五月 皐月
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「俺達を祝福するかのように雲一つない空! 真夏を連想させるギラギラの太陽! 流れるプールでドッキリハプニング! そして見渡せば広がる桃源郷! ところがどっこい! 上手くいかないのが現実で人生ブヒ……」
お腹に立派な脂肪を蓄えている石井が大きなため息をつく。
さて、俺達――俺、村井兄妹、石井、金田の総勢五人で最近学校が少し離れた場所にできた大型娯楽施設に遊びに来ている。この娯楽施設はプールと温泉をメインにされている。それでも大型とだけあり、ボーリングや映画、カラオケに宿泊施設までも完備されている。こういった娯楽施設があまりない街だけあり、若者からお年寄りまで幅広い支持を得ている。
俺達もそれに便乗してやってきた訳なのだが、あまり満喫できずにいた。
休日だけありプールは人でごった返しており、キャピキャピ遊ぶ女性を眺めながら先ほど買ったばかりのリンゴジュースを飲む。
今回この娯楽施設に潜入する計画を立てたのはクラスメイトで友達の石井だった。
石井は地元の商店街で何気なくやっていた福引大会に参加し、ここの入場無料のチケットをゲットしたらしい。五名様まで無料だったためお声がかかったという訳だ。ちなみに貴明の妹であるミクがいるのには理由があり、本当はクラスメイトから後一人選出しようとしたが、これがまた参加希望者が多いのなんの。下手に選んで面倒な事になるぐらいならと、ミクに楽しい思い出を作ってあげたいと兄貴心をくすぐられた俺が指名したのだった。……いや、まぁ本当の兄貴は貴明だけど些細な違いだと思ってほしい。
さて、本題であるブルー気味の空気が漂っているのは計画が上手くいかない事にあった。
計画の最重要課題である「ひと夏のアバンチュールを体験したいのっ!」という石井の熱い魂の叫びで、先ほどから手当たり次第に石井は道行く女性に声をかけているのだが、このご時世ナンパが上手くいくほど世間は甘くなく、さらには世間様の視線も良いとはお世辞にも言えない。この一時間で何度従業員に追われた事か……。
だが実は何度かナンパは成功しそうな所はあった。俺は言うまでもなく平凡な顔つきで戦力外だが、ちょっと童顔で愛らしい顔つきの貴明。黙っていればイケメンの金田。一見幼女をつれてナンパをするなど論外だと思われるが、その愛らしすぎる顔と甘えん坊の性格で母性本能をくすぐられた女子大生に大人気のミク。このスリートップで掴みはガッチリとれていたのだが、最後の爪が非常に甘いといいますか、このデブはといいますか……。本人には決して言えないが、異常なプレッシャーと鬼気迫る表情を浮かべ、大量の汗を流しながら近づく石井のお陰で全て台無しだった。
過去最高とも言えるため気を石井はつき、重たい空気が五割増しになる。最年少のミクは空気の重たさに気づくはずがなく、つまらなそうに足をぶらつかせている。
「……森澤はいいよなー。可愛い彼女さんがいて、美人と一つ屋根の下……このリア充め……。世界中のモテない男子から妬まれろ……ブヒ」
矛先が俺に向かってきた。
確かにこのグループで唯一彼女持ちは俺だけだが、そんな事を言われても困るだけだ。
「なんかごめん……」
返す言葉が見つからず、取り敢えず謝っておく。
「あっ、西尾様の友達を紹介しろよ!」
最初に浮かんだ顔は真奈美ちゃんとやらだ。それ以外は……誰も思い浮かばない。あれ? あいつって友達少ない?
かなり失礼な事を思いながら、流石に俺の今後の信頼にも関わるし遠慮しておきたい所だと結論を出す。無口になった金田なら喜んで紹介するけど、恋愛に飢えている友人を紹介して何かあってでは遅い。それに語尾に「ブヒ」とかつける奴を紹介したくない。いつの間に定着したのやら。確か金曜日に計画を立てていた時は「ブヒ」とか一言もいってなかった気がする。
どうやって断ろうかと悩んでいると、
「和人お兄ちゃーん。ミクもうつまんない」
ミクがダダをこね始めた。
その切実な願いを聞かされたとなっちゃ和人お兄ちゃんが行動しないはずがない。だってミクを溺愛しているからね!
「そうだな。んじゃ、お兄ちゃんと一緒にプールで遊んでこよっか」
その場にしゃがんでおいでおいですると、ミクは嬉しそうな笑顔で駆け寄ってくる。
あぁ可愛い。可愛すぎる! もうロリコンでもいいやマジで。
ムギューっと抱きしめて頬をスリスリし、ミクを抱きかかえて立ち上がる。
「なぁ貴明。いつになったらミクちゃんは我が家の子になるんだ?」
「和人は本当にミクが好きだね……。ちょっと妬けちゃうな」
「ミクちゃんも貴明お兄ちゃんより、和人お兄ちゃんの方がいいよなー?」
「うん! だって貴明お兄ちゃんはミクに意地悪するもん」
「貴明てめぇー! ミクちゃんに手を出すなとあれほど酸っぱく言っただろうが!」
「えぇー、マジギレ!? そこでマジギレしちゃうの!?」
「俺の可愛い妹に手を出してタダで済むとは思ってないよな?」
「ミクは僕の妹だから! 和人の妹は佳苗ちゃんでしょ!?」
「佳苗ならお前にくれてやる。だからミクは今日から俺の妹だ。文句があるなら佳苗に言え」
「森澤ちょっと落ちつけ。ほら、この携帯ストラップを見ればきっと安らかな気持ちになるはずだ」
まぁまぁと金田が仲裁に入り、どこに隠し持っていたのか大量のストラップをつけた携帯電話を見せてくる。黙っていればイケメンの金田はアニメオタクで、頬を緩ませながらアニメヒロインのストラップをいじってはニヤニヤしている。ちなみに貴明もその筋の人である。
そうはいっても、有名どころのアニメは見ても貴明や金田からすれば素人同然の俺である。ストラップが大量にあっても知っているヒロインは皆無だ。
「――話が脱線したから戻すけど、西尾様の友達を紹介してくれないブヒか?」
そうだった。
「いや、紹介は別にいいけどさ……。ただ西尾の友達と親しい訳じゃないし、どう切り出せばいいか分からないし……」
「ほぅ。ならそんなシチュエーションを作れば、後は上手くセッティングしてくれるブヒね?」
「まぁそうだな……」
「ブヒヒヒヒ! そんなヘタレな森澤でも可愛い彼女を難なく誘える最高のプレミアチケットがここにある!」
バン!
机を豪快に叩きながら、そのチケットとやらをお披露目する。
その場にいた全員の視線がそのチケットに注がれる。
「ブーヒッヒッヒ! 何を隠そうここにあるのは一泊二日の高級ホテル宿泊券!」
腕を組んで高らかに笑っている石井の言った通り、そこには二枚の宿泊券がおかれている。何でも綺麗な海と自然豊かな山に囲まれた有名どころらしく、何でも雑誌で何度か取り上げられたとか……。そこにそう書いてあるが、ちょっと胡散臭い。
チケットを覗きこんでいる貴明は妄想しているのか最高の笑みを浮かべ、ミクは不思議そうに指をチュッチュッしている。金田は三次元にはそもそも興味がないようで、特に表情の変化は見られなかった。
「一枚で最大四名様、二枚あるから八名様までは無料でお泊りできるって訳だ。リア充の森澤、ご理解いただけたか?」
「これで誘えと?」
「ご名答! 本当はこのチケットをお金に換えて、夏休みをエンジョイする予定だが背に腹は代えられん。ひと夏のアバンチュールのために犠牲になってもらおう。ちなみに有効期限は来月の中旬までだが、夏休みまで残り五日だ。このチケットは十分に活用できる」
「ちなみにどこで手に入れた?」
「ふむ。確かここのチケットとは別の場所でやっていたガラポン大会で一つ、もう一つは旅行会社らしき人を助けたら貰った。チケットより現金の方が良かったが、今思うとこっちの方が断然おいしいな」
なにそれ……。お前の方が十分リア充じゃん。こいつの強運を少し分けてほしい限りだ。
そして「ブーヒッヒッヒ!」と高らかに笑う。
「さて、八人分だからな誰を誘うか相談しようじゃないか。まず男性陣はここに居る四人だろ。女性陣は西尾様とその友人。ちなみに今回は村井の妹を許したが、次回のお泊りは流石に責任問題が大きいから無理だぞ?」
「それは俺も賛成だ。貴明も異論はないよな?」
「もちろんさ。僕としては和人以外の人材こそ不要だと思うけどね」
「今のところ六人だろ? 残りはどうするつもりだ? そもそも皆の都合が会うのか?」
金田の言うとおりだ。金銭的な面ではクリアしても都合が合わなければ意味がない。夏休みといっても、アルバイトやら個人的な用事やら部活やらで、時間が会わない可能性もなくはない。ちなみに俺と貴明はバスの関係でアルバイトは不可能である。
「どうにかなるだろ。俺達四人は今のところバイトも部活もやっていない。残るは女性陣だが、森澤にぞっこんの西尾様は二つ返事なのは確定。西尾様の友達の都合に合わせれば問題はないと思う」
「残りの二人はどうするつもりだ?」
「問題はそこだ。これ以上男が増えるのは華がないから却下とする。西尾様の友達を追加で二人って線もよろしくない」
「どうしてだ?」
「よく考えろ。仲のいい友達が二人で行動するならまだ何とかなるが、四人で固まられると手の出しようがない。ここは西尾様の友達以外で決める」
「なるほど……。中々賢いな」
「当たり前だ。どういったシチュエーションでも対応できるように、授業中は基本妄想の世界に浸っているからな」
前言撤回。こいつはバカだ。
「なら琴田さんはどうだ? 森澤と仲が良かったし、森澤は西尾さんと付き合っているから今はフリーだろ?」
睦月かー。理由は知らないけど西尾と仲が悪いから勘弁してほしい。
「金田くんそれは違うよ」
「何がだ?」
「和人と彼女さん――えっと睦月ちゃんは親こ、モガモガ」
いらぬ事を言われる前に口をふさいで貴明を黙らせておく。
「森澤、隠し事はよくない。真実を皆に公開するべきだ。今日の事は西尾様に言っていないだろ? もし公開しないのなら残念だが告げ口をさせていただく。ナンパに出かけた彼氏にどんな反応を示すか楽しみだ」
両肘をテーブルにつき、両手を絡めるように組んで口元を隠す石井。よくドラマなどで幹部の人がやっていそうな格好だ。
確かに今日の事は内緒でプールにやってきた。適当に理由を取ってつけて遊びに行くのも断った。睦月と少し話しているだけで「浮気ダメ!」と言うような西尾である。遊びを断ってナンパをしていると知ったら……。
力なく貴明の口元から手を退ける。もうどうにでもなれ。
貴明はどこからともなく三枚の写真をテーブルの上に置く。西尾、睦月、皐月の写真だった。
「……ほぅ。西尾様は森澤の彼女だと分かるが、琴田さんと謎の美女とはどういった関係かね?」
「全員親公認の和人の恋人だよ。謎の美女は皐月ちゃんって言ってね、睦月ちゃんと皐月ちゃんは和人の部屋で毎日寝泊まりする仲だよ」
ニコニコと秘密情報を漏らす貴明。……こいつは鬼だ。
そう言えば西尾は知っているけど、貴明は睦月と皐月が家で生活するために設定上で付き合っているのだと知らない。一見はハーレムを築き上げていように思えるが、実際は西尾としか付き合ってはいない。そもそも俺がモテ男に見えるか?
