第三話 決別と潜航
スプリガン。イングランドはコーンウォール地方に伝わる妖精。
彼らは醜く小柄でずんぐりむっくりとしたドワーフと伝承されていたが、それは違った。
彼らが人間界にはっきりと姿を現したのは50年前の人とヴィランの平和条約、北極条約の締結後だった。
彼らの木のような見た目と地面に根を張り、周囲から植物を芽生えさせるその特性から、木人と呼ばれるようになった。
また、彼らは頭部に花を咲かせており、花の色は3種類、それぞれの花粉にそれぞれの効果がある。赤は──
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「やっぱり紫なんてどこにも載ってない…」
今や大きな鬼の姿になったカイが手元の小さいスマホに目をやっている。
「バカ!そんなことググる暇あったら戦闘準備だ!お茶でも飲んどけ!」
そう言われたカイはバカ真面目にお茶を飲んだ。水筒に描かれたかわいいくまさんの絵が滑稽さを加速させる。
「あ~もう。クッソ不味いお茶だなマジで。3日も飲めば慣れると思ったけど、やっぱこれ人の飲むものじゃないわ。」
「うっせ!俺様特製ブレンド茶だ!ありがたく飲め!てか拝め!」
場違いな発言が飛び交う中、アロマはゆっくりと話始めた。
「私の能力に気づいたのは、清木さん。あなたが初めてだわ。…カイ君。特別に私のこと教えてあげる。」
スプー。いや、アロマが濡れた花を手で拭いつつ言った。
「紫の花はね。黄色の花と同じ、記憶のフラッシュバックの能力を持っているわ。でも、それだけじゃない。」
アロマが一呼吸おいたその時、左手が鞭のようにしなり、清木を殴打する。そして突如として生えてきた植物があっという間に伸びて、清木を簀巻きにしてしまった。
「吸った者の精神を記憶やトラウマで自壊させて中身を殺す。そして花粉が体を乗っ取るの。」
カイが助けようとするも、それを予測していたかのように、漂う花粉が行く手を阻む。後ろに飛び退いて様子を見るが、規則的にも不規則にもみえるその花粉の奔流に飛び込める度胸はなかった。
「でも、たまにあなたみたいに一回は堪える子がいるのよね。過去のフラッシュバックに打ち勝つ子。そういう子は大体人生観が変わった。とかなんとか言うけど、もう一回花粉を吸っちゃえば死んじゃうから同じなのよね。
…あなたもそうでしょ?カイ?あと…清木さんも。」
左手の鞭が愛おしそうに清木の顔を撫でる。
「…一回吸ってたのバレてたか。極力顔には出さなかったつもりだが。」
カイはその症状に覚えがあった。あの日、確かに花粉を吸ってからの自分は妙にポジティブシンキングだった。
ヒーロー紛いの行動に抵抗がなくなり、清木の実験に積極的になり、なにより、鬼になることを恐れない自分がいた。この心境の変化を自発的ではなく他発的だというのだ。
花粉のせいでそうなっていたのだと考えると、怒りがこみ上げてくる。知らず知らずかかっていた頭の中の霧が晴れた気がした。
…晴れた先に見えたものこそが、真の問題なのだが。
「…なんか聞きたくない種明かしされちゃったな…今の俺の人格は、俺であって俺じゃない。そういうことだろ?…なんだかなぁ…
先生、花粉を克復する手段ってあるか?」
「そんな手段はない!だから無理すんな!おお"う"いでででて"…
カイ!俺は大丈夫だから!今は黙って紫ババアの話聞いとけ!あ"ぁ"!」
屈辱的なあだ名だ。紫ババアことアロマが顔を歪ませながら枝の締め付けを強くする。
