六章 彼女の印象
シャッテン王国に近付くと、当然だが目の前からシャッテン王国の軍が見えた。
「あれは……アーダ姉さん?」
少数だから対処できるか……と考えていたが、カリスの言葉にピットとエリーナの背筋が伸びる。まさかここに姉姫が来るとは思っていなかったのだ。
「アーダ王女って……シャッテン王国の第一王女、だよね?」
「お、恐ろしい人だと聞いていますが……」
マルクとコリンヌが呟くと、エリーナは「アーダお姉ちゃんはそんなに怖い人じゃないよ!」と頬を膨らませた。
実際、アーダは身内にいれた人間には甘い。しかし敵だと認定するとたちまち冷酷になるのだ。それは双子もよく知っている。だからこそ、ピットは緊張しているのだが。
ピットはギュッと神弓を握り、いつ何があってもいいように警戒する。
しかし、アーダはカリスに気付くと駆け寄ってきた。
「カリス!よかった、無事だったのね……」
「アーダ姉さん?なんで……」
まさかの反応に双子も白の弟妹もキョトンとしてしまう。
「お父様があなたを狙っているの、早く逃げて」
彼女はカリスの肩を掴んでそう告げた。
「でも……」
「……アーダ王女のお言葉ももっともだと思います。あの方は容赦ありませんし……」
戸惑っているカリスに、ピットは口を開いた。セドリック王の容赦ない恐怖を、ピットはよく知っている。そしてそれは、黒のきょうだい達も。
「えぇ、その通りよ。だから……」
「姉さんはどうするんですか?」
「私も、どこかに隠れることにするわ。……あなたを逃がそうとしたことが分かったら処刑されるでしょうけど……」
「お姉ちゃん、一緒に行こうよ!」
寂しげにうつむくアーダにエリーナがそう言った。エリーナとしては、姉が一緒にいてくれるだけで本当にうれしいのだ。
「え……?」
「そうですよ、アーダ姉さん。私達と一緒ならきっと……」
目を丸くしているとカリスにも言われた。アーダは不安げにピットの方を見ると、
「……カリスがいいのなら、私からは何も言いません」
目を閉じて、そう告げた。守るなら、目の届く範囲に置いておきたいのだろう。
「……そう、そうしてくれるのならうれしいわ」
アーダは優しく笑う。ピットは本当に嫌なら、理由まで素直に話す。だからどう思っているのかは別として、少なくとも死んでほしいとは思っていないのだろうと悟る。
「姉さんがいてくれるなら心強いです」
カリスも頷くと、コリンヌとマルクが姿勢を正した。
ピットはそれに気付き、二人の背中に触れる。
「……っ、姉様?」
「……大丈夫だと思いますよ。アーダ王女は本当にお優しい方ですから」
無表情ながら気遣う言葉に、二人は顔を見合わせて小さく頷いた。この姉は細やかな気遣いが得意だ、彼女が言うのなら本当なのだろうと信じられる。
そのまま、一度撤退し拠点に戻る。
「ここは……」
「ここなら誰にも知られず過ごせますよ。お父様にも見つからないと思います」
アーダが首を傾げると、カリスがそう答えた。それならとアーダも肩の力を抜き、自身がかなり緊張していたことに気付く。
ピットは帰ってきて早々、畑仕事をしていた。それに気付いたアーダは「ピットは何しているの?」とカリスに尋ねた。
「少しでも資金を浮かせるために栽培しているみたいです。……まさかここまで広い畑を作るとは思っていませんでしたけど」
苦笑しながらカリスが呟く。
そういえば、シャッテン王国にいた時も畑を栽培していたな、なんて思い出した。栄養ある食事を摂らせたいと必死に調べて研究して、上手に育った時は自分達にも分けてくれていた。
「姉さん、手伝おうか?」
マルクがピットに声をかけるが、「すぐに終わるのでマルク王子はお休みください」と一切畑の中に入れようとはしなかった。
それは、信用していないということだった。ピットは、信用していない人に自分のものを触らせようとはしない。必要に迫られた時は渡してくれるが、すぐに返すよう指示を出す。
「……そっか」
マルクも、それ以上は何も言えなかった。
フローラはピットのことが苦手だった。
(コリンヌ様がせっかく話そうとしているのに……それを突っぱねて……)
いつも冷たいピットを見ていると、本当にカリスの双子の姉なのだろうかと疑いたくなる。それぐらいには苦手意識を持っていた。
……憎たらしいことに、ピットは軍師の才能も兵士としての才能も自分より高い。それが近寄りがたい雰囲気をさらに増長させてしまっている。
(リュシーはピットを慕っているけど、そんなに慕うほどの人じゃないと思うんだけどな……)
そんなことを考えながらフローラは訓練場に向かっていた。
「ティム、お前なんでピット様にそんな敵意むき出しているんだ?」
作戦会議も含め食堂で一緒に食べていると、ノエルに聞かれた。
「なんでって……マルク様に冷たいじゃないか、あいつ」
「そう?……俺からしたらあの人ほど、慈悲深い方はなかなかいないけど」
その答えにティムはムスッとした。
「うちの主君が冷たくあしらわれているんだぞ?それなのに慈悲深い?」
「あぁ、そう言えばティムってカリス様とピット様がシャッテン王国に行ってしまった後に来たんだったね。それならピット様がどれほど素晴らしい方だったのか知らないのか」
その言葉に首を傾げる。どういうことだろうか?
