番外編 ギラギラしないで
ツムギイバラの種は割れた状態で小瓶に入っていた。
この五十年ほどは使われていないが、根絶されたとは確信できないと官吏が言った。
わたくしは「ここにあるからではないのか」と思った。
お兄様もそう思ったらしく、「もし他になかったとしても、ここにある以上は根絶とは言えない」と言うと、それでも皇室の自衛のために置いておかねばと返される。
「せっかく根絶していたとしても、ここから種を盗まれて繁茂してしまう危険があるのではないか?」
「そうならないよう厳重に管理しております、皇子殿下」
においを嗅がせてもらった。
ものを食べた後、このにおいがしたら吐き出せと教えられる。バラの香りに似ているけど、決定的に不自然でえぐみのある「毒」のにおい。
自分達が命を狙われかねない可能性については、もっと以前からこんこんと説かれていた。だけど、実感を持ったのはそれが初めてだった。
それからしばらくは、食事の時間のたび毒かもしれないと頭をよぎって、モノを食べるのが怖かった。
食べたら死ぬものなんて、どうしてあるんだろうと。生きていくには食べなきゃいけないのに。ひとを殺すための薬なんて、どうしてそんなものがあるんだろう?
お兄様とふたりで怖がっていた。
幼い日の話。
わたくしは口を押さえる。
何かの間違いじゃないかと、自分の体内で香るツムギイバラのにおいを確かめ続ける。
おなかの中で種が割れたのだ。割れてしまっている。猛毒の種が。
卒業パーティーでは何も口にしなかった。
であれば、城に帰ってきてから手渡された軽食……。社交の場では食事に時間を取れなかったろうと、侍女が気を利かせて持ってきた……。
「う」
口内に指をつっこんで、わたくしは胃の中のものを吐き出そうとした。うまく吐けない。
上手に嘔吐するにも技術が要るのだ。わたくしはこんなことすらうまくできない。
ああ、お兄様ならうまくやるだろうに。
トカクお兄様の、意志の強いギラギラした瞳を思い出す。あのひとなら簡単に自分の身体を支配してみせる。感情を無視して思いのままに操れる。
「……はあ、はあ」
吐きやすいように、そして毒を中和できるようにわたくしは水をあおった。寝台横に用意されていた水差しはすぐに飲み干せた。引き続き吐こうとしてみるが、できる気がしない。
何も食べていないのではつらいでしょうと、軽食を差し出してきた侍女。
あの侍女は上昇志向の強い子だった。
とても仕事ができるから頼りにしていたけど、彼女に皇室——特にわたくしへの忠誠心はなく、すべて出世のためであることは察せた。謀殺に加担することで立場が良くなるなら、すぐさまわたくしを切り捨てるだろう。
だけど家臣が裏切る可能性は、織り込み済みで動かなければいけない。わたくしはそういう立場だ。
わたくしに与していたほうが利口だと、彼女に思わせられなかったわたくしの無能に非がある。
……これをくわだてたのはバカクお兄様の可能性が高い。あの侍女と関わりがあったし、……あのひとはやりかねない。
バカクお兄様は優しいひとだったけど、根本的に他者への情に欠けていて、特にわたくしを蔑んでいたきらいがある。
あのひとは皇帝になりたかったのか。
だとしても、わたくしを殺すだけで済むと思っているのか? あのひとは自惚れ屋だ。それでもわたくしよりは優れていたけど、わたくしがいなくなった程度で王冠が降ってくることはない。あと数人は殺さなきゃ。
「おにぃ、さま……」
トカクお兄様のことも。
あのひとはトカクお兄様も殺す気なのだろうか。公にされていない継承権は、わたくしの次はお兄様に違いなかった。
……でもきっと、お兄様ならうまくかわすか。
「ふ……」
まぶたが重たくなってきた。手足がゆっくりしか動かない。目や耳の感覚がにぶい。眠たくなってきたのだ。
