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前編

企画「ELEMENT 2019春号」参加作品のマイページ版です。お題「蓋」

ページ下部に企画作品集「ELEMENT 2019春号」のリンクを置いてあります。

 自転車のチェーンケースがカチャカチャ鳴る。家には母親が乗らなくなったママチャリしかないんだから仕方がない。自分の自転車は原付バイクを買った時に手放した。高校の時だから、かれこれ十年も前になる。それ以来自転車に乗る機会なんてなかったけれど、案外普通に乗れるものなんだなと妙に感動する。

 大通りから逸れて、歩道もない裏道に入るとすぐに、板金工場や寂れたスナックの先に三階建てのビルが見えてきた。二階の窓の横には『磯貝プリント株式会社』の看板がある。看板の真下に自転車を止めていると、三階の窓が開く音がした。


「石井くん、手を怪我しているのに自転車に乗ったら危ないでしょお」


 パートの大塚さんだ。


「大丈夫ですって。一応、原付はやめて自転車にしてるし」


「ハンドル握るのは同じじゃない。営業車を運転しなくても自転車に乗ってたらだめよー」


「だからぁ、車の運転もできるんですってー」


 捻挫の治りかけた左手首をプルプルと振って見せると、大塚さんは自分の手が痛むみたいに顔をしかめた。僕は笑って、重いガラスドアを押した。

 入ってすぐの階段を上ると、二階は仕切りのない事務所フロアが広がっている。一階は作業場、三階は社長や専務のオフィスだ。

 磯貝プリント株式会社は、七十代の磯貝社長を筆頭に、家族経営から始まった小さな印刷会社だ。従業員は八十人程度。うち正社員は二十人ちょっとで、あとはパートとバイトの人たちで成り立っている。


 最後の踊り場を越えたあたりで、上から「よお」と声をかけられた。顔を上げると、磯貝社長がマグカップ片手に立っていた。給湯室から社長室へ戻るところなのだろう。


「あ。おはようございます」


「おはようさん。石井ちゃん、また自転車で来たんだって?」


「あー。大塚さんかあ。伝わるの、早いですね」


「事故ったらあぶねぇぞ。せっかく手が治るまで内勤にしてるのによ」


 僕の仕事は営業だ。といっても、呼び出しのかかった得意先を回るだけのルートセールスだから気楽なものだ。そして、手首の捻挫はちょっとひねっただけのもので、しかももうほとんど治りかけている。湿布を貼ってはいるが、少し違和感があるだけで痛みはない。だけど社長は完全に治るまで車に乗るなと言った。


「全然問題ないですよ。今日からだって営業に出ますよ?」


「完全に治るまでおとなしくしてろ。おまえの担当の外回りは健一がやってるんだから心配するな」


 健一というのは社長の息子で専務の磯貝健一だ。小さな会社とはいえ、下っ端社員の仕事を専務に代行してもらうのは落ち着かない。

 どうにか営業の仕事をさせてもらえないかと言葉を選んでいると、社長は事務所に向かって野太い声で叫んだ。


「おおい、つかっちゃん! 今日もこいつを見張っといてくれや」


「はーい。任せといてー」


 奥のキャビネットの影から、声とともに作業服の腕が上がった。

 かくして、今日も僕は大塚さんの見張りつきで雑用をこなすことになる。




「あれ? 蓋がある」


 午後イチで給湯室に入るなり、大塚さんが動きを止めた。ミーティングルームで打ち合わせ中の取引先の人たちへのお茶を用意しに来たのだった。

 僕が見たところ、給湯室の様子に昨日までとの違いはない。ステンレス製のシンクと水切りかご。左手にある食器棚の上段には来客用の湯飲み、コーヒーカップ、ティーカップが並び、下段には従業員各自のマグカップが並んでいる。その下、腰の高さの部分は棚になっていて、そこに茶葉やコーヒー豆などが入っている。茶筒やインスタントコーヒーの瓶やお菓子の缶などに蓋はついているが、あって当たり前である。


