〇八五 かっこいい男の子
——ウハクさんへ
チュリーです。突然の
字が綺麗〜〜〜〜ッ!
だん!と机を叩いたトカクに、側近達は「何ですの!?」と立ち上がった。
「姫様、何か酷いことでも書かれていましたか?」
「い、いや……違う……。まだそこまで読めてない」
「じゃあなんで机をお叩きに?」
「虫がいて」
「皇太女が虫を叩き潰すなど野蛮です、おやめください! そんなの私達がやりますから!」
「あ、ああ分かった、次からは頼む」
トカクは日記帳に視線を戻す。
跳ね上がりぎみで筆圧が濃いが、思いのほか字が綺麗でおどろいた。代筆を頼んでいる可能性もあるが。
まあ、それはともかく内容だ。
——チュリーです。
突然のお誘いですけれど、こうしてこれを読んでくださっているということは、交換日記は了承してもらえたということで良いのかしら?
そうならとっても嬉しいわ。
交換日記なんて十六歳にもなって幼稚と笑われるかもしれないけど、ウハクさんともっとお互いのことを知り合いたかったの。
それには、こういう形が良いのではないかと思って
かわいい!!!
シンプルな感情の昂りに、トカクは己の心臓を叩いた。
ドン!!と音がするほど強く己の胸をぶったトカクに、側近達はギョッとする。
「姫様!? 食べ物でも喉に詰まりましたの!?」
「な、なにも食べてないだろ」
「ではどうしてそんな真似を!?」
「いや今ちょっとだけ心臓が止まってな、セルフ胸骨圧迫を」
「一大事ではありませんか!」
「いや、冗談冗談。……ワタクシは続きを読むから気にするな」
「そ、そうですか……?」
いぶかしげにしながらもハナは席に着いた。
「……よし」
——それには、こういう形が良いのではないかと思ってノートを用意しましたの。
このノートは十二歳の誕生日にプレゼントされて以来、何か大切なものを書き留めるときに使おうと思って取っておいたものです。そうして良かったと思います。きっと私ウハクさんと交換日記をするために、これまで使わずにいたのだわ。
かわいすぎる!
トカクは耐えきれずに身体を反転させると背もたれにしがみついた。
「わああ〜〜〜!」
「姫様、私よく分かりませんけど、そのノート離宮に戻ってから読まれた方が良いのではありませんこと!?」
「うぐぅ……」
「……ウハク様、最近ちょっと変じゃない?」
「キノミもそう思う?」
ハナによる制止がかかったので、トカクはチュリーとの交換日記を閉じた。残りは帰ってからゆっくり読むことにする。
教室を出る。
「はあ……、いや、面倒をかけた、取り乱した」
「姫様、留学以来ずっと気を張っていらっしゃいますもの、きっと疲れが出たのですわ」
「すこし休んだ方がよろしいと思いますわ。早いところ帰りましょう。……ユウヅツさんがまだ音楽クラブの方にいますわね」
「お声がけしましょうか」
などと言いながら廊下を歩く。
(にしても、交換日記か……。……これ、読むだけじゃダメなんだよな、ボクも何か書いて渡さないといけない……。何を書けと言うんだ……)
筆不精のトカクはすこし困っていた。
文通かぁ。ぜんぜんやりたくない。もっと言うと、読むのは良いが書くのは面倒。それも、学院でいつでも会える相手に。
(……しかし、かなりチュリーに気に入られているなぁ……)
それ自体は嬉しいかもしれなかった。
(あのダンスで不興を買うかと思っていたが……お気に召したようでよかった……。…………)
『——意外と負けず嫌いでいらっしゃるのね』『かっこよかったわ』
(……我ながらチョロいなぁ〜〜……! ウハクをバカにできない……)
このままチュリーと仲良くしていけたらいい。
だが。そうなったら、いずれ女装がバレるかもしれない。
トカクは考える。
チュリー・ヴィルガは、今の『ウハク』をかっこいいと評してくれた人だ。だから、……トカクを男だと見抜くかもしれない。分かってくれるかもしれない。
いや男だとバレることを、『くれる』と表現するのはダメだ。でも、そうしたら、…………。
と思考しながら歩いていたトカクは、階段の踊り場に差し掛かって、はっと目が覚めた気分になった。
壁に大きな姿見がかかっていて、それを真正面から見たからだ。
鏡面には、えらく可憐な美少女がいて、ばっちり目があった。当たり前だ。映っているのはトカク自身なのだから。
長い髪に華奢な身体。大きな瞳に長いまつ毛。
鏡の中にいるのはウハクにしか見えないし、……女の子にしか見えない。
「…………」
トカクは目をそらし、姿見の横を足速に通り去った。
(……うーん)
いくらか冷静になって、トカクは「なんか浮かれていたな」と己を分析した。
経験のない感情に浮かれていた。
だが、現実を見なければ。トカクは目的のために、『ウハク』として通学しているのだから。
「…………」
……そして、ものすごく当たり前のことを、トカクは心の中で唱えた。
(……チュリー・ヴィルガがボクに優しいのは、『ボク』が女の子だからだ……)
かっこいい男の子として扱われることは、ありえないし、あってはならない。
万が一そうなった時には、間違いなく破滅とチュリー・ヴィルガの失望をともなう。
同年代の愛らしい少女として知り合い、同性の先輩後輩として付き合っている。そうでなければチュリーとトカクがここまで仲良くなることはなかった。
(のに……、なんか、浮かれてたな……バカみてえ……)
身体の芯が冷えていくような感覚があった。
そもそも好きかもとか嫌いかもとか、そんなことにうつつを抜かしている暇はないのに。
(……チュリー・ヴィルガのことは、あまり考えないようにしよう……)
トカクは自分の感情に蓋をすることを、あらためて決意した。
とにかく、何事もなく万能解毒薬を手に入れて帰ったらいいのだ。それ以外のことなんて。
「ハナ。これ、持っていてくれ」
そうつぶやいて、トカクは後生大事に抱えていた交換日記のノートをハナに押し付けた。それがよほど個人的なものでない限り、荷物持ちは側近の仕事だ。本当なら。
(ウハク。お兄様はいつものお兄様に戻るから……)
これまでの奇行を許してください。
「…………」
よし。
とトカクが気持ちを切り替え、階段を降りきると、廊下の向こうで何やら騒ぎが起きていた。
「なんだ、騒々しいな」
「いったい何事でしょう?」
騒ぎはユウヅツがいるであろう、音楽クラブの部室の方で起こっている。