やってきた貴族令嬢 3
エルミーナが魔物牧場の臨時飼育員として働くことになった朝。
「……遅いな」
既にバッチリと用意を整えている俺とリスカであったが、今日から働くエルミーナはまだ起きていなかった。
「エルミーナ様、まだ寝てるのかな?」
朝の一杯になっているブルホーンのミルクはもう三杯目だ。そろそろ朝日が昇ってしまう。
「朝早くから仕事するから早めに起きるように言ったんだけどな」
「もしかして、これほど朝が早いとは思ってないんじゃない?」
「……確かに日の出前とは言っていないしな。リスカ、悪いけどちょっと起こしてきてくれ」
仕事の初日から寝坊とは困ったものだが、どれぐらいの時間かは伝えていない。それだとエルミーナが誤解してしまうのも無理はない。
「えー、あたしが? 貴族の人を起こすなんて失礼がありそうで怖いよ」
「大丈夫だ。ここにいる限り、エルミーナは俺の部下であり、リスカの後輩だ。そう恐れることはない」
「でも……」
とは言ったものの、貴族などと接した経験がないリスカからすればかなり不安だろう。
そこで俺はリスカの不安をかき消すための魔法の言葉を送る。
「なにかあったら、ジルハート様が責任をとってくれるさ」
「それ、昨日からレフィーアさんも連呼してるけど、第三王子様のことをそんな便利扱いしてもいいの?」
「後ろ盾っていうのは、こういう時のためにあるからいいんだ」
お偉い人の対処はお偉い人に任せる。それが魔法騎士として王都で働いた俺の処世術でもある。
「うー、わかったけど、やっぱり不安だから付いてきて」
「わかったよ」
俺も魔法騎士になりたての頃は、お偉いさんへの報告にビビッて団長や同僚に付いてきてもらったものだ。
リスカを見て、ふと昔のそんなことを思い出した。
リスカに付いていく形で、俺は二階に上がりエルミーナの寝室の前へ。
とはいえ、ここから先は貴族の令嬢の寝室だ。何か問題が生じた際には、ジルハート様が責任をとってくれるとはいえ限度があるので、男である俺が入ることは慎む。
不安そうにこちらを振り返るリスカに頷くと、彼女は意を決した表情で扉をノックした。
「エルミーナ様、もう仕事の時間ですよ! 起きてください!」
しかし、寝室からは返事はない。
リスカが今度は強めにノックすると、部屋の中のベッドが軋むような音がした。
「もう、うるさいわね。何なのよ。こんな朝早くから……」
寝起きのような、どこか低く籠ったような声が中から聞こえてくる。
「エルミーナ様、起きてください。仕事です!」
リスカが負けじとノックをしながら声を張り上げるが、エルミーナが起きてくる気配はない。
「しょうがない。直接起こしてくれ」
「……わかった」
リスカがそう言ってドアノブを捻ると、鍵をかけていなかったようですぐに扉が開いた。
一瞬、扉の隙間から寝室内が見え、脱ぎ散らかされた魔法学園の制服が見えた。
なんだかいけないものを見てしまった気がして、俺は慌てて扉から少し離れる。
「エルミーナ様、起きてください」
「もう何よ! まだ暗いじゃない!」
「それでも仕事が始まる時間です」
機嫌の悪そうなエルミーナの声が響き、毅然とした態度のリスカの声が聞こえる。
あの不機嫌そうなエルミーナに立ち向かえるなら、俺が付いてくる必要はなかったのではないかと思わなくもない。
「……え? 待って。飼育員の仕事っていうのは、こんな早くから始めるものなの?」
「はい、そういうことなのでタンスに入っている作業着を着て降りてきてくださいね」
「えっ、ちょっと!」
呆然とするエルミーナの声は、リスカが問答無用で扉を閉めることでかき消された。
「これで大丈夫だね。リビングで待っていよ!」
「お、おう、わかった」
思ったよりも全く物怖じしないリスカの態度に、俺はビビりつつもしっかりと頷いた。
◆
エルミーナを起こしてから十五分くらい過ぎただろうか。
ようやくエルミーナがリビングにやってきた。
「おはよう。ちょっと準備に手間取り過ぎじゃないか?」
今日から俺とエルミーナの関係は上司と部下になる。だから、ここでは身分とは関係なしに普通に接することにした。
