(閑話)願いの行く末②
次に覚えたのは、身体が揺さぶられる感覚だった。
「……あれ? 僕は」
「アドリアーノ! ああ、良かった……」
僕の顔を覗き込んでいたのは、見慣れた叔父の姿だった。一体いつの間に戻ってきたのだろう。話し込んでいたみたいだから、まだ暫く時間がかかると思っていたのに。
「姿が見えなかったから探していたんだ。倒れるだなんて、一体何があったんだい?」
言われて、ようやく状況を理解する。
僕は慌てて右手首を見下ろした。そこには見慣れた〈愛し子の印〉は跡形もなく、白い肌が露出していた。
……夢じゃ、ない。
「ディナ! あの子は!?」
「ディナ? 一体、誰のことだい?」
「これくらいの小さな女の子なんだ。僕と一緒にいた筈なんだけど……」
僕の剣幕に叔父は目を丸くしている。普段大人しい僕がこれほど感情を露わにすることに驚いているようにも見えた。だけど、こっちはそれどころじゃない。
「倒れていたのはアドリアーノだけだったよ」
「そんな……ディナ……?」
彼女は一体どこに行ってしまったのだろう。その疑問は、当分の間明らかになることはなかった。
ただ分かったことは、死の運命を迎える筈だった僕が、無事十五歳を迎えることが出来たということだけ。
それからの僕は、それまでの自分と決別するかのように精力的に活動した。
数ある選択肢の中でも魔法使いの道を選んだのは、あの日自分の命を救ってくれた彼女への接点を一握りでいいから感じていたかったからに他ならない。
幸いなことに、僕は生まれついての〈魔力持ち〉だった。魔法学校に通える年齢は既に過ぎていたが、その分を取り戻すかのように、勉強に勉強を重ねた。あの日ディナが僕を救ってくれた魔法。〈転移〉と名付けて再現した魔法論文は大きく評価され、気が付けば流星の如く現れた無名の天才魔法使いとまで呼ばれるに至っていた。
(……君は、一体何処にいるんだ)
研究会に呼ばれ、魔法使いの権威と呼ばれる集いにも顔を出した。今や多くの人々が僕の元を訪れる。だけど、あの小さな魔法使いだけはどれだけ探しても見つからない。
時々、あの日のことは白昼夢だったのではないかと考えることがある。
(いいや、そんな筈はない)
〈愛し子の印〉は確かに僕の元にあった。ディナはその印ごと僕の運命を変えてしまったのだ。
(だとすれば、今の彼女は……)
〈夜の愛し子〉であるということだ。神の供物であると運命付けられてしまった今、ディナは十五歳を迎えることが出来ない。
当時七歳くらいに見えた彼女だが、刻限は徐々に近付いている筈だ。一刻も早くディナを見つけなければ、手遅れになってしまう。
叔父に連れられた穀倉地帯に縁のある有力貴族を片っ端から調べてはいるものの、ディナという名の少女は見つけられないままでいる。
そんな中、ティリッジ魔法学校の客員講師にならないかという話が舞い込んできたのは、渡りに船だったと言えよう。
ディナは疑う余地もなく〈魔力持ち〉だ。そして、ティリッジ魔法学校は、〈魔力持ち〉に対して開かれた学校でもある。彼女が通学しているという可能性に賭けたのだ。
結果的に、読みは当たった。
(……見つけた)
ティリッジ魔法学校の制服に身を包み、行儀よく椅子に腰かけた彼女の姿を目にした時の私の気持ちは、今をもって上手く言語化出来ない。
銀の髪と満月色の瞳を持った彼女の名前はディアナ・エジャートン。私が探し求めたディナに違いなかった。
「それではエジャートン。今私が説明した魔法を試してみなさい」
満月色の瞳が私を映し出す。その瞳の中に、親しみを見出すことは出来なかった。
「はい。アドリアーノ先生」
他人行儀なその言葉に、私がどれほど落胆したことだろう。
もう七年も前のことで、話したのもたった数時間の出来事だ。当時のディナの年齢を考えれば、覚えていなくとも不思議ではない。
調べて分かったことだが、彼女は現エジャートン当主の四番目の弟の娘だった。基本的に爵位は長子が継ぐもので、長子が亡くなればその息子。息子がいなければ次男が継ぐということになっている。
継承順位は低く、爵位は継げなかったがそれなりに裕福だった男。そういった輩が身を崩すなんて話は、どこにでもありふれている。
ディナが相当な苦労を重ねて魔法学校に入学したことは疑いようもないだろう。道理で私が探しても見つからなかった訳だ。
「わたしの魔力がなくなってしまったんです」
石窓からオレンジ色の光が差し込んでいた。
乱雑に積んだ魔法書が散らばる魔法準備室の中で彼女が口にした言葉に、わたしがどれほど驚いたことだろう。
(〈タイム・リープ〉? これからの未来で私がディナを救う? 一体、何のことだ?)
