朝焼け
「母さん!」
「夕緋? どうしたのそんなに慌てて」
悲鳴染みた声で家に駆け込むと、驚いた様子の母がリビングから出てきた。
息も絶え絶えな息子に、母もただ事じゃないと察したらしい。
こちらに近寄ると、落ち着くように言いながら背中をさすってくれる。
「兄さんが……っ、兄さんが海に……!」
そこまで言えば、母も何かを察したのだろう。
いきなり立ち上がると、車のキーを片手に家を飛び出していく。
その後ろを追いかけ車に乗り込むと、母と共に海沿いへ向かった。
崖下で荒れ狂う波を見て、母は絶望した表情で座り込んでいる。
遠くでは、こちらに向かうパトカーのサイレンが鳴り響いていた。
◆ ◆ ◆ ◇
洞窟で全ての服を交換した俺たちは、そのまま崖上へと戻ってきていた。
夕緋は何やら嬉しそうに、手に持った指輪を撫でている。
「これ、まだ持っててくれたんだね」
「あー、お前が修学旅行の土産にくれたやつだろ。裏側にイニシャルも入れたんだって、家族に自慢しまくってたよな」
「そう! ペアリングなんかごめんだって、兄さんは付けてくれなかったけど。まさか、まだ持っててくれたなんて……」
夕緋はその指輪をお守り代わりだと言って、常に持ち歩いていた。
だから俺も、今日は特別に持ってきておいたのだ。
「でも、指輪まで交換するなんてすごい徹底ぶりだね」
「そりゃあ……」
途中で立ち止まった俺を、夕緋は不思議そうに見ている。
「あ、あれ見てみろよ。さっき俺たちが着替えた場所。ここからでも少しは見えるだろ?」
「ほんとだ! 外から見るとあんな形なんだね」
崖下を覗き込む夕緋の背後に、足音を忍ばせ近づいた。
「どうして俺がわざわざ指輪なんて持ってきたか知ってるか?」
「……兄さん?」
振り向こうとした夕緋の背中を勢いよく押し出す。
「それ、餞別にやるよ。じゃあな、夕緋。……いや、朝緋」
水平線に沈んでいく夕日が、やけに美しく見えた。
比べられることが平気?
そんなわけないだろ。
平気だと偽ってきただけだ。
決壊したダムの水が、止まることを知らないように。
俺の沼のように澱んだ感情も、抑えることはできなかった。
今まで、どれだけ夕緋に取られてきたか。
でももう……そんな日も終わる。
幸運にも、見つかったのは薬指一本だけらしい。
しかもそこには、指輪がはまっていたんだとか。
A.H。
俺のかつてのイニシャルだ。
ありがとう夕緋。
最期の最後まで、俺の負担を取り除いてくれて。
そしてさようなら朝緋。
今日から僕が、夕緋として生きていく。
「あはっ、あははははは!」
黄色いテープが貼られた場所に向かって、僕は最後の挨拶を告げた。
そうして家に帰る途中、──俺は、事故にあった。
◆ ◆ ◆ ◆
「うっ、うわあああああ!」
「思い出してくれた?」
悲鳴を上げて蹲る朝緋を見て、兎のぬいぐるみは可愛く首を傾げている。
「酷いよねぇ、見つかったのが指一本って。悲しくなっちゃうよ」
ぬいぐるみの目から、真っ赤な液体が流れていく。
黒い体がどろりと溶け始め、朝緋の前にぼたぼたと落ちてきた。
「ひっ……!」
「あらら、駄目だよ兄さん。まだ願いを叶えてもらってないんだから」
逃げようとした朝緋の足を何かが掴んだことで、そのまま墓石の前に転倒してしまう。
振り向いた朝緋の目に映ったのは──ぶよぶよと肥大化して腐りかけた、誰かの腕だった。
足を掴んでいる手は、なぜか薬指だけが欠けている。
「僕の願いはね、兄さんが僕と……ずっと一緒にいてくれることなんだよ」
「いっ、いやだあああ! だれか! 誰か助け──」
朝緋の身体が、じわじわと墓の下に埋まっていく。
やがて悲鳴を上げる口が沈み、伸ばされた手が完全に沈み切るまで、ぬいぐるみはじっとその様子を見守っていた。
◇ ◇ ◇ ◇
眩い朝日が墓地を照らす中、黄昏はとある墓石の前でぬいぐるみを拾っていた。
黒い兎のぬいぐるみからは、微かに潮の香りが漂っている。
「自ら墓穴を掘るとは、風変わりな依頼者もいたものです」
そう呟いた黄昏は、ぬいぐるみを鞄に入れ、ちらりと墓の方を振り向いた。
「まあ、骨になってから埋まるのも、埋まってから骨になるのも、そう大した違いではありませんけどね」
逆光により、黄昏の表情は影になっている。
けれど、うっすらと見えたその口元は、緩く弧を描いていた。
「末永く、お死合わせに」
その言葉を最後に、黄昏の姿は朝日の向こうへと消え去っていった。