「これでもかなり急いだ方よ。女の子は身だしなみに色々気を使うんだから。ああ、もう、今日は毛先がいまいちだわ」
確かに昨日よりも髪が綺麗に整っていない。自分の満足のいくギリギリの範囲でやってきたのだろう。
魔法騎士団にいたときも女騎士の準備が遅くて、よく揉め事とかになっていたな。
大雑把な男性と違って、女性は色々と整えるものがあるだろうからな。ここは文句や説教をするよりも、少し柔らかく改善を促すほうがいいだろう。
「じゃあ、明日はそういうことも考えて、もう少し早めに起きてくれ」
「……わ、わかったわ」
身支度は大変かもしれないが、それで朝の仕事を遅らせるわけにはいかない。
「ねえ、それよりも、もう少しマシな服はなかったの?」
自らの作業着をつまみながら文句を垂れるエルミーナ。
彼女が身に纏っているのは、分厚い生地を使ったピンク色の作業着。
「牧場で働くための作業着だからな。実用性重視になっている。こればかりはどうしようもない」
「これでも、うちにあったものの中で一番可愛いものですから」
「うーん、ならしょうがないわね」
どうせ作業をしていたら汚れてしまうからな。あまり綺麗な服を着ても、大して意味がないと思う。
「よし、何はともあれ用意ができたなら仕事開始だな」
「えっ? 朝食は食べないの?」
「それよりも魔物達の食事のほうが先だ。今日はいつもより遅れているから魔物達もお腹を空かせているだろう。そこにあるミルクを飲んで出るぞ」
「え、ええええ……」
俺達の生活は魔物がいないと成立しないのだから、魔物優先で生活をするのは当然のことだ。
俺の言葉を聞いたエルミーナは不満の声を漏らしながらも、テーブルの上にあるミルクを飲んだ。
「……えっ、何これ。美味しい。今まで飲んでいたミルクよりもずっと飲みやすい」
エルミーナの口から思わず漏れた言葉に、俺とリスカは顔を綻ばせる。
自分でも単純だと思うが、やはり自分達が育てた魔物の飲み物が褒められると嬉しくなってしまうな。
「ちなみにそれは、うちで育てているブルホーンからとれたミルクだ」
「うえっ!? ゲッホゲッホ!」
エルミーナが最後の一口を飲み終わった瞬間に、俺は事実を告げてやる。
「嘘っ! わたくし、魔物のミルクなんかを飲んじゃったの!?」
「別に飲んだからといってお腹を壊したり死ぬわけじゃないさ。そこらのミルクよりも美味かっただろ?」
「いや、それはそうだけど……でも、魔物の……」
リスカはすぐに受け入れてくれたが、エルミーナは複雑そうな顔をしている。
まあ、最初は村人だって難色を示していたんだ。貴族の、それも魔物を苦手としているエルミーナがすぐに受け入れるはずもないか。
「うちで育てて売っているミルクだから、味を知ってもらいたかったんだ。どうしても無理っていうなら、もう飲まなくてもいいさ」
これは俺達がやっている仕事の成果を知ってもらいたかっただけだ。飲む前に言わなかったのは、色眼鏡なしでのエルミーナの純粋な感想を知りたかったから。
味は気に入ってくれたようなので、後はエルミーナが魔物の飲み物だと知って受け入れるかだ。
「わ、わたくしは……」
「まあ、そんなに思い悩まなくてもいいよ。今はとにかく仕事だ」
「え、ええ」
今すぐに好きか嫌いか言わせる必要はない。
これから徐々に色々と知って受け入れてもらえれば、それで十分なのだから。
戸惑いながら頷くエルミーナを連れて、俺は家の外へ。
「ウォッフ!」
「きゃああああっ!?」
すると、ベルフの朝の挨拶を聞いて、エルミーナは悲鳴を上げて尻もちをついた。
「大丈夫か?」
「い、いきなり魔物が襲って……っ!」
「ははは、ちょっと朝の挨拶をしてきただけだよ」
ベルフの安全さを伝えるために、俺はいつも通りベルフの全身を手で撫でる。獰猛な魔物相手ではこのようなことはできまい。
そんな俺達の様子を見て、落ち着きを取り戻したのかエルミーナが立ち上がった。
「でも、この子ってブラックウルフよね? 人を襲う危険な魔物だわ」
「違いますよ、この子はベオウルフのベルフ! 賢くてとてもいい子だから、人を襲ったりしませんよ?」
