事件1
すっかり権力を失ったヘンリーは初めのころは激しく抵抗し、私や宮廷の役人に不満をぶつけていましたが、このところはあきらめたのか、大人しく配偶者としての役割だけを果たすようになっていました。私が拒絶しているのでベッドは別々のままなのですが。私やリッチョとともに食事をしたり、音楽を奏でたり、リッチョとクリケットの試合をしたり。結婚前のヘンリーに戻ったように、穏やかに社交をこなすようになっていました。
そんな態度に油断していたのでしょう、事件はヘンリーやリッチョとともに食卓を囲み、歓談しているときに起こりました。
突然カーテンが上がり、そちらを見やると、甲冑に身を固め、抜身の剣を手にした男が立っていました。
「ルースヴェン?!何事ですか!?誰の許しを得てここにやってきたのですか!?」
異様な雰囲気を漂わせる男に向かって私は問いただしました。ルースヴェンはスコットランド貴族の一人で、魔法の研究に本気で熱を上げている、おかしな男でした。
「女王陛下に対しては、何も意図することはございません。……私がこうしてやってきたのはそこにいるダヴィード・リッチョに用事があるからです」
ルースヴェンは青ざめた顔で答え、リッチョに向かっていきました。
リッチョは身の危険を察知したのでしょう、青ざめ、テーブルにしがみつき、身を守ろうとしていました。
「お待ちなさい、リッチョが何をしたというのです?リッチョの何が悪いというのですか?」
異様な雰囲気をどうにかまともにしようと、私はできるだけ落ち着いた風を装って、穏やかにルースヴェンに問いかけました。
「それはそこにいるあなたの夫にお聞きなさい」
蔑むような顔をしてルースヴェンは言いました。
その言葉に思わずヘンリーのほうに向きなおってみると、ヘンリーはバツが悪そうな顔をして目を背けて言いました。
「……私は何も知らない」
そんなやり取りの後、カーテンの向こうから次々に甲冑をつけた男たちがやってきました。彼らはリッチョを取り囲み、逃げられないように追い詰めてしまっていました。
「待ちなさい!リッチョに悪い点があるなら、貴族の議会に召還して問いただせばいい!!この場は私の顔を立てて、ここを立ち去りなさい!!」
私は何とかこの場を収めようとしました。ですが、もうリッチョはルースヴェンに捕まえられそうになっていました。他の者もリッチョを縛る縄を持ち出してリッチョを捕えようとしていました。
「マダム!!殺される!!助けてください!!!」
リッチョの叫びが響き渡りました。リッチョは何とか助かろうと、テーブルにつかまり、引きはがされると私の服に取りすがろうとしました。
その時です、甲冑をつけた男の一人がリッチョではなく、ピストルを私に向けて構えました。混乱の中、うまくねらえなかったのか、構えたものの引き金を引きことはありませんでした。次の瞬間、ヘンリーが私を床に組みふせ、押さえつけると、リッチョは男たちに部屋から引きずり出されていきました。
「あああああああ!!!!!」
リッチョはただの音楽家で戦士でも騎士でもありません。死に物狂いで抵抗するものの、かなわず、悲痛な叫び声だけが響き渡っていました。そうして大広間に引きずられていったリッチョは男たちに短剣でめった刺しにされてしまいました。ずたずたに切り裂かれながら、まだ死に切れていないのか、ぴくぴく動くリッチョをさらに男たちは刺し続けました。床はリッチョの血でびっしょり濡れていました。リッチョは人であったことがわからないくらい、変わり果てた姿になっていました。
私はあまりのことに怒りと悲しみで頭が真っ白になってしまいました。ヘンリー……目の前の、この私を抑え込んでいる男がこの事態の共犯であることは疑いようがありません。
「この……!!恥知らずの裏切り者……!!お前たちなど呪われてしまうがいい!!地獄に落ちてしまえ!!!」
私はヘンリーの拘束を振りほどこうと、力の限り暴れて、怒りのあまり呪いの言葉を吐きました。ヘンリーは慄いた様子でしたが、何とか弁解しようと思ったのか、言いました。
「……こうするのが一番いいんだ。あいつは皆にとって邪魔だったんだから。大体……お前、リッチョと浮気していたそうだな?」
ヘンリーは何とか自分を正当化しようと、こんな言いがかりをつけてきました。
「はあ!?ふざけるんじゃない!!何の言いがかり!?殺人の言い訳がそれなの!?」
私はあきれ果ててヘンリーを怒鳴りつけました。
「お前とリッチョだよ。このところずっと私を受け入れないと思っていたが、リッチョと浮気していたそうじゃないか?」
ヘンリーは真顔で言いがかりを続けました。
「そんなわけないでしょう!?リッチョは物知りだし頼りになる男だったけれども、醜いし、男としては全く魅力を感じたことはないですよ!?そんな勘違いで人殺しをするなんて!!!もうお前なんて私の夫じゃない!!!苦しんで死ねばいい!!!!」
私は憎しみの限りを込めて言葉にしました。ですがヘンリーには響かなかったようです。
「うるさい!!みんなわかってるんだ!!お腹の子だって本当はリッチョの子供だろう!?私のことを馬鹿にしきって!!お前なんかこうしてやる!!!」
ヘンリーが怒鳴った瞬間、私の顔に火が付いたような痛みが走りました。続けて何度も繰り返し顔を殴られ、目の前が真っ白になって、私は意識を失いました。