閉じ込められた気持ち
クラリッサ・トンプソンがアドリアーノ先生の婚約者になった。その噂がティリッジ魔法学校に知れ渡るまでにそう時間はかからなかった。
なにせ噂の発信源であるクラリッサ本人に隠す気がない。それどころか、広めてくれと言わんばかりの態度なのだ。
たとえば応用魔法学の授業前になれば、魔法準備室まで足繁く通い、アドリアーノ先生のエスコートを受けながら入室する。授業が詰まっていなければ、基本的に魔法準備室に入り浸っているようなのだ。授業の質問にやって来る生徒一人一人に睨みを利かせていれば、あっという間に噂になる。
元よりトンプソン家とロフタス家という寮の名前を背負った貴族の二人だ。年齢こそ多少の開きがあるものの、結婚適齢期で見れば許容の範囲内。なにより家格がピッタリと合うのが決め手だった。どうやらアドリアーノ先生が冬休み前に実家に帰ったのも、クラリッサの婚約に関する話をまとめるためだったらしいというのがまことしやかに噂されている。
「なんなんだい、クラリッサのあの態度!」
苛立ちを隠しもせずに頬杖をついたのはステラだった。その瞳には剣呑な光が宿っている。
「まあまあ、ステラ落ち着いて」
「これが落ち着いていられるかっての!」
ばんっ、とステラが机を叩く。幸いにもここはルークの秘密基地なので、ステラの粗雑な態度を咎める人はいない。
隠し通路の中にある秘密基地は改造に改造を重ね、今や立派なくつろぎ空間になっていた。実行犯は主にわたしとステラで「どうせ滞在するなら居心地のいい場所にしたいよね」という趣旨の元、追加の椅子にテーブルクロス諸々を持ち込んだ。おかげですっかりわたしとステラはここに入り浸っている。
ちなみに今日のルークは武科の授業が入っていて、ここにはいない。
「大体、ディアナはいいのかい!?」
「私?」
ステラの問いかけに、わたしは思わず首を傾げてしまった。
「クラリッサがアドリアーノ先生に付きまとっている件だよ! あれだけ露骨にやられて腹が立たないのかいっ!」
「そうは言われても、アドリアーノ先生とクラリッサは婚約者になった以上、付き合いはなくせないからしょうがないんじゃないかな?」
「そういうことを言ってるんじゃないよ!」
わたしの返事はお気に召さなかったようで、ステラはむがーっと両手を振り上げた。その手が中途半端に空を切り、力を失う。
「……ディアナは、アドリアーノ先生が他の女の子と付き合うことになって苦しくないの?」
ステラはただ真っすぐにわたしを見ていた。その若草色の瞳の中に、わたしの姿が浮かび上がる。
「わたしは、別に……」
「アタシは苦しかった!」
わたしの言葉に被せるように、ステラが声を張り上げた。
「ディアナがルークと付き合ってるかもしれないって噂が流れた時、頭の中で違うって分かっていてもすごく苦しかった! 胸の中が黒い気持ちでぐちゃぐちゃになって、潰れそうになって! 自分で自分が止められなくて、アタシすごく嫌な子だって思ったんだよ!」
好きな人が、自分でない誰かの手を取った。それって我を忘れてしまいたくなるほどに辛いことなのに、どうしてディアナは平気な顔をしていられるんだい?
