一二九 のど
「ねえチュリー・ヴィルガ王女殿下の最近のお噂をご存知?」
「今度は何をしましたの?」
「逆だ逆。最近なんだか落ち着いたって噂」
「まるくなったって?」
「この前なんか、侯爵令嬢の侍女殿が霍乱で倒れたとき、日傘を貸してさしあげたそうだ」
「あの女王様が?」
「あの方に風邪を心配してもらったって本当?」
「以前のあの方なら、私の前で咳をするなんて、ぐらい言いそうなものですけど」
「だから噂になっていますのよ」
「なんだかお優しくなってしまわれたのね」
「何よ、問題みたいに?」
「高貴な方が寛大さまで兼ね揃えたら、寛大だけど高貴じゃない人は立つ瀬がないじゃない?」
「なんにせよ我が国の王女殿下のワガママが治ったならすばらしいことだ」
「どうせ今だけよ」
「やっぱりあの方の影響かしら」
「どなたのこと?」
「ほら。ええと、なんだったか」
「大瞬帝国の皇太女様であらせらる、ウハク・ムツラボシ様」
「――ッくしゅ」
トカクのくしゃみに、ハナが「姫様、寒かったですか?」とすかさず空調を気にした。馬車の中で火を焚くことはできないが、頼めばハナは自分の上着をよこしてきそうだ。
「いや、平気だ。誰かに噂されているのかな」
「体調がよろしくない時は教えてくださいね。風邪はひきはじめが肝要ですから」
「風邪……」
トカクはふと自分の喉をおさえる。
「そういえば最近、喉がかすれる感じがするんだよな」
それは、気にしなければ気にならない程度の些細な引っかかりだったが。最近、トカクは喉の調子が良くなかった。
『トカク』の声を出している時はまったく問題ないのだが、『ウハク』の声を出している時、たまに言葉がかすれそうになる。そしてたくさん喋ったあとはひりひりする。
……というか、『ウハク』の声はトカクの地声に比べると高音なので、それの真似をするのに喉を酷使しているせいでは?
自分で言っておいて、これは風邪じゃないなとトカクは前言を撤回しようとした。
「姫様、のど風邪ですか? 私、炎症止めを持っていますよ」
キノミがうれしそうに、手提げから錠剤を取り出した。
「まあ。用意がいいですわね」
「先日、剣の稽古のため屋外で太陽に当たっていたのですが、顔以外に日焼け止めを塗っておらず、腕や頭が火傷みたいになりまして。リゥリゥさんのところに駆け込んだ時にもらったものです」
キノミは物持ちの良さを褒めてほしそうだ。
「姫様、のどのお加減はどうです? 飲まれるなら、私が毒見しますわ」
「ん、うーん……」
トカクは迷っていた。
飲んどこうかな、と。
風邪じゃないにしても、のどを酷使したことによる炎症には違いない。薬を飲んだら楽になるかもしれない。
声がかすれるのは『上品』ではない。ウハクの姿でトカクの声を出してしまうような事態は避けたい。今は心配なくても、いつか。
薬が効くということを、ここで確認しておくのもいい。
「もらおうかな……」
とネッコに毒見させようとした時、何やらキノミに耳打ちしているユウヅツが視界に入った。
キノミはユウヅツから何事か聞かされ、うんうんとうなずいてから。
「姫様、あの~」と声を出した。
「えー、おそらく大瞬帝国にまだない法律を持ち出して恐縮なのですが、……えー、薬剤師から処方された薬を他人に譲渡することは、ライラヴィルゴを筆頭とした国際連盟の加入国の、ほとんどで厳しく禁止されている……そうです」
「なんだユウヅツおまえ? 自分で喋れよ」というのをウハク語に直し、トカクは「? ユウヅツ、自分で話してくれ」と告げた。
自分の意見を聞いてもらえる自信がなかったらしい。
ユウヅツは。
「今キノミさんにお話してもらったとおりです。自分が処方してもらった薬をゆずるのも、他人が処方してもらった薬を受け取るのも、大陸のほぼ全土で禁止されています。帝国では規制がないとしても、倫理の面から、大陸に倣っておいた方がいいのでは、と思いました」
「あー……。薬事法ってやつ? そのうち習うって講師が言っていたな」
そんな法律が存在するというのは、いまいちピンとこないが。