ディナは言う。未来の彼女を救えないと、私が困るだろうと。
(ディナが本当に〈タイム・リープ〉をしたとしたのなら、魔法をかけたのは彼女自身だ。でなければ、全魔力を消費しきっていることに辻褄が合わない)
ディナ本人は、どうやら私が仕掛けたことだと勘違いしているようだが……。
(これは、都合がいい)
どう接するべきか考えあぐねている間に、彼女の方からやって来てくれたのだ。今のディナの状況を探る絶好の機会だと言えよう。
「先生には共犯者になって頂きたいんです」
ディナは言う。わたしを退学させたくないのなら、手伝ってくれと。
勿論君を退学させる気なんて毛頭もないし、助けを望むならば、どんなことだって手を貸そう。
ディナは変わることなくディナだった。
素直で明るく、困っている人がいれば見境なく手を貸してしまうようなお人よし。
だから私の渡した指輪をいとも容易くルーク・ウィリアムズに奪われるわ、クラリッサ・トンプソンに奪われるわと、枚挙にいとまがない。どうしてそんなに間が抜けていて危なっかしいのかと、彼女に言い聞かせたいと思ったことだろう。
……本当に、目を離すことが出来ない少女だった。気が付けば、視界の中にディナがいないか探してしまう。満月色の瞳が私を映し出し、へらりと笑ってくれることを望んでしまったのだ。
だから、彼女がステラ・コリンズと仲違いして孤立していると聞いた時、力になりたいと思った。彼女を街の外に連れ出したのは、問題解決の糸口が見つかればいいと思ったのだ。
だから、そこで七年ぶりに〈愛し子の印〉を見ることになるとは思っていなかった。
彼女の服を見繕った時、アクシデントがあって胸元がはだけてしまったのだ。
(子供の頃は何も思っていなかったが……)
なんというところに印をつけてくれたのだろうか。
とても平静を保っていられず、顔が赤くなるのを誤魔化すことが出来ない。
しかし、私は確かに見た。〈愛し子の印〉はディナの元にある。
(〈愛し子の印〉をどうにかしなければ)
でなければ、ディナは十五歳を迎える日に死んでしまう。
期限は卒業パーティーだ。〈タイム・リープ〉を果たしたディナ自身が、そこで事が起こったのだと示唆している。
一体何があったのか。それを私が知ったのは、図らずしもすぐのことだった。
季節の移ろいと共に、ホワイトバーチの木は黄色く色づいている。ひらひらと舞い落ちた一枚の葉が、彼女の緩く編まれたみつあみの上に落ちた。
「ディナ」
その名を呼ぶ。
「頭に木葉が――…」
振り返ったディナの髪に手を伸ばした瞬間、彼女が不自然に強張ったのが分かった。
「行かないで!」
これまで聞いたことのないような悲痛な声が迸った。
「いや……いや……お願いだから……」
怯えている? 一体どうして。何をきっかけに。……まさか、彼女に触れようとしたことか?
戦慄く彼女の唇が「死んだりしないで」と呟く。明らかに平時の様子ではない。
「しっかりしなさい!」
私は取り乱すディナの肩を揺すった。そこでようやく、満月色の瞳が正しく私を映し出す。
「あ……」
小さく零したディナの瞳に、みるみる内に大粒の涙が宿っていく。それはいとも容易く決壊して彼女の頬を濡らした。
(まさか、もう〈愛し子の印〉が作用したのか!?)
