一〇二 オマエ達のせいだからな
ユウヅツが校舎裏へ連行されたあの後、何が起こったか。
男子生徒達のリーダー格の男……トリガーの予想通り、やはり『例の女の婚約者』——伯爵子息に強く出られないらしいユウヅツは、従順に付いてきて、その背中を校舎裏の壁に付けた。
トリガーは伯爵子息に対し、ユウヅツへの暴力を強要した。「このままじゃ気が済まないよなぁ?」「間男を野放しにするなんて男じゃねぇ」などと煽って。
何故そんなことをしたか?
後から何か言われた時に「あれは痴情のもつれによる個人的な喧嘩で、俺達は無関係だった」と言い逃れようとした。そいう魂胆だった。
「好きにしろ」と言って、具体的に何をするかは指定しなかったので、トリガーは、伯爵子息がどんなことをするか興味があった。叩くだけかな、唾を吐きかけたりするかな、それとも土下座でも求めるか?
結果はグーでぶん殴るだったので、思いきりがいいね!とトリガーは手を叩いて笑った。楽しかった。
しかしそれも最初だけだ。殴る方である伯爵子息が必死なのはおもしろかったが、殴られる方であるユウヅツの反応が悪くて、トリガーは飽きてしまった。
伯爵子息の力が弱いからじゃないか?などとイチャモンを付けたが、何をしたところでユウヅツは反応が悪かった。死んだんじゃないかと疑うくらい、暴力に対して抵抗しない。
トリガーの知らぬことだが、ユウヅツは実家で殴られ慣れていた。
虐待の時間がなるべく早く終わるような、「つまらない」と思ってもらえるような殴られ方が、身体に染みついていたのだ。生きる知恵である。
伯爵子息の拳も疲労からだんだんと弱まってきて、いよいよトリガーはつまらなくなってしまった。ハズレだな、と思った。
「もういーよ、帰ろうぜ」と言って、トリガーは二人を解放してやろうとした。のに。
「こ、これで、おっ終わりにする、つもりですか」と、伯爵子息がトリガーの背中に声をかけたのだ。
「飽きたって何ですかっ、そ、それで止める気ですか。こ、こいつっ……こんなヤツ……。もっと痛い目に遭うべきなのに……」
「ああ? 何ぃ?」
「あんたらがその程度でっ……」
ごそごそと伯爵子息は制服の内ポケットを探って、ナイフを取り出した。
「!」
「は?」
伯爵子息はレザーケースを放ると刃をユウヅツへ向ける。
「このくらいしてもいいはずだ!」
「ちょ……」
「刃物はヤバい! 冗談じゃ済まなくな……」
「こいつがどうなってもオマエ達のせいだからな!!」
その叫びと、ユウヅツが全力疾走で伯爵子息から逃げ出したのがほぼ同時だった。
ユウヅツは脇目も振らず校舎の方へ走る。
「逃げるなっっ!!」
伯爵子息もその後を追う。
「ちょちょちょ……」
「えー何、やばい?」
「やばい! 切った切られた死んだとかになったら、さすがに無関係ですじゃ通らない。止めないとマズイ!」
「追え! 止めろ!」
「お、俺知―らねっ」
「くそっ!」
トリガー達はバタバタと二人の後を追い始めた。
トリガーは焦っていた。
ただ、二人同時にいたぶれたら面白いかと思っただけなのに。ちょっと下民で遊ぶだけのつもりだったのに。
なのに刃傷沙汰に発展してしまって、トリガーは焦っていた。
止めなければいけない。
トリガーは前を走る伯爵子息、そしてその先を走るユウヅツを追いかけた。
ユウヅツは息が切れてきた。
「た、たす、助けっ……」
ユウヅツは無意識に身を守れる壁を求め、建物へと走った。
西棟へ駆け込み、しかしそれが解決にならないと気づくと玄関ホールを駆け抜ける。
血相を変えて飛び込んできたユウヅツに周囲は目をむいたものの、緊迫感はまだ生まれない。
ユウヅツの後を、ナイフを持った伯爵子息が追いかけていったが、咄嗟のことでナイフを目視できた者はいなかった。
「は、は、はぁっ、は……」
ユウヅツは考えるより先に階段を駆け登っていた。捕食者が自分より高所にいたら怖いという動物的な本能が、無意識にユウヅツの足を上へと運んだのだ。
追われる恐怖は、自然と身を隠すことを選択させる。
「おまえら! 停まれーーーっ」
伯爵子息を追いかけてトリガーも階段を駆け登った。
まだ火消しが間に合う。とにかく内々に処理しないと。大事になる前に!
——二階に到着したユウヅツは、五号教室は内側から鍵がかかると思い出した。他にも鍵のかかる部屋はあるのだが、ユウヅツの脳裏に浮かんだのはそこだけだ。
ユウヅツはパニックになりながらそこを目指す。
刃物を持った『人間』に対する恐怖は、ユウヅツに「人間のいないところに隠れよう」とささやいた。
そうなると、ユウヅツはすれ違う生徒や職員達に助けを求めることができない。思いつかない。
助けを求めて、助けてもらえなかったら死ぬ。それなら逃げた方がいいと無意識が決定する。
迫りくる死の危険がユウヅツの判断を急かした。
ユウヅツの背後からは、トリガーが伯爵子息を止めようとする怒鳴り声が聞こえている。
「ぁ、あ」
ユウヅツは目的の教室にすべり込んだ。
体重をかけてドアを押しこみ、鍵をかける。ガチャ、とノブをまわして、間違いなく鍵がかかったことを確信した。
次いで、外からドンドンドン!と連続でドアを叩く音がし、ガチャガチャガチャ!と引っ切りなしにノブをまわされた。
ひいい、とユウヅツは後ずさる。
ユウヅツは教室を見渡す。人を避けて走っていたユウヅツにとって幸運なことに、誰もいない。それが本当に幸運かはさておき。
乱暴に叩かれるドアの向こうで、伯爵子息が何やら叫んでいた。
ドアから距離を取っていることもあり、ユウヅツには聞き取れない。もしかしたら共通語でなく彼の母国語かもしれない。
というか耳の後ろで心音がうるさくて、聴覚が麻痺している。ばくばく鳴る心臓が本体みたいに感じる。
は、は、入ってきたらどうしよう。外から開けられる鍵が、職員室とかどこかにあるんじゃ。鍵がなくても、ドアを破壊されたら。
ユウヅツは教室の中に隠れられそうな場所を探したが、机の下くらいしかなく、こんなのはすぐに見つかる。
はっ。とユウヅツは急に視界が広がったのを感じた。空が見える。窓がある。
いざとなったら窓から。
そう思って窓際に寄るが、窓の位置が高い。
ユウヅツは机を窓際に運んで椅子を積み、その上に乗り、なんとか外を覗いた。
分かってはいたが飛び降りるのは難しそうな高さだった。二階とはいえ、連盟学院の校舎はそもそも天井が高い。
教室の外の物音は激しさを増している。
ユウヅツは窓の鍵を開けた。ひゅうひゅう聞こえるのが自分の呼吸か風の音が分からなくなる。
教室のドアに、机か何か、とても大きい物体をぶつけて破壊しようとする轟音が轟いた。