その事をこの場を借りて伝えてもいいが、そうなると睦月と皐月がどうして赤の他人の家で寝泊まりしているのか疑問が浮かび上がる。あまり俺の頭は賢くないし、下手に嘘をついた所で今後ボロが出そうで怖い。ここは流れに身を任せるのが一番だろう。
「けしからん! 実にけしからん! 西尾様だけでは飽き足らず、琴田さんと皐月さんも手駒にしているだと!? お前は俺達から憧れのアイドルを奪うだけではなく、密かに恋焦がれる琴田さんまでも奪ったのか! 選択する余地は最初からなかった訳だな!! この恋愛泥棒がぁぁぁぁぁぁ!!」
石井の絶叫が辺りに響き渡った。
「お、落ちつけ。このイベントは西尾と手を組んで必ず成功させると約束するから、な?」
「……その言葉に偽りはないと誓えるか?」
「勿論だ!」
「なら今回は目をつむろう。それで残り二人だが、琴田さん皐月さんを誘うのはどうだ?」
「それは止めてくれ……」
「どうしてだ? 二人とも森澤の彼女なら思い出作りも大切じゃないか?」
「気を使ってくれるのは正直ありがたいけど、西尾と睦月が一緒になると喧嘩ばかりするから疲れる。それにさ、俺の事はどうでもいい。今回は石井の彼女を作る計画だろ? それなら選択肢を増やす方がいいと俺は思う訳だ。石井の気に入った子、まぁ俺の知り合いの中でだけど、他にはいないのか?」
「おぉ、森澤のヤル気が手に取るように分かる! ……実はだな、最近ツンデレとお嬢様ってものに興味があってだな」
「分かった。釜谷と加名盛を必ず参加させてみせる」
釜谷はクラスメイトで、誰もが認めるツンデレ娘だ。以前貴明と一緒にツンデレ喫茶に行った時に、自慢のツンデレで持て成してくれた。そして加名盛は何かと俺にいちゃもんをつける美化委員長で正真正銘のお嬢様だ。ただ過剰のヒステリック娘でよく奇声を発するが、なぜか顔はものすごくいい。西尾には負けるが、人気はそれなりにあるらしい。全く世も末だね。
一応二人とも顔見知りだし、何とかなると思う。
「ブヒヒヒヒ。今回のイベントは実に楽しみだ。水着を新着せねばな」
ニヒルな笑みを浮かべる石井だった。
そんなこんなで俺達は一泊二日の海旅行が決まった。
1
――休み明けの月曜日。
登校してすぐに俺と石井は西尾のクラスに足を運んだ。
西尾も既に登校しており、ファッション雑誌を真奈美ちゃんとやらと一緒に楽しそうに眺めていた。「この服可愛いね~」とかキャピキャピする空気の中、どうやって切りだそうかと悩む所だ。
踏ん切りがつかない俺の背中を石井が押し、健闘を祈ると親指を立てる。
ドアに身を隠して顔だけ出している石井のためだと言い聞かせ、ゆっくりと西尾に近付く。
俺の存在に気がついた教室にいる生徒から視線を浴びながら、
「あー、西尾?」
おそるおそる声をかける。
西尾は表情を輝かせ「あっ、和く―ん! おっはよー。今日も超好き好き」と過剰の反応を見せる。
うっ。
かなり緊張してきた。
「ちょっと大切な話がある。今時間あるか?」
「どうしたの? 気まずそうな顔だよ? それに大切な話って……。も、もしかして、うっ……ふぇ、別れ……うっ、話……うぇーん!」
朝から超元気な西尾だった。相変わらずのぶっ飛んだ思考回路に少し笑ってしまう。
「ごめん。もう西尾とは……」
大声を上げて西尾は泣いているが、たまには悪ノリもいいかと思った。
その悪ノリのせいで更に西尾は声を上げて「イヤイヤイヤ!」と泣き散らす。その過剰の反応が面白くて、ニヤニヤするのを隠すのが大変だったりする。
「真琴落ちつきなさい。森澤くんも悪ノリしない」
バレていましたか。
「それで、森澤くんはどうしたの? 本当に別れ話じゃないでしょ?」
「あはははは、ごめん、ごめん。ちょっとふざけすぎた。それでさ、もし良かったらだけど夏休みに旅行にでも行かないか?」
「別れ話じゃなくて良かったじゃない真琴。それに旅行だって」
「……グスン。本当?」
「本当だって。俺だって西尾の事好きだし、別れたいとか思ってないし」
その言葉を聞いた西尾はパーっと一気に表情を明るくさせ、「旅行絶対に行く行く!」と言いながら俺の腹部に飛び込んでくる。
どこのアットホームドラマだよ。と思いながら俺の制服に涙を染み込ませながら、グリグリと顔を押し付ける西尾の頭にそっと手を置く……のを途中で止めた。だって教室中から「消えろカスが!」みたいな視線が集まっているからな。自重は大切だな自重は。
さて、西尾の参加は決まった。次は最大の難問である真奈美ちゃんを誘う番だ。
「ところでさ、このチケットって四名様まで無料になっている。も、もしよかったら真奈美ちゃんも一緒にどうだ?」
「私? いや、さすがに遠慮させてもらう。真琴と二人っきりでしょ? そこに私がいてもお邪魔じゃない」
「その事だけど、実は俺も友達から誘われた口で、その友達が彼女と思い出作りに誘ったらどうだって言われて。それで、えっとー……何と言いましょうか、周りに西尾の知り合いがいないし、それなら西尾の友達も一緒にって話になりまして。……どうだ? 真奈美ちゃんも一緒にこないか?」
「……なるほど、入口に隠れている人がどうしてもと」
うっ、そちらもバレていましたか。中々侮れない人だ。
「駄目か?」
「……いいよ。真琴の彼氏さんがどうしてもって言うなら私も行かせて」
やれやれといった感じに腰に手を当て、ため息交じりで了承してくれた。
「真奈美ちゃんも一緒で楽しみ! ねぇねぇ、いつ行くの?」
「あー、まだ日程が決まっていない。夏休みに入ってからだけど、都合の悪い日とかってあるか?」
未だに俺の腰辺りにしがみついている西尾が、俺を見上げながら言う。
うっ、可愛い。その表情が凄く可愛くてドキリと胸が高鳴る。
「私はいつでもいいよ!」
「私もいつでも」
「了解。また日にちが決まったら連絡するよ」
「あのね、あのね! 今日学校終わったら水着買いに行こうよ!」
「ん~、放課後かぁー。帰りのバスあるかなー」
「もしなかったら私の家に泊まればいいよ!」
「いやいや、それはちょっと……」
「私の家はイヤ?」
「だって両親いるだろ? 流石にまずいって」
「でも和くんの両親は私が彼女だって知っているよ?」
「いや、それは俺の両親だからだよ。俺が西尾の両親と会うのとは全然違うって」
「どう違うの?」
「どうって言われても……。えっとね、西尾は女の子で、俺は男だ。だからさ、可愛い娘に男を紹介されたらきっと西尾のお父さんは凄く心配って言うか、ビックリって言うか……。と、とにかく俺は西尾の家には泊まれない」
「だけどね、だけどね。うちのお父さんとお母さんがね、和くんに会いたいって言っていたよ! お父さんはちょっと機嫌が悪かったのか怒っていたけど、お母さんは凄く嬉しそうだったよ! だからね、だからね!」
「えっとー、西尾は俺と付き合っているのを両親に言っちゃったと?」
「うん! だって嬉しかったもん」
「あー、なるほど。西尾のお母さんには会いたいけど、お父さんには正直会いたくないかな」
「どうして、どうして?」
「だって西尾のお父さんすっごい俺を嫌っているし……。心の準備も必要だし……」
「なら大丈夫だよ! だって今日お父さん仕事で居ないもん! 決まりねっ! 今日はショッピングデートして、その後は私のお家でお泊まり会だよ!」
「……りょーかい」
俺は言い返せる言葉が見つからず、西尾に従うしかなかった。これって世間的には尻に敷かれると言うのだろうか。さすが俺の父さんの息子って事かな……。
まぁ、何はともあれだ。計画通り西尾と真奈美ちゃんの参加は決定だ。後は釜谷と加名盛か……。先は遠い。
俺から離れた西尾は嬉しそうにキャッキャッと飛びはね、ドアの方を見れば石井が親指を立てていた。それに肩を軽く上げてアメリカン風に答える。
「ところで森澤くん。他には誰がくるの?」
「あー、クラスメイトの村井と石井と金田。あと二人は今から交渉しに行くところかな」
「その交渉する相手は男? それとも女?」
「一応女だけど、なんで?」
「何となく聞いてみただけ。あまり深い意味はないから気にしないで」
「? 了解。んじゃ、俺はもう行くわ。また放課後にでも」
「はーい。また昼休みー」
話を聞いていたのか聞いていなかったのか、とんだ間違いの返事をする西尾に軽く手を上げて教室を出ようとする。
「あっ、そうそう。旅行の事は睦月に内緒だからな」
「琴田さんは行かないの?」
「だって喧嘩するだろ? だから今回は俺と西尾でいっぱい遊ぼうな」
「うん! ……ふふふ、琴田さんに勝った!」
何に勝ったか知らないけど、それで西尾が喜んでくれるなら良かった。睦月には悪いが、夏休みが始まったら睦月の好きな所にでも連れてってやるか。そう思いながら俺は教室を後にした。
「西尾様と友達の了解は得た。次のターゲットは釜谷さんだ。よし、森澤今すぐ行って来い」
一時間目の授業が終わってから俺、貴明、石井、金田が教室の隅に集まり作戦会議をしている。元から仲の良いグループの集まりだとクラスメイトは認知しているが、隠れるようにコソコソ談話している姿は目につき、先ほどから睦月もチラチラと俺達の様子をうかがっている。
誘うのは別に構わないが、睦月に旅行の計画がバレると厄介だ。もちろん睦月には今回の計画を内密にするよう参加メンバーには言ってあるが、大根役者の俺達がいつボロを出すか分からない。この集まりだって疑問の種になりそうだし、俺としても早めにメンバーの獲得を得て、いつもと同じような学校生活を送りたい所だ。
「分かった。貴明は何とかして睦月を教室の外に連れ出してくれないか?」
念のための保険だ。
「りょうーかいです」
敬礼のポーズをとり、早速貴明は行動を開始する。
睦月に一言二言伝えると、俺達の方をチラチラ見ながらも渋々貴明と一緒に廊下の方に出て行く。これで邪魔者はいなくなった。まぁ、邪魔者扱いをするのもおかしな話だけど、そこは気にしない方向でいこう。
背後で敬礼ポーズをとる石井を尻目に、次の授業の準備をする釜谷の席に近付く。普段は仲のいいグループで固まって談話を楽しんでいる。今日はその友達が次の授業の宿題を友達に借りたノートで写すのに勤しみ、珍しい事に一人きりだった。
クラスメイトとは言え、俺だって思春期真っ盛りの高校生だ。特別親しい子は別として、時々話す子に旅行の話を持ち出すのは緊張する。もしグループで固まっているなら十割増しだ。だから一人の今、かなり気が楽だ。それでも緊張するのには変わらないけど。
「釜谷、少しいいか?」
「なに?」
ぶっきら棒な返事が返ってきた。
「ここだとちょっと……。向こうで話さないか?」
教室の後ろ、あまり生徒がいない所を指さして言う。
誘うは誘うが、さすがに教室のど真ん中で誘うほどの勇気を持ち合わせてない。持ち合わせているのはヘタレ根性と……やめた。自分をけなしても悲しいだけだ。
少しでもリスクを減らし、少しでも騒ぎにならない方法といえば人気のない場所と相場が決まっている。本当は廊下の端にでも連れて行きたいが、廊下で睦月と鉢合わせたら後で何を言われるか分からない。ここは多少のリスクがあっても背に腹は代えられない所だ。
「私ちょっと忙しいの。さっさと用件を言ってよねっ」
フンっとそっぽを向くが、俺の後をつんだって来るのは流石ツンデレ娘である。もしかしたらデレ期がこないツンツン娘のまま、一方的に拒絶されるかもしれないけど。
「あ、あのさ、夏休み暇だったりする?」
教室の後ろで辺りを警戒しながら小声で言う。
「はっ? 忙しいに決まっているじゃない。くだらない用なら席に戻るけど」
不機嫌そうに釜谷は眉間にシワを寄せる。
「毎日じゃないだろ? それでさ、物は相談だけど海と山に興味ないか?」
「正直ない。私敏感肌だから少し日に当たるとヒリヒリして痛いし、山は虫が多くて気持ち悪いし、それなら家で大人しくしていた方がマシよ」
「それなら仕方ないな」
「どうしてそんな事を聞くのよ?」
「いや、あのな。石井が宿泊券をもらって、その何だ……」
「誘っている訳ね? 森澤くんは琴田さんと付き合っているのに、その旅行に女を誘うのはどうかと思うけど」
「別に睦月とは付き合っていないけど……」
「はぁ? 嘘をつくならもっとマシな嘘をつきなさいよね」
「本当だって。睦月とは仲が良いだけで、付き合ってない」
「まぁいいわ。それが本当だとして、どうして私を誘う訳? もっと仲の良い子でも誘えばいいじゃない」
さっきからイライラした口調なのも原因かもしれないが、それを言われると喉が詰まる。
援護を要求する! と教室の端にいる二人を見ると、石井からは視線をそらされた。金田はしょうがないと言った感じにこちらに歩み寄る。さすがイケメン金田だ。誰とは言わないけど、どっかの小太りした友達とは紳士レベルが違うな。
金田が何をするのかお手並み拝見で、腕を組んで見守る事にする。