「ピット様ね、気遣い上手で王族なのにいつも使用人と掃除をしたり料理を作ったりしていたんだ。だからあの人、何でもできるでしょ?」
「……ふーん」
それだけ?とティムは考え込んだ。
確かに、王族が率先して掃除洗濯料理なんてあまりないかもしれないが、少ないというだけで家事ぐらいする王族の人もいるだろう。
「それに……」
そんなことを考えていたから、ティムは何も聞こえていなかった。
ルフィナはエリーナとともに花を摘んでいた。
「あ、これ!お店に置いてた!」
「お店に置いているものは、店主が心を込めて育てたのですよ」
ルフィナの言葉にエリーナは顔を輝かせる。
「あたしもお花育てたら、ピットお姉ちゃん喜ぶかなぁ?」
「いえ、それは……」
ないのではないでしょうか、とは言えなかった。
エリーナは兄姉のことが大好きだ。それはピットのことも例外ではない。だが、ピットは……きっと、そうじゃないだろう。しかし、そう言ってしまうとエリーナが落ち込んでしまうことも分かっていた。
「ピットお姉ちゃん、本当は優しいもん」
そう言いながら花冠を作っているエリーナが、とても儚く見えた。
メリッサが自室で書類の整理をしていると、「いつもありがとう」とアーダがお茶を持ってきた。
「アーダ様、自分で持ってきましたのに……」
「私がしたいと思ったからいいのよ。あ、その書類、確認したらピットに持って行ってちょうだい」
ピットの名前が出ると、メリッサの表情が曇る。
「どうしたの?」
「いえ……何でもありませんよ」
それに気付いたアーダが尋ねるが、メリッサは正直に答えることなんて出来なかった。
――ピットのことが憎い、なんて。
アーダのことを避けているピットのことが嫌いだった。カリスとは違い、警戒心が強く周囲が敵だと言いたげなピットが。
「……私が代わりに持って行ってあげるわよ?」
アーダに言われるが、「いえ、大丈夫ですよ」と首を横に振って笑う。嫌いだからと主君に任せるような真似はしない。
「そう?……それならいいけど、あの子もあなたが無理するのは嫌だと思うわよ」
「そうとは思えませんが……」
あんなに冷たい人が、気にかけてくれるとは思わなかった。
「ピットさん、そろそろ休まれた方がいいですよ」
トニーがお茶と軽食を置く。
「ん……ありがとうございます」
それを見て優しく微笑みながら、ピットはペンを置いた。
トニーは伸びをするピットの前に座る。
「何をしているんですか?」
「書類整理ですね。この後は足りなくなっているものを買い出しに行く予定です」
「忙しいですね……。買い出しは私が行きましょうか?」
「いいんですか?それならメモを渡すので頼んでいいですか?」
「えぇ」
トニーの提案にピットは頷いて頼んだ。
彼はピットのことを尊敬していた。確かに警戒心が強いが、それはカリスを守るためにそうならざるを得なかったのだと分かっているからだ。
後妻の長子であるピットは常に前妻の子達の顔を立てることを考えていた。クレマン達きょうだいは二人を気にかけてくれていたが、どうしても周囲からの風当たりは強かった。ピットは幼いながら、リーナとカリスをそんな人達から守ろうとしていた。
「本当に、穏やかになりましたよね、ピットさん」
「そうですか?あまり変わっていないと思うんですけど」
「いえ、変わりましたよ。少なくとも私に、冷たく当たることはなくなりました」
「うっ……それは言わないでくださいよ……」
ピットも、自身がかなり警戒心の強い人間だと自覚していた。
(カリスみたいに素直になれたら可愛げあったんだろうけど……)
ひねくれていると分かっているだけに、素直になることが出来ない。
――自分が強くないと、守りたいものも守れないから。
あの時、もう少し強かったらカリスが連れていかれなかっただろう。頭がいいだけじゃ、守れないと分かってしまった。
だから、ピットは強くなろうと努力した。そうしないと、守れないから……。
