アドリアーノ先生は綺麗な身の上だったけど、よく考えたらわたし、婚約者がいたな~、な~んて……?」
これって浮気になるんだろうか?
いや、ボンクラお父様が勝手に決めてきた話だけどさ。社交界には出ていないとはいえ、世間的にどういう扱いになるかは気になると言うか。
「どこの馬の骨だ」
「アンディ・ラタコウスキー男爵です」
「ディナは私よりも中年が好みか?」
「いいえ滅相もありません。アドリアーノ先生がいいです! アドリアーノ先生最高!」
即答するわたしを前に、アドリアーノ先生はなんだか不服そうに片眉を上げた。
「……二人きりの時はリアでいい」
それから、と言葉を続けて彼はわたしを見た。
「いずれ正式に手続きを進めよう。とはいえ、それまではディナの身辺にかかわることだ。ひとまず生徒と講師の関係を維持する形がいいだろう」
何気なく語られた言葉は、これから先の未来を描いたものだった。
当たり前と言えば当たり前で、わたし達には許されていなかった言葉。胸の内に込み上げてくるものを抱き締めるように、わたしは両手を抱いた。顔を上げて、真正面からリアを見る。
「はい。死なない為の未来を一緒に探しましょう」