「二次元のツンデレ需要はまだあるが、三次元のツンデレは損しかないぞ? ここはツンデレを止めてデレ谷になったらどうだ?」
紳士だけど、これは悪い予感しかしない。
このクラスでは暗黙の了解があり、釜谷に「ツンデレ」の単語を言ってはならないというものがある。釜谷自身、自分がツンデレとは思っていないようで、面と向かって「釜谷ってツンデレだよな」とか言おうものなら怒り狂ってしまう。
「誰がツンデレよ! ふざけた事言わないでよねっ!」
まさに今のように。
「あのな、これあくまで俺の意見だが、三次元のツンデレが好きな奴は絶滅危惧種と言ってもいい。そんな需要のないツンデレを演じて得があると思うか? 普通に考えて損しかない。ツン谷も利口な生き方をした方がいいと俺は思う」
まぁ言っている事は同意できる面もあるが、釜谷を全否定したぞこいつ……。
釜谷の扱いが上手い貴明に任せれば良かったと、ついつい思ってしまった。きっと貴明が一言二言呟けば「了解」の二つ返事が返ってくるだろうに。
「私忙しいから自分の席に帰る! もう話しかけないでよねっ!」
フンっとそっぽを向いて足を盛大に鳴らしながら歩く釜谷の後姿を見つめ、余計な援護をありがとうの意味を込めて、俺は金田の肩を叩く。
「せっかく助言したやったのに、どうしてツン谷は怒っているのか俺には理解できない。これだから三次元女は嫌いだ」
「金田! お前は何をやっている!」
お怒りモードの石井が鼻息を荒くして近づいてくる。これに限っては石井が怒るのも無理はない。誘うどころか好感度を必要以上に下げただけだしな。
「二次元なら今のでフラグが立ったぞ?」
「フラグはフラグでも死亡フラグだけどな!」
「石井は読みが甘い。この指摘によってツン谷を卒業し、デレ谷になる。そうなれば必然的にフラグを立てた俺に歩み寄ってくる寸法だ。これで旅行の件も安泰だな」
「その安っぽいシナリオ通りに行くわけがないだろ! 仮にフラグを回収しても旅行には絶対に間に合わない! せっかく森澤のお陰で西尾様とその友達の参加が決まったんだぞ!」
怒鳴り散らすのは一向に構わないが、「旅行」やら「西尾様」やら「参加」の単語を大声で言わないでほしい。睦月に聞かれたらどうするつもりだ。それこそ旅行どころの話ではない。
その魔力を放つ単語を聞いたクラスメイトの目が光ったような気がした。これは非常に由々しき事態だ。睦月にバレるのも時間の問題かもしれない。その前に我先と参加希望者が殺到するに違いない。
「楽しそうな話をしているじゃないか。その旅行俺も参加させてくれよ」
「俺らって友達だろ?」
「クラスメイトのよしみでさー」
そう思った矢先だった。数人の行動力あふれるクラスメイトが歩み寄ってくる。
「チッ……。別に構わないが、女性から金は取らなくても男は自腹だぞ? 結構なホテルに泊まるからな。高校生の財政状況だと夏休み遊ぶ金が全て吹っ飛んでも足りるかどうか。それでもいいなら大いに参加してくれ。もちろん俺達は無料招待券があるから問題ないがな。わーはっはっは!」
高らかに笑う石井を尻目に数人のクラスメイトは苦い表情をする。
「ねぇ和人? その話を私にも詳しく聞かせてくれない?」
「ヒィ……」
背中に嫌な汗がダラダラと流れる。入口の方を見れば笑みを浮かべている睦月の姿があった。
笑顔なのに目が据わっておらず、言葉では表せないプレッシャーが肌を刺激する。そのおかげで変な声が出てしまった。
怒り狂う睦月の後ろでは両手を合わせて「ごめん」と口パクをする貴明がいた。これはもう明日の太陽は拝めないかもしれない。
俺の側までくると胸倉を掴んで軽々と持ち上げる。
十センチほど俺は宙に浮き、それと一緒に息が詰まる。
全体的に細めの体のどこにプロレスラーもビックリな腕力が隠されているのか、その場にいた全員が疑問に思いながら場が静まり返る。
「た、助け、て……」
今にも消えて無くなりそうな俺の声で場の時間が再び進み始めた。
「か、和人を離してよ! 彼女さんは何か勘違いをしているよ!」
「勘違い? 私に内緒で彼女と一緒に旅行に行くのが勘違い? それとも和人が生きている事が勘違い?」
「全部だよ! ね、石井くん!?」
「そ、そうとも! 琴田さんをビックリさせようって内緒にしていただけだ! ね、金田!?」
「森澤はサプライズで粋な計らいを計画していただけだとも! ね、森澤!?」
コクコク。俺は薄れゆく意識の中、最後の力を振り絞って頷く。
何だかんだ言っても最後は友達である。こいつらの助け船がなかったら今頃は気を失っていただろう。助けてくれた三人に感動した。
話を聞いた睦月は胸倉を離す。
数秒とはいえ、突然息を止められた俺の体はフラフラだった。両足で着地する事ができず、そのまま尻もちをつく。
「そうとは知らず……和人ごめんね!」
床に座っている俺の腹部めがけて突っ込んでくる睦月。
フラフラな体ではその威力を受け止められるはずがなく、そのまま後ろに勢いよく倒れ、後頭部を強打した俺の意識はそこで途絶えた。
「残り一枠どうする? 釜谷さんにもう一度挑戦するか、それとも加名盛さんを誘うか……。お前達の意見はどうだ?」
三時間目が終わってからの休み時間、俺達四人は再び教室の端で作戦会議をしていた。ちなみに二時間目は気絶したため保健室で過ごす事になった。
怒り狂う睦月をなだめるためとはいえ、当初の計画から少しズレてしまい睦月の参加が確定した。そして現在七名の参加者が決まっており、残りは一人となっている。
「俺はお前の意見に合わせる」
「石井くんの好みの問題だからね。僕も和人と同じ意見」
「以下同文」
俺、貴明、金田は全ての決定権を石井に託した。
「うむ。では加名盛さんを誘おうと思うが、それでいいよな?」
「了解。ただな、あのヒステリック娘を誘うならそれ相当の度胸が必要だぞ?」
「どうしてだ?」
「あいつって風紀に厳しいだろ? 若い男女がイチャイチャしてみろ。すっ飛んで止めに入る。それこそひと夏のアバンチュールとか言ってられない」
下校途中で何度それで追われたのやら。今となっては良い思い出には決してならないが、ヒステリック娘にも仕事があるから仕方ない。
石井は二重アゴに手を置いて考え始める。
「……それはよくないな。よし、なら釜谷にもう一度アタックだ! 森澤と金田は失敗したから、村井に頼んでもいいか?」
「別にいいよー。んじゃ、ちょっと行ってくるね」
先ほどの失敗は俺達のミスだが、貴明に任せれば何とかなるだろ。
かなり機嫌が悪そうに次の授業の準備をしている釜谷に近付き、耳元で何かを囁く。たったそれだけだった。
ほんの少し釜谷が考え、結論が出た所で立ちあがる。それから俺達の方に歩み寄ってくる。
「別にいいわよ」
俺達の目の前でフンっと鼻を鳴らして言い放つ。
「一応聞くが、何が?」
「か、勘違いしないでよねっ! 別にあんた達なんかに興味はないけど、しょうがないから行ってあげるわ!」
「だから何が?」
「旅行よ! 他に何があるって言うのよ! バ、バイトでいつも忙しいから、たまにはのんびりと旅行もいいかと思っただけよ! 勘違いしないでよねっ!」
フンっともう一度鼻を鳴らして自分の席に戻って行く。
俺達は顔を見合わせ、軽いステップでこちらに歩いてくる貴明を見る。
「なぁ、いったい何を言ったんだ?」
「ん? 別に対した事は言ってないよ。ちょっと疑問に思っている事の真実を教えただけだよ」
意味が分からない。
再び三人顔を合わせるものの、頭に浮かぶのは「?」のマークだけだった。
「ふふふ、これで全員の了解が取れたんだから別にいいじゃない。それで旅行はいつにするの?」
それもそうだと、再び教室の端で旅行の日程について作戦会議を始めた。
2
今日の授業日程が全て終わり、朝西尾と約束したショッピングデートとやらで一駅先にある大型ファッションビルにやってきた。
以前からこのファッションビルに一度は足を運ぼうかと思っていが、何せ家からだとバスと電車を乗り継いで行かなければならない。そのためいつも計画倒れして、今日初めてやってきた。
ファッションビルとだけあり、メインはブランド物の洋服屋となっている。二階と三階でレディース関係の店舗が建ち並び、四階にはメンズ物が売られている。一階にはオシャレなカフェや洋菓子屋で埋め尽くされている。五階には品ぞろえ豊富な本屋にゲームセンター、その他にも雑貨屋がある。六階は全てレストランなどがあり、見て周るだけでも一日は十分に堪能できそうだ。
駅周辺にあり若い層をターゲットとしているのか、辺りにはオシャレな大学生や学生服を着込んだ学生の姿がメインとなっている。近くのカフェではコップを片手に雑談を交わしている女子高生の姿もチラホラと見られる。
学校を出る時に睦月から色々と探られたが、石井と金田に頼んで口裏を合わせて睦月の手から逃れた。俺には前科があるため、ちょっとやそっと口裏を合わせたところで信用してもらえず、ものすごいジト目で見られたが、結論からいえば貴明の「彼女さんを喜ばせようと旅行の計画を三人で練っているんだよ」その一言で全て丸く収まった。
「へー、いろいろあって面白そうだな」
入口近くにある案内板に目を通しながら呟く。
「和くんは着た事ないの?」
「初めてだ。前から何度か貴明と一緒に来ようと思っていたけど、ぜーんぶ計画倒れ」
「私でよかったらいつでも付き合うからね!」
「そりゃありがたい」
「うん! ……そ、それでね、和くん」
珍しく煮え切らない態度で、そっと俺に手を差し伸べる。
これは……俺に手をつなげと? こんな公共の場で可愛い西尾と平凡な俺が手をつなげと? それは拷問というやつですよ西尾さん。俺にも甲斐性が少しでもあるなら、手だろうが何だろうがつないであげられるけど、骨の髄まで平凡人生を今まで歩んできた俺に甲斐性はまるでない訳で、その気持ちに答えられそうにはまるでない。
どうしたものかとその手を見つめていると、ギュッと目を閉じて素早く俺の手を握ってくる。
「へへ。久しぶりに和くんの手だ」
その時浮かべた西尾の幸せそうな表情が可愛くて、俺は直視する事ができなかった。
「うっ……は、恥ずかしいから手をつなぐのは勘弁してくれ」
「だって和くんから手も握ってくれないし、キスもしてくれないし、ギューってしてくれないもん……。だから今日ぐらいはいいでしょ?」
そう言われれば俺から手を握った記憶も、キスした記憶も、抱きついた記憶もほとんどない。大抵は西尾からのアプローチがあっての出来事だ。
「……そうだな、今日ぐらいはいいかもな」
西尾は頑固だからな。ここは俺が折れないと。恥ずかしいけどこれもこれで悪くはないし、それに誰も俺達なんて見てないしな。
「うん! 和くん初めてだから今日は私がエスコートしてあげるね!」
俺より頭一つ分小さい西尾に引っ張られるように歩く。これだと恋人というより、休日に仲良し兄妹が遊びにきたような感じかもしれない。いや、高校生にもなって兄妹で手をつなぐ人はいないか。そしたら周りからどんな風に見られているのだろうか? やっぱりカップルなのか? まぁ何でもいいや。どう思われても俺達がカップルなのに変わりはないからな。
道行く人から西尾限定で注目を浴びながら、エスカレーターに乗ってレディース物が売られている二階を目指す。
さすがはオシャレを愛す女性と言ったところだろうか。一階にもたくさん人が居たが、それとは比べられないほど人でごった返している。どこを見ても綺麗な大人の女性や学生服を着こんだ女子高生で、俺達のようにデート中のカップルもいるにはいるが、それでもごく少数だった。そんな彼らと違う点があるとすれば、彼らはデート慣れしている事だ。もう少し彼らを見習わないとな。
そして本日の目的である水着が売られている一角にやってきた。シーズン中だけの特設なのか、はたまた年中営業しているのかは分からないが、水着を売っている店舗の中には若い女性がまばらに入っている。
当たり前だがレディース売り場にメンズ品があるはずがなく、男性の姿は俺を含めて二人だった。俺より先に彼女に連れてこられたと思われる男性は、気に入った水着を服に当てている女性から一歩引いた位置で気まずそうにソワソワしている。俺も後少ししたら同じ運命をたどるのかと思うと、かなり複雑な気分になる。
「なぁ、俺ここで待っていたらダメか?」
後一歩で店に入るところで俺からの提案。
「だーめ。和くんが気に入った水着じゃないと意味ないもん」
ですよね。そんな返事が返ってくるのは目に見えていたとも。
腹をくくりウキウキ状態の西尾に引っ張られて店の中に入る。
水着専門店とだけあり、ベビー水着から成人用水着まで幅広くおかれていた。もちろん全てレディース用だ。
