一四二 巨大なパズル
曇天、学院の中庭で追いつかれたチュリーは、「なぜ逃げたのか」というトカクの問いに「だってウハクさん、私が結婚するって言ったらおめでとうって言うでしょう」と返した。走ったことであがった息を整えながら。
駆けつけておいて一息も乱れていないトカクは、平然と「そりゃ、言うでしょうが……」と答える。
「でしょ? そんなこと言われたくないのよ」
「お待ちください。ご結婚なされるというのは本当なんですか?」
「まだ決まったわけじゃないわよ! 誰よ、うわさを流したのは」
本当に信用ならない、とチュリーは心底イヤそうに吐き捨てた。
「…………」
トカクは、(結婚……)と言葉を噛みしめた。
しかし、次の言葉をつむぐ時にはその内心をおくびにも出さなかった。
「では縁談が来たというところまでは真実なのですね」
「そうね」
「チュリー様がお返事をしぶっているというのも」
「そうね」
「ワタクシが祝ってはいけないような、悪いお話なのですか?」
「…………」
チュリーの場合、無言が答えになった。
これが非の打ちどころのある話なら、待ってましたとばかりに「自分がイヤがっている理由」をあげつらうに違いないから。
それがないなら、やはりこれは良い話なのだろう。
しかし、チュリー自身はあまり良い顔をしていない。その理由がトカクには分からなかった。
「チュリー様、良い話であるなら喜びましょう。どうして浮かない顔をなさっているのです」
「結婚したくないんだもん」
「したくない? 将来の話、よくしてくださっていたではありませんか」
「いつかしたいのは変わらないけど、今はイヤになったの」
本当に子どものワガママみたいなことを。トカクは首をかしげた。ワガママだとは思っていたが、こんなことを言うとは。
「……どうして今はイヤなんです」
「ウハクさんと離れたくないんだもの」
ボク!?
トカクは仰天した。
のけぞったトカクと対照的に、チュリーはうなだれてしまう。言いたくないことを言わされた、の体勢だ。
「……それは……」
光栄ですけど……。
トカクの声は小さくなった。
チュリーは深く息をつく。
「……でも私、この話を断ってもいいみたい」
「……いやそれは」
「わかってるわよ、こちらの覚悟を試しているだけで、断ったら最後もう陛下に信用してもらえることはないって」
わかっているならいいですけど……とトカクは口をつぐむ。
チュリーはさらに続けた。
「でも、行きたくないんだもん。やっと学院が楽しくなってきたところなのに。……どうしよう、ウハクさん」
「どうしようって……」
「行きたくないのよ」
チュリーは繰り返した。
「ウハクさんが、行かない方がいいって言うなら、私……、…………」
チュリーはその後の言葉を続けなかった。そっとトカクの返事を待つそぶりを見せる。
「…………」
トカクはしばし沈黙した。背後にいる従者達の重圧がのしかかってくる。『ウハク』が何と言うか心配されている。
そのぐらいに難しい質問をされていた。
「…………」
好かれているとは思っていたが、ここで天秤にかけられるほどとは。
もし彼女の結婚が決まったなら、『ウハク』はものすごく別れを惜しまれるだろうとは思っていた。が、前向きに「ウハクさん私の花嫁衣裳ってどんなのを用意してもらえると思う?」みたいな浮かれた相談をされる想定だった。
『ウハク』を――友情を優先されるとは。結婚願望の強い人だから、そちらが第一だと思っていた。
なんというか……。
冥利に尽きる。
しかし。
理由がかわいいからと言って、歓迎できるワガママではなかった。
「チュリー様……」
顔を伏せていたチュリーと目を合わせるために名前を呼ぶ。
チュリーはゆっくりと紅玉の瞳を動かした。
王妃になる未来と同じくらい、トカクが横にいる現在に、重きを置いてくれてうれしかった。しかし許せない。
友人でも想い人でもない、皇子の血が黙っていられなかった。
「チュリー様が学院をやめて嫁がれるのは、ワタクシにとってもさみしいことです。心の底からはお祝いできないくらい……」
という前置きにチュリーはほっと喜色をにじませたが、すぐに顔をくもらせた。
短い付き合いだが、このあとトカクが「でも」とつなげるであろうことを察したのだ。
それができる程度には二人は一緒にいた。
「それに、」
トカクの「でも」はまだ出ない。
「チュリー様が本当に、心の底から結婚をイヤがっておいでなら、ワタクシはそれを止める理由はありません」
でも。
「ですがワタクシが、あなたに、結婚しないでほしいと言うことはありません」
「…………」
断言した。
晴れの日は無数の光さす中庭は日陰になっていた。花壇は通り雨を予期してかしぼんでいる。
「…………」
途絶に、チュリーはふっと笑った。
「私がそう言ってほしいんだって、わかっているのに言ってくれないの」
「言いません」
言ったら本当に引き留めてしまいかねないのだと、トカクも今わかった。
今このひとの前では冗談にならないから、行かないで、さみしいよ、と言ってはならない。
ああ、自分が本当に女の子だったら、「ぜったい結婚しないでね」と軽口が言えたのかもしれない、と思ったがすべてが仮定の話だった。現実に何一つかすらないから、空想ですらない。