「……今、なんて言ったの?」
リスカの言葉を聞いて、エルミーナの表情が硬くなる。
「だから、賢くてとてもいい子だから人を襲ったりは……」
「違う! その前よ! 確かベオウルフって言わなかったかしら!?」
「そうですけど?」
「ベオウルフってブラックウルフを率いる進化種じゃない!? そんな危険な魔物を育てているというの!?」
「育てるというか、ベルフはうちの牧場を守ってくれる番犬みたいな感じだ。な?」
「ウォフ~ン」
「獰猛なベオウルフを番犬扱いだなんて……」
気持ちよさそうな声を上げるベルフを信じられないといった眼差しで見つめるエルミーナ。
ドラゴンを見ても大きな反応はなかったのに、ベオウルフには驚くのか。貴族の感覚というのはよくわからないな。
「試しに撫でてみるか?」
「ベルフの体はモフモフしていて気持ちいいんですよー」
俺とリスカがベルフの体を撫でて、そのモフモフさをアピール。
「そ、それじゃあ少しだけ……」
すると、エルミーナは顔をこわばらせながらゆっくりと手を伸ばす。
その顔を見るだけで、生き物の扱いに慣れていないことがわかる。
それでもエルミーナは勇気を振り絞って右手をゆっくりとベルフの体へ――。
「やっぱり、無理! 怖い!」
予想通りの反応を見せるエルミーナ。魔物どころか動物すら不得意そうだし、恐怖が勝ってしまうのも仕方がない。
「まあ、別にいいさ。牧場で働く限り、撫でる機会はいつでもある。触れるようになったら触ってみたらいいさ」
「ごめん……なさい」
口ごもりながらも素直に謝るエルミーナを見て、思わず目を丸くする。
素直に謝ることができないタイプだと思っていたが、そうではないようだ。
高圧的な貴族らしい態度をとっているが、意外と根はいい子なのかもしれない。
「いいさ。いきなりベオウルフを撫でるのはハードルが高いしな」
最初はピイちゃんやモコモコウサギの世話をしながら慣れていってもらったらいいさ。
「さて、早速仕事をはじめるわけだけど、エルミーナにはリスカと一緒にモコモコウサギの面倒を見てもらいたい」
「かなりいるわね」
「正確には三十三匹かな。結構な数がいるから、それだけの量の餌を用意しなくちゃいけないんだ。詳しいやり方はリスカ、頼めるか? 俺も様子を見たいんだけど、先にブルホーンの世話を済ましておきたいから」
「うん、わかった! アデル兄ちゃん、任せて!」
エルミーナへの指導をリスカに任せて、俺はブルホーンのいる厩舎に入る。
「ブモオオオオオッ!」
いつもより厩舎から連れ出す時間が遅いせいか、ブルホーンの鳴き声が不満げだ。
ブルホーンの早く開けろという要望に、早急に応えるためにダッシュして檻から出してやる。
本当は厩舎内の換気とか藁のチェックとかしたかったが、それをしているとタックルをかまされそうだったので後にしよう。
ブルホーンがタックルしないか警戒しながらも、厩舎の外に連れ出して牧草の生い茂っている場所へ移動させる。
不機嫌な鳴き声を上げていたブルホーンであるが、朝食を食べ始めた途端に大人しくなった。
タックルされなかったことに安心しながら、俺はポケットに入れておいたリンゴを差し出す。
すると、ブルホーンはこちらを一瞥してから、差し出したリンゴに齧りついた。そんないいものがあるなら、最初から出しておけやとでも言われたような気分だ。
ブルホーンはボリボリと音を立てながら、あっという間にリンゴを食べつくした。
そして、またむしゃむしゃと牧草を食み出す。
足元にはブルホーンのリンゴの食べかすを狙ってか、スラリンがずいずいと這い寄っている。
派手に食べ散らかそうとも、こうやってスラリンが綺麗に食べてくれるので衛生的にもとてもいい。スラリン万々歳だ。
ブルホーンが食事に夢中になると、俺は厩舎へと引き返す。
室内にある窓や扉を全開にして空気の入れ替え。
それからブルホーンの檻の中にある藁を外に出し、そこにあるフンをスコップで回収して手押し車に乗せていく。
ブルホーンは体が大きく、よく食べるせいかフンの量も多い。意外とこのフンを回収する作業が重労働だったりするのだ。