「私にも頼ってくださいね、どんな逆境であっても私はあなたの味方ですから」
「……えぇ、ありがとう」
トニーの言葉に、彼女は優しく微笑んだ。
ルーチェ王国では、戦場に出ている兄に代わり城を守っているクリステルが一人鍛錬していた。
「はぁ……」
「ん?どうした、サユリ」
後ろでため息が聞こえ、振り返ると女剣士であるサユリが浮かない顔でゆっくり歩いていた。
「あ、申し訳ありません、クリステル様」
「悩みか?私でよければ聞くが……」
「いえ、クリステル様がお気になさるほどではないですよ」
サユリは首を横に振ると、クリステルは「そうか?何かあったらいつでも相談してくれていいからな」と告げて鍛錬に戻る。それを見て、サユリは王女の迷惑にならないようにとその場を去っていった。
サユリには、忠誠を誓う主君がいなかった。今はクレマンに命令され、城を守っているが心のどこかで主君がいないという焦りがあった。
(こんなことじゃダメなのに……)
そう思いながら、自分の部屋に戻った。
シャッテン王国でも、青年が鍛錬をしていた。
「やぁ、イージス」
汗を拭いていると後ろからジョセフの臣下であるイザヤに声をかけられる。
「なんだ?」
「本当に君、辛気臭いねぇ」
「余計なお世話だ。で、なんか用なのか?」
「あぁ、そうだ。……これ、ジョセフ様から」
イザヤが封筒を渡してきた。こんな時に手紙……?と首を傾げていると、
「これは……?」
「君にとって大事なことだって言っていたけど……」
そう言われ、イージスは慌ててそれを読んだ。そこには、ピットがセドリック王に人質に捕られていた両親を助け出したという報告だった。
実は、イージスはもともと騎士になるつもりはなかった。しかし優秀であるがゆえにセドリック王に目をつけられ、両親を人質に捕られ騎士にならざるを得なくなったのだ。今はもう、ほかの道など考えられないが、当時はかなり絶望したものだ。
「ピットが……」
「ピット様がどうしたの?」
「あ、いや……ピットが俺の両親を助け出したって……」
そう言うと、「あぁ、あの人ならやってくれるだろうね」とイザヤは微笑んだ。
「どういう意味だ?」
「ピット様ね、今は冷たいけど本当は優しい人なんだよ。僕も、その優しさに救われたし」
そう言われても、信じられない。……しかし、ジョセフが嘘をつくとも思えない。
イージスが考え込んでいるとイザヤはクスクスと笑う。
「僕はジョセフ様の臣下だけど……君はまだ誰にも忠誠を誓っていないよね?考えるいい機会じゃない?」
イザヤの言葉に、イージスはうつむいてしまった。
「ピット、それいつも使っているな」
書斎までお茶を持ってきたアトゥに言われ、ピットは目を丸くする。
「……それって?」
「そのペンだ。昔から使っているだろう?」
「あぁ、これ……」
ピットの手にはガラスペンが握られていた。綺麗で、高そうなものだ。
「唯一、自分のために買ったものですからね」
「よく壊れないものだな」
「ちゃんと手入れしていたらどんなものでも長く持つものよ」
確かにガラスペンは繊細で壊れやすいが、しっかり手入れさえしていれば長く使える。それこそ、羽根ペンより長く持つのだ。
「買ってあげましょうか?」
「いや、いい。……それ、高いんだろ?いくら友とは言えそんなものを買ってもらうわけにいかない」
「そうですか?まぁ無理強いはしないですけど」
そのまま、ピットは書類に目を落とした。
――アトゥは、ピットがそのガラスペンをどれだけ大事にしているのか知っている。
あれは、アトゥがカリスの臣下になって間もない頃だった。
「ピット、ほかにすることは?」
当時、あの塔にいたのは双子とアトゥだけだったため、ピットが指示を出していた。
「そうですね……では、掃除をしてもらってもいいですか?」
「分かった」
その当時はまだ料理もお菓子作りも、紅茶淹れさえまともに出来ずピットに教えてもらっていた。
