一二三 初歩の初歩
チュリーをなだめるのに時間を要した。
しがみついてくるチュリーを引きはがすのに失敗しながら、トカクはあらためて自分の意見を述べた。
チュリー・ヴィルガの側近のやったことは自分の責任になるのだから、彼女らが良くない振る舞いをしたなら、たしなめてやるべきだと。もっと周囲に気を配って、他人を尊重してほしいと。
「まったくわからないわ」
まったくわからないようだった。
涙目をこすっているチュリーに、トカクはハンカチを差し出しながら「ええと……何がわかりませんか?」と訊ねる。抱きしめられているせいでハンカチが取り出しづらかった。
「私の側近のやったことが私の責任になることの何が悪いのか分からないし、その話を今されるのがよくわからないわ」
「そうですか……」
肉体の骨っぽさで男だとバレやしないかとトカクは冷や冷やしているのだが、チュリーはまったく気に留めていなさそうだった。
……それに安堵しきってしまうと、今度はトカクが相手の肉体のやわらかさを意識してしまいそうなので、つとめてハラハラしておく。脳内で、リゥリゥが侮蔑の目を向けてくるイメージが湧いてくる。
「そんなことより、ウハクさんは私とクラリネッタさん、どっちが大事なのよ。そういう話でしょ?」
違う。いっさいそんな話ではない。
「あら? クラリネッタさんのために怒ったわけではないの?」
相手がクラリネッタでなければ、あんな取り乱し方をしなかったのは事実だが、残念ながら、そんな正義感をトカクは持ち合わせていなかった。
ものすごく自分のために怒っていた。ウハクを取り戻したい自分のため。
クラリネッタの気分を害することで起きる不利益を本当に恐れている。
「私、クラリネッタさんとか、クラリネッタさんにつらく当たってた子達のこととか、どうでもいいのよ。あなたと仲直りがしたいだけなのに、関係ない話をされている感じだわ」
「ワタクシはどうでもいいとは思えないんです」
これは本心。
「だからすべて関係ある話なんですよ、チュリー様」
いったんチュリーに離れてもらう。
腰を落ち着けた。
「……チュリー様、たとえ話をしますよ。チュリー様がいつか、すごく困った時、クラリネッタさんしかあなたを助けられないという事態になったとします。その時クラリネッタさんは、チュリー様を助けてくださるでしょうか?」
「? まるで助けないような口ぶりね?」
チュリーは心底、本当に心底から不思議そうに首をかしげた。
「クラリネッタさんにできるんなら、するでしょ?」
「……………。……どうしてそう思いますか?」
「私が王女で、クラリネッタさんが王国民だから」
その考え方は、トカクもめちゃくちゃに共感できた。帝国に生まれたなら、帝室に貢献する以上の栄誉があるのか?と思う。思うが。
「でも……。数年後、お二人がそれぞれ別々の外国に嫁ぐようなことがあれば、チュリー様は王族でないし、クラリネッタさんは王国民ではないですよね? そうなったら……?」
「そうなったら?」
「……そうなったら、助けてもらえないのではないでしょうか?」
「どうして?」
どうしてとは。
「どこに行こうと私はライラヴィルゴ王家の血をひく正統な王女だし、クラリネッタさんは王国で生まれ育った王国民だわ。違うの?」
違わないけど、私怨を買っていたら別だろ。
……しかし、チュリーの行動原理が分かった。もう、自分に降っている恩恵を「そういうもの」としか思っていないのだ。
そして、これは逆もしかりだ。そのまま反転する。
チュリーは、身分の低い相手が自分に差し出すのは当然と思っているように、身分の高い相手には、自分が差し出して当然と思っている。そういうものだと。
このワガママ娘が、己の将来の結婚については楽観視しておらずとてもシビアな目を持っているのも、「そういうもの」と思っているからだ。
「話は変わりますけどチュリー様って、お姉様やお兄様方がたくさんいらっしゃいますよね」
「ええ」
「仲の良い兄姉もいますし、そうでもない兄姉もいますよね? 冷たくしてくる方や、優しくしてくださる方が」
「そうね」
大瞬帝国の兄妹のようにべたべたはしておらず、誕生日の贈りもの以外は没交渉だったりもするらしいが。
「ご兄姉からの扱いによって、お相手を好きになったり、キライになったりしますよね?」
「感情としてはあるわね」
そう、感情としてだ。
チュリーは自国の宮廷内では、感情は感情として、とてもドライに必要に応じた振る舞いをしているのだろう。「そういうもの」だと思って。
「でも、その感情によって自分の行動が変わることが、まったく無いとは言えないんじゃないですか?」
「……ん、」
「親愛なるお姉様には心を込めた贈りものをして、冷酷な姉上にはこれでいいやと適当に投げやる、それぐらいの差はつくものです」
と言うと、チュリーは初めて心当たりのありそうな顔をした。
「チュリー様の周囲にいる方々も、チュリー様からの扱いによって、チュリー様を好きになったりキライになったりするんですよ」
「…………。下々の奴らが、この私を? 好きかキライかの尺度で見るの?」
「感情としてはあるでしょうね」
意趣返しにチュリーの先程の言葉を借りる。つーか『下々の奴ら』て。言うなそんなこと。
「王家の血をひく尊き方を、好きキライで測ること自体が間違っている、不敬だという感情も分かりますがね」
トカクも、皇帝陛下はただただ敬い平伏するもので好きかキライか考えるような相手じゃねーだろう、という気持ちがある。
「でも、悲しい思いをずっとさせられていたら、キライになるなと言うのもむずかしいでしょう?」
そして悪感情は害になる。トカクは言った。
「……つまり……」