フンを全て回収すると、手押し車に乗せて堆肥倉庫に持っていく。
それが終わると檻の中を水で洗い、ブラシで綺麗に。
後はそれが乾いた頃に新しい藁を敷き詰めてやればいいな。
「使わなくなった藁はスラリンにでも食べてもらうか」
使用済み藁は捨てるか燃やしてしまうことが多いので、スラリンに食べてもらってもいいだろう。
「ピキ! ピキピキ!」
古くなった藁を持って外に出ると、モコモコウサギのピッキーが近付いてきた。
「んん? ピッキー、どうしたんだ?」
「ピッキ! ピキピキ!」
いつものような遊びをねだるような明るいものではなく、耳をしなっとさせながらも力強く訴えかけるような鳴き声。
「「ピキ! ピキ!」」
いつもとは違う声に戸惑っていると、他のモコモコウサギもやってきて同じように鳴き声を上げた。一体どうしたというのだろう。
「モコモコウサギ達は、朝食はまだなのかと言っているぞ?」
何かを訴えてくるようなモコモコウサギ達に戸惑っていると、フォレストドラゴンがやってきてそう言った。
「ええ? リスカ達はまだ餌をやっていないのか?」
「そういえば、今日からわがまま娘もここで働くのであったな。おおかた小娘の面倒を見ていて遅れているのではないか?」
いつもならとっくに餌をやり終えている時間だ。それなのに餌がこないとなれば、モコモコウサギ達も不安になるに決まっている。
「ちょっと様子を見てくる。だから、少しだけ待っていてくれ」
俺はピッキーや他のモコモコウサギ達にそう伝えると、手に持っていた藁を降ろして家に戻る。
「エルミーナ様、もうちょっと小さく切ってくれないとダメですよ。モコモコウサギは口が小さいんですから」
「そうはいっても、果物を小さく切るのって難しいのよ!」
台所にはダメ出しをするリスカと、それを聞いて逆ギレするエルミーナの姿があった。
「二人とも、まだ終わらないのか? モコモコウサギ達が餌を忘れられたのかと不安になっているぞ」
「ええっ、嘘!!? そんなに遅れてる!? 急いで作ってあげないと!」
俺がそう言うと、リスカは大幅に遅れていることを理解したのか、素早く包丁を動かして果物をカットしていく。
台の上に置いてあるバケツの中身を見ると、いつもの均等な大きさとは大違いの、不揃いにカットされた果物が入っていた。
これだと、どれをエルミーナがカットしたのか一目でわかってしまうな。
リズムよく包丁を動かすリスカの横では、エルミーナが怪しい包丁の持ち方で果物をゆっくりとカットしていた。
「エルミーナはあんまり料理をした経験はないのか?」
「……そういうのは、屋敷にいる料理人や家来がやってくれるから」
つまり、生粋のお嬢様育ちのせいで、料理をやったことはほとんどないようだ。
裕福な貴族であれば、生まれた時から雑事は家来がやり、料理は料理人を雇って作らせるものだ。エルミーナがおかしなわけではない。
ただ、ここで働く以上はそれでは使い物にならないので、できるようになってもらうしかない。
「包丁の持ち方と食材の押さえ方、間違っていないか? 多分、リスカに教わっただろう?」
「……うるさいわね。今、集中してるんだから話しかけないでくれる?」
「そうは言っても、そのままじゃ」
「――痛っ!?」
起こりえることに対する忠告の言葉を言いきる前に、エルミーナはそれを起こしてしまったようだ。
エルミーナの左人差し指には、赤い切り傷がついてしまっていた。
「大丈夫か? ちょっと見せてみろ」
「べ、別にこれくらい大丈夫よ!」
とは強がるものの、エルミーナは少し涙目だ。
俺は強引にエルミーナの手を取って傷口を確認。
「どうやら深い傷じゃないみたいだな」
「そうよ! いちいち大袈裟なのよ!」
「とりあえず、軽く処置をするか」
「いらない。わたくしのせいで遅れているんだから、それを取り戻さないと」
俺が傷口の処置を提案するが、エルミーナはそれを拒否して果物のカット作業に戻ろうとする。
「……いいのか? そういうのは後になって痛くなるものだぞ?」
「別にちょっとの痛みくらい……」