「い"ででででて"て"で"!!カイ!こいつこの見た目で120だぞ!やべえよな!あ、何回も言うけど花粉にはマジで気を付"け"む"ご"!」
苦しみながらでも冗談を言う清木。やがておしゃべりな口までもが枝に覆われた。
「年までリサーチ済みとはね…好きだわ。あなたみたいなクレバーな男。好きよ。好きだけど…私は心も体も、責められるより責めるのが好きなのよ!」
性的嗜好のカミングアウトと同時に、彼女の足元から枝や根が大量に発生した。その植物がまるで触手のように、カイに互い違いで襲いかかる。
「清木さん。あなたはカイが死ぬのを見届けてもらうから生かしてあげる。自由に呼吸していいいわよ。…だから、清木さんを助けたいなら必死で耐えてごらんなさい。カイ。」
正直、カイの馬力なら別に脅威的な相手ではない。しかし問題なのは花粉だ。幸い、天井から煌々と射し込む日光が金色の花粉を煌めかせるため、どこに花粉が舞っているか予測はできるが、問題はそこじゃない。
どうやらアロマはある程度花粉の動きを操れるらしく、触手の動きに追随するもの、漂うことによってカイの動きを阻害するものと、一筋縄ではいかない状況になっている。いわば、手詰まり。
「さぁ、私の能力も分かったんだから早く諦めなさい?こうやって色々生やすのも疲れるのよ。」
アロマは呆れ顔で言うが、当然カイが諦める訳がない。
「嫌だね。あんたみたいな奴がこの世の中に出しゃばったら、真面目に生きてる怪人も悪人扱いされるんだよ。…あと、俺自身の恨みも晴らしたいしな!」
そう言うとカイは一瞬の隙をついて花粉の奔流を避け、アロマのすぐそばまで近寄った。襲いかかる枝には目もくれず、彼女の土手っ腹に蹴りを一発お見舞いする。ズドンッ。と周囲に響き渡る激しい衝撃。
普段、滅多に攻撃しないカイに手加減は難しかったのだろうか、重いものが高いところから落とされたかのような地響きと音。攻撃が通ったことを喜ぶべき立場のカイの顔が青ざめる。
「…こ、ここまで強くするつもりはなかったんだ!大丈夫か?死んでないよな!?」
しかしカイの心配とは裏腹に、アロマは身じろぎ一つとらず、カイを見つめていた。彼の下ろした右足を両手で優しく掴み、微笑んだ。
「今の一撃、中々のものだったわ。もっと本気でやらないと、今の私は倒せない。…でも、敵の私のことを心配するなんて…優しいのね。あなた。」
言い終えたアロマの花弁が大きく開かれる。漏れ出た花粉がカイの顔へゆっくりと近づいてくる。
「うわやべっ!」
カイはその場から離れようとするが、掴まれた足とその他諸々の蔦、触手がそれを阻止する。
「ほらほら、このままじゃアナタ、死んじゃうわよ?私に身も心も奪われる、操り人形になっちゃうのよ?」
最早吸える距離まで寄ってきた花粉に顔を背けつつ、体を一気によじらせて触手の拘束を解く。しかし、まるでそこに根付いてしまったかのようにギッチリと固定された両足は未だ解放されない。
その一方カイ自身もそれ以上の抵抗もせず、当人は深刻な表情でただ静止している。これではまるで死ぬのを待っているようなものだ。
「ぶはぁっ!おい!なにやってんだよバカっ!戦え!」
反撃をしないカイを見かねたのか、清木が強制的に閉ざされた口を再び開く。
「触手の拘束を自力で…?あなたなんなのよ…!」
いつの間にか左手は自由になっていて、再び口を閉ざそうと迫り来る木々を相当な力で制止している。