「なんの蓋ですか?」


「全部よ」


「全部って?」


「全部は全部よ。これや、これや、これや、これもっ!」


 大塚さんは茶筒や瓶や缶の蓋をパーカッションのように軽快に叩いた。


「いやいや、蓋はあるでしょ、普通。なかったらなんのための蓋ですか」


「でも今朝はなかったんだもの。だからとりあえずと思って、ラップをかけておいたのよ」


 容れ物という容れ物にかけておいたというラップはすべて外されて、足元のゴミ箱に捨ててあった。何枚ものラップがくしゃくしゃにして捨てられているものだから、もこもこと膨らんでビールの泡みたいになっている。

 大塚さんは、それでなにかがわかるわけでもないだろうに、片っ端から蓋を開けては閉めていく。


「大塚さん、蓋がなくなったならともかく、戻ってきたならいいじゃないですか。とりあえずはお茶を持っていかないと」


「そうだった、そうだった」


 僕がトレーと湯飲みを用意しながら促すと、大塚さんも慌ててお茶の用意を始めた。




 ミーティングルームにお茶を出した後、給湯室に戻って出しっぱなしだった茶筒や急須を片付けていると、ガサガサとレジ袋らしきものの鳴る音が近づいてきた。


「ただいまー」


 専務の磯貝健一だった。


「お疲れさまです」


 僕は深くお辞儀をした。僕の担当区域まで回ってもらっていると思うと、自然と頭を下げていた。


「おかえりー、健一くん」


 一方、大塚さんは専務に向かって「くん」付けである。社長も専務も『磯貝』なので紛らわしいというのがその理由だ。役職で呼び分けるという選択肢はないらしい。

 専務も慣れたもので気にする様子もない。


「大塚さん、頼まれたの買ってきたよ」


「ああ、ありがとね」


 大塚さんは専務からレジ袋を受け取ると、中からラップを二本取り出して戸棚にしまった。


「え。大塚さん、専務にこんな買い物を頼んだんですか?」


「そうよお。だって外に出るついでじゃない。ねえ?」


 最後の「ねえ?」は専務に向けて放たれた。専務は、いいんだいいんだ、というように片手を振りつつ給湯室から出て行った。


「ちょっと人使い荒くないですか? 仮にも専務ですよ」


「石井くん、専務のことを『仮にも』とかいっちゃうんだ?」


「あ、いや、それは、言葉のあやっていうか……って、そういうことじゃなくてですね」


「だってねえ、ラップの消費が早いんだもの。蓋がなくなるたびに使うでしょう」


「は? なくなるたび? 蓋がなくなったのって、今日が初めてじゃないんですか?」


「そうねぇ、もう三日間くらい続いているかしら」


「そんなに?」


「そんなに、よ。しかもご丁寧に蓋という蓋が全部ね」


「僕、今日初めて知りましたよ!」


「タイミングが合わなかったのねぇ」


 大塚さんは、まるで僕が不運であるかのように言う。


 たまには蓋の一つや二つがなくなることもあるかもしれない。蓋を開けたところで誰かに呼ばれたりしたら、どこかその辺に置き忘れてもおかしくないし、その蓋を見つけた誰かがもとに戻すこともあるだろう。

 だけど、一斉に蓋という蓋がなくなって、また一斉に戻されるというのはそう何度もあるとは思えない。何度もどころか、ただの一度あっただけでも不可解だ。


「それ、誰かが蓋を外しているってことですよね?」


「もちろんそうでしょうね」


 大塚さんは、だからなに、と続けた。


「なにって、その人を突き止めてやめさせないと!」


「その日のうちに元に戻っているんだし、いいんじゃないの? まあ、茶葉とかが湿気ないようにラップかけなきゃならないのが面倒だけど」


「いやいや、だめでしょ。上の人間に言わないと。とりあえず、今村課長かな」


 僕の本来所属する営業課ではなく、大塚さんの上司にあたる庶務課長の名前を上げると、大塚さんは心底嫌そうに鼻にしわを寄せた。


「あの人に言うのだけはやめてよ。ラップの消費量を知ったらなんて言われるか!」


「ああ。それもそうか……」


 僕らはそろってゴミ箱に目をやった。蓋が戻ってきたことで剥がされたラップが山盛りになっている。今村課長に見つかったらお説教が始まること間違いない。


 入社したてのころは、すこしばかり今村課長に憧れていたりもした。なかなかお得意様の情報が頭に入らなくて苦戦していたときも、今村課長の姿を見ると元気が出たものだ。既婚者だろうが、小学生の母親だろうが、ただ憧れる分には支障ない。テレビの中の女優を見ているようなものだ。