次の指示を聞こうと顔を出したちょうどその時、ピットの手にガラスペンが握られていたのだ。
「それは?」
「ん?あぁ、これですか?羽根ペンだとすぐに壊れてしまいますからね、これならいいんじゃないかって思って」
そう言って微笑む幼いピットの手は汚れていた。それは、彼女の苦労と努力を物語っていた。
そんな昔を思い出しながら、アトゥは「あとで食事を持ってくる」と書斎から出た。
下見のためにピットとカリスが渓谷に行くと、遠くから足音が聞こえてきた。
「……?なんでしょう……?」
カリスが首を傾げる。ピットもキョトンとしながらそれを聞いていた。
――期限まで、まだ時間がある。それなのにまさか両軍がここに来るとは思えない。
ピットは警戒心を高めていた。カリスを背に庇い、剣を握る。
しかし、二人の目の前に出てきたのはボロボロの女剣士とシャッテン王国の王城騎士――サユリとイージスだった。
「……っクソ!なんでこんなところに……!」
「なんであなた達がここにいるのよ……!」
二人を見た彼らは絶望した目をした。双子が斬りかかってくると思っていたからだ。
「……っ!酷い怪我です!」
しかし、カリスがピットの方を見るとピットは頷き、静かに回復魔法を使う。
「……え?」
「なんで……」
「……別に、あなた達を殺すつもりはありませんし」
そもそも、たまたまここにいただけでこちらからしたら殺す理由すらない。……カリスに手を出すつもりなら、容赦しないが。
「何があったんですか?」
カリスが尋ねると、二人は事情を説明し始めた。
どうやら、出陣していたのだが透明な軍隊に襲われたらしい。そのせいで二人はそれぞれの軍から引き裂かれたようだ。
「……なるほど。それなら送っていきましょうか」
事情は分かったため、まずはそれぞれ合流させる方がいいだろう。透明な兵士達に太刀打ちできるのは今のところ、自分達双子とアトゥだけなのだから。
「いえ、そちらの軍に入れてくれませんか?」
しかしイージスがそう頼み込む。それにピットは目を丸くした。
「ピット、連れていきませんか?」
「カリスまで……はぁ……まぁ、あなたがいいなら」
「ありがとうございます!」
ダメだ、と言う前にカリスに頼まれ、ため息をつきつつも許可するピットにイージスは頭を下げる。
「あなたは?帰るなら送っていきますが」
そしてサユリにも尋ねる。彼女は少し考え、
「私も、そちらに行かせてください」
「……分かりました。それなら一緒に拠点に帰りましょうか」
人が増えるなら同じだ。一人も二人も変わらない。
「あ、ピット。勝手に決めちゃってごめんなさい。よかったんですか?」
「何人増えても同じよ。あいつらに立ち向かうための戦力は多い方がいいもの」
カリスが謝るが、ピットは優しく微笑む。そして二人の方を見て、
「おいで。セドリック王に気付かれたらあなた達も危険だから」
サユリの方に上着をかぶせ、そのまま歩き出す。そして、拠点まで連れてきた。
「ここは……」
「地上の方だと危険ですからね、異世界の方で拠点を築いているんですよ」
「い、異世界……?」
戸惑っているが、ピットはすぐに畑の方へ向かう。
「私が案内しますよ」
カリスが二人を連れて、拠点内を案内する。
ピットは畑を耕していた。少しずつ広くしていかないと栽培が間に合わないのだ。
「ふぅ……」
植物の成長は魔法でどうにでもなるが、その土台となる土は自分で耕さないといけない。今日は仕事が少ないためこの日に広げようと思っていた。
「ピットさん、お疲れ様です」
トニーが水を渡してくる。「ありがとうございます」と受け取り、それを一気に飲んだ。
「言ってくだされば、私も手伝いますよ」
「そうですか?ではお願いしてもいいですか?」
「えぇ、もちろんです」
アトゥはカリスの世話で大変だろう。このままでは夜までかかると思っていたのだが、協力してくれるならもう少し早く終わることが出来る。