種類も豊富そうでメジャーなビキニやワンピースを始めとして、ビキニより大幅に面積の広いが可愛らしいタンキニ、それこそ誰が着るのと言いたくなるようなセクシーなビキニ。花柄で可愛くあしらった水着もあれば、フリルのついた水着など、普通の水着だけではなく可愛らしい様々な水着がおかれていた。
子ども用の水着は可愛さがメインだが、西尾が着る成人用水着はちょっと大胆な作りになっており目のやり場に困る。
「和くんはビキニかワンピースどっちがいい?」
あれでもない、これでもないと水着を物色しながら西尾は言う。
「ん~、ワンピースかな」
「ビキニはあまり好きじゃないの?」
「いや、好きか嫌いかと言えば好きだけど、西尾のビキニ姿を直視できる自信がない」
「ふふふ、なにそれ。だけど和くんがワンピースの方が良いって言うならワンピースにしよっと。ビキニで悩殺したかったけど、今回は諦めるね」
その時ふと脳裏に以前見た西尾の下着姿が浮かんだ。下着もビキニタイプの水着もそれほど違いがなく、脳裏に浮かんだ姿だけで俺の頭はいっぱいいっぱいになる。「ビキニがいい」と言わなくて心の底から正解だったと思う。
頭の中が落ちついた所で何となく同士の彼の事が気になり、辺りをキョロキョロと見渡す。
名前の知らない彼と目が合う。
お互い口には出さないが、お互い大変だな。と言った感じのアイコンタクトを交わす。
「和くんこれなんかどう?」
最初に手に取った水着は、胸元が白色でそこから下にかけて徐々に黒くグラデーションがかっている。洋服のワンピースの用に横に広くスカートが伸びるのではなく、自分の体形を包むような形のスカートだった。それでも多少の有余があるようでピチッと完全にくっついてはいない。それこそ洋服のワンピースを大胆にも、腰のあたりで切断したような感じだった。フリルなどは一切ついておらず、お上品なお姉さま系の水着を服の上から重ねるように見せてくれた。
今までワンピースタイプの水着と言えば、競泳用水着をちゃちゃっと可愛くあしらった物だと思っていたが、最近ではこういったいかにもワンピースって水着がある事に少し驚いた。
「可愛いと思う」
ちょっとぶっきら棒だったかな。と言った後に後悔したが、それでも本音だ。西尾は俺とは違い顔がものすごく良い。黙っていればお嬢様にも見られなくもない。落ちついた大人の水着も結構合うものだと観察する。
「和くん気持ちがこもってないから次!」
俺の返事が失敗だったようで、ちょっと口を尖らせながら再び物色し始める。
「西尾的には何の水着が着たいんだ?」
あれこれ気に入った水着を探す西尾の背中に問いかける。
「ん? そうだねー……。ワンピースも可愛いけど、やっぱりビキニの方が好きかな」
「ならさ、ビキニにしよう?」
「だってそれだと和くん恥ずかしがって見てくれないもん。それだと意味ないの。……あー! これどう!? ビキニとワンピース別々にできるよっ! 時と場合で変更できる優れものだよっ!」
次に見せてくれた水着は全体的に無地の白いワンピースだった。それでもシンプルすぎず、胸元についた大きな黒いリボン、トップの上の方には大きすぎず小さすぎないフリルがある。トップからボトムにかけて透けてしまいそうな薄めのワンピースで、ボトムは胸元と同じ大きめのリボンが腰付近についたスカートだった。トップとボトムが別々になっているため、一見するとワンピースタイプと言うより、ビキニタイプだった。さらにはワンピースとスカートを取り外してビキニとしても使える。その時の場面でワンピースになったり、ワンピースを取り外してトップとスカートにしたりと、はたまたビキニだけになったりと、三種類の着こなし方がある。
さっきのワンピースもよかったが、これはそれ以上にくるものがあった。それに西尾が着たがっていたビキニにもなるしな。
「それ凄く良いと思う。可愛くて似合っているよ、西尾」
「へへっ、ちょっと試着してみるね!」
次の返事は正解だったようで、西尾に手を引かれながら端の方に設けられた試着室まで連れてこられた。「ちょっと待ってね」と言い残して嬉しそうに水着を胸に抱いて試着室に入って行く。
それから直ぐの事だった。もう一組のカップルも気に入った水着が見つかったようで、彼女に手を引かれるように試着室にやってきた。彼女が試着室に入り、俺同様に試着室の前で待機している。
お互い顔を見て「ははっ」と何となく笑いあう。
「彼女ですか?」
いかにも優男といった感じの彼はニコニコと笑みを浮かべて問いかけてくる。
「一応そのような関係ですね」
「すごく可愛くて羨ましいですよ」
「いやいや、チラッとしか見ませんでしたが、そちらの彼女も綺麗な方ですね」
「ははっ、外見だけはそうらしいですね。でも中身は酷いですよ。暴力振るうし、男勝りだし……。あと、彼女じゃなくて妹なん――」
直後だった。その妹らしい人の足が試着室のカーテンから伸びてきて、そのまま優男の腹部にめり込む。優男は「うっ」と小さく呻いてからその場に膝をついた。
何と言う逆ドメスティックバイオレンスだろうか。まるで睦月と皐月を合体したような妹さんのようだ。
「だ、大丈夫ですか!?」
「ははっ、慣れっこなので大丈夫ですよ」
その言葉に絶句する。
慣れっこだって? 普段から暴力に物を言わせて兄をいいように使っているのか? 恐るべし逆DV妹。失礼だが俺の身内には暴力を振るう人がいなくてホッとした。身内じゃなかったら一人心当たりがあるけどね。今日もその人のせいで気絶したし。
「……実は俺の家にも一人暴力を振るう子がいるんですよ。今日だってその子に保健室送りにされましたし」
「ほ、本当ですか!?」
「本当ですよ。お互い苦労しますね」
「全くですよ。どうして暴力を振るうのか僕には理解できません」
「うんうん。我が家の暴力女も西尾――彼女の名前ですけど、西尾みたいに素直な可愛らしい性格になってほしいですね」
「やっぱり女性は可愛らしい性格がいいですよね。ボーイッシュで暴力振るうから異性じゃなくて、同姓ばかり妹には集まるんですよ。全く兄としてアブノーマルな妹で恥ずかしい限りです」
店の床に座りながら二人でうんうんと頷き合っている時だった。
シャーと勢いよく試着室のカーテンが開いたと思うと、そこにはトップだけビキニ姿の鬼が立っていた。
「ヒィ」
優男の口から怯えきった声が漏れる。
実の兄からボロクソに言われて着替えの途中で我慢の限界がきたのだろう。
害虫を見下すように仁王立ちの優男の妹から異常なプレッシャーを感じる。ああ、この優男は確実にフルボッコだな。と人知れず俺は思うのだった。
「へー、お兄ちゃんは私の事をそんな風に思っていたんだ。今まで知らなかった」
その声は迫力があり、無関係の俺も少しビビって正座になってしまった。
チラリと隣の優男を盗み見れば、元から色白の肌が蒼白になり、額に一つの汗が流れおちる。
「ははっ、軽い冗談に決まっていますよ」
「ふーん。私も軽い冗談でお兄ちゃんを殴りたくなってきたけど、別にいいよね? 軽い冗談だし。私が出てくるまで大人しくしていろよ」
そしてカーテンが閉ざされた。中からゴソゴソともの凄いスピードで着替えている音が聞こえる。
「な、なぁ、ここは逃げた方がいいと思いますよ」
コソコソと妹さんには聞こえないように呟く。
「それだけはダメです。逃げたら普段の倍以上やられます」
「酷い……。どうして妹さんは暴力を振るうんですかね?」
「愛情表現みたいですよ。前に一度聞いた事があります」
「なるほど、逆を言えば妹さんから好意を抱かれていると?」
「らしいですね。実の兄を大好きって……それこそアブノーマルですよ」
ははっと優男は苦く笑う。
「少し前まで妹には内緒の彼女がいました。その彼女とデート中に妹とばったり会っちゃいまして、それこそ一方的な暴力でした。元彼女ともそれっきりです……。もう勘弁してほしいですよ」
かける言葉が見つからなかった。
それを最後に二人して黙り込んだ。
刻一刻と迫る妹からの暴力を優男は体を震わせて待っており、未来の想像でもしたのだろうか。小刻みに震えだした。
それから直ぐだった。
豪快に試着室のカーテンが開かれ、ちょっと派手なビキニを片手に仁王立ちで優男を見下す。
「お兄ちゃん。この水着気に入ったから買ってくれない?」
「は、はぃー!」
優男の妹は未だに座っている優男の腕を握り締めて強引に立たせる。
そのままの状態でレジに行くと素早く会計を済ませ、無言のまま店から出て行った。
薄くなった財布を片手に力なく肩を落とす優男の後姿に合掌する。
「かっずくーん! どうどう? 似合う似合う? へへっ」
さっきまでのやり取りを聞いていなかったのか、嬉しそうにカーテンを開けて西尾がクルンとその場で一回転する。着るまで気がつかなかったが、ワンピースを着ていても背中がぱっくりとセクシーに開かれていた。
緊迫した雰囲気から一変し、今にもお花畑を浮かべそうな西尾の行動にホッとした。
「あれ? どうして正座しているの?」
「ん、何でもない。それより水着すごく似合っているよ」
「へへっ、ちょっと待ってね」
そしてモゾモゾとワンピースをその場で脱ぎだす。
「どうどう?」
トップとスカートになる。
ワンピースの時はそうでもなかったが、トップだけになると何と言いましょうか、胸が強調されたと言いますか……。ついつい視線が谷間に移るといいますか。いかんいかん。不純な思いで西尾を見るのは良くないな。
「うん、それも似合っている」
「へへっ、んじゃ最後はジャーン! どうどう!?」
素早くスカートを脱ぐと、そこには完全にビキニスタイルの西尾の姿が。
うっ、さっきはスカートで下半身を少し隠していたから何とかなったが、それを脱いでしまうと胸の奥から悶々と何かが込み上げてくる。
「い、良いと思うよ」
直視する事ができず視線を床に落とす。
「悩殺された?」
「された! されたから早く着替えてくれ!」
我慢できずカーテンを強引に閉める。
中から「うわっ」とビックリした西尾の声が聞こえてきたが、直後に「へへっ、和くん照れちゃった」と聞こえてくる。
試着した水着をそのまま購入し、その足でせっかくだからと四階のメンズ売り場で同様に俺も水着を購入した。ちなみに西尾が選んでくれたトランクスタイプの水着で、西尾とおそろいで可愛らしいフリルやリボンのついた水着……ではなく、割とセンスを感じるような水着を購入した。
そして今は休憩を兼ねて一階にあるオシャレなカフェで俺はコーヒー、西尾は抹茶ラテを美味しそうに飲んでいる。
長い事水着選びに時間を費やしたと思ったが、実際はそこまでだった。今から帰ればもしかしたら最終のバスに間に合うかもしれない。
「なぁ、今から帰ればバスに間に合うかも」
何となく返ってくる返事は予想できるが、一応聞いてみる。
「和くんは私の家でお泊りでしょ?」
「いや、ほらあれだ。突然押し掛けても西尾のお母さんに迷惑かけるだろ?」
「それなら大丈夫だよ。お母さんにはメールしたら喜んでいたよ」
何と強引な……。
「……ははっ、会うのが楽しみだ」
「変な和くん。それでこれからどうする? せっかくだしもう少し見て周る? それとも私の家に行く?」
「その前に家に電話してきてもいいかな?」
「うん、私ここで待っているから行ってらっしゃい」
「りょーかい」
荷物をその場に置いたまま携帯電話を持って、迷惑にならないようにいったん外に出る。
睦月が出ませんように。と心の中で祈ってから家の番号に電話する。一応母さんは携帯電話を所持しているが、まるで機械がダメで電話をしてもほとんど出てくれない。
プルプルと呼び出し音が鳴る。
『もしもし森澤です』
「あっ、佳苗か? 俺だ」
出てくれたのが佳苗でホッとした。
『兄さん? 今日帰り遅いね』
「あー、ちょっと野暮用で今日は帰らないから、母さんにご飯いらないって伝えてくれるか?」
『……お母さーん! 兄さんが西尾さんの家に泊まるから明日赤飯ねー!!』
「ちょ、お前なに叫んでいるんだよ!?」
『だって本当の事でしょ? あっ、睦月さーん。兄さんが西尾さんの家でお泊りだってー。明日は赤飯だってー』
さっきドタドタとうるさかったのは睦月の足音か。
背筋に汗が流れた。もう終わった。理由はしらないけど、睦月は西尾を嫌っている。そんな西尾の家に泊まると知ったら……。さっきの優男と同じ末路を歩むことになる。
『……和人?』
ドスの効いた声が聞こえる。
「む、睦月か?」
『帰ってこなかったら分かるよね?』
ミシッと不吉な音が聞こえてきた。
「お、俺は西尾の家に泊まらないぞ? 石井の家に泊まるつもりだ」
『なら石井くんに電話代わってもらえる?』
「琴田さーん。石井だけど――」
『ふざける暇があるなら帰ってきなさい。帰ってきたら許してあげるけど、帰ってこなかったら明日地獄を見る事になるから』