「なあ、アロマさん。これは俺の憶測だけど…ギラスさんが襲われたのは本当なんだよな?俺はあんたと戦う意味があるとは思えない。…もしかしてあんた誰かに脅され」
「やめて。」
アロマが声色を一層険しくしてカイを制した。しばらく己の中で葛藤するような苦渋の表情を見せたかと思うと、すぐに邪悪な微笑みを浮かべなおして言った。
「そんな野暮なこと相手に聞くものじゃないわ。カイ。理由なんてないのよ。殺人木に。ギラス君はあなたたちをおびき寄せる餌。私だって理由なく人を殺したくなるものよ。だって私は…指名手配ヴィランだもの…!」
まるで自分に言い聞かせるように呟く。心なしかカイを押さえつける力が緩んだかのように思えた。
彼女には何か裏の事情がある。それはわかってはいるが、今は彼女を倒さなければ命は無い。カイはようやく、うやむやにしてきた思いに目を向けた。
「そろそろ俺も、あんたみたいに決心しないとな…仕方ないよな。…あぁ、仕方ない。他のヴィランだってそうなんだ。」
一人言のようにぽつぽつと言葉がこぼれる。アロマはじっとカイの言葉を聞いた。
「自分のおかれたひどい立場に耐え忍んで生きてる。この世の中は無情だよ。だから、これからは!」
苦悶の表情のあと、ギロリとアロマを見据える。カイの心に迷いは、もうない。
「バカ弁護士の用心棒として。…容赦なくやらせてもらうぞ。」
空いた左手で、地面を叩いたあの時のようなあの荒々しさをもってスプーを殴った。そして再び強い衝撃。先程の蹴りよりも強く、何より相手を傷つけるという覚悟の意志がある。
アロマの苦悶の呻き声とともに周囲の触手は荒ぶり、彼女を守るかのように全身を球状に包み込む。それに対してカイはすかさず左足で木球を突き飛ばす。球体が宙を舞い、空中分解した。
すると先程まで活気に満ちていた触手や植物がやおら枯れていく。その様子を見て思い出したかのように清木が叫ぶ。
「根だ!言い忘れてたが、スプリガンは足の裏から土に根を張って、触手を生やしたり攻撃の衝撃を地中に分散するんだ!」
なるほど、アロマを殴った時に地響きが起こったのはそういうことだったのか。カイは納得すると同時に清木の今更な助言に突っ込む。
「そういう弱点は早く言え!バカ弁護士!」
二人がコントのようなやり取りをする中、幻想的に舞う花粉の中でアロマは笑っていた。羨ましそうなその笑みに悲しみをたたえて。
「よくもやってくれたわね。さぁ、次は本気で行くわよ!」
再び地についた根から、今や枯れてしまった能力の残滓を押し退けて生えていく触手。
二人が今出来るのは、『怪人として戦う』こと。今はそれしか選択肢はなかった。
襲い来る触手を1つ、2つと薙ぐように振り払う。その単純な動きに加え、花粉にも気を使いつつ、反撃のチャンスをうかがう。
「どうしたの?カイ。逃げてるだけじゃ私は倒せないわ。もっと怪人らしく暴れなさいよ。」
徐々に勢いを増していく攻撃。その華奢な体からは考えられないほどの触手が地中や当人から次々と生えてくる。
花粉も徐々に数を増し、今では迫り来る壁のようにカイを追い込んでいる。
『…ちょっとマズいな。このままじゃ体力的に持たない。花粉にやられるのも時間の問題だ。』
足に絡まる蔦は一歩一歩歩くごとに体力を奪い、幾多もの触手の幹や枝木がカイの強固な鱗で覆われた皮膚を着実に傷つけていく。花粉はカイの行動を牽制し、アロマ自身は唸りをあげてしなる鞭で彼の体を、口撃で心を痛めつける。
