一一〇 さざなみ程度の苛立ちが
ですから、とハナは同じことを繰り返す。
「変装したチュリー・ヴィルガ王女殿下が、姫様に会うためにお忍びで離宮にいらしておりますの。帰すわけにいかないので、すぐに着替えて参りましょう」
「……は!?」
そんなの本当に先に言えよ!とトカクは立ち上がった。
最低限の身だしなみを整えて、トカクはチュリー・ヴィルガが待っているという庭園へやってきた。
まさかと思っていたが、チュリーは本当にいた。
侍女に扮したキノミやコノハに話しかけ、暇つぶしの相手をさせている。
お忍びと言っていた通り、いつもの制服やいつかの華美なドレスではない、町娘にも見える軽装だ。
「チュリー様……!」
いったい何の用なのだ!?
トカクは憤る。
この忙しい時に。あんな事件の直後で、今この離宮がとても忙しいであろうことは考えたら分かるはずだ。ライラヴィルゴの王女を公的に招待する準備なんか無いからお忍びなのはいいが、だとしても本人が来る前の先触れすらないなんて。
ワガママお姫様の傍若無人だ。今までチュリー・ヴィルガは甘やかされて、こんな風に突発的に動いても周りがなんとかしてくれていたから、注意されたこともないのだろう。……いや、注意されてもチュリーは聞き流してきたのか。
急に押しかけたら迷惑、その程度の常識か遠慮か、とにかくそういうのが欠けているのだ。次から彼女がこういうことをしないように苦言を呈さねば。
と勇み足でトカクはチュリーへ近付いたのだが、トカクに気付いたチュリーがぱっと笑顔を花開かせて手を振ってきたので、土砂崩れのように態度が軟化した。
「チュリー様ぁ~! どうしたんですか、こんなところへ!」
「ウハクさんに会いに来たの。だって心配だったんだもの」
「え~~~~~うれしいです~~~~~~!! ありがとうございますっ!」
「今日のウハクさんの服すてきねぇ、帝国の民族衣装?」
トカクとチュリーは庭園でティーセットを囲んだ。
「チュリー様、なにぶん急なことでしたから、あまりおもてなしの用意がないのです。このお菓子も、ワタクシは好きなのですが、チュリー様に納得していただけるか……」
「あら、べつによくってよ。気にしないわ」
よくってよ、じゃねえよ急に押しかけた自分のせいなんだから非礼を詫びんかい。
とトカクは思ったが、まあ後でさらっと注意しておこうと流した。
「それで……」
トカクは居住まいを正す。
「チュリー様は、もしかして何かワタクシに報告があっていらっしゃったのでは……?」
「あら? 言ったじゃない。心配だったから顔を見に来ただけよ。元気そうでよかったわ」
「…………?」
……もしかして『お友達』だと、特に連絡事項がなくても接触したりするのだろうか。
「そうなんですね。ご心配かけて申し訳ございません。……ワタクシとしては……これから大瞬帝国の扱いがどうなるか不安で、気がかりではあるのですが……」
「? そんなに心配することないわよ」
チュリーはあっけらかんと。
「あの件、シギナスアクイラの問題にした方が都合がいいもの」
「……都合がいい?」
「うちの国ライラヴィルゴと、北のカリーナサギタリウスと西のシギナスアクイラは、国力を競い合う三すくみの真っただ中。大陸での発言権を競い合っているわ。言ってしまえば連盟会議員席の椅子取りゲーム状態じゃない?」
「はあ、そうですね……」
「椅子取りゲームで重要なのは、自分の席を増やすこと……だけじゃなくってよ。むしろ敵の椅子を減らす方が重要だわ。今回の件は、シギナスアクイラ側の失態で大瞬帝国に一方的に迷惑をかけたものとした方が、うちにとってもカリーナにとっても都合がいいのよ」
チュリー・ヴィルガは言う。
「二対一で、シギナスアクイラは強く出られない。全面的に非を認めて、近いうちに大瞬帝国へ謝罪するでしょうね。そうしてアクイラの席をひとつ大瞬帝国に譲れれば、うちにとっても最高なのよ。だからそうなるわ」
大瞬帝国は、国際社会においてはライラヴィルゴの傀儡、属国みたいな扱いだ。事実上、投票権がひとつ増えたようなものと解釈されるのだろう。
「こういう流れになることを、」
チュリーはテーブルに肘をついてトカクの顔を覗いた。
「見越して仕組んだのならとんでもない策略家だ、あの島国のお姫様は大したものだって……言われているらしいのだけど、ウハクさんのようすを見る限り、そんなつもりはなかったのね」
「……側近の不出来に頭を抱えていたくらいです」
「ユヅリハさんって言うんだったかしら? あんな、人を狂わせる天才をどこから連れてきたんだと評判だったんだけど」
「そんなつもりはありません!」
トカクは声を荒げている自覚がないまま反論した。
「歌がうまくて気が利くから置いておいただけだ、こんなことになると分かっていたらあんっっなポンコツは連れてこなかった!」
「姫様、お気をお鎮めください」
「…………!」
大抵の場合で控えているハナだが、乱心を見かねたらしくトカクを制した。
(……あああ、ボクはウハク、ボクはウハク……)
トカクは脳内でそう唱える。すべて投げ出したい気持ちもあるが、まだトカクは『ウハク』のふりをやめるわけにはいかない。
「……チュリー様。ごめんなさい、取り乱してしまいました……」
そっとトカクは髪を耳にかける。
「ワタクシが憤っているのは、何より自分自身に対してです……。冷静さを失ってしまって、……上に立つ者の心得を、偉そうにチュリー様にも語ってきましたのに、この体たらく……。お恥ずかしい限りです」
ウハクっぽい、心清らかそうな自責と反省を述べる。怒りという感情を知らなさそうな憂いを帯びた目をするのも忘れない。
「問題を起こした件の側近にも、けして悪気はなかったのです……。未来の皇帝たるもの寛大な心で見てやらねばなりません」
「ウハクさん、ちょっと庭園を歩かない?」
「…………」
なんだよいきなり不躾な女だな『ウハク』が喋っている途中だろうが、という、さざなみ程度の苛立ちが、ウハクの仮面から覗いたのかもしれない。チュリーは弁明のように続けた。
「邪魔が入らない場所で二人で、本音でお話したいわ。……ダメかしら?」
「…………」
ハナがワタクシのためにしてくれた忠言を「邪魔」って言うのは本当によくないですよ相手がどう思うか考えてください。という苦言が出てこない。
代わりにトカクは困りながら振り返ってハナを見上げた。
「……私共は遠くからご一緒いたしますわ。離宮は姫様の庭。どうかライラヴィルゴ王女をご案内さしあげてくださいませ」
「…………。では……」
トカクは腰を上げ、立ち上がろうとしているチュリーの前にほぼ無意識で手を差し出した。
「あら、エスコートしてくれるの? 今日のウハクさん男の子みたいね」
「…………」
トカクは差し出した手を引っ込めた。
……だめだ、ウハクの仮面をかぶる気力が損なわれきっている。
「あらあら、なんで引っ込めちゃうのよぉ」
「男みたいとか言われたからです……」
「褒めたのよ? かっこいいわねって」
「…………」
トカクは手を後ろに組んでチュリーがひとりで立つのを待った。
チュリーは「何よ、すねないでよ」と言いながらしぶしぶ腰を上げる。
「じゃ、行きましょウハクさん!」
「…………」
トカクは、チュリーが『腹を割った会話』を求めていることを察しており、気が重たくなっていた。