俺のモノマネセンスはまるでなく、速攻でバレてしまった。そして睦月はそれだけを言うと電話を切った。
ツーツーツー。
ヤバい。これは非常にヤバい。このままでは明日学校で何をされるか分かったものじゃない。何としても帰らなければならない。俺の生命のためにも。
俺は西尾が待つカフェに走った。
「西尾ごめん! 帰らないと睦月に殺される! と言う訳でまた明日なっ!」
荷物をまとめて店から出ようとした所で腕を掴まれた。
振り返れば珍しく真剣な表情をする西尾の顔が目に入る。
「和くんは私より琴田さんの方が大切なの?」
「もちろん西尾の方が大切だ」
「なら別に帰らなくていいじゃない」
「睦月の恐ろしさを知らないから、そんな事が言える。今まで睦月に何度気絶させられた事か……。もしかしたら明日は腕の骨を折られるかも」
想像するだけで腕が痛みだした。
「あのね、和くんと琴田さんとは一緒に暮らしているけど、私は学校でしか和くんと一緒にいられないの。デートだってたまにしかできないし、和くんの家に遊びに行っても琴田さんに邪魔される。私と和くんが二人っきりの時間はほとんどないんだよ?」
確かにその通りだ。仮にも俺達は恋人同士なのに、一緒にいる時間はほとんどない。学校でも睦月や貴明が俺の周りにまとわりついて、西尾と二人っきりにはまずならない。自分の体が可愛くて西尾に酷い事したなと罪悪感を覚えた。
明日は素直に睦月に殴られようと思い、俺は先ほどの椅子に座り直す。
これでいい。俺と西尾は付き合っている訳だし、何を言われても睦月を優先する必要は全くない。
「今日は西尾とずっと一緒だ」
冷めきったコーヒーを一気に飲み干す。
「和くん好き好き」
真剣な表情はもうどっかに行ってしまったようで、いつもの笑顔がそこに広がっていた。やっぱり西尾には笑顔が似合う。
「俺も西尾が好き好き」
かなり照れくさいが、別に構う事はない。俺達の会話を聞いている人なんて誰もいないわけだしな。
3
元から若く見えるのか、それとも化粧のおかげなのか区別がつかないが、西尾の母親は若々しく見えた。それでも俺の母さんと似たり寄ったりな年齢のため、二十代の前半とか二次元の特有の若さではない。ほんの気持ち程度の若さだった。
顔つきも西尾そっくりで、西尾が老けたバージョンが母親だった。娘は父親に似た方が美人になると言うが、これは母親に似て正解のように感じる。性格もどことなく似ている点があり、それはもう二人同時に西尾を相手にしているような感じだ。非常に疲れる。
あの後すぐに西尾家にお邪魔し、歓迎ムードで西尾の母親が出迎えてくれた。それはもう引いてしまうぐらいの歓迎だった。普段の母親はどうか知らないが、彼氏の前で恥をかきたくない西尾は怒ってばかりだった。これはどこの家庭も同じみたいだ。
「ところでさ、森澤くんはマコちゃんとどこまでいきました? 詳しく聞かせてくださいよ」
そしてただいまリビングで談話中だ。夕食をご馳走になり、先ほどから「マコちゃんといつ付き合ったんですか?」やら「マコちゃんのどこが好きですか?」やら飽きることなく色々な質問をされてきた。西尾のお母さんは西尾の事を「マコちゃん」と呼んでいるみたいだ。一つ発見した。
今までとは比べ物にならないぐらいストレートな質問に、俺は飲んでいたお茶を噴き出しそうになる。
それを寸前で我慢して「どこまでいきました?」の意味を考える。先ほどまでのショッピングデートの事だろうか。それともキスまでやら、既に体の関係の仲だとか聞きたいのだろうか。俺の予想では後者だと思う。
「もう! 変な事言わないでよっ!」
西尾も俺と同じ結論にたどりついたようで、顔を真っ赤にして机を叩く。
「キスしちゃいました? それともその先までいっちゃいましたか?」
娘の話を全く聞く様子はなく、笑みを絶やさず問いかけてくる。
俺にどうしろと? 体の関係までいっちゃいました。とか何気なく言えばいいのか? それとも話を濁すのが正解なのか?
全ての判断を西尾に託そうと見れば、何の迫力もない睨みで母親を見ていた。
「ははっ、ご想像にお任せします」
「教えて下さいよー。マコちゃんに聞いても教えてくれないし、母親としてマコちゃんの成長を見守りたいんですよ。私の予想だと、もうやっちゃったと思います。どうですか?」
何が嬉しくて彼女の母親と夜が更ける前に下ネタトークをしなくっちゃいけない。これは新手の拷問か?
「いい加減にしてよ! 和くん私の部屋に行こう!」
我慢の限界にきた西尾は俺の手を引いて立ち上がろうとする。が、それを母親の手によって阻まれる。片方は西尾に掴まれ、もう片方は母親に掴まれている状態だ。
「ちゃんと話してくれるまで行かせませんよ」
「もう! 別にお母さんには関係ないでしょ!」
「あるわよ。だってマコちゃんの初めての彼氏でしょ? やっぱり気になるじゃない」
「キスまでよっ! これでいいでしょ!?」
「ふふふ、体の関係までいっちゃいましたか」
「キスまでですー!」
「マコちゃんって嘘が下手すぎ。いっつも嘘ついたら顔にでるんだから」
そうだったのか。それは知らなかった。今度一度じっくり観察してみよっと。
母親に何もかも見抜かれて言葉にならない叫び声を西尾はあげる。
「そ、そだよ! だから和くん離してよっ!」
満足そうな笑みを浮かべ俺の手を離してくれた。
「ふふふ、今夜はお楽しみね。後でパパに報告しなくっちゃ」
リビングから逃げるように出て行く俺達の背中に言い放つ。
「もう! お母さんなんて大っ嫌い!」
最後にベーっと舌を出してリビングのドアを乱暴に閉める。
ドンドンと足を鳴らして階段を上り、二度目になる西尾の部屋に入る。
西尾は「もう」と呟いてからベッドにダイブする。俺は苦く笑ってからベッドを背もたれにして床に座る。
「和くん、変なお母さんでごめんね」
顔だけをこちらに向けてそう言う。
「ははっ、ちょっとビックリしたけど、優しそうなお母さんだな」
「普段はね、あんな恥ずかしい事は言わないよ! たぶん和くんがきて舞いあがっちゃたんだと思うの……」
「へー、それなら仕方ない。まぁ、西尾の話をたくさん聞けて俺は良かったけど。ね、マッコちゃーん」
「もう! お母さんの真似しないでよっ!」
「そう怒るなよマコちゃん」
「もう! お母さんも和くんも大っ嫌い!」
「ははははは」
やっぱり西尾をからかうのは面白い。
そんな時だった。制服のポケットに入れてある携帯電話が震え始める。
石井からのメールだった。簡単に説明すれば、旅行の日程が今週の土曜日と日曜日らしい。夏休みに入って次の日から旅行となる。割と人気のホテルらしくそう簡単に予約が取れないらしいが、運よく他の客からキャンセルが入ったらしい。そこに予約できたとか何とかメールに書かれてあった。
「なぁ、西尾。今週の土日に行くらしいぞ。真奈美ちゃんに伝えてもらってもいいか?」
「ん、分かったよ。ところでさ、前々から気になっていたけど、どうして真奈美ちゃんは名前で呼ぶのに彼女の私は名字なの?」
ベッドに寝転がりながら携帯電話を操作し始める西尾。
「真奈美ちゃんの名字を知らないからだ」
「なら真奈美ちゃんの名字を知ったら名字で呼ぶの?」
「今更だからな……。名字を知っても呼び方は変わらないと思うぞ?」
「えー、真奈美ちゃんだけズルイ。……ならさならさ、私も名前で呼んでよ!」
メールを打ち終わったのだろうか、携帯電話をポイッと放り投げて身を乗り出すようにベッドの上に座り直す。その表情はワクワクした子どものように輝いていた。
「マッコちゃーん」
「ちーがーうー! お母さんの真似じゃなくて、真琴って呼んで!」
「えー、恥ずかしいからイヤ」
「どうしてどうして!? 真奈美ちゃんは恥ずかしくないの!?」
「全然。だって別に何とも思っていない人だし。好きな人だと恥ずかしくって名前で呼べるはずがない」
「ふふふ、って事は私が好きだから名前で呼べないって事だね。照れ屋さん」
「男は照れ屋だから仕方ない。マコちゃんなら呼べそうだけど、どうする?」
「もうそれはいいのっ!」
いい加減にしないと本当に西尾が怒りだしそうだし、もう「マコちゃん」と言うのを止めようと思った時、今度は西尾の携帯電話が震え始める。
「あれ? お父さんから電話だ。どうしたのかな?」
俺の背中に一粒の汗が流れる。
そう言えば先ほど西尾のお母さんが「後でパパに報告しなくっちゃ」と言ったのを思い出す。大切な娘を見知らぬ男に取られ、大激怒の電話に違いない。
「な、なぁ、西尾。もしお父さんに電話を変わるように言われても、俺は家にはいないって事にしてくれないか?」
「どうして?」
今にも通話ボタンを押そうとしている西尾に言う。
もちろん俺が西尾家にいると知れたら、娘のためだと仕事から帰ってきそうだし。そうなったらお終いだ。
「どうしてでも。ダメか?」
「別にいいけど……。変な和くん」
そして西尾は通話ボタンを押して携帯電話を耳に当てる。
心臓がバクバクなっているのが自分でも分かった。
「もしもし、お父さん? ……うん、うん。和くん? 和くんはいないよ。だって帰ったもん。……本当だって。……もー、お母さんから変な事聞いたでしょ? あれはお母さんの冗談だって。……妖精? 私が妖精かって? 私は人間だよ? ……どうして泣いているの? ……もー、お父さんのバカ! もう大っ嫌い!」
そして通話終了ボタンを押す西尾。
なるほど、何となく話は見えてきたぞ。妖精とはつまりあれだ。口では言えないあれが未経験かって事で、西尾がそれを理解しないで「人間」と言った。つまり西尾のお父さんは勘違い――実際は勘違いじゃないけど、勘違いして号泣したと。その後に泣いた理由、つまりストレートに言った訳だな。お父さんの下ネタトークに怒って電話を切った。つまりはそういう事だろう。
西尾のお父さんが怒って泣いてしまう事に少し共感できる。もしミクちゃんに害虫が近寄って、何も知らない清き心に土足で入り込んだら俺だってブチ切れる。それこそ正義の鉄槌を浴びせても罪になるはずがない。うん、明日にでも貴明にミクちゃんの近況を教えてもらわないと。
それはもうプンスカ怒っている西尾は再びベッドに寝転がった。さて、いったい俺はどうしたものか。テレビもなければゲームもないこの部屋で、何をして時間を潰せと? トーク限定? 絶対に間が持たない自信がある。
そう言えば西尾が家に着た時は何をしていたっけ? ああ、そっか。いつも睦月と喧嘩して気が付いたら寝る時間になっていた。
コンコン。
ドアがノックされる音が響く。
「マコちゃん。お風呂沸かしたから、森澤くんと一緒に入ってきなさい」
「もー! お母さん変な事いわないでよ!」
また怒りだした。
この家に入ってから常に西尾は怒っているような気がする。まぁ彼氏がいる前で、ここまで親が暴走していたら怒りたくもなるか。
「なぁ、西尾。たまには一緒に入るか?」
「もー! 和くんまで!」
「冗談だ。ほら、入ってきなよ。俺はここでボケーっとしているからさ。それに怒ってばかりで疲れただろ?」
「……うん。ちょっとお風呂に入ってくるね」
少し元気がない足取りで部屋から出て行く。
本格的にやる事がなくなった今、携帯電話を取り出して佳苗に電話をかける。
数秒呼び出し音がなり、『どうしたの兄さん』すぐに機嫌が悪そうな声が聞こえてきた。佳苗は睦月の事が友達として大好きらしく、何かあれば睦月の肩を持つ。そのため西尾の事も得意ではないらしい。
「あー、睦月どうしている?」
『ご機嫌斜め。私の隣で和人のバカって言っているよ。睦月さんに代わろうか?』
そう言われれば確かに後ろの方で『和人のバカ』と何度も聞こえてくる。
「ん。代わってくれ」
『和人のバカ』
第一声がそれかよ。
「あー、睦月? 旅行は今週の土日に行くらしいぞ」
『うっさいバカ』
「俺が嘘ついて西尾と出かけたから怒っているのか?」
『黙れバカ』
「確かに嘘をついたのは悪いと思っているよ。だけど正直に言ったらどうせ西尾と喧嘩するだろ?」
『西尾真琴は大っ嫌いだからする』
「あのなー、どうして嫌いなのか知らないけど、もう少し仲良くできないのか?」
『無理。だって大っ嫌いだもん』
だめだこりゃ、全く話にならない。
「そうかい。……あのさ、西尾に二人っきりの時間がほとんどないって言われた」
『だからなに?』
「西尾とは付き合っているわけで……」
何て言えばいいか分からず言葉を詰まらす。
『イチャイチャしたいから邪魔するなって言いたいのね?』
「そうじゃないけど、たまにでいいから西尾と二人っきりの時間が必要と言うか……」
『へー、二人っきりで口では言えないあんな事やこんな事をしたいのね?』
「だからそうじゃないって。一緒に買い物に行ったり、喋ったり、ただ普通の恋人らしい事がしたいだけだ。ダメなのか?」
あれ? どうして睦月に了解を取ろうとしている訳だ?