失笑は誰に向けたものか。自分自身だ。
——物心ついた頃からトカクお兄様が常にわたくしの横にいて、わたくしは見劣りばかりしていた。
なんでもすぐにおぼえて、なんでも最初から上手にできて、……何より、色々なことを楽しそうに取り組める兄のことが、うらやましかったしねたましかった。
わたくしは毎日毎日ほんとうにつまらなくて本当に苦痛だった。トカクお兄様と同じことをしているのに、感じ方がどうしてこれほどまで違ったのか、いまでもわからない。
あした起きたら、わたくしがおにいさまになっていますように。そう星に願っていた幼少期。
さもなくば、せめてお兄様と次期皇帝の立場を取り替えてください。
……今わたくしが死ねば、あるいはそれは叶うのだろうか。
いつの間にか、毒を吐き出す気が失せていた。やけに気持ちがおだやかなのは薬の効果かもしれないし、違うのかもしれなかった。
お母様もお父様も、わたくしが死ぬこと自体は悲しんでくれるだろうけど、憂いなく次期皇帝にトカクお兄様を据えられるのは、うれしいかもしれない。うれしいだろうなぁ。
皇太女たりえるために努力を重ねてきた日々だったけど、すべて無駄になる。
なのに、わたくしは安堵に包まれていた。喜びも悲しみも平等に終わる。完膚なき破壊は救済じみていた。
でも、わたくしの即位のためにがんばってくれていた人達はごめんなさい。
謝罪の言葉が浮かんだ瞬間、あの同級生の顔が脳裏に浮かんだ。
ユウヅツは。
わたくしと似ているけど、誰にでも素直で誠実で一所懸命で真逆だった。
皇太女という立場がなかったら、もっと仲良くなれていたろうか。あるいはわたくしに邪な気持ちがなければ、単なる友達として。……それも無理かな……。
わたくしはあのひとをとても愛していたのだけど、結局は困らせただけだった。
どんな手段を使ってもこちらを見てほしかったけど、最後まで叶わなかった。制裁を恐れた彼は、トカクお兄様ばかり気にしていた。
わたくしの好意が彼をおびやかしているのは分かっていたけど、絶対に手に入れたかった。
手に入らないまま終わるけど、手に入れていたとしても死ぬときは身一つだ。着ているドレスさえここに置いていくのでしょう。だから心残りにはならない。
心残り。
トカクお兄様だけかもしれない。わたくしが死ぬことで何も得られず、ただただ失うばかりの人。あのひとは名誉や権力に興味がないから、次期皇帝の称号も重荷にしか感じないだろう。
……わたくしのためにしか動けない奇特なひと。
お兄様の寵愛は、わたくしが彼の双子の妹だからというだけの理由で、ずっとずっとずっと注がれていた。常に心配してもらっていた。
わたくし自身が、ああまで優しくしてもらう人間である自信がないから、いつ途切れるか分からなくて怖かった。
かつてわたくしが、おにいさまに大切にしてもらうに足るひとになりたいと決意していたのを、今になって思い出す。
いつから忘れていたのか。果たせなかった。裏切り続けた。わたくしはわたくしが嫌いなままで、お兄様の妹にふさわしくないままだった。
でも、その後悔も終わる。
本当に、ただ眠たいだけで痛みも苦しみもない。
わたくしは寝台に横になった。
ああ、終わる。不安に苛まれる夜も身体の重たい朝も退屈な昼下がりも、もう来ない。窓のない部屋に閉じ込められるような、絶対的な平穏に包んでもらえる。
わたくしの陳腐で乏しい感性で見てきたこれまでの人生が走馬灯のようによみがえってくる。思い出のどこにでもトカクお兄様がいる。はじける笑顔も激しい怒りもまぶしくて。
おにいさま……。
ようやく休めるんだから、まぶたの裏でもギラギラしないで。
ここまでが第一部です
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