〇七六 ガッカリさせたくない
あれだけ時間があったのだから船の上で練習しておけばよかったのに、完全に忘れていた。トカクらしくない失敗だ。
言い訳すると、トカクにとってダンスは趣味というか、楽しいだけのことだった。なので、彼の使命や政務と結びつかなかったのだ。
「で、殿下のことですから、てっきり女性パートも普通に踊れるものかと……」
「ボクはウハクのダンスパートナーとして教育されてきたんだ、女側でなんて踊ったことがない! まずい……男側の動作を身体が覚えてしまっているぶん、女側が……やりづらい!」
トカクはしばらく、知識の応用でどうにかならないか格闘していたが、そのうち悟った。これは一朝一夕でどうにかなるものではない。
「社交ダンスの初回授業は来週から……! こうしちゃいられねえ!」
トカクは弓道場を飛び出した。
「特訓だ! ついてこいユウヅツっ」
「お、恐れながら殿下。近いうちに授業を受ける予定なのですから、授業で一から教えてもらうつもりでいればよろしいのでは?」
「ダメだ!」
トカクは説明する。
「高等教育ってのは、中等教育をすでに受けてる前提で進むんだよ。文学作品を語り合おうって場で、字の読み方から教えてくださいなんて話にならん!」
「な、なるほど」
「『ウハク』がそんな醜態を晒すわけにはいかない!」
弓道衣のまま、トカクは側近であるハナのもとを訪れた。
「頼むハナ! ワタクシに社交ダンスの稽古を付けてくれ!」
「え? ……来週からの社交ダンスの授業に備えてということでございますか? めずらしいですわね……必要ないと思いますけど……」
というハナの余裕は、トカクのダンスを見て崩れた。
「ひ、姫様ってばこの数ヶ月でダンスのことすべて忘れてしまいましたの!? いったいどうしてしまわれたんです!」
「聞くな……」
「なんです!? そのぎこちないステップは……! ブリキの人形のようですわ!」
「やめろ……」
トカクはダンスが好きだったが、時間制限に追われ、臣下に叱責されながらでは楽しみようがない。
「にしても変ね……。いくら姫様がうっかりさんとはいえ、ちょっと練習をおろそかにしたからって、こんなに忘れてしまうものかしら……?」
「誰がうっかりさんだよ、不敬な。いいから、おぼえ直す。厳しくしてくれ」
「もうっ、姫様ってば私が付いていなかったらどうするおつもりでしたの? まだまだこのハナが必要みたいですわねっ」
ハナは何故か嬉しそうにいそいそとダンスの支度を始めていた。留学以来あまり機会がなかったので、お姉さんぶれて嬉しいのだ。
「それじゃあ姫様、ビシバシいきますわよ!」
「おう」
そうしてトカクの付け焼き刃が始まったのだった。
翌日。
その日のダンスレッスンが終わり、軽食を取っている最中、ユウヅツは「というか」と思った。
「殿下、あの……。チュリー・ヴィルガ様に『やっぱり忙しくて無理だった』と断って、今回の授業はパスされてはいかがです?」
ユウヅツも、そういう土壇場でのキャンセルは、あまり良くないと思うが。
しかし、トカクがまたハードワークで突っ走ろうとしているのを見過ごせなかった。またやらなくていいはずの仕事を背負っていないか?
「いずれ舞踏会などでダンスを披露する機会もあるでしょうし、課題ではありますけど、そんなに焦らなくてもと思います」
「……チュリーと約束してしまったから……」
チュリー・ヴィルガと、「一緒にこの授業に出席しましょうね!」と。
トカクはクッキーをかじる。
「……そういや、おまえは現場にいなかったが」
トカクが社交ダンスの授業に誘われたのは、学院でチュリー・ヴィルガのサロンにお呼ばれしていた時だった。
それで香水だの爪紅だのを見せ合って歓談していたところ、チュリー・ヴィルガがこう切り出してきたのだ。
『ウハクさんって、ダンスはお得意?』
回想。
チュリー・ヴィルガは紅玉の瞳をピカピカさせながら。
『いえ、得意でなくてもいいの。お好きかしら?』
『けっこう踊れますよ』
『それならよかった! ねえねえウハクさん、私達って、同じ授業を受けることってないじゃない?』
『そうですね。学年も違いますし……』
ゆるく人文科学系を学んでいるチュリー・ヴィルガと、医学を中心にガチガチの時間割を組んだトカクでは、講義が被らないのだ。
『私ね、お友達と並んで授業を受けるのに憧れていましたの。ウハクさんが良ろしければ、来週から始まる社交ダンスの授業、一緒に参加できないかしら?』
『社交ダンスですか。……時間割に組み込めるかどうか』
『放課後にやるのよ、クラブ活動みたいなものね。だから被りはしないはず。だけど……ウハクさん、お忙しいかしら?』
無理にとは言いませんわ。とチュリー・ヴィルガは殊勝な態度になる。
トカクは脳内でそろばんを叩いた。打算、打算、打算。
『……側近にも相談しないといけないので、なんとも言えません。考えておきます』
『…………! うれしいわ! 良い返事を待っているわね!』
がしっ!とチュリー・ヴィルガが両手を握ってきたので、トカクはおどろいた。
『ちゅ、チュリー様?』
『ウハクさんが来てから私、学院がすっごく楽しいのよ!』
『きょ、恐縮です……。けれどチュリー様、お友達と並んで授業を受けるのが憧れって……チュリー様ならこれまでにも、そういうことは多々あったはずでは?』
『私、お友達ってこれまでいたことなかったのよ。だって、誰も彼も不足しているんだもの。無知蒙昧で品性下劣で、とても私のお友達たりえない人ばっかり』
傲慢な物言いは、まさに学院の女王だ。トカクはあいまいに微笑み、チュリー・ヴィルガの次の言葉をうながす。
『ウハクさんだけよ、私の横に並ぶのにふさわしい方は。私の在学中にウハクさんが編入してきてくれるなんて、私って本当に幸運だわ』
『あ、ありがとう存じます』
『私達、何があってもお友達でいましょうね!』
にこにこ!と笑うチュリー・ヴィルガの言葉に嘘はなさそうだ。
それが余計にトカクにとって恐ろしい。無知蒙昧だの品性下劣だの、ためらいなく周囲を見下すのを素でやっているということだし。
(というか、もしもの世界の自分を見ているようで痛々しい……!)
トカクもトカクで高慢で他人をさげすむ悪癖があるので、チュリー・ヴィルガの振る舞いは「自分に自制がなかった場合」を見ているようで、なんとも言えない。
というか「考えておきます」は断りの常套句なのだが、ライラヴィルゴにはそういう発想はないようだった。
……そんな感じで、トカクは一緒の授業を受ける誘いを了承してしまったのだった。
というトカクの話を総括して、ユウヅツは。
「つまり、あまりに喜ばれてしまい、ガッカリさせたくなくて、断りづらくなってしまったということですか?」
「そういうことになってしまうな……」
そういうことだった。