〇六九 かぼちゃのポタージュ
顔面から床に倒れたクラリネッタ。無惨に割れた皿。こぼれたポタージュ。……不幸なことにかぼちゃ色のシミがよく目立つ、淡い空色のドレス。
大国の伯爵令嬢と、小さな島国の皇太女。
周囲は静まり返っていた。
トカクの側近達は、あまりの事態に青ざめている。
ユウヅツも例外ではなかった。
シナリオ通りだが、たぶん違う!
(……あ、れを、「乾いてしまえば、なんでもありません」とするのは無理がないか!?)
というか、それ以前に。
(皇子殿下! どうか耐えっ……ああ! 無理そう!)
背中越しにも分かるトカクの怒りに、ユウヅツは後ずさりしたくなった。ぶるぶる、トカクが握りしめたこぶしが小刻みにふるえている。
公衆の面前でドレスを汚される——言い換えれば、汚れたドレスで公衆の面前に立たされる辱めに、トカクは、「ボクの妹に何しやがんだよ!?」という激昂で我を忘れかけていた。
「…………!」
トカクは口をひらいて、それから閉じた。耐える。耐える。耐える。ぐっとつばを飲み込む。
落ち着け。実際にウハクが辱められたわけではない。これはボク。今ここにいるのはボク。
……本国で同じことがあれば、トカクならここは、クラリネッタを無視して「着替える」と言い残して撤退、後のことは側近達に任せる。責め立てるような真似はしないながらも不興を隠さないのがポイントだ。
だが、ここは本国ではない。
そして本当なら今この状況は、『ウハク』が、「わたくしは大丈夫です。あなたの方こそ怪我はありませんか? ドレスのことは気になさらないでください。わたくしは気にしません。乾いてしまえば、なんともありませんもの」と聖女のごとく宣うはずのシーンなのだ。
そもそも、せっかく『クラリネッタが転倒して飲み物をかけてくる』シナリオ通りの事象が起こったのだ。トカクが望んでいた通りではないか。
なるべくシナリオ通りにした方がいいはずだ。トカクは冷静になろうとした。
そしてウハクなら、そう、ウハクなら。
「——あ、あの……大丈夫でしょうか? ええと、……おまえたち、誰か、彼女を起こしてやりなさい」
ウハクなら、ドレスの汚れなんか気にしない。
トカクは『ウハク』の仮面をかぶり直すと、背後にいるミキヱやネッコにクラリネッタの介抱を頼んだ。
トカクは心配げに眉を下げ、思いっきり愛らしく振る舞う。
トカクの命令で我に返った側近達は、いまだ地べたに倒れるクラリネッタに近寄った。
そう、これはチャンス、注目を浴びている今は間違いなくチャンスだ。ウハク・ムツラボシがどんなに優しい子か知らしめるための。
夜会の給仕達が、割れた皿の処分のために寄ってきた。トカクは皿の破片を避けるように離れつつ、心配げにクラリネッタの方を見つめる。
ハナがおろおろと声をかけてきた。
「ひ、姫様、お召し物が……」
「ワタクシは大丈夫、気にするな。……ええと……ピンク色のドレスのあなたも、どうか気になさらないでくださいね」
トカクは優しげな声でクラリネッタに声をかけてやった。
「殿下、あの……」
「……平気だ、うろたえるな、このまま……」
なんとかシナリオをなぞろう。
トカクはユウヅツに小声で告げる。
クラリネッタはずっと地面に伏していたが、ハナ達に声をかけられたことでようやく立ち上がった。
「…………」
それからクラリネッタは……不可思議な行動をした。
「…………?」
夜会の最中に転倒して周囲を騒がせた挙句、同盟国の皇太女のドレスを汚したのに、……彼女は謝らなかったのだ。
無言のままでいる。
どころか、上の空によそ見をしはじめて、トカクの顔を見もしない。ちらちら野次馬の方を、誰かの登場、あるいは助け舟を待つかのように横目で見ている。
なんなら、彼女は不服そうな……あるいは、不思議そうな顔をしていた。待ち合わせの時間になったのに相手が来ないみたいな、そんな……場違いな雰囲気をかもしている。
トカクは「あれ?」と思った。……クラリネッタは何をしているんだ? と。
ユウヅツも同じことを思ったらしく、じっとクラリネッタの顔を注視する。
クラリネッタが謝罪のひとつ——どころか、申し訳なさそうな素振りもしないことを、トカクの側近達や、周囲の野次馬達も怪訝に思いはじめた。
「…………?」
……だんだんと、気の毒なものを見る目だった視線の中に、令嬢にあるまじき失態を演じた挙句にそれを挽回することもしない、するべきことをしない彼女に対して、責めるような意図が混ざり始めていた。
……トカクとしては、クラリネッタの人柄などを既にユウヅツから聞いていたので、そこから逸脱した彼女の行動は、ただただ奇妙に映る。
……ゲームでの彼女は、己の失態に慌てふためいて、土下座せんばかりにトカクに対してこうべを垂らす。もうよいと言ってもやめないくらい……だったはず。
まして、水やお茶ならまだしも、かぼちゃのポタージュなんかをぶっかけたのだから。
なのに、クラリネッタはどこか冷静に、周囲からの目も気にせず、時間が経つのに身を任せていた。
(……そういや……)
とトカクは考える。
ゲームだと、転倒して飲み物をこぼしたクラリネッタを、ここぞとばかりに三人組の女子生徒が責め立てた、らしい。
——「本当にあの人ってドジなのね」「帝国の皇太女様になんてことをするのかしら?」「謝って済むことじゃないわ」「ライラヴィルゴ王国の恥晒し」——。
それが、今はない。
その理由をトカクは察していた。
……やはり、ゲームで彼女がこぼしたのは、水か何かだったのだろう。ゲームにおけるクラリネッタは、『ウハク』のドレスを汚したわけではなく、濡らしただけだったのだ。
『その程度』だったから、おもしろがった野次馬達は囃し立てた。
しかし、現在。
皇太女のドレスにかぼちゃのポタージュをぶっかけるシャレにならない事態に、誰も口出しできずにいる。そうに違いなかった。
……つまり、クラリネッタの放心状態も、「自分がシャレにならないことをしたから」起こっているものと見ていいのでは? トカクは推理する。
つまり、ヤバすぎて一周まわって冷静になり、謝罪でどうにもならないとあきらめ、居直っている。
……とか?
すこし無理はあるが、トカクはひとまず『そういうこと』として対応することにした。
「……ええと……」
あらためてトカクはクラリネッタにゆっくりと近付くと、その顔を覗き込むようにする。
「大丈夫ですか? すごい音がしたから、おどろきました。……失礼ですが、お名前をうかがっても?」
「! …………。……クラリネッタ・アンダーハートです」
「クラリネッタ嬢。ワタクシはウハク・ムツラボシと申します」
こてん、と小首をかしげて。
「お怪我はありませんでしたか?」
「え? ああ……はい」
「それならよかったです。ですが、念のため医師に診てもらった方がよろしいのではないかと存じます。なんだかボンヤリされているし……頭でも打ったのではないかと、心配です」
トカクはユウヅツを振り返った。
「ユウヅツ。この方を、学院の医務室へ連れて行ってさしあげるように」
「! はい」
「ワタクシは着替え……」
「————ちょっと!! クラリネッタさん、ウハクさんに何をなさったのッッ!?」
トカクとユウヅツが、必死にシナリオを元の形に戻そうとしていたところに、割り込んでくる声があった。
荒げても上品さを損なわない、うつくしい声……。
チュリー・ヴィルガ・ライラが別室から戻ってきた。