一〇四 オモチャ
伯爵子息が五号教室に押し入ったのと、ほぼ同時にユウヅツは窓から身体の半分を投げ出した。
いつでも逃げられる——飛び降りられる体勢で、「近寄らないで!」と停止を要求する。
それにトリガーは激昂した。あれでは外から目立つではないか。
「ユウヅツ・ユヅリハ! 窓を閉めろ、騒ぎになるだろ!」
トリガーが大きく手を振るのが目に入らない様子で、ユウヅツは伯爵子息の手元を指差した。
「ナ、……っの、物騒なもの、を、しまってください!」
「うるさい! 降りてこい!」
「誰か助けて!!」
「分かった! 一回二人とも落ち着こう! 双方、両手を上げて床に座れ!」
交渉は三秒で決裂した。
降りてこいという男、刃物を捨てろという男、とにかく目立つなという男。現場は膠着状態となった。
十分も経つと、もう騒ぎは学院中に広まったようなものだった。
避難が行われ、西棟からは人の気配がなくなっている。トリガーの取り巻き達もそれぞれ責任を逃れるために遁走した後だ。
アイツらばっくれやがって。
トリガーも逃げたらよかったのだが、少しでも事態を軽くするのを諦めきれず、残った。
「……誰か助けて……」
そのうち、窓枠につかまったユウヅツが疲労困憊でフラフラしはじめたので、トリガーはこのままだと落ちると察した。
それはマズイ。すでに騒ぎになってはいるが、ここから巻き返したいのに、飛び降りたという事実ができてしまうのはマズイ。
トリガーは伯爵子息に向かった。
「おまえ! そのナイフを下ろせ! 栄光ある連盟学院での刃傷沙汰、どうなるか分かってんだろうな!」
「てめーに言われたくねえよ、海賊上がり!」
ユウヅツのいる方向へ向けて突き立てていたナイフをぶんっと振り回して刃を突き付けられたので、トリガーは一応の距離を取った。
「おお、やってみろよ! おまえが何を持ってたところで怖くない。俺は騒いで欲しくないだけ。かかってこいよ弱虫ッ」
「本当に刺……」
「——全員そこを動くなッッッッ!!!」
突如、第三者の大声がびりびりと空間を裂いた。
トリガーは警備隊が来たものと思って安心しかけたが、すぐに違うと思い直した。あきらかに少女、あるいは少年の声だった。それに、警備隊ならもっと大勢の足音が聞こえるはず。こんなに静かなはずがない。
トリガーが廊下を振り返ると、少女が大股でツカツカと歩いてきていた。
大瞬の皇太女だ、とトリガーは驚愕した。側近のひとりも付けていない。
トカクは激怒の表情で近付いてきた。
「動いた者は攻撃の意志があると見なすッッッ!!」
「は……」
「今ッ! 危機にさらされているその男を含む、すべての帝国臣民は我らが皇帝陛下の所有である。その男はワタクシが陛下から預かった召使いである。……つまり我々は多大なる侵害を受けている!」
バシン!と竹刀で床を叩く。
「シャーバルト・ペーリカ、トリガー・カタプルタス! 今すぐ侵害を中止せよ!」
「大瞬帝国皇太女……側近のしつけもできなくて、何が次期皇帝か?」
「ワタクシが三まで数えるうちに持っているものを床に置け! ひとーつ……」
ふたつ! と叫びながらトカクは竹刀を槍のように突き出し、シャーバルトが持つナイフを弾いた。
「は!? 早っ……」
「これは正当なる防衛である!」
トカクは空中に浮いたナイフを竹刀でかっ飛ばし、壁に叩きつけた。
返す刀で首を殴る。シャーバルトが転倒した。
「床に伏せて動くなッッ、安全のため拘束する! 繰り返すがこちらに攻撃の意思はなく、これは防衛である!」
トカクは倒れ込んだシャーバルトの背中に馬乗りになると、後ろ手に組ませて手鎖をかけた。