 だけど、それも束の間のことだった。

 今村課長は、なんというか、その、エコに熱心な人だったのだ。

 もちろん、いいことだと思う。僕だって地球を破壊する手助けよりは大切にしていきたい。だけど、いきなり徹底的にやれと言われてもなかなか難しい。それに、だいたいにおいて手間がかかることだったりする。


 以前、今村課長は、昼食にコンビニ弁当を買ってきた従業員に対し、割り箸をもらうなと言ったことがあった。


「お箸くらい持ってこられるでしょう」


「まあそうですけど、割り箸って間伐材ですよね。そういうのを利用するのって、むしろエコなんじゃないんですか?」


「製造過程でたくさんのものが消費されているのよ。個別包装されているその袋だって石油だし」


「ちゃんと分別して……」


「廃棄する際には、小さいからってきちんと分別していないでしょ」


「……」


「そもそも、その割り箸が間伐材で作られているとは限らないのよ。本来は間伐材を使っていたけど、需要が上回ったせいで、割り箸用に伐採することもあるの」


 なんて言われ続け、ついには誰も事務所で昼食を取らなくなった。


 飲み物を買ってくることに関してもその調子だった。ペットボトルだの缶だのはリサイクルすればいいと思っているんでしょうけど、そのリサイクルにもエネルギーが……云々。そして渋々こうしてマイマグカップが給湯室に並ぶようになったわけだ。


 今村課長の言うことはもっともだ、でも、そこまでやりたくはない。きっと誰もがそう思っているのだろう、今村課長の目があるときだけ消耗品の使用を控えるようになった。

 それでもかなり資源の無駄遣いを抑えた職場になっていると思う。結果的に今村課長のエコ活動は成功しているといえる。

 ただ、そんな今村課長にこのラップの大量消費が見つかったら、どれほどの小言が待っていることか。


 証拠隠滅とばかりにゴミをまとめようとしていると、当の今村課長がバインダーを抱えて廊下を通り過ぎていった。


「うっわー。あぶねー」


「戻ってくる前に片付けちゃいましょ」


 大塚さんとゴミ箱を挟んで向かい合った瞬間、背後から声がかかった。


「なにが戻ってくるんですか?」


 通り過ぎたはずの今村課長が給湯室の入口に立っていた。大塚さんがゴミ箱に覆いかぶさり、ごほごほと咳込んでいる。そして、今村課長から見えない角度で僕のことをバシバシ叩く。取り繕えということらしい。


「えっと、いや、あっ、大塚さんが……そ、そう! ランチの食べ過ぎで『戻しそう』になって……いてっ!」


 バシッと大塚さんに尻を叩かれた。


「まあ。大塚さん、大丈夫? トイレに行く?」


 今村課長はツカツカと給湯室に入ってきて、大塚さんの背中に手を置いた。


「あ! いや、僕が連れていくので大丈夫です!」


「石井くんは男性だから女子トイレの中まで入れないでしょ」


「じゃあ男子トイレに連れていきます!」


「なに言ってるのよ。大塚さんは女性なんだから、男子トイレに連れてったらだめでしょ。さ、大塚さん……」


 誤魔化しようがなくなり、大塚さんがゆっくり振り向く。僕の方からはゴミ箱の丸められたラップが丸見えだ。今村課長のはっと息を吸う音が聞こえた。


「ちょっと、あなたたちっ……」


 やべっ。

 大塚さんと顔を見合わせる。


「レジ袋は断りなさいって言ってるでしょ!」


「へ?」「は?」


 今村課長は、磯貝専務がラップを買ってきた際のレジ袋を握り締めていた。


「あ……すみません……」


 反射的に謝ってしまう。


「……まあいいわ。次から気を付けてよね」


 寛大にも、今村課長はそのまま給湯室を出て行った。

 大塚さんと顔を見合わせる。


「大塚さんをトイレに連れていくんじゃなかったでしたっけ?」


「そうよねぇ。てっきり連れていかれるかと思ったけど」


「レジ袋に気を取られて忘れちゃったってことですか?」


「そうなんだろうねぇ」


 おそらく罪状としてはラップの大量消費の方が重いだろうから、うまいこと逃げおおせたと言える。僕たちは、はあ、と声に出して大きく息を吐いた。





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『ELEMENT 2019春号』
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