「はぁ。こんな守ることしか能のないバカ鬼に正義は務まるわけないでしょ。清木さんもバカな用心棒雇ったわねぇ。」
このままではジリ貧のまま自我を殺されてしまう。カイは必死で策を講じる。
『そうだ!俺の丁度後ろ辺りに業務用の大型扇風機があったはず。…それをつければ花粉を飛ばせるんじゃないか!?』
沸き上がる一抹の希望。カイはすぐさま行動に移した。幸い、アロマは扇風機の存在に気づいていないようだ。
文字通り足を引っ張る蔦を何度も引きちぎり、ようやく扇風機の前にたどり着いた。いかにも電源がつきそうな赤いボタンを押す。
「動いてくれよ…!」
すると、祈りが届いたのか、オンボロが嫌な音をたてて風を送り始めた。さすがは業務用だ。花粉があっという間に奥に押しやられていく。
「よし、これで…!」
カイ、渾身の足掻き。しかしアロマはたじろぎもせずカイを嗤う。
「ふふ。無駄よ?そんなズル、私が認めると思ったのかしら?」
そう言ってアロマは腕を強く振り上げるとゴゴゴゴと音をたてて今まで以上に大きい枝が扇風機の下から生える。これはもう枝ではなく木だ。
あっという間に扇風機から周りの機材までをも取り込んで、ただでさえ開放的な天井を突き破ってそびえ立った。電源の抜けた扇風機が自然の風に羽を軋ませている。
「おいおい…マジか…」
花粉の勢いはますます勢いを増した。最早壁のようにそびえる花粉のカーテンが再びをカイを窮地に立たせる。
「はぁ…そろそろ終わらせようかしら。今ので大分体力持ってかれたわ…」
アロマの周囲から先程の木がぞろぞろと現れる。計らずとも角へ角へと追い込まれていたカイの逃げ場を着実に無くしていく。
「クソっ…ここまでか…?」
マルチタスクでオーバーヒート寸前の脳内が弱音を声に出させる。鞭を打たれつつも鞭打って動かした体も悲鳴をあげている。少しでも気を抜けばノックは解除されてしまうだろう。己にそれを言い聞かせるように胸を叩いた。
ドクンッ…
体を血が巡り巡って行く感覚。
しかし、カイの予想とは裏腹に、体全体に広がる違和感。
「あらあら。体縮ませちゃって…疲れてるなんて言わせないわよ。今更スタミナ切れだなんて、私が許すと思ってるの?」
アロマに指摘されたとおり、カイの筋骨隆々だった体は確かに徐々に人の身に戻りつつあった。鬼の皮膚をそのままに縮んでいく姿は滑稽にも見えるが、本人からすればいつも通りのノックだ。己の意に反して弱まっていく力にカイは困惑を隠せない。
「お前どうしちまったんだ!?鬼がお前の平常運転じゃなかったのか!」
清木も危機感を感じたのか、金の障壁の切れ間に見える茫然自失気味なカイに問いかけた。
「わ、わかんねぇよ!俺だって……え!?」
言葉の途中で何かに気づいたのか、喋ることをやめた。清木の視界が丁度濃い花粉の壁と触手で遮られた。何が起こっているか理解できないまま、清木の心臓を静寂がキリキリと痛めつける。
「…先生!あんたの言ってたこと…あながち間違いじゃなかったわ。」
カイの嬉々とした声色が響いた。花粉により薄れゆく意識の中放った感謝の台詞とも思えない。それとも!この絶望的な状況を打破する手段でも見つけたというのだろうか?
「アロマ。ヒーローってさ、フォームチェンジ、よくするじゃん。」
「ふふ。そのヒョロヒョロな見た目の言い訳のつもり?」
アロマは小馬鹿にしてみせるがカイは黙って話続ける。
「それを適宜切り替えて危機を乗り越えていくわけだろ?