「ユウヅツさん、よくそんなのご存知でしたわね。読書会でそういう話題がありましたの?」
「おっしゃる通りで読書会での学びです。……素人が、使っちゃいけない人に薬を渡して、副作用やショックが起きたらまずいから、こういう法律があるんです。これはそのうち大瞬帝国でも採用されるルールですよ」
「ふーん……」
ユウヅツが言うなら、大陸全土でそういう法律があるのは確かなのだろう。
しかし、それをおぼえていてわざわざ言い出すあたり、『前世の倫理観』にもとづいていそうだ、ともトカクは思う。
前世の夕也のいた国でも同じような法律があって、だから気にしているのでは。
「……しかし、帝国にはまだない法律なわけだしな。これで最後。飲んでおく」
「えええ……」
ユウヅツは微妙な顔だ。
ユウヅツの倫理観では、あまり良くないことなのだろう。
しかしこれまでの人生、そして歴史、薬の貸し借りは普通にあるものとしてやってきたから、それが今からできなくなると言われると、かなり困るなというのが本音だ。困るしムカつくな。
「学校が終わってから離宮の医務室に行くんじゃダメでしょうか?」
「ダメではないが最高ではない」
医務室で薬をもらうのには時間がかかる。トカクは特に(性別を偽る都合上)人を選ぶ必要があって時間がかかるし。
キノミからもらった方が早い。
たかが炎症止め、それも日焼け用だろ。
「薬剤師の処方に時間がかかるのは、それだけお薬を渡すことに慎重になっているからで」
だいたいコイツ、自分は営業許可すら取ってないあやしい薬屋のあやしい薬漬けによって大陸共通語をおぼえたくせに何なんだ急に法律を持ち出してきて??
説得力に欠けすぎている。
でもウハクなら言うとおりにするのかな。どうだ?
「――でも私達、これまでも体調不良はこうやって対応してきましたからねぇ」
「……まあ俺も人から分けてもらった薬、ふつうに飲みますけど……。でも殿下は姫様なわけで……」
「私が毒見しますから大丈夫ですわ。大陸の方々に秘密にしておけばいいんです」
話がまとまった。ネッコが砕いた錠剤を毒見している。
ユウヅツも「そうですか?」と矛を引っこめた。
「ユウヅツさん、そういえば読書会の調子はどうですの? 今度は何も起きなさそうかしら」
「俺が何も起きなさそうと言っても説得力ないでしょ?」
「違いありませんわね! ふふふ」
読書会。
それの進捗は、良いとも言えたし悪いとも言えた。
会合自体は形になって、それなりに精力的な活動を見込めそうな雰囲気だ。……読書会の盛り上げが目標であれば、話はそれで済むのだが。
第一の目当てである(トリガーの言うところの)悪魔を封じるという点でも、今のところうまくいっているらしい。
ただ、読書会の目的を『クラリネッタ・アンダーハートとの接触』に限定すると、ここはあまり進展がなかった。
まず、読書会を設立するんでよかったら参加してね本好きでしょ?という勧誘を図書館で行ったが、クラリネッタからかんばしい反応はなく。(あまりクラリネッタ個人に固執しても怪しまれるので、ふわっと流れで声をかけたように見せた)
その後、読書会のメンバーとなった女子生徒にクラリネッタへ声掛けしてもらったのだが、断られた……と、トリガーから報告を受けている。
(……まあ、簡単に友達になれるような女なら、すでに友達がいるよな。そうじゃないから一人なんだ、クラリネッタは……)
人懐こいのに孤立していた、ユウヅツの方が希少な例なのだ。
ひとりでいるのには、ひとりでいる理由がある。
「…………」
あまり焦燥がわかない。
とりあえず様子見でいい、と思ってしまう自分がいた。
(……いや、だって、さいあく盗めばいい……)
というのは止められたのだったか。
……ユウヅツとリゥリゥに、あいつこんなこと言ってたと知られてしまったのは悪手だったな……。
なんにせよ、今日も学校がある。
トカクは毒見の済んだ炎症止めを飲み下した。
二限目の講義の途中あたりから、トカクはかなり具合が悪くなっていた。
頭が重たい。目を開けているのが億劫なほどの倦怠感。そして心臓のあたりがいらいらする。
(……胸やけ……?)