「ワタクシに言われたからやめた、なんて言い訳をさせて、チュリー様の未来をおとしめたくありませんから」
「…………」
「悪くない話だと思いますよ」
「…………」
黙っていたチュリーはおもむろに、すっとその場にしゃがんだ。
まるで淑女の振る舞いではなく虚を突かれる。行楽地で帰りたくないと駄々をこねる幼児のようだった。
そして直後、本当に行楽地で駄々をこねる幼児みたいなことを口走った。
「……でも行きたくないんだもん!」
行きたくないの!とチュリーは膝に顔を埋めた。
えええ、とさすがにトカクも口端をひきつらせた。思わずチュリーの背後の従者達の顔色をうかがう。主人の醜態を止められそうなやつはいなかった。
自分が止めるしかないと、トカクはチュリーの近くに寄った。
「ちょっとチュリー様、子どもみたいなことなさらないで」
「こんなワガママする女、王太子妃にふさわしくないでしょ!」
「そんなことありませんよ」
言ってから、この状態の相手にかける言葉としては無理があるかな?と思った。でも実際、チュリーは血筋は正統で、よく勉強しているし、ふさわしくないということはないと思うのだが。
チュリーはてこでも動かなそうだ。
空模様も気になってきた。
雲は今にも降り出しそうになっている。
雨に濡れてチュリー達に風邪をひかせたくないトカクは、チュリーを立ち上がらせて校舎に引き返したかった。
「チュリー様ならふさわしいと判断されたから、こういう話が来たんですよ。お断りするのはもったいないですよ」
「嫁ぐのは私じゃなくてもいいのよ。でも、私は今ここがいいんだもん」
「王女でさえあれば誰でも同じ、というのは現時点では事実かもしれません。ですが、チュリー様にとって価値のある縁談だと思います。名誉なことなんでしょう」
「でも王太子様だって私じゃなくてもいいのよ」
「そりゃ、会う前からあなたじゃなきゃダメなんてことはないでしょう。結婚とは、した後にあなたでよかったと言うものです」
トカクはしばし考えた。
うずくまるチュリーの前に、トカクもまた膝をつく。
「チュリー様、王家の家系図や婚姻の記録を読んだりしたことはありますか」
「……まあ、お勉強程度にはね」
「そうですか。ライラヴィルゴ王家の記録がどのようになっているかはワタクシの知るところではございませんが、大瞬の記録はおもしろかったですよ」
その婚姻の結果を、紐づけられるからです、とトカク。
「歴史を読めば、婚姻に『意味がある』のが分かる。……意味がないことがない、と言っても良いほどです。ここの乱が鎮まったのは、ここの婚姻が効いているのかなと、いうふうに、つながる」
「…………」
「そういう縁の積み重ねでつないできた歴史のすえに、今のワタクシ達がある。それを紐解けると、おもしろくないですか」
「そりゃ現在から振り返って文字で追うぶんには、おもしろいでしょうけど、渦中の本人には本人の意思や苦労があるに違いないわ」
「歴史書のなかの有効な一手に、自分がなれるんですよ。パズルに似ていませんか。壮大な画を作るのは、とても細やかな一かけら同士のつながりです」
「パズルが楽しいのはピースをはめて遊ぶ側だからで、はめられるピースには、できあがる画は見えない」
チュリーはゆるゆると首を横に振った。
「ウハクさんのそれ、人の血が通った意見とは思えないわ」
「…………」
トカクは、自分の眉がぴくりと反応したのに気付いた。『ウハク』の名を騙るようになってからはひさしく耳にしていなかったが、『トカク』は冷血と言われがちだった。青い血が流れていると。
しかし、それは違うとトカクは胸を張れた。
「……血は通っていますよ。ただワタクシの血は、自分だけのものではありませんから、チュリー様には見えないかもしれません」
「……私には見えない?」
「血とは、一族をとおして通っているものですよ」
「……ウハクさんって……」
チュリーはくちびるを噛んだ。
「どうして、そんなふうに思えるの」
「ワタクシが皇帝の実子として生まれたからです」
常に皇子の自覚を胸にかかげてきたような即答だった。
「……たかが結婚を切札にできるのは生まれのおかげです。我々は巨大なパズルの重要なひとかけを持って生きてきたようなものなもの。使うべき時に使わないのは誠実ではありませんよ」
トカクの弁に、言葉は返ってこなかった。
チュリーの静寂は絶句だった。耳を疑ったのだ。
女王として生まれると、よどみなくこんなことを言えるのか、という……。
一族郎党の婚姻を『パズル』とまで言いきったのは、うら若き少女の発言ではなかった。……少年ですら。
「…………」
顔を上げたチュリーは、張りつけになったようにじっと視線を動かさなかった。じっと正面のトカクを見据えていた。
やがて、トカクの言に一点のくもりもなかったことを、遅れて理解したように、一度かたく目をつむった。
そして再びひらいた時。チュリーの表情からは、ワガママで相手を振り回そうとする、ある種のはつらつさが失われていた。
「ウハクさんがすべて正しい」
言って、ひとしずくだけ落ちた涙は後から続くことがなかったので、雨と見間違いかねなかった。それくらいのかすかな発露だった。
「あなたの言うことはいつも正しいわ……」
翌日、チュリー・ヴィルガ王女とボーテス王太子の婚約が、正式な決定として国際社会に知らされた。