一緒に畑を耕し、苗を植えていると「ピット、何しているんだ?」と近くを歩いていたイージスが声をかける。
「見て分かる通りですが……」
「あの、彼は?」
トニーが尋ねるとピットが「彼はイージスさん、シャッテン王国の王城騎士で先ほどこちらに入った方ですね」と答えた。
「そうなんですね。私はトニーと申します。ルーチェ王国に仕えています」
「俺はイージスだ、よろしく。……もう一度聞くが、何しているんだ?」
「畑仕事をしていたのですよ。少しでも資金を浮かすためにお野菜を作っているんですよ」
それを聞いてイージスは目を丸くする。
「え、そんなの他の奴にやらせたらいいじゃないか。あんた、一応王女だろ?」
「畑仕事は慣れてますから」
「慣れてるって……」
ピットの答えに驚く。
確かに、彼女には臣下がいない。カリスを守るためだと言っているが、それ以外の理由があるようにも思えてくるのだ。
そういえば、と思い出す。城内では彼女の悪口が横行していた。
『ねぇ、ピット様よ……』
『あの人、何でもできるけど怖いのよね……』
『王様を暗殺しようとしているんじゃないかしら……』
『この国を乗っ取ろうとしているのかも……』
そんな、根も葉もないうわさ話が流されていた。昔はきょうだい達とも仲がいいとはお世辞にも言えなかったからこそ、そんな噂が流れたのだろう。
そんな中で、彼女は過ごしてきた。城内ですれ違った時、いつも悲しげな表情をしていたのが印象に残っていた。
(……もしかして……)
「あの、用事がないならどこかに行ってくれませんか?まだ終わっていないので」
イージスが考えていると、ピットがそう言ってきた。
「……あぁ、悪かった」
冷たく言い放ってくるが、その裏に別の感情があることに気付く。しかし、今それを言っても無駄だろうとその場は去った。
早朝、サユリが食堂で座っているとピットが野菜を持って入ってきた。
「あら……」
珍しいと言いたげにピットは彼女を見る。しかしそのまま厨房に入っていった。
サユリが厨房に入ると、野菜を切っていた。
「何しているの?」
「長く持たせるために下処理をしているんですよ。いくらすぐ収穫できるとはいえ、無駄には出来ませんから」
そう言いながら、ピットは丁寧に下準備をしていた。
サユリは料理が苦手だ、だからその手際の良さがうらやましく思えた。
「ピットって、料理出来るのね……王族なのに」
「カリスの臣下を務めていましたし、昔から料理を作っていましたから」
それを聞いてサユリはギュッと手を握る。
確かに、昔の彼女達は冷遇されていた。クレマン達の母である前妻がいい人であったから後妻であるリーナのことは、最初は受け入れられなかった。
まだ幼かったピットは、それを薄々と感づいていたのだろう。幼いなりに出来ることを必死にしていた。一通りの家事スキルはその過程で身に着けたものだった。
それから、ピットはかなりの倹約家だった。こうして野菜を育てることもそうだが、薬草の知識も、狩猟の知識も、一通り生活できるほどには頭に詰め込まれていた。
魔法に関してもそうだった。彼女はどんな魔法も水のようにすいすいと飲み込んでいった。たぐいまれなるその頭脳は、ただ誰かを守るためだけに使っていた。
(……彼女は、孤独だったのね……)
常に誰かを気にかけ、自分のためでなく他人のために力を使う……逆境の中、彼女は一人でそんなふうに生きてきたのだ。
自分が情けなく思う。彼女の過ごしてきた環境はずっとつらく、今なお苦しんでいるのだろう。
彼女は今日も、表情が変わらない。
「トニーさん」
カリスに声をかけられて、トニーは振り返る。
「どうされたのですか?カリス様」
「その、ピットのことについて聞きたいんです」
「構いませんが、カリス様の方がご存知なのでは?」
トニーに言われ、カリスは目を伏せる。
「失礼ながら、私もピットのことはあまり知らないんです。自分の姉なのにずっと支えられてばかりで……トニーさんはルーチェ王国にいた時のピットのことを一番知っているんじゃないかって思ったんです」