に似ている。わからない。
それから、思考が散漫になっていた。講義の最中、考えが関係ないところにあちこち飛び、ろくに話を聞けない。
講師がめくる紙の動きとか、他人が筆記用具を走らせる音とか、そんな普段は気にもしない事象が感覚器に直接ぶちこまれるようで無視できない。
総じて、なんか意識がぼーっとする、というのがトカクの自認だった。
(……風邪……?)
風邪じゃないと思っていたが、本当にひきはじめだったのか。……咽喉のかすれは、炎症止めを飲んだ甲斐があってか、まったく分からなくなったが……前の薬から、何時間くらい置いたら風邪薬を飲んでいいだろうか。
これぐらいなら隠せる、という体調不良だったが、今後の為にも休んだ方がいいな。さいわい、今日はたいした用事もないし。帰ろう。あるいは部屋で休ませてもらおう。
トカクはあえて調子が悪そうに振る舞うことにした。気怠そうにしてみせる。実際に気怠いのだが。
その甲斐あって、二限目の講義が終わった後、ハナが「やっぱり調子が悪いようですわね。今日のところは帰りましょう」と言ってきた。
「うん……」
熱はなさそうですね……とハナはトカクのひたいに手を当ててきた。冷たい。
「教本だけ置いて、馬車へ戻りましょう。姫様を護衛に預けてから、我々でユウヅツさんを回収しますわ。それでよろしいですか?」
「うん」
なんでもいい。トカクはとにかく気怠かった。横になって目をつむりたい。さっきから光や音や色がうるさくて仕方ない。
しかし、廊下の真ん中でぐったりする醜態をさらすわけにいかないので、トカクは『しっかりして見えるけど、注意して見たら体調が悪いかな?』くらいの雰囲気を維持した。
校舎と校舎をつなぐ廊下には、個人ごとに与えられる簡易の鍵付きロッカーがあり、どうでもいい荷物を置いておけた。誰もが荷物持ちを連れ歩けるわけではないので。
先日、チュリーによって校内に自分の部屋を手に入れたトカクだったが、学院自体が広大なこともあり、ロッカーは引き続き使わせてもらっていた。こちら側の校舎でしか使わない教本などを置いておくのだ。
申し訳程度のダイヤルロックがかかるだけの粗末な箱で、貴重品を入れるのには向かないが、教本を保管するのに支障はない。紙は重たいのだ。
トカクの教本をミキヱがロッカーに閉まっているのを、トカクは目を閉じて待っていた。胸やけがひどい。
その背中に、声をかけられた。
「ウハク様。ご伝言です。チュリー様が、この後ランチを一緒にどうかと言っているのですが、いかがでしょうか?」
「…………」
凛とした表情を作り、トカクは振り返った。
ごはんが喉を通る気がしないし、何より早く帰りたい。
「お誘いありがとうございます。ですが、今日はすこし体調がよくなくて……。これから帰ろうとしていたところなんです。また今度……とお伝えください」
「わかりました。伝えておきますわ」
トカクに声をかけたのは、チュリーいわく『お友達ではない』そうだが、取り巻きのようなことをしている少女だ。
用は済んだし、はやく行ってくれないかな。と思いながら、トカクはにこにこしておいた。
すると、目の前の少女はくやしげに顔を歪めた。そして。
「……私なら、親友を自称する相手からの呼び出しなら、是が非でも応じますけど。チュリー様に気に入られたからって、いい気なものですね」
と言ったのだった。