それがもし、俺にも出来るとしたら?」
「…わかった。あなたそうやって時間稼ごうとしてるのね?でもまぁ、質問には答えてあげるわ。
どちらにせよ私には勝てない。私にはあなたと形態変化があるの…ごめんね?」
突然、周りの触手がアロマの方めがけて伸び始めた。清木を縛りつけていたものもそちらへ向かっていく。
「あー!もうちょっとで両手両足うっ血してたわ!って言ってる暇もねぇな…!」
しかし、それをカバーするかのように迫る花粉の魔の手が彼を襲う。やっとの思いで花粉から逃れたかと思えば、あっという間に清木もカイと対角線上の角へ追いやられていた。
「あー…カイ!俺もう無理!…聞こえてる!?」
無理もない。蠢く触手の轟音で1弁護士の声はかき消される。逃げ場がないとわかってか、わざとらしくジリジリと押し寄せる花粉。
「悪趣味だなオイ。」
清木はすべてを悟ったかのように、目を閉じた。
「…俺が寝る前には起こせよ。クソガキ。」
あと一歩。あと一歩が届かない。カイは苦悩していた。
周りの触手を下半身に巻き付かせ、事実上の形態変化をしたアロマ。やはり先程よりも攻撃の勢いは増している。
「形態変化って、自分に触手巻き付けただけじゃないか!」
「そう言うわりにはさっきより辛そうだけど…大丈夫?」
現状、避けることしか選択肢が無いカイに時間は残されていなかった。
フォームチェンジと息巻きつつ、会話することで時間を稼いだものの、違和感の正体が未だに掴めない。何故体は縮んだ?
そうこう考えているうちに、異形と化したアロマの触手が襲いかかる。
「まだ疲れてるの?オーガってもっと体力あって強いものだと思ってたのに。がっかりだわ。
」
いつもの調子で無造作にアロマの攻撃を振り払おうとしたが、いつもの2分の1にも縮んだ右手が空を切った。触手が切断される。
「…え!?」
いや、確かに空は切った。確かに彼は己の腕のリーチを見誤った。が、その先にある触手が切り裂かれた。想定外の怪現象。その原因は右手にあった。
「右腕が…変態した…!」
さっきまで人間のそれだった右手の甲は中指の長さを15センチほど越え、再び拳へと反る切っ先はショーテルの如き曲がりと鋭利さを見せていた。腕自体もいつもより硬質化しており、いつもの鬼の状態のよりは劣るが、人並み以上の力も奮える。
見ないうちに変貌した腕。彼はその事実を信じられないままアロマの二撃目を痩せこけた左足で弾き返そうとした。が、これは空しく宙を舞った。植物から放たれたとは思えないとてつもない衝撃。おもちゃのように吹っ飛ばされる。しかし彼の頭に真っ先に浮かんだのは痛みではなく疑問であった。
何故、どうして。触手への対応で疲れきった脳味噌をフル稼働させるが、全く心当たりが無い。ぶつかった壁にもたれかかり必死で考える。
「あら、いよいよ動けなくなった?もう終わり?」
今やアロマの発言も蚊帳の外。幾つもの仮説が思考の海に溶けていく。
いち早く抵抗するべきなのか、それとも深く考えるべきなのか。
目の前に広がる異形の木人と金色のカーテン。変態するときに拳で抉った地面。大きくそびえ立つ大樹、風に回る扇風機。今の状況を構成する要素全てに目を向けるが、答えは出ない。
「花粉をどうにかしないと考える暇もな…あれ?」
正常な思考をかき乱すかのように浮かび上がる悪魔的ひらめき。カイが導きだした最後の手段は狂気に満ちていた。それは、『花粉を吸う』こと。
何故、その発想に至ったのか。それは、初めて花粉を吸ったあの時、何故カイは助かったのか。という根拠の無い仮説にあった。
『ネガティブな思い出の中に浮かび上がった1つの光明。ポジティブシンキングにさせるような思い出。それはつまりトラウマや精神的苦痛から逃げたり、解決するための結論。花粉が精神を崩壊させるという1つのプロセスが出来なくなったことから、人格崩壊からの乗っ取りを回避した。』
もしこの仮説の『トラウマ』に現在の状況が含まれていたとすれば?