「そういうことでしたか」
ピットは、あまり自分のことを話さない。だから謎に包まれているところも多々あるのだ。それはきょうだいであっても同じだった。
トニーは昔のことを思い出しながら話し出す。
「ピットさんはもともと警戒心が強い方でした。私も懐かせるまで時間かかりましたね」
「そうなんですか?意外です……」
「彼女は懐に入れた人には甘いですから。それまで時間がかかるというだけですよ」
フフッと彼は懐かしそうに思い出す。
「そう、なんですね」
「リーナ様……お二人のお母様に指示されて彼女の傍にいたのですけど、あの時の私はやんちゃでしたからそれがなければ投げ出してましたよ」
「え、トニーさんもやんちゃな方だったんですか?」
今のトニーからは考えられない。誠実で優しく、物腰が柔らかい人だというイメージなのだが……。
「お恥ずかしながら、昔はピットさんと意見がぶつかってしまうことが多かったのですよ。あの方は自分のことを後回しにする癖がありますからね」
「分かります。ピットは何でも一人で抱え込みすぎです」
「そうですよね。……でも、そうせざるを得ない環境であったことも確かです」
「え、どういうことですか?」
突然意味深なことを告げる彼にカリスは尋ねた。
「……あの方が警戒心の強い人になったのはリーナ様とカリス様を守るためなんですよ」
「え、私とお母様を?」
「えぇ。……双子とはいえ、ピットさんはリーナ様の長子でしょう?最初は後妻とその子供の存在が疎ましく思われていました。ピットさんはそれを感じ取っていたのでしょうね、身体が弱いなりにお二人を守ろうとしていました」
「身体が、弱い……?」
「ご存知なかったですか?」
カリスが首を傾げていると、トニーが驚いた表情を浮かべた。カリスが「え、えぇ……」と頷くと、「本当にあの方は……」とため息をつく。
もともと、ピットは虚弱体質で二歳になるまでは外に出ることすら出来なかったらしい。そんなこと聞いたことがなかったカリスは目を伏せる。
「だからこそ、私をあの方につけたのでしょうね」
「そう、だったんですね。……トニーさんは、ピットの臣下なんですか?」
気になっていたことを聞いてみる。ここまでの話を聞いて、なんとなくそう思ったのだ。
しかし彼は首を横に振る。
「いえ、違いますよ。……確かにいずれは臣下に、と打診されていたようですがその前にカリス様がシャッテン王国に連れていかれてしまう事件が起こってしまいましたから。いまだに保留されているところです。私も、合流した時にピットさんにその話を掘り返しましたから」
「ピットは、なんて……?」
「「あなたが本当に仕えたいと思う人に忠誠を誓いなさい」と……そう言ってくださいました。私とは、これから友として互いに高めあおう、と」
その答えに「ピットらしい」とカリスは笑ってしまう。
不意に、トニーが真剣な表情を浮かべた。
「……きっと、彼女は気付いていたのでしょう。
カリス様、私はあなたに仕えたい」
「え……?」
「私は、ピットさん達と一緒にあなたを守りたいのです。……あなたに忠誠を誓うことを許してくれませんか?」
カリスは戸惑う。本当にいいのか、と。
その時、偶然かピットが近くを通りかかった。
「……二人とも、何をしているんですか?」
「あ、その……」
カリスが何を言えばいいか分からずにいると、状況を把握したのか「あぁ」と微笑んだ。
「……あなたがいいなら、私からは何も言わないわ」
「で、でも、いいんですか?」
「彼も言ってたと思うけど、自分が本当に仕えたい人に仕えた方がいいのよ。それに、彼とは友として同等でいたいから」
それを聞いて、カリスは決意する。
「……分かりました、よろしくお願いしますね、トニーさん」
「ありがとうございます」
トニーが嬉しそうに微笑む。ピットはそれを見て優しく笑った。




