一〇五 ナイフが
「ユウヅツのヤツ、大きなケガは左足の捻挫ぐらいね」
「ああっ、よかったっ! 頑丈……っ、頑丈だなアイツ」
二階の窓から転落した時は、確実に死んだと思ったが。捻挫で済んだらしい。治療室に入っていたリゥリゥからの報告に、トカクは安堵した。
リゥリゥはユウヅツの容体について、「問題は精神の方あるね」と称する。
「かなり落ち込んでるというか、参ってるね。おまえ、励ましてやればよろし」
「……まあ、聞き取りはしなきゃいけないからな。とりあえず話は聞いてみるよ」
トカクはうなずく。
いったい何があったのか、ユウヅツ自身に説明してもらわなければいけない。
それと、トカクはあの時、ユウヅツの過剰反応じみたようすが気になっていた。まあ、恐怖や安堵で失神するのはありえないことではないが、なんというか。ちょっと只事じゃなさそうな雰囲気はあった。
(……ナイフ突き付けられるのは、そりゃ只事じゃないだろうが……)
にしてもユウヅツの取り乱しっぷりは常になく、ちょっとトカクの中の人物像とかみ合わなかったので。
「まあ、ともかく治療は一段落したから入ってもよろし」
「……分かった」
「よう。ご機嫌いかが、ユウヅツ?」
ユウヅツは療養室の寝台の上に座っていた。大きなケガは捻挫くらいとのことだったが、打撲や擦り傷はあるらしく、包帯やガーゼが全身にべたべたと張り巡らされている。
ユウヅツはトカクの来場に気付いて、さっと頭を下げる。
「申し訳ございません」
「もう仕方がねーよ」
「…………」
ユウヅツは疲れ切ったようすで、表情をろくに動かさない。
「どういう流れであんなことになったのか教えろ。なるべく詳しく、主観はいらんから事実だけ述べろ。それによってシギナスアクイラへの対応を考える」
「…………。ええと……」
説明。
ユウヅツの説明を聞いて、トカクは「およそ予想通りだな」と思った。
しかしトリガー・カタプルタスが現場にいた理由については、……予想と違っていて、少し困った。
なぜなら『その程度』なら、大国の侯爵家長男というトリガーの身分から考えて、復学してしまう恐れがある。
トカクは、もう会わないものと思ってトリガーの前で姫君らしからぬ振る舞いをさんざんした。
しかし、それはまあ後で考えるとして。
説明を終えると、ユウヅツはふたたび深くこうべを垂れて「申し訳ございません」とうめいた。
「……また問題を起こしてしまいました」
「……また、というか……」
トカクは。
「前の問題が起きた時に消し切れてなかった火が、延焼したって感じだ。これは火消しを怠ったことに原因があり、火消しは個人の領域でなく、ボク達全体ですべきことだ。なので、おまえ一人のせいではない」
とトカクは詭弁を並べたが、これで「自分のせいではない」と思えたら苦労しない。
案の定ユウヅツは暗い顔のままだ。
トカクは、つとめて明るく。
「……ところでさ。おまえ、……気ぃ失って、窓から落ちただろ」
「はい。ごめんなさい」
「責めてはいない。……でも、あれって、なんで落ちたんだ? 後学のために教えてくれよ」
ユウヅツはしばらく黙った。そして。
「刃物を向けられて怖かったからです」
と。
「…………」
「……違いますよね。殿下が聞きたいのはこういうことではないですよね」
「本当に、単に怖かっただけならいいんだけど。なんか……あんのかな?と思って」
トカクの言葉に、ユウヅツはぐっと眉間にしわを刻んだ。
何か言いたそうだと思ってトカクは待った。
膝のあたりに置いた手を握りながら、ユウヅツは口をひらく。
「……俺は自分で、自分は刃物は平気だと思っていました。調理場の包丁も平気だったし。裁ちバサミも草刈り用の鎌もぜんぜん平気で」
「うん? うん」
「だから、刃物がトラウマになっているかもしれないと、考えたことがありませんでした。……誰にも、言ったこと、なかったんですが」
ユウヅツは何回か口を開閉して、それからやっと声をしぼり出した。
「前世の俺は、ナ、イフで、刺されて死にました」
ユウヅツは、ナイフ、と言おうとした時に舌がもつれたようだった。
トカクはそれを聞いて。
「……じゃあ、それを思い出して混乱したんだな」
「そうだと思います」
「刃物は平気だけど、刃物を向けられるのがダメなんだな」
「言い訳になるし、責めているみたいになるのですが」
ユウヅツは目を伏せた。
「俺はあなたが怖かった。刃物で斬りかかってくる未来を知っていたから」
「…………」
「怖くなくなったのは、卒業パーティーが終わってからです。……卒業パーティーを生き残った後、本当にひさしぶりに視界がひらけて……。……その時になってようやく、ツムギイバラの毒のことを思い出した」
自分以外にも命が危ない人がいたことを、やっと思い出した。
「…………」
トカクは。
「ああ……そういうことか……」と思った。
不思議ではあったんだ。どうして帝立学園の在学中に、ユウヅツがトカクを頼らなかったのか。
何故、はじめてトカクのもとへ訪れたのが、手遅れになった後だったのか。
答えはこうだ。『トカク皇子に刃物を向けられる』恐怖から、ユウヅツはトカクを頼れなかった。
しかも、ユウヅツにはその自覚さえなかった。
間違ってもトラウマを呼び起こしたくないユウヅツの無意識は、「怖いからイヤ」と選択するまでもなく、その選択肢があること自体を思い付けなくする。トカクおよびトカクが関わるすべてを頼れず、孤軍奮闘を選ぶ。
ユウヅツの集中を自己防衛にのみ傾かせる。
ユウヅツはウハクの危機を失念する。
そして。
「前世で刺された経緯を」
ユウヅツの声がトカクの思考に割り込んできた。
「お話してもいいですか」
「……前世のおまえの……夕也の話?」
「言わなきゃいけないことでした」
ユウヅツは顔を上げた。
別人のように見えた。
「自己紹介が遅れてごめんなさい。俺はここでない世界の人間で、名前を鼓田夕也と申します」