そう言えば西尾に「和くんは私より琴田さんの方が大切なの?」とも言われた。西尾と付き合っているのに、俺はどこか煮え切らない態度をとっている。こうやって睦月にも良い顔をしようとする。それも踏まえて言われたのかもしれない。俺って彼氏失格だよな……。
「――やっぱり今の無し。西尾と二人っきりの時間を増やす。文句あるか?」
『開き直るのね』
「違う。俺と西尾は付き合っている。だから普通の恋人関係みたいになるだけだ」
『……話はそれだけ?』
「いや、これから本題だ。睦月って水着もってなかったよな?」
『だからなに?』
「あのさ、明日学校が終わったら買いに行かないか?」
彼氏失格とか思った矢先にデートの誘いとはえらく矛盾しているが、何せ睦月はパートナーだ。パートナーのご機嫌取りもたまには必要だ。そう自分自身に言い訳を言い聞かせる。
たっぷりと五秒ぐらいの沈黙。
『……別にいいけど』
ちょっと機嫌が直ったのか、声が少し弾んでいるように感じた。やれやれ、お姫様のご機嫌取りも楽じゃないな。
「りょーかい。んじゃ、また明日」
『私がいないからって、西尾真琴とえっちー事したらダメだからねっ!』
「しねーよ! 家に親いるんだぞ!」
『どーだか。男って隙あればオオカミになる生き物だしね』
「長いこと睦月と生活しているけど、一度も手を出してないだろ!?」
『それは私に隙がないからよ。心の中では毎晩ムンムンしているでしょ? だってこーんな美人と毎日一緒の部屋で寝ていたら誰だってムンムンするって。自分に正直になったらどう?』
「してねーよ! 用件はそれだけだし切るな!」
返事を待たずに通話終了ボタンを押す。
やれやれ、機嫌が直ったらこれだよ。睦月は本当に俺をいじるのが好きなようだ。まっ、これでいつも通りの関係に戻ったみたいだし良しとしましょう。
何事も平和が一番ですよ平和が。
電話を終えてから大体四十分ほど退屈な時間を過ごし、西尾が風呂から帰ってきた所で交代する。
普段から長湯するタイプではないが、何があっても対処できるようにと、それはもう体の隅々まで綺麗に洗った。睦月に親がどうのこうのと言ったが、下心がまるでないとは言えない。一般の男子高校生なら当たり前だ。許されるならどこぞの怪盗のように、「ま~ことちゃ~ん」と言いながらダイブだってしてみたい。
体を何度も洗いながらピンク色の妄想が頭をよぎり、湯船につかれば「さっきまで西尾が……」と中学生みたいな事を思い、その結果すっかりのぼせてしまった。
ボーっとする頭で西尾の部屋に帰還する。ちなみに服は西尾兄のを借りている。その西尾兄の姿を見ないので、今日は帰ってこないらしい。
西尾の部屋には布団一式が追加で敷かれていた。ホッとした反面、少し残念のような気もする。
特に何かをする訳でもないので、今は電気を消してそれぞれの布団の中に入っている。ただ、普段ならバリバリ活動している時間帯なので、眠気は全くない。西尾もそうなのか、先ほどからモゾモゾと寝返りばかりうっている。
「なぁ、西尾?」
「なーに?」
「いつも家で何しているんだ?」
最近すっかり忘れていたが、西尾は勉強がとてもできる。テレビがないのもそれが理由かもしれない。
「ん~、宿題とか予習復習とか? 今まで気にしてなかったから分かんないや」
ははっと恥ずかしそうに笑う。
「和くんは?」
「そうだな……。俺も普段考えないから分かんないけど、睦月とゲームしたり、屋根から星空を見たり、後はそうだな……ミクちゃんに会いに行ったりかなー」
「ミクちゃんって誰!?」
「貴明の妹。これがすっごい可愛くてさ、写メあるから見てみろよ!」
ミクちゃん専用のフォルダを開く。そこには俺がミクちゃんを抱っこし、お互い頬をスリスリしている姿がディスプレイに映っている。その後ろにこっそりと石井がピースしていた。昨日プールの帰りに撮ったやつだ。プールで写真を撮ったら事務所に連行されるからな。
ベッドの端に腰かけ、西尾の顔に携帯電話を近づける。
「昨日さ、ミクちゃんをプールに連れてってあげてさ、その帰りに撮った! な、可愛いだろ!」
「ちょっと待って、昨日って確か用事があるから遊べないって言ってなかった?」
あっ、そう言えばそうだった。
「ははっ、溺愛する愛娘をプールに連れて行きたかった父親心と言いますか……」
「あり得ないと思うけど、和くんってそっち系?」
「いやいや、それはないから安心しろ。ミクちゃんは愛娘のカテゴリーに入るから大丈夫だ!」
「なにそれ……。だけど浮気じゃなくてよかったー」
「浮気は絶対にしないから安心しろ。西尾も浮気だけはダメだぞ? するならするって事前に言ってくれ」
「言ったら許してくれるの?」
その場面を想像。うん、絶対にショックを受ける自信があるな。
「……もう寝る」
携帯電話を枕元に置き、西尾に背を向けてタオルケットを被る。
「怒った?」
「違う。西尾が浮気する想像して落ち込んでいるだけだ」
「ぷっ、和くんカワイー。……私も浮気しないから大丈夫だよ」
その返事を聞けて俺はホッとした。
「ん。……おやすみ」
「おやすみなさい、和くん」
たまにはこんな風に違う夜を送るのもいいかもしれない。
眠くはないけど目を閉じていたら知らぬ間に寝ているだろう。そう思いギュッと目を閉じる。
「普通に寝ちゃうとかつまんなーい」
「!?」
ドアの方から声が聞こえたような気がする。西尾も勢いよくベッドから体を起こしている。
「お母さん!」
悪そびれた感じはなくニヤニヤしながらドアを開けて顔だけ覗かせる。
「あら、別々で寝ているのね。ふふふ、お母さんの事は気にしなくてもいいのに」
「もう! 何やっているのよっ!」
「森澤くん!」
えっ? 俺ですか?
夕食時もそうだったが、西尾のお母さんはあまり話を聞かないようだ。
「……なんでしょうか?」
「マコちゃんは待っているよ! 男の子だったら行かなきゃ!」
そうだったのか!