つまり、カイは花粉を利用して現在の状況の突破口を、答えを得ようとしているのだ。この状況がトラウマでない場合や、そもそもの仮説が間違っていたら元も子もないが。
この仮説を皮切りに、カイの中の天使と悪魔が取っ組み合いを始めた。
『死ぬかもしれない』『バカな発想にも程がある』『二回目の奇跡は起こる』『お腹空いた』『考えずに実践しろ』『じっくり考えて行動にうつせ』『実行すべし』『考究すべし』『実行』『考究』『実行』『考究』…
幾度と続く堂々巡り。しかし、そんな天使と悪魔の全力の殴りあいをただただ傍観しているわけにはいかなかった。
その行動に正義が伴うのなら、少しの可能性にも命を懸ける。カイの意思は歪まない。例えその対象が善人でも、悪人でも、テキトー弁護士でも。
「俺は死なない俺は死なない俺は死なない!………よし!」
「ねぇ、いい加減返事してくれない?さっきからあなたおかしいわよ?」
「あぁ。おかしいだろ?おかしいのは…元からだよ!」
そう言うとカイは意を決してきらびやかな花粉を
「スウゥ…ックシュン!」
吸った。
頭の中身がミキサーでかき混ぜられるような感覚。二度目ということもありパニックは無かったが、体中を一気に覆う倦怠感と過去のフラッシュバックには慣れることはなかった。
やがて意識は現実と乖離し、目の前に深い青で染まった空間に放り出された。
「…これが花粉の見せる幻覚…?」
一度目の時は自我を保つことに精一杯だったのと、パニック状態で何が起こっているか理解出来なかったこともあり、見た幻覚の内容をほんの一部しか覚えられていない。が、今は違う。意識は正常。パニックも起こしていない。
俺は記憶ふと、両手で体中をまさぐり、とどめにほっぺをつねってみるが夢は覚めない。そして痛い。
「妙にリアルな幻覚だな…」
おそらく花粉によって偽造された憂鬱な気分を偽りつつ、毅然とした態度でこれから自分に襲いかかるトラウマに備えた。
「おい!おに!」
振り返ると、そこには懐かしくも忘れたい思い出がそこにいた。一度目と同じ、若き日のトラウマ。少年三人と気弱そうな少女一人。少年マンガにもありがちなパーティーだ。これは確か五歳か六歳の頃の記憶だろう。
「何だ。クソガキども。」
ネガティブな思考を避けるため、鋭い語気で己を鼓舞する。すると、先頭に立つガキ大将らしき少年がニヤリと笑った。
「おかあさんがいってたぜ。おにはじごくにすんでるんだって」
大人げなく反論しようとしたその時、すぐ右隣で心底怒った子どもの声。
「やめてよ…ぼくはここにずっとすんでるんだって…」
間違いない。俺だ。ガキ大将たちと同じようにTシャツに短パンを履いているが、その額には小さい角が生えている。
「かえれよ!じごくに!」
「そうだそうだ!じごくにかえれ!」
「おーに!おーに!じごくへかえれ!」
「かーえーれ!かーえーれ!」
15歳の今では一切気にもしない小言だが、まだいたいけな少年の俺は頭を抱えてうずくまる。親父に言われていた、『死んでも悔し涙は流すな』という教訓を守ろうと必死に歯を食いしばって。子供にはとんでもない苦痛だろう。いたたまれない気持ちになる。近寄って背中をさすって、
「…人間と関わるとロクなことないって思うか?」
と、少年に尋ねてみるが、所詮は記憶の再現なのだ。返事も反応もない。
「いつかは信じられる仲間はできる。それまで、自分の信じる道を行け。」
過去の自分を励ますように、今の自分の小さな幸せを噛み締めるように呟く。
「甘いこと言ってんじゃねぇぞ。」
また、背後から聞こえる嫌味な声。過去の自分はおろか、ガキ大将も消え失せている。おそらく次のステップへ移行したのだろう。
「お前らに俺たちヒーローに歯向かう権利なんてねぇよ。」