「……っ痛むのか!?」
私の問いかけに、ディナは緩く首を振って答えた。
「うえ…っ……どこも…いたく、ない……です…」
印が原因ではなかったようだ。私はほっと息を吐いた。
「では、なぜ泣く」
彼女は唇をへの字にしたまま答えない。しかし、満月色のその眼差しだけは真っすぐに私を捉えていた。
「……ディナ。きちんと言葉にしなさい」
馬鹿がつくほど正直者で、呆れるほどに感情がよく零れる。
彼女は私を見て泣いていた。だから、多分、彼女の涙は私に起因するものだ。
そこまで考えて、唐突に理解する。
〈タイム・リープ〉直後のディナは、私の脈や息を気にしていた。つまりディナは、彼女の眼前で死んだ――〈タイム・リープ〉前のアドリアーノを想って泣いているのだ。
「君に泣かれると、どうしていいか分からない」
……そうか。私は成したのだな。
口にした言葉は、思っていたよりもずっと穏やかな声になった。
アドリアーノ・ロフタスが死んだ。つまり、私はディナの死の運命を『元ある形に正した』ことで彼女を守り切ったのだ。
「うえー……っ」
彼女の涙は止まらない。とめどなく流れる透明な雫は彼女の思いの丈だ。どんな時でも底抜けに明るかったディナの本心に触れたような気がした。
私でない私を想って泣く君に何をしてやれるのだろう。
悩んだ末に、私はそっと彼女の髪に触れた。ディナは小さく目を見開いて、私を見上げている。
その唇が何かを形作ろうとした。喘ぐように開いたり閉じたりする。散々悩んだ末に、ディナはぎゅっと唇を噛み締めた。
「あなたと一緒にいると辛いんです。……もうわたしに優しくしないでください」
「言っている意味がよく分からない。君は核心を避けている」
ディナの言葉は要領を得ない。彼女が本心を隠して私を遠ざけようとする行動は意味不明だった。
大体、私に死んで欲しくないのであれば、私自身にそれを伝えればいい。
「きちんと理由を口にしなさい」
私の問いかけに対して、ディナはゆるゆると視線を下げる。手のひらを握り締め、まるで何かを堪えるように俯いたディナの姿は、記憶にある幼い彼女よりもずっとずっと小さく見えた。
「リアのことが好きになっちゃったんです。……大好きです!」
今、彼女は何と言った?
完全に斜め上の言葉だった。訳が分からない。ディナが、私のことを、好き……だと言ったのか?
次の瞬間、ぶわっと全身火が付いたように熱を持った。
「生徒に好意を寄せられるのは困るでしょう? だから、特別扱いしちゃ駄目です。わたしももう、押し掛けて迷惑かけたりしませんから」
続いたディナの言葉に、上がった熱が一気に下がる。
……彼女は一体何を言おうとしている?
いつもならばもう少しましな思考が出来る筈なのに、混乱の極みの中にあるのか、碌に頭が回らない。それだけディナの告白は、私の思考に著しい損傷を与えていた。
満月色の瞳が挑むように私を見ている。
「だからここでおしまいです。今日はありがとうございました、アドリアーノ先生」
そこまで口にされて、ようやく私は理解した。ディナは私を死から遠ざけるために、自ら遠ざかろうとしていることを。
ああ。本当に、君は感情を隠すのが下手だ。
走り去っていく彼女の背中を見送って、私は苦く笑った。
「…………あんな好意丸出しの顔で宣言されてもな」
要するに、言い逃げのまま絶縁宣言という奴だ。本当にどうかしている。
ディナは私の死を望まないらしい。
しかし、前のアドリアーノは死を選んだ。つまり、限られた時間の中、ディナの〈愛し子の印〉を〈転移〉で私自身に移す手段を強行したということだ。
魔法準備室は相も変わらず魔法書が積み上がっている。
ここに積んである本はどれもこれもが夜に関する記述を含むものだ。〈夜の愛し子〉に関する報告例はそもそも少なすぎて、分かっていないことが多すぎる。十分な手掛かりがあるとは到底言い難い。
ディナ。君が十四歳の私に十五歳のその先を見せてくれた。
たとえ君が忘れてしまっていても、私は君のことを忘れた日など一日たりともなかった。あの日拾って貰った命を繋いで、私は今日を生きている。
君に貰った大恩を未だ返せているとは思っていない。君が離別を選ぶというのならば、それも甘んじて受けよう。
(だが、ディナの命だけは救ってみせる)
たとえ、その為に自分の命が失われることになっても。
「アドリアーノ先生」
入り口の扉からノック音が聞こえて、私は立ち上がった。
「ご実家のロフタス家からお手紙が届いています」