「早く出てって!」
またプンスカ怒った西尾はドアに向かって枕を投げる。
「ふふふ、お母さんはもう寝るからね。もうこないから安心して。おやすみー」
ドアを閉めて直撃を回避し、トントンとリズムよく階段を下りて行く。
そうだったのか。西尾は待っていたのか。
「なぁ、西尾? 待っていたのか?」
ついつい聞いてしまった。
「もう! 和くんも変な事いわないでよっ!」
「だって西尾のお母さんが……。実際はどうだ? そういった経験全くないから分からなくて……」
「ないですー! お母さんがくる前だったらありだけど、もう絶対にないです!」
「なるほど、次から気をつけます」
本音を言えばちょっと残念だったかな。
まぁ恋愛は体の関係が全てじゃないからな。ここは気を長くして待ちましょう。
4
それから旅行前日の金曜日まで瞬く間に日がすぎていった。
約束通り睦月と一緒にファッションビルまで水着を買いに行ったし、違う日には旅行に必要な物まで買いに行った。
そして寝る前に睦月と旅行の準備をしている訳なのだが、
「私ってひ弱で湯飲みより重たい物をもった覚えがないの。だから和人の鞄に私のも入れてよ」
睦月は準備する気がないようで、お決まりのメイド服でお茶をすすっている。
「あのなー、俺達は別々の部屋だぞ? それなのに俺の荷物に睦月のがあったら不便だろ?」
「いつもみたいに和人と一緒に寝るから大丈夫」
「大丈夫じゃねーよ! 男と女の部屋は別々、どうしてか分かるよな?」
「睦月わかんなーい。どうして別々なのか詳しく教えてよー」
それはもう憎たらしいほどのぶりっ子だった。
「この似非メイドめ。俺をからかって面白いか?」
「からかってないもん。ねーねー、教えてよー。和人お兄ちゃーん」
ミクちゃん限定だとグッとくるが、睦月が言っても何も感じない。睦月は妹キャラとしては落第点だな。まぁ実の妹がいる兄は高確率で妹属性はないと言える。なぜなら妹の暴君ぶりに世の兄は手を焼いているからな。
やれやれと、準備をいったん中止して睦月に向き直る。たまには悪ノリにマジになって返してみるか。
「あのな、もしだ。もし俺と睦月が一緒のベッドで寝るとする。そのベッドの近くにはクラスメイトの男子がいる。あり得ないだろ?」
「見せつければいいじゃない」
「……おーけー。分かった。そっちがその気なら俺もとことん説明してやる。まず正座しろ正座。……ストレートに言えば、付き合ってもいない男女が一緒のベッドで仲良く寝るのはおかしい。仮に俺達が付き合っていたとする。それでも人目ってものがある。それがクラスメイトなら尚更だ。分かるな?」
「ならどうして普段は大丈夫なの?」
「そうきたか……。よし、こうしよう。今日から別々の布団で寝る事にしよう。親の目を欺くために今まで一緒に寝ていたが、もう欺く必要はないと思う。睦月と皐月はベッド、俺は床で寝る。そもそも一人用のベッドを三人で使うこと自体が異常だったな。これで普段通り別々になる」
「睦月もう和人お兄ちゃんが隣にいないと寝られない体なの」
「お前だったら一日もあれば克服できるだろ?」
「睦月できなーい」
「……なぁ、いつまでこの茶番に付き合わないといけないんだ? いい加減飽きてきた」
「和人お兄ちゃんが一緒に寝るって言ってくれるまで」
なんてこった。
こんな時に限って皐月は留守――詳しく言えば三日ほど見てないし、どう収拾すればいいのか俺には分からない。いっそ一緒に寝るか? そうなれば西尾とは破局するだろうな。
「……もしかしたら寝ている睦月にイタズラするかもよ?」
「和人お兄ちゃんはヘタレだからしないよ」
真実だけど面と向かって言われるとグサッとくるな。
「俺がしなくても必ず石井はするぞ? きっと寝たふりして、こうモミモミと」
エアーモミモミを実演する。
「和人お兄ちゃんならいいけど、もし石井の変態が私に指一本でも触れたら屋上から吊るす」
目が真剣だった。「石井の変態が」の辺りから恐ろしくドスの効いた声になり、思わず情けない声を上げてしまった。
睦月が嘘や冗談で言っているのではないと直ぐに分かる。
「む、睦月さん。今後一切、何があっても睦月さんには決して触れないし、俺からは決して話しかけないので、どうか勘弁して下さい」
触らぬ神に祟りなし。
俺がここまで嫌がるのには理由がある。高い場所が得意ではないからだ。家の屋根ぐらいなら大丈夫だが、それ以上の高さとなると話は変わる。足がすくんでその場から動けなくなる。ついでに息もつまるおまけつきだ。そんなに酷くはないが、どちらかといえば高所恐怖症だ。もしホテルの屋上から吊るされたら……考えるだけで手足が震えてくる。
「だから和人お兄ちゃんはいいって言ったじゃない」
なるほど、それは俺を落とし入れる罠だな? 言葉では優しい事を言っても、なんたって暴力女だ。きっと佳苗から高所恐怖症の事を聞いたに違いない。
それから無言で荷物をテキパキとまとめる。もちろん睦月が用意した荷物もまとめてだ。適当にそこらへんに放置し、一階の客間に行く。無言になっても「和人お兄ちゃーん」と甘えた声で何度も話しかけてくるが、知らない顔をして回避した。
客間の押し入れから客用の布団を取り出し、この家唯一の安全地帯に向かう。
コンコンコン。
「ちょっといいか?」
安全地帯。それは佳苗の部屋だった。
どういうわけか、佳苗の部屋だけ鍵がある。きっと元が両親の部屋だったので、そのせいだと思う。
ガチャリと施錠が外れる音がし、ゆっくりとドアが開かれる。
「兄さんどうし――うわっ!」
有無を聞かず強引に部屋に侵入。
久しぶりにこの部屋に入ったが、なかなか整理されていた。かなり前に入ったきりだったが、部屋に置かれたぬいぐるみも増えているような気がする。後は全体的にメルヘンチックといいますか、ちょっとピンク色の割合が多い。それに部屋に入った途端に香水の匂いがした。このド田舎の古びた家には不釣り合いな部屋だった。
手際良くコタツ机を足で壁際に移動させ、開かれたスペースに布団を敷く。それからドアのカギを施錠し準備は整った。
「そういう訳で泊めてくれ」
布団に腰をおろして言う。
「はぁ!? 意味分かんない! どうして私の部屋にくるわけ!?」
「うむ、これには深い理由があってだな。取り敢えずお茶くれるか?」
「ある訳ないでしょ! それよりさっさと出て行けー!!」
「分かった。お茶は諦めるから、今日は泊めてくれ」
「いや!」
「理由だけでも聞いてくれ?」
「……話してみ」
「ん。睦月がな、指一本でも触れたらホテルの屋上から吊るすって言うんだ。鬼だろ? だからここに避難してきた」
「そう言えば兄さんって高いとこ苦手だったね。睦月さんは知らないの?」
的が外れた。てっきり佳苗が言ったのかと思ったが、それは誤解だったようだ。
すまん。心の中で謝罪しておく。
「分からん。どうあれホテルの屋上から吊るされる訳にはいかない」
「どうしてホテル?」
「うむ、言ってなかったが明日から睦月と旅行だ」
「はぁ!? 睦月さんと二人で?」
「クラスメイトも一緒」
「……そりゃそうか。兄さんに甲斐性ないからね」
コンコンコン。
ドアがノックされる音が響く。
「何があってもドアを開けたらダメだぞ!」
「睦月さんがせっかく迎えにきたんだから、少し話してみれば?」
「ダメに決まっているだろ!?」
「あのねー……睦月さんは兄さんが高いとこ苦手って知っていたら言わなかったと思うよ?」
「それでも俺は睦月に宣言したからダメだ!」
いつまで経ってもドアが開かない事に苛立ちを覚えたのか、乱暴にガチャガチャとドアを開けようとする音が聞こえる。
「和人お兄ちゃ~ん。早く開けてよぉ~」
睦月の声に俺は急いで布団の中で丸まった。
「えっ、兄さんって妹萌? ちょっとこの部屋から出てってくれない?」
「断じて違う! 睦月が勝手に言っているだけだ!」
かなり引いている佳苗に声を荒げて言うが、はたして俺の切実な想いが伝わったのかは分からない。
しつこく「和人お兄ちゃ~ん」と言う睦月の声が聞こえるたびに「ひぃ」と怯えた声を発する。
ガチャリと施錠が外れる音が聞こえる。
布団の隙間から覗けば、佳苗がドアを開けているところだった。
「兄さんなら布団の中だよ」
鬼だ。ここにも鬼がいた。
「さーて、部屋に戻るよ和人お兄ちゃん」
終わった。俺の人生ここまでだ。明日は思い残す事無く西尾と遊んで、それから遺書を書かないと。後は睦月にホテルの屋上から吊るされると。さようなら、長いようで短かった俺の人生。
「ひぃ! ……佳苗助けて!」
「睦月さん、あまり兄さんを怒らないであげて。兄さん高いとこ苦手だから、少し敏感になっているんだよ」
ナイスフォローだった。妹との付き合いは長いが、初めて俺を庇ってくれたような気がする。
「ぷっ、和人って高いとこダメだったんだ。良いこと聞いた」
「止めてくれ!」
「どうしようかなー。和人お兄ちゃんが一緒に寝るって言わないと、ホテルの屋上から吊るしちゃうぞー」
「ひぃ!」
「それとも西尾真琴と別れないと吊るそうかなー」
俺の反応を面白がっているのか、笑いながら脅してくる。
「む、睦月さん。いい加減にしといた方がいいよ」
「ん? なんで? だって和人お兄ちゃんおもし」
「――もう睦月とは喋らん。睦月なんて嫌いだ」
睦月の言葉を遮って呟く。
ちょっと子どもっぽい反応にますます面白がって睦月の笑い声が響く。
「遅かったか……。睦月さん、それ笑い事じゃないよ」
「どういうこと?」
「兄さんって普段はあまり怒らないけど、一度怒ったら根に持つタイプなの。聞いた話だけど、中学の時もそれで友達と卒業まで一言も喋らなかったらしいよ。友達が謝っても無視して、それっきり」
間違いじゃない。今では顔も名前も覚えてない。
「えっ?」
「冗談とかじゃなくて、兄さんと睦月さんたぶん破局するよ」
「ちょ、ちょっと和人。冗談だってば、謝るから機嫌直してよ」
睦月は焦ったように声を震わせ、布団を揺する。
もう知らん。今まで何度も暴力を振るわれたり、からかわれたりしてきたが、もう我慢の限界だ。やってられるか。
「佳苗!」
「はいはい、兄さん。……えっとね、兄さんは私に任せて睦月さんは兄さんの部屋に戻ってもらってもいいかな?」
「でも!」
「睦月さんの気持ちも分かるけど、ここは私に任せて。何とかしてみるからさ」
「でもね!」
「睦月さん!」
佳苗の強めの口調に「……うん。和人ごめんね」としょんぼりした声音で言い残し、ほどなくしてドアが閉まる音がする。
大きなため息をついて佳苗は俺の側に腰を下ろす。
「睦月さんに原因があったけど、兄さんも少し大人気なかったんじゃない?」
「ふん、俺は悪くない」
「そりゃそうだけど……。睦月さんだって反省していると思うよ?」
「もう知らん」
「睦月さんとこのままでいいの?」
「西尾がいるから問題ない」
「ほんとに兄さんは……。そのお怒りが収まったら一度睦月さんと話し合ってみなよ」
「イヤだ。俺はもうあいつとは喋らない」
「あいつねー。まっ、今日はここで寝てもいいけど、旅行から帰ってきたら自分の部屋で寝てよね」
「あいつが俺の部屋から出てったらそうする」
「ほんと兄さんはいつまでたっても子どもなんだから……」
「うっせー」
* *
耳を澄ませば隣の部屋から聞こえてくる森澤和人の声を聞きながら、睦月はベッドの上で膝を抱えて落ち込んでいた。
こんな事になるぐらいなら「和人お兄ちゃん」と言って遊ぶんじゃなかったと、今になって後悔が押し寄せる。
最近なにかと――詳しくは森澤和人が彼女の西尾真琴の家に泊まった日から、二人の時間を増やすようになった。学校の中でも、放課後でも、こっそりと会っては楽しそうに談話している。二人は隠しているつもりでも、元から目立つ西尾真琴と大根役者の森澤和人だ。周囲には二人が密会している事はバレバレだった。
家では一緒だが、それ以外では一緒にいる時間がほとんどなくなった事に睦月は動揺し、そして嫉妬していた。
何度二人を邪魔しても、何度酷い事をしても、森澤和人は諦める事無く彼女の元に向かい、そんな睦月を非難せずたまに気を利かせる。
和人なら、きっと和人なら、と自分に言い聞かせて何をしても笑って許してくれる森澤和人に睦月は甘えていた。
最初はほんの出来心だった。森澤佳苗から「高いとこが苦手」と聞いた時、今回も許してくれると甘えていた。だけど結果はどうだろう。苦手な事に物を言わせて森澤和人を怒らせてしまった。
心の奥底で西尾真琴から森澤和人を奪い取ろうとしていた。
それはとても醜い方法だった。ギュッと森澤和人の匂いが残っている掛け布団を握り締める手に力が入る。
以前霜月と戦った時、森澤和人が好きなのだと自分の思いに気がついた。
本来なら学校と休日での付き合いの西尾真琴より、一緒に生活する睦月の方が断然有利だった。それでも森澤和人の想いは常に西尾真琴に向いている。
家で二人っきりの時は甘えてみたり、先ほどのような茶番で遊んでみたり、一緒にゲームをしてバカ笑いしたり、晴れた日は屋根に上って星空を見たり、色々な事をしてきた。それでも睦月の理想とする結果にはならなかった。
それに明日から旅行も控えている。
もしかしたらそれが一番の原因だったかもしれない。