ステラは想いを吐き出すように口にする。気が付いた時には、その顔は真っ赤になっていた。いつの間にか息まで上がっている。
「苦しい時は苦しいって言わなきゃ、おかしくなっちゃうんだよ……っ」
わたしは立ち上がって、ステラの傍まで歩いて行った。椅子を引き、彼女の隣に腰かける。そっと肩を寄せれば、ステラの体温がゆっくりと伝わってくる。
「……あのね、ステラ」
小さな身体いっぱいで、わたしのことを想って怒ってくれる。こんなに素敵な女の子がわたしの一番の友達であることが、ただただ誇らしかった。
「わたしの一番の願いは、アドリアーノ先生に生きて貰うことなんだよ」
口にすれば、想いは雪のように淡く降り積もって、胸の内に染み込んでゆく。
「先生には素敵な奥さんが出来て、可愛い子供が生まれて、時々憎まれ口を叩きながら、まんざらでもなさそうにして。お爺ちゃんになるまでしぶとく生きて、皆に惜しまれながら天寿を全うして欲しいんだよ」
十五の夜に〈愛し子の印〉で死ぬような世界は一度きりで十分だ。今のわたしがもう一度アドリアーノ先生の死を突き付けられたのなら……きっと、耐えることが出来ない。
泣いて、泣いて、苦しんで、助けられなかった自分を呪う。そういう未来を簡単に想像出来てしまう。
「先生が死んじゃう未来がくるのなら、先生が生きるための楔を一本でも多く立てて欲しいの」
クラリッサとの婚約が、アドリアーノ先生を引き留める理由になるならそれでもいい。わたしが望むのはアドリアーノ先生が生きてくれる未来であって、それ以上は欲張りだ。
「ディアナはどうなるの!」
間髪入れずに、ステラが吠えた。
「ディアナの幸せが勘定に入ってない! アンタは生きるんだよ! 生きて、未来を掴んで、十五歳の先にアタシと一緒に行くんだよ……っ!」
若草色の光彩がじわりと滲む。大きな瞳いっぱいに浮かんだ涙がステラの頬から転がり落ちた。
「ありがとう、ステラ」
わたしは笑った。
ステラは大切な友達だ。それは〈タイム・リープ〉前の時から変わらない。だけど、こうやって泣いてくれるのは、今のわたしだけのステラなんだと素直に思うことが出来た。
「アンタは絶対生きるんだよ」
「うん。生きることを諦めるつもりはないよ」
ギリギリまで足掻くつもりだ。
だけど……もしも。もしも、生き抜く方法が見つからなかったその時は、覚悟を決めなければならない。
アドリアーノ先生の命とわたしの命。天秤にかけるならば、わたしが選ぶものは決まっている。
(それに、わたしが生きていたとしても)
サイモンに捕まれば、アンディ・ラタコウスキー男爵との結婚が待っている。実の父よりも年上の男、それも二十五歳の年の差婚だ。好きでもない男と寝なければならない、あの身の毛もよだつような体験を再び味わうくらいなら、いっそのこと。
「馬鹿。ディアナの馬鹿……そんなの絶対許さないから……っ」
「うん……うん。ありがとう、ステラ」
腕を回した小さな体は、燃えるように熱かった。その熱さごとまるごと包み込みこめばいい。
そう祈りを込めて、わたしはステラの身体をぎゅっと強く抱きしめた。
* * *
「今日の授業はここまでとする」
アドリアーノ先生の言葉を皮切りにして、教室の中には喧騒が戻ってくる。わたしは席を立ち上がった。
「アドリアーノ様!」
退室するよりも早く、砂糖を煮詰めたような声が響き渡る。その声の主が誰なのかは、今更目にしなくても分かっていた。
「……トンプソン。そう授業の前後に来られては、私の手が回らない」
平坦な声はアドリアーノ先生のものだ。今日の授業で使った教材を片付けながら、諭すようにクラリッサに語り掛けている。
これまでのアドリアーノ先生であれば「用がないなら帰りなさい」とバッサリだっただろう。特に女子生徒に対しての線引きは明確で、クラリッサへのこの対応は破格ともいえる。
基本的に、駄目なものは駄目だと口にする人だ。そのアドリアーノ先生が拒絶をしないということは、噂の信憑性も増すというものだった。
「嫌ですわ。わたくし達はいずれ家族になるのですから、トンプソンではなく、クラリッサ……いいえ、クラリスと呼んで下さいまし」
見てはいけないと分かっていたのに、わたしはクラリッサを見てしまう。人形のように美しい青色の瞳が勝ち誇ったようにわたしを見て、それからアドリアーノ先生を見た。
『ディナ』
すみれ色の瞳を細めて、そう呼んでくれた柔らかい声を思い出す。
『君は馬鹿なのか?』
『女性に言うべき言葉としては不十分だったな。……よく、似合っている。綺麗だ』
『ディナ、そろそろ行こう』
呆れたように叱る時もあれば、不意打ちで褒められたこともあった。当たり前のようにかけられていた言葉の一つ一つが、今更のように胸の内に浮かび上がってくる。
わたしに与えてくれた不器用な優しさを滲ませて、彼はその唇でクラリッサのことを『クラリス』と呼ぶのだろう。
わたしのことを愛称で呼ぶことはもう二度とない。
分かっている。わたしはそれを、理解して、飲み込んで、ちゃんと祝福しなくてはならない。
笑顔で先生を見送って、それで――…。
「ステラ。わたし、お手洗いに行ってくるから、先戻ってて」
「えっ、ちょっと、ディアナ!?」
ステラの静止もろくに聞かずに、わたしは早足になって歩き出す。
教室の扉を開き、ロングギャラリーを通り抜け、ホールから側塔への通路に入った。石の階段を上って、上って、一番上の扉を開いた先には、オレンジ色に染まった宵の始まりがある。
吐いた息は白く染まって消えていった。
以前、月光を浴びに展望台を訪れた夏とは違って、空気は刺すように冷たい。
「もう冬だもん」
ちらちらと粉雪が降り始めている。
こんな冷たくて寂しい場所に訪れる人なんて、いない。
「――」
喉がひりついて、うまく声を出せなかった。
いや、声はもういいんだ。だってここには誰もいない。わたしの声を聞く人なんていない。
「……っは」
息をするのが苦しい。
今までどうやって、呼吸をしていたんだっけ?