チュリーは口元に手を当てて首をかしげた。
「クラリネッタさんは、私に冷たくされると悲しかったり、私をキライになったりするってこと?」
そこがまず分かってなかったのかよ!?とトカクはずっこけそうになった。
そこが分かってないならそりゃ話が通じないわ。
「え……。でもねウハクさん。上の者が下の者に冷たいのって、当然のことじゃない? そりゃ、優しくされたら嬉しいだろうけど。悲しい悲しくないとかあるの? 下の者が上の者に何かしたなら、苛立ちも分かるけど……」
「チュリー様だって、お兄様お姉様に冷たくされたら悲しかったりするでしょう。感じることは同じですよみんな」
「みんなおんなじ? わたしと?」
チュリーは眉をしかめた。
「じゃあ、あんなふうに人前で転ばされて、クラリネッタさんがかわいそうじゃない」
「そ……そういう話をしてるんですよワタクシはずっと!!!!!!」
同じ話をずっとさせられている。堂々巡りもいいとこだ。
「え? それでウハクさんは、私がまわりの人に優しくしないでいるのを、やめた方がいいって忠告してくれていたの? 目に見える大きな不利益はこれまでなかったけど、もっと周囲を思いやっていれば得られたかもしれない恩恵を、いつの間にか取り逃しているに違いないから? あら? それどころか、私は水面下では恨みを買っている可能性があって、いつか表面化するかもしれないってこと?」
急に理解力が跳ね上がっていた。トカクはちょっと勢いにのまれながらも「そうです」とうなずく。
……チュリーは本当に、初歩の初歩でつまづいていたようだ。トカクは足し算を知らない子供に九九を教えるようなことをしていたらしい。
「そっか、私がお姉様の侍女にそっけなくされたら、お姉様が私に冷たくするよう言ったんだと思うように、私の側近の子達のやったことは、私の指示だとみんな思うのね? 私の意に反したことをやられると、それは私の損になるのね。……じゃあクラリネッタさんとかにしていることも、止めた方がいいのかしら?」
クラリネッタ『とか』と言っているのが怖い。トカクの知らない何があるんだ。
チュリーはしばらくひらめきを連続させていた。
それをトカクは見守っていたが、落ち着いてきたチュリーがまたしくしく泣きだしたので腰を上げた。いったいどうしたんですかチュリー様。
「ウハクさん、私、今までウハクさんにも、おぼえてないけど酷いことしてきたんじゃない? もう私のことキライになった?」
「……べつにキライにはなりませんよ……」
トカクは答える。声に疲れがにじんだ。こちらの機嫌次第で、泣いたり怒ったりいそがしい人だなぁ。
「反省されたのでしたら、これから行動を改善すればいいではないですか。ボ……ワタクシも、無知のせいで昔すごい失敗しましたよ」
「……どんな失敗?」
「お城で飼ってる白馬を青色にしたくて、こっそり絵具を溶かした水を飲ませてたんですけど、絵具って毒性あって、めちゃくちゃ弱らせちゃったんです」
「すごいことするのね……」
五歳の時の話である。白馬が弱ってきた原因がトカクだと判明した時は、とんでもない叱られ方をした。母親ふくむ五人がかりでトカクは怒鳴られ、関係ないウハクが気を失うほどの剣幕ですごかった。
(生きものの命を大切に、というのはもちろんのこと。後から知ったが、カリーナサギタリウスから国交のしるしに譲られた名馬だったので、弱らせるのが本当にまずかったらしい)
色水を吸わせることで白いバラを青くできる実験を応用しようとしたボクのアイデア自体は五歳児にしては超イカしていた。とトカクは今も思うのだが、メルシーには悪いことをした。
「でもメルシーは、ワタクシが反省して行動を改めたことで背中に乗るのを許してくれるようになったし、チュリー様もこれからですよ
「…………。じゃあ、ウハクさんは私にあきれないで、まだ一緒にいてくれる?」
「いますよ」
「本当? じゃあウハクさん、私のこと好き?」
「……好きですよ……」
残念ながらまだ好きだった。トカクは声色が湿度を帯びないよう気を遣う。
これまでを振り返って、トカクはチュリーのことを考えなしのクソアマとなじってもいいはずなのに、惚れた弱みのあばたもえくぼで許せてしまっていた。分かってくれればいいんだとか、根は素直だとか、良いところを探し始めていて、己の恋愛体質の本領発揮を感じる。
「本当に本当?」
「すきですよ……」
にしても面倒な女だな? トカクは思う。束縛が強くて重たい。
チュリーはしばらくぐずぐずしていたが、そのうち「じゃあ、みんなの前に戻ろうかな」と立ち上がった。
チュリーが、「ウハクさんの言うように、クラリネッタさんにかまうの、そろそろやめようかと思うの」と言ったのに、彼女の取り巻き達はにわかにざわめいたが、「チュリー様がおっしゃるなら」ということで落ち着いた。
トカクもほっと胸を撫でおろす。
「姫様、チュリー・ヴィルガ王女といったい何をお話しましたの?」
「もう、ほんとうに、当たりまえのことを言っただけなんだ……」
「…………?」
つまり、トカクは他人を傷付ければ傷付け返されるという損得の話をしてきたが、あの人はそもそも他人が傷付くってことを理解できていなかったのである。いやとんでもねーな。
廊下ですれ違っても何もイヤなことをされなかったことで、クラリネッタはいっそ不思議そうにしていた。トカクは、彼女が振り返ってこちらを見ているのを横目に見る。
そうしてクラリネッタの学院生活には平穏が訪れ、それはトカクの心境にも平穏をもたらした。
これで彼女は『シナリオ』に集中できるはず。
主人公と親しくなるシナリオに。
ユウヅツが学院に復帰する許しが出た。