海水浴の時は必ず西尾真琴と一緒にいるだろう。一日中一緒にいる訳だし、夜に密会だってするかもしれない。そうなれば森澤和人の心に睦月の居場所はどこにもなくなる。それが怖くて、これ以上二人の仲が良くなるのがイヤで、睦月は焦っていた。
「……兄さんと睦月さんたぶん破局するよ」
先ほど言われた森澤佳苗の言葉を口にする。
そして中学生時代にあった出来事を思い出す。
もう好きな人と喋る事さえできないかもしれない。そう思うと途端に胸が締め付けられて涙が込み上げて、掛け布団を頭から被って膝で顔を隠す。
その後は考えたくもない未来を想像してしまう。
最も考えたくない未来、それは唯一の通じ合っている契約を切られないかだった。契約を切られれば、それこそ森澤和人の側にいる意味を無くしてしまう。
怖かった。
霜月に魅せられた世界より、西尾真琴とイチャイチャしている姿を見るより、どんな事よりもそれが一番怖かった。
「……ダメ元で和人に謝りに行こうかな」
ボソリと呟く声は震えていた。
森澤佳苗の言った通り、何も行動を起こさなかったら二度と森澤和人が喋ってくれないかもしれない。手遅れになる前に、さっさと行動に出た方がいいような気がして睦月は立ちあがる。
充血した瞳をゴシゴシと袖で拭い、森澤佳苗の部屋のドアをノックしようとする。
が、それは寸前で止まった。
行動を起こすにしても何て言えばいいか全く分からなかった。
下手に言って意地になっては取り返しがつかない。それこそ終わりである。
「和人は私の気持ち知っているのかな……」
睦月が好きだと言ったのは、初めて自分の気持ちを知った時だけだった。その時の森澤和人はほとんど眠っていて聞いておらず、そのため睦月が西尾真琴の事が嫌いな理由も知らない。
「私の気持ちを知ったら、今の関係が少しは変わるかな?」
ギュッと拳を握る。
「……決めた。私の気持ちを伝えよう。それでダメだったら……その時にまた考えよう」
気持ちが揺らぐ前にドアをノックする。
返事を待たずにドアを開けた。
森澤和人は未だ布団の中に引きこもり、その隣では驚いた表情の森澤佳苗の姿があった。
「む、睦月さん」
「ちょっと和人借りるね」
「だけど兄さんは……」
「いいの」
丸まっている森澤和人を布団ごと持ち上げると、いそいそと部屋から出て行く。
森澤和人の自室のベッドに優しく置いて、ベッドの縁に腰かける。
ゆっくりと布団を退かそうとすると、布団を握り締めて森澤和人は反抗する。それを強引に引き離す。
いかにも話を聞きませんよと、睦月に背を向けるように寝転がる森澤和人の腹部に手を置く。
「さっきはごめんなさい」
「……」
つい先ほどの出来事のため、森澤和人の決意は固いかのように思われるが、心のどこかで許そうかな。と思う部分があった。それでも直ぐに、ダメだダメだと心の中で首を振る。
「ねぇ、どうして私が西尾真琴を嫌っているか知っている?」
「……」
無言だが体をビクッと振るわせる。
今までどうして睦月が西尾真琴を嫌っているのか考えた事があり、考えても考えても森澤和人には分からなかった。何度も「仲良くしろよ」とも言った。それでも結果が変わらない。その答えが聞ける事に内心興味津々だった。
「女の私から見ても可愛いからムカつく。性格だって素直に甘えられてムカつく」
――くだらない。そんな理由だったのか。
予想外……いや、ほとんど予想通りの答えに森澤和人は毒つく。
「だけど一番ムカつくのは……」
そこで睦月が黙る。
自分の想いを伝えるのが直前で怖くなったのだ。
彼女がいるから拒絶される。そしたらもう元の関係には戻れないかもしれない。怖くて怖くて睦月の手が震える。
「あのね……」
また今度。今日はもう無理だから今度にしよう。逃げる言い訳を言い聞かせ、終いには逃げ道を探し出そうとしていた。
だけど本当にそれでいいの? 今言わなかったら次はいつ? 同時に逃げようとする自分を非難する思いも出てくる。
言い訳と、それを非難する思い。
睦月が出した結論は後者だった。
「――だけど一番ムカつくのは西尾真琴が和人と一緒にいること」
勇気を振り絞って言う。
「……」
その言葉に森澤和人の反応は当たり前だがない。だけど心の中ではその意味を考えていた。
「和人と西尾真琴がイチャイチャすると泣きたくなる。和人と西尾真琴が二人で話しているとイライラする。和人と西尾真琴が一緒にいると胸が苦しくなる……。言っている意味、分かる? もう私の中は和人でいっぱいなの。耐えきれないの……」
「……」
その言葉の意味を理解して森澤和人の頭の中は真っ白になる。
――それはつまり、
「俺の事が好き?」
睦月の顔は見ない、睦月と喋らないと思っていた森澤和人だが、その不意の事実に体を起して睦月の真っ赤な目を見据えながら呟いていた。
「んーん、大好き。……和人の弱みを知った時、もしかしたらそれで西尾真琴から和人を取り返せるって思った……。私ってズルイよね?」
「……」
「和人は私の事どう思っている?」
「俺は西尾と……」
「そうじゃなくて、私のこと好き? それとも嫌い?」
「好き……だけど……」
その言葉に偽りはなかった。
ただその好きは異性としてなのか、それとも友達からとしてなのか、それは答えた本人にも分からなかった。それともその言葉は偽りで、雰囲気で言ってしまったのかさえ、頭の中が真っ白の森澤和人に区別はつかない。好きという単語だけが頭にあったから答えたのだ。
「良かった」
ホッと安堵する睦月の表情にドキッと森澤和人の胸が高鳴る。
「だから、だからね。和人に嫌われたくないの。話せないのはイヤ。……だから許して」
「……うん」
無意識に頷く森澤和人がそこにいた。
嬉しさからギュッと抱きついて森澤和人をベッドに押し倒し、頬と頬がくっつくほど密着する。
「これが私の気持ち」
耳元で呟き、やさしく森澤和人の頬にキスをする。
「これが今の私の精一杯。絶対に西尾真琴には負けないから」
最後に「おやすみ」と呟き、呆然と天井を見上げる森澤和人を置いて睦月は部屋から出て行く。
嬉しいか嬉しくないかの二択なら嬉しいと森澤和人だって即答できる。
それでも彼女がいるのに、自分に好意を寄せる人と同居している。
その事実は変わらず、それが言葉として理解した途端どうやって睦月と関わればいいのか森澤和人には分からなかった。
ただ未だに天井を見上げる森澤和人の胸の中は悪い気どころか、嬉しさで満たされていた。
「兄さんと仲直りできました?」
一時は不安だった森澤佳苗も、頬を緩めて部屋に入ってきた睦月を見てつられて頬を緩ます。
「うん、できたよ」
森澤和人の部屋から出て数秒は思う事がたくさんあり、ドアに背を預けて気持ちの整理をしていた。
自分の気持ちを打ち明けて恥ずかしい気持ちと、仲直りができて嬉しい気持ち、それから西尾真琴に負けないという決意の気持ち、それぞれの想いが胸の中で交差する。
それでも睦月の表情は笑顔だった。
言えて良かった。仲直りできて良かった。これで西尾真琴の邪魔をする理由が伝わった。それは今の睦月にとって全てプラスになる出来事だった。
そして今はその高揚感に浸っていた。
満更じゃなさそうな森澤和人の表情を思い出し、睦月はクスリと笑う。
「どうやってあの頑固者を説得したんですか?」
「頬っぺにチューしてあげただけ」
「えっ? それだけですか? 唇じゃなくて頬っぺた?」
実に意外そうな表情で森澤佳苗は睦月を見る。
「それが今の私には限界だから……。その先は西尾真琴から和人をとってからのお楽しみ」
「そうですか。なら明日は兄さんにアタックですね! 一日中兄さんの大好きなポニーテイルにして、ビキニで悩殺すれば頑固者でも簡単に落ちますよ!」
「そうかなー。そうだと嬉しいかな」
えへへ、とにやける睦月。
「私は睦月さんの味方ですから、今から明日の作戦会議ですよ! あの浮気者を睦月さんだけメロメロにしちゃいましょうね!」
「うん!」
それから打倒西尾真琴の旗を掲げ、世が更けるまで二人で作戦会議をしていた。
時々未来の想像をしては睦月の下品な笑い声が部屋に響いたのは内緒である。
* *
――森澤和人と睦月が喧嘩した頃と同時刻の西尾家。
「パパは許しません! マコちゃんが旅行に行くなんて、ぜーったいに許しませんよっ!」
修羅場と化していた。
母親には前もって旅行に行く事を伝えてあったが、父親には前日の夜になっても秘密にしていた。
理由は簡単である。
西尾真琴の父親は超がつくほど甘く、超がつくほど溺愛しているからだ。それは森澤和人が村井ミクを溺愛しているのと同義でもある。
そんな愛娘がクラスメイトと一緒とは言え、彼氏と一緒に旅行に行くのを許すはずがなかった。
それを見越して今まで秘密にしていたが、母親の失言「明日から森澤くんと一緒でしょ? 早く寝ちゃいなさい」の一言で秘密が表に出てしまった訳だ。
いい歳になってダダをこねる実の父親を、面倒くさそうに西尾真琴は見つめてため息を一つ。
夕食の途中に母親の失言から秘密がばれてしまってから、もうあれこれ三時間ほど父親のダダが続いている。
そんなに長い時間イスに座っているため、いい加減お尻が痛くなっているのを我慢する。
「どうしてパパはマコちゃんを旅行に行かせたくないの?」
もう何度目かになる母親からの質問だった。
「だってパパ寂しいもん。それにパパのマコちゃんを奪った変態野郎と、可愛いマコちゃんを一緒にしたら不安で不安で夜も眠れないもん」
それもまた何度目かになる父親からの答えだった。
「あらあら。でもね、パパ。マコちゃんのファーストキスと初体験は森澤くんのだし、ここは許してあげたら?」
何をどうすればそれで許されるのかは分からないが、その禁句によって父親はプルプルと小刻みに震える。そして西尾真琴も違う意味で震えていた。前者は怒りによるもので、後者は恥ずかしさからくるものだ。
「パパは許しません! こうなったら変態野郎をこの手で葬ってくれるわっ!」
「いい加減にしてよっ、お父さん!」
「だってマコちゃんはパパとママの大切な娘だし……」
「お兄ちゃんはどうなの!? お兄ちゃんが家に帰らなくても何にも言わないくせに!」
「だってお兄ちゃんは男の子だし、少ししか愛してないし……」
何とも酷い言いようである。
これではらちが明かないと、西尾真琴は乱暴にイスから立ち上がる。
「明日絶対に旅行いくもん! おやすみっ!」
フンっとそっぽを向いてリビングから出て行こうとする娘に「マコちゃん」母親が呼びとめる。
「どこに行くのかは分からないけど、あまり羽目をはずしすぎて怪我をしないようにね。だけど森澤くんとはちゃーんと、夜にはめ合うのよ」
下ネタ全開の母親であった。
顔を真っ赤にした娘の反応を楽しむかのように、母親は薄らと笑みをこぼす。
実は父親に内緒で森澤和人が西尾家に泊まってからというもの、どういう訳か母親の調子はこのような感じだった。以前の母親からは想像もできないほど、今はぶっちゃけトークを楽しんでいる。
父親もそうだが、これだけ下ネタトークを言う実の母親。これは娘として悲しくもあり、恥ずかしさもあり、不憫であった。
「なっ、パパはぜーったいに許しません! マコちゃんの体に指先でも触れようもんなら、変態野郎をボコボコにしちゃう!」
「そんな事を言っていると、マコちゃんに嫌われちゃいますよ?」
「それでマコちゃんの清き体が守られるならいいもん!」
「もう、パパったら……」
そんな二人のやり取りをドア付近で見守り、大きなため息をつく。
「こんなことなら和くんの家に泊まればよかった」
ボソリと呟いて、「マコちゃんがぐれちゃったー」と切なそうな父親の声を背中で聞いてリビングを後にする。
向かった先は自室だった。
電気もつけないでベッドにダイブし、そのまま瞳を閉じる。
「……明日は和くんと海」
遠足前日の小学生のように瞳を閉じても、楽しみから頭が冴えて睡魔は全くない。
旅行先での妄想をしては「うへ、うへへへへ」と気味悪い笑い声をあげる西尾真琴だった。
* *
――森澤和人と睦月が喧嘩した頃と同時刻の石井家。
コタツ机に二人の青年が肘をついて頭を抱えていた。
一人は小太りで家の住人である石井直人。もう一人は重度のアニメオタクである金田祐輔だった。
「これは難題だ……」
額に汗を流し険しい表情で石井直人が呟く。
二人の視線の先にあるのはタイムスケジュール表だった。
旅行前日になって今更? そう思うが、これは普通のタイムスケジュールとは一味違う。チラシの裏に書かれてあるが、そこにも達筆で「恋愛スケジュール」と書かれている。
なにせ黒崎真奈美と釜谷美羽を攻略するため、恋愛シミュレーションゲームを愛す金田祐輔の力を借りて作っているタイムスケジュール表なのだ。
現実の世界において、ゲームのように上手くいくほど甘くないのは先日プールで学んだのだが、それでも「ひと夏のアバンチュール」を実現するために行動していた。
最初は景気よくお互いの意見を合わせながら書いていたが、夕食と入浴が終わった所で鉛筆がピタリと止まったのだ。
「なぁ、ここの自由時間はどう有効活用すればいいと思う? 意見を聞かせてくれ」
「うむ……。昼間にどちらかと急接近できたら浜辺に誘えばいい。だけど微妙な仲で誘うと失敗に終わるから、ここはベタにどちらかの一室に集まって遊