「仕事には清掃作業もある。切り傷に水は染みるぞ?」
「……………………お、お願いするわ」
強がるエルミーナに痛みを想起させる言葉を紡ぐと、エルミーナはしばらくして素直に治療を頼んできた。
「よろしい。このぐらいの傷だったら、ヒールスライムで十分そうだな」
「ヒールスライム?」
きょとんとするエルミーナをよそに、俺はリビングの窓を開けてみる。
そして、縁側の下部分を覗いてみると、そこにはヒールスライムが二匹ほど佇んでいた。
「そこにいると思った。ちょっと力を貸してくれ」
ヒールスライムの一匹を抱えて、俺はリビングのソファーに座っているエルミーナのもとへ。
「ねえ、その緑色のスライムで何をするわけ?」
「こいつはヒールスライムっていってな。少しの怪我なんかを治してしまう能力があるんだ。今からエルミーナの指を、このヒールスライムに突っ込んで――」
「ぜ、絶対に嫌よ! こんな粘体生物の中に指を入れるだなんて!!」
「確かに最初は不気味な感触だが、慣れれば案外それが気持ちいいんだぞ?」
「変態! わたくしを魔の道に引き込まないで!」
ヒールスライムで傷を治してあげると言っているだけなのに、酷い言われようだな。
「ヒールスライムの力を借りればすぐに治るんだがな。しょうがない、どうしても嫌なら軟膏でも塗っておくか」
「初めからそれを持ってきなさいよ」
エルミーナがどうしてもヒールスライムは嫌だと言うので、薬箱を取り出してリーアに貰った軟膏の入った箱を取り出した。
蓋を開けると、緑色のドロッとしたクリームが入っており、薬草臭いツンとした匂いが漂う。
「自分で塗れるか?」
「これくらいできるわよ」
エルミーナは怪我していない右手で軟膏を少し手に取り、それを左指の傷口に塗った。
傷口に染みたのか少し顔をしかめながらも塗っていく。
後はそこに小さく切った包帯を巻いてやれば、二日くらいで綺麗に治るだろう。
「……ねえ、巻いてくれるかしら?」
軟膏を薬箱に戻していると、エルミーナがポツリと言った。
「別にできないとかじゃないのよ? 右手には軟膏がついていて汚れるからってだけだから」
「はいはい、わかったよ」
本当は一人じゃ上手く巻ける自信がないのだろうな。
素直になれないエルミーナの態度に苦笑しながら、俺は彼女の指に包帯を巻いてやった。
「あ、ありがとう」
「どういたしまして」
「ではエルミーナ様、カットが終わったので餌やりを手伝ってくれますか?」
「ええ? あれだけの量のものを!?」
バケツの中に入っているカットされた果物を見て、エルミーナは心底驚いているようだった。
リスカは毎日のようにそれこなしているからな。今では果物を手早くカットするのもお手のもの。
「アデル兄ちゃんは、お腹を下しがちな子にすりおろしたものを食べさせてあげて」
「わかった」
まさか、カットだけでなくそちらの準備も終わらせているとは。
想像以上の速さに驚きながら、俺はすりおろしたリンゴの入っている小皿を受け取る。
「お、重っ!」
リスカからバケツを受け取ったエルミーナが、バランスを崩しそうになりながら驚愕の声を上げる。
「え、嘘? これそんなに重いかな?」
しかし、リスカはそうとは思わないようで片手で軽々と持っていた。
モコモコウサギ三十匹以上をまかなう果物がバケツいっぱいに入っているので、重量としてはかなりの重さになるが、リスカは特に苦にならないようだ。
「そ、そんな……わたくしよりも小柄なリスカさんがどうして……っ!」
「……まあ、リスカは他の子よりも力持ちだからな」
「ちょっと、それじゃ、あたしが女の子らしくないって聞こえるんだけど!」
ショックを受けているエルミーナにフォローを入れたつもりだったのだが、リスカから苦情が入ってしまった。
「じゃあ、酪農家で鍛えられているから?」
「そうだけど、言い方がなんか嫌」
「酪農家でこういう力仕事には小さい頃から慣れている?」
「まあ、それなら及第点かな」
どうやらこの言い方であれば、リスカ的に問題ないらしい。
相変わらず乙女心とかいうものはよくわからないな。