「! ……クソがあっ!!」
「…………」
トカクはさっと立ち上がると中腰でトリガーを見上げる。
竹刀の構え、睨め付ける目。
それで、トリガーは自分がユウヅツ・ユヅリハを攻撃しようとしている一味と思われていることをようやく察した。
「違っ、俺は……」
「両手を上げて背中を向けろ! 壁に張り付け! さもなくば殺す!」
マジで殺す気の声だ。
と思ったトリガーは言う通りにした。
トカクはひとまずの鎮圧が済んだことを確信すると、はあっと息をついて、落ちていたナイフを回収した。
「…………?」
そのナイフがやけに軽く、妙な握り心地がするから、トカクは何度か振ってみた。カシャカシャと小さく音が鳴る。
ゆっくり、刃を壁に立てて押し込んでみる。と、刃先がスルスルと引っ込み、グリップに収納された。
よくよく見ればナイフの先端はまるく、銀色の材質も安っぽい。
「オモチャじゃねーか!」
ブチ切れ、トカクは勢いよくナイフで床を刺した。当然ながら刃先がガシャンと引っ込んだだけだ。
「ビビらせやがって、三品共がッッ」
「ぐぅぅ……」
シャーバルトは床でバタバタしていたが、トカクは無視した。
……馬車に積んであった荷物の都合上、手鎖は一個しかなかったが、……ナイフを持っていない方——トリガーは従順で助かった。
ロープでゆっくり縛ろう。
「トリガー・カタプルタス。おとなしく身柄を拘束されることが、貴様に害意がもうないことの証明になる。異論はあるまいな」
「うす……」
「ったく、手間取らせやがって……」
舌打ち。
……オモチャだったのには肩透かしを食らったが、だとしても危険人物のコイツらは、明日には『学院から消える』はずだ。シギナスアクイラは大国だが、だからこそライラヴィルゴとカリーナサギダリウスは、仮想敵国の失態を見逃さず、ここぞとばかりに糾弾するだろう。
トカクは、もう二度と会うことがなく公的な発言権も無くなるであろう男達の前で大っぴらに露悪した。
「っざけんな、カスども、ワタクシは忙しいんだ、手間取らせやがって」
ふと、トカクはユウヅツがまだ窓際で風に吹かれていることに思い至った。
「おいユウヅツ。もう降りてこい。終わったぞ」
「…………」
ばたばたとユウヅツの制服がはためいていた。ユウヅツは青白い顔でこちらを見下ろしている。
「おい?」
降りられなくなったのかと、トカクは窓に近寄る。登るのに使ったであろう机と椅子が積まれたままになっているから、そこから……。
トカクが一歩近寄ると、ユウヅツはガクンと全身を跳ねさせ後ずさろうとした。何もない空中で足がからぶる。
「ばっ……危な……」
この距離まで寄って、トカクはユウヅツの呼吸音がおかしいのにやっと気が付いた。小刻みに深く息を吸って、ひゅーひゅーと隙間風のような音が喉から搾り出されている。
ユウヅツは真っ黒い目をぐらぐらと揺らしながら、窓枠から片手を離すと心臓を押さえつけた。
「おいっ、手……」
今にもバランスを崩しそうだ。
ひゅっ、ひゅっ、とユウヅツの呼吸音がさらに苦しそうなものになる。
「ユウヅツ! 降りられなくなったのか!?」
「っ……、…………!」
「ナイフはオモチャだった! もう心配いらない!」
トカクはオモチャのナイフを掲げる。
それに、ユウヅツは汚物を突きつけられたように仰け反って。
そのまま足を滑らせた。
トカクの視界からユウヅツの姿が消える直前、ユウヅツは気を失ったように見えた。眼球がぐるりとまわり、まぶたを閉じたから。
階下から悲鳴が飛び、次いでドンッと重たいものが地面に激突する音が聞こえた。
「……は……?」
静かになった教室で、トカクは立ち尽くした。