先程とはうって変わってボヤけた人物像。ヒーローと思われる男は不定形で、小柄かと思えば大柄にもなり、仮面を被っていると思えば毛髪が露になったりもした。色は白黒で、まるで昔の映像作品でも見ているかのようだ。おそらく、不特定多数の記憶が混ざっているのだろう。
「やめてください。私たちはただ、ここでキャンプをしているだけで」
「うるさいな。近隣住民が気味悪がっているんだよ。出ていってもらうぞ。」
「そ、そんな…」
毎度お馴染みの記憶だった。俺の種族はオーガ。正しくは鬼。一級危険ヴィランという理不尽な称号を、世界ヒーロー協会。通称英協の結成直後につけられて以来、鬼は過去以上に厳しい差別と迫害を受けていた。
そもそも鬼はオーガみたいな気性の荒い生き物ではない。あんな知性の欠片も感じない種族と比べられては困る。お門違いにも程がある。
「早く出てけよ。それともここで『撃破』されたいのか?」
「ていうかもう『撃破』しちまおうぜ。俺、最近撃破数足りてねぇってお上から怒られててさ。」
「わかった。じゃあ6:4でどうだ?こいつら見つけたの俺だし。」
「おう。やるか。」
…おかしい。こんなこと今までに無かったはず。途端の記憶の裏切りに緊張が走る。
「まずはお前からだチビ!」
ヒーローの片割れが不定形な体をばらつかせながら小さな鬼の影を襲う。
「いやいやいや待て!」
体が勝手に動き、思ったことが口から飛び出る。俺は遠慮なくタックルをヒーローにかました。当たるはずの無いものだと思っていたから。
「ゎゐヵ〆ゝゐゐゞゐヴヱヾ!!」
意味不明な言語を吐きぶっ倒れるヒーロー。なんだ?干渉出来ないんじゃなかったのか?
「お前なんてこ〆ゐヴゑヶヶヱ〆〆ゎヰヱヴゞ〃ゑ!!」
もう一人がまるで最近のアメリカのゾンビ映画かのように、物凄い勢いで走ってくる。待て。記憶に襲われるって何だ。
戦術性の欠片もない両手の振り回しをやっとの思いで避ける。先程まで疲れ果てていた体は少しのダルさは感じるが、まるで今までの触手苦行が夢だったかのように生き生きとしている。まぁ夢だが。
しかし相手も振り回す力も勢いも衰える気配がない。早めに片付けないとこっちの身が持たない。右手の刃を構える。
「もうやめよう。今襲ってくるのはアロマだけで充分だ。」
そして直感的に右手を横一文字に振った。少しでもかすれればそれでいい。そんな気で振り切った刃に、流動的に変化していく脳内データの肉を切り裂く感覚。
「ゞヾヴヱゑヶ々ヵヱ〃々ヵヵヾゐヴゎ〃ヾ!!!」
やがてヒーローは地に伏した。いや、伏せざるを得なかった。痛みに悶え苦しむような叫び声とともに、胴体を境に綺麗な断面を残して分離したからだ。
「おいおいそんなに深く切ってないぞ!?リアルで試さなくてよかったわマジで!」
泣き言を一人喚く。すると、その言葉を否定するかのように、不定形ヒーローはゴム風船のように弾け散った。鬼たちのシルエットも徐々に薄れていく。やがて何もなかったかのように消え去って、俺は暗闇に取り残された。暗闇と静寂が再び襲い来る。
「…なんかよくわかんないけど、解決は出来てるみたいだな!よし次!」
暗闇と悪夢に対しての恐怖感を振り払うように一人呟いた。
…
…
「…あれ?」
何も起こらない。新しいシルエットは襲いかかってこない。じっとしていても襲いかかって来る、悪夢のわんこそばみたいなものだと思っていたが、どうやら違うようだ。自分の足でトラウマと向き合えといいたいのだろう。いわゆる…悪夢のバイキングか?
「…しょうもないこと思ってないで歩こ。多分これあのバカの思考感染ってるなこれ。」
俺はゆっくりと歩きだした。さらなるトラウマと、その先の答えに出会うために。
カイ君はいい加減暴力に慣れましょう。