「でだ、エルミーナは大丈夫か? 一人で持てるか?」
「だ、大丈夫よ。これくらい、一人で持っていける、から! 早く外に行くわよ!」
こうして会話をしているうちにもエルミーナが力尽きてしまいそうなので、本人の意思を尊重して外に出ることに。
しかし、餌を楽に運べる俺とリスカと、エルミーナの歩む速度は当然違うわけで。
「……エルミーナ、本当に大丈夫か?」
「ふぎぎぎぎ! だ、大丈夫だから、先に行って!」
女性とは思えない低い声を出し、バケツの重さにがに股になってしまっている。とても伯爵令嬢とは思えない様子なのだが、頑張っているので考えないようにしてあげよう。
とりあえず、エルミーナの速度に合わせていては遅くなるので先に行く。
すると、餌を持った俺達に気付いたのか、モコモコウサギがすぐに集まってきた。
「「ピキピキ!」」
「今日は遅れてごめんね。ほら、朝ご飯だよー!」
リスカがそう言って餌を撒くと、お腹を空かせていたモコモコウサギ達は勢いよくそれを食べ出す。
そんな中、俺はレフィーアが言っていたお腹を下しがちな個体を捜す。
「確か耳に記しをつけた……あっ、いた!」
餌を食べようとしているモコモコウサギの中に、耳の先端に真っ赤なインクがついている個体を三匹見つけた。
「「「ピキ?」」」
他の個体と同じように餌を食べようとしていたところを抱え上げてやる。
腕の中にいるモコモコウサギから「どうして俺達だけお預けなんだ?」という意味の籠った抗議が聞こえるが、これも三匹のため。
みんなの場所から少し離れた場所に降ろして、俺は三匹の前にすり下ろしたリンゴの皿を置いてやった。
「お前達はお腹を下しがちだから、今日からちょっと柔らかい食事にしような」
「ピキ? ピキピキ?」
「まあ、いつもと違うものだけど、とりあえず食べていいぞ」
「ピキピキ!」
いつもと違ったものに戸惑っていた三匹のモコモコウサギだが、俺が促すとそれを食べ始めた。
「ピッキ! ピキピキ!」
「ピキピキ!」
俺の言葉は理解できていないだろうが、いつもと違った餌が食べられてラッキーといった感じだな。これはこれでいいって感じのやり取りをしている気がする。
よかった。これが嫌なのであれば、他のやり方を考える必要があったからな。素直にそれを食べてくれてよかった。
三匹のモコモコウサギを確認しながら、俺はエルミーナのほうに視線をやる。
餌をやるリスカの後ろでは、ようやくエルミーナがモコモコウサギのところまで餌を持ってくることができたようだ。
しかし、新たな餌に勘付いたモコモコウサギが、エルミーナの足元にわらわらと寄ってくる。
「ピキピキ!」
「ちょ、ちょっと待って! 今、餌をあげるから一度離れて!」
今日は朝食が遅れてしまったので、モコモコウサギ達は腹ペコだ。
いつも以上の勢いで餌をよこせとばかりにエルミーナに寄ってくる。
「エルミーナ様、モコモコウサギが待っているので早く餌を撒いてください!」
「そうは言っても、これだけ多いと身動きが――きゃあっ! よじ登ってこないで!」
魔物が苦手なエルミーナは、モコモコウサギに気圧されて後ずさりしてしまう。
そうなると下がるエルミーナと、追いかけるモコモコウサギという構図が延々と続くことになり、
「ピキー!」
我慢のできなくなったモコモコウサギがエルミーナに飛びついた。
「きゃああっ!!」
モコモコウサギが飛びついてきたことに驚いたエルミーナは、後ろに倒れる。
同時にエルミーナの手からバケツは離れ、それは空中に舞い上がったかと思うとすぐに重力に引かれて――その中身が真っ逆さまにエルミーナに降り注がれた。
「「ピキピキーッ!」」
そこに餌をゲットするべく興奮したモコモコウサギの大群が群がってきて、あっという間にエルミーナが呑み込まれる。
「ひゃあああああああっ!?」
エルミーナは悲鳴を上げた後、僅かに見えていた手足をぐったりとさせた。
「うわあっ! エルミーナ様、大丈夫ですか!?」
「…………」
返事がない。
あれは気絶したな。
朝から早速やらかしてしまったエルミーナを見て、俺は先行きが不安になった。




