〇五八 船酔いの晩
「へえー! 皇子様、誕生日だたあるか。知らんかったある」
「皇帝陛下の誕生日なら、祝日なので分かりやすいんですけどね」
船内の研究室にこもっているリゥリゥは、外の情報があまり耳に入ってこないらしい。
「はいっ、酔い止めと水ある。呑むよろし」
「ありがとうございます……」
「今日は酔い止め薬をもらいにくるヤツ、とても多いある。なんか、波が高くていつもより船が揺れてるらしいあるね? 我はよく分からんが……」
リゥリゥは船酔いしないタイプらしい。うらやましいことだ。ユウヅツも、自分が船酔いするタイプということを今日まで知らなかったが。
薬を呑んでじっとしていると、めまいが治ってきた。
「明日か明後日には大陸に到着する聞いたある。向こうの公館の研究所がどんなもんか楽しみね」
「リゥリゥさんは本当に薬作りがお好きですよね」
「もちろん、向こうの文化に触れられるのも楽しみに思てる。あとは化粧品。大陸でどんな道具や成分が使われてるか興味あるね」
「そういえばリゥリゥさん、お化粧も趣味なんでしたっけ」
「薬の一種あるからな」
薬の一種……?そうなのか……? ユウヅツはいぶかしんだが、リゥリゥが言うならそうなのだろうと納得する。
薬剤師達の仕事の邪魔をするのも何なので、ユウヅツは世間話もそこそこに研究室を退散した。
丸窓から外を見てみる。海が広がるばかりだ。
「……いよいよ大陸、連盟学院……。ゲームの第二部の時間軸が始まる」
すでに第一部のシナリオからは大きく乖離してしまっている。現実の連盟学院は、ゲームと同じようにはいかないだろう。
そもそもゲームならユウヅツ——『主人公』は皇太女の婚約者のはずだった。現在のユウヅツとは立場からまったく違う。攻略対象の女性達との関わり方も変わってくるはずだ。そして、それはとても予想しづらい。
「……けれど、どうにかシナリオ通り『クラリネッタ・アンダーハート嬢』から万能解毒薬を譲り受けたい……」
「——まあ、ユウヅツさん。船酔いはもう大丈夫ですの?」
「あ、はい。薬を呑んだら良くなりました」
「ではこれから一緒にスゴロクで遊びませんこと? 姫様もいらっしゃいますのよ。……でも、安静にした方がよろしいのかしら?」
「いい、是非。何かしていた方が揺れを感じずいられる気がします」
社交のため、ユウヅツは思考を切り上げた。
深夜。
ユウヅツは中途半端な時間に目覚めてしまい、まんじりともできず寝返りを繰り返していた。
そのうち、船の揺れを強く感じるようになり、ぐらぐらと頭が重たくなってきた。酔い止めの効果はとっくに切れている。
(……しまった。酔い止め、予備をもらっておけばよかった……)
と思ったが後の祭りだ。
……薬をもらいにいけばいいのだが、この時間に薬をもらいにいくのは迷惑かな?とユウヅツは考えてしまう。
けれど、ユウヅツはだんだん本当に気持ち悪くなってきた。
「……外の、空気を、吸おう……」
夜風に当たれば収まるかもしれない。そんな希望を抱いて、ユウヅツは物音を立てないように船室の外に出た。
通路を歩く。宿直室の灯りが点いていたりして、まったくの無人ではないのだが、船内は静まり返っていた。
甲板へつながる重たい扉をひらく。潮風がわっと押し寄せてきた。
「あー……」
新鮮な空気を吸うと幾分か楽になって、ユウヅツは安堵する。これで朝まで耐えられそうだ。大きく深呼吸する。
どこかに腰を落ち着けようとユウヅツが踏み出す。と、誰かの足音が耳に入った。
(! 誰かいる)
まあ、同じようなことを考える人もいるか。
ユウヅツは納得するが、あまり関わりのない人だったら気まずいので、鉢合わせないように音のする方の反対側へと足を向けた。
そして、夜風に当たりながら船の進行方向を見つめ、船酔いが治るように祈る。
(…………。…………?)
ふと、ユウヅツは不思議に思った。
聞こえている足音が、歩行者のそれじゃないのに気づいたのだ。移動している感じではない。断続的に床を擦ったり飛んだりして、しかも、ほとんど同じ場所をクルクルまわっているような鳴り方だ。
「…………」
何をしているんだろう。
興味が湧いて、ユウヅツは足音のする方を覗いてみることにした。
「…………」
そこにいたのは、意外なことにトカクだった。
護衛もつけず、ひとりで甲板に出ている。白いドレスに身を包んでいるので、明かりの少ない中でも姿がよく見えた。
「♪」
よく耳を澄ますと、トカクはずっと何か口ずさんでいた。
ユウヅツの記憶にも新しい、この前トカクに披露したばかりの前世の曲だ。
それに合わせて、たんたんと軽やかにステップを踏んでいる。やけに楽しげに。
ユウヅツは驚愕した。
(あのひと、笑ったりするんだ……!?)
である。
トカクの笑顔自体はユウヅツも見たことがあったはずなのだが、彼のは常に社交用というか、……トカクが自分の感情の発露で笑うイメージがない。
誰もいない場所だ。つまり今の笑顔は、誰に向けたものでもないのだ。
(めずらしっ……)
トカクは身体を大きく使って舞っていた。体幹の強さが分かる旋回、……姫君らしい動作ではない。
……身体を動かしたかったのかな、とユウヅツは思う。この船での移動中、彼はずっと『ウハク』のふりをして、狭い部屋でおとなしく過ごしていた。運動不足になっても仕方ない。
(……星空の下で踊っていると、物語のキャラクターみたいだなぁ)
とユウヅツは感心した。前世では実際に物語のキャラクターだったのだが。
スタ☆プリMMD動画みたい〜、と風流に欠ける感想も抱いた。しばし鑑賞する。
ユウヅツは、トカクが歌いながら移動する軌道を目で追った。
次の瞬間、ハッとしたトカクがユウヅツの方を振り向いた。何者かの気配があることに気づいたらしい。
ばっちりと目が合う。
「!」
ユウヅツは一瞬「しまった、見つかった」とあわてかけたが、考えてみればやましいところなどない。甲板は誰にでも開かれている。
トカクは明るく「殿下、こんばんは。殿下も夜風に当たりに来たのですか?」と問いかけた。
トカクは、そこにいるのがユウヅツだと分かった瞬間、心底イヤそうに顔を歪めた。
そして。
「なに見てんだテメエーーッ」
「ぎゃああ」
怒号を上げるとユウヅツに突っかかってきて、その胸ぐらを掴んだのだった。
「やんのかッッ」
「なんでですかーっ!?」