そんな当たり前のことですらおぼつかなくなって、わたしは降り積もった雪の上にへたり込んだ。
先ほどの光景が目の奥に焼き付いていて、離れてくれない。
「リアぁ」
震える声で紡いだ名前は、酷く頼りなかった。
「リア……リア……」
アドリアーノ先生が許してくれた愛称は、白い息と一緒に解けて消えていく。
わたしにはあなたを呼ぶ権利はもうないけれど、せめて誰もいない今だけはそう呼ぶことを許して欲しい。
口にすればするほど、想いは降り積もって、わたしの喉を震わせる。
胸が痛い。痛くて、痛くて、潰れそう。目の奥がチリチリと痛んで、泣きたくないのに目尻の端から涙が零れてしまう。
「リアぁ!」
ずっと、蓋をしていた。
わたしに近付いたせいでリアが死んだ。もう二度と同じことを起こしたくなくて、それなら近付かなければいいと思った。
ステラに何度も何度もしつこく尋ねられたのを、気付いていないふりをした。分かっていない風を装って、自分の心を守ろうとした。
だって、これ以上傷つきたくない。それを認めてしまえば、死がもっと怖くなってしまうから。
わたしが死ぬか。
アドリアーノ先生が死ぬか。
どうしてそんな酷い選択肢を迫るのだろう。
「やだよ……いやだ……」
ぼろぼろと涙はとめどなく零れていく。
ステラみたいに誰かを想う綺麗な涙なんかじゃない。黒くて、汚くて、自分の欲しかなくて。これは、わたしの醜さの象徴だ。
「死にたくないよぉ……」
だけど、わたしは。
「でも……ぐすっ、それよりも……うえぇ、もっと、リアに……死んで、ほしくないよぉ……」
だって、こんなにも――だ。
胸が押し潰されて、こんなにも叫び出したくなるほどに。
「リアのことが、すき……っ、だから……っ!」
たったそれだけ。口にしてしまえば、あっけない。
だけど、それが今のわたしを構成するすべてだった。
好きだから、死んでほしくない。
死にたくはないけれど、わたしの代わりにリアが死ぬだなんて耐えられない。だったら、答えなんて一つしかないじゃない。
「しあわせに、なってほしいのに……っ!」
願ったら、願った分だけわたしが不幸になった。
なんてよく出来た世の中なんだろう。幸せと不幸せは、ちゃんと帳尻がとれるように作られている。わたしが苦しめば、苦しんだ分だけリアは明るい未来の中を歩いて行ける。
「うわああん、あああああああっ」
ちゃんと笑うから。
感情を隠すのが下手くそだって言われるわたしだけど、この気持ちだけは隠して笑ってみせるから。
だから、今だけはどうか……泣くことを許して欲しい。
東の空には月が昇り始めていた。キンと冷え切った空気が辺りを包んでいるのに、わたしだけが燃えるように熱い。
訪れる人のいない展望台の中、けして届くことのない相手を想ってわたしは泣いた。
泣いて、泣いて、声が枯れるまでその名を呼んで、また泣いて。
そうして、わたしは翌日に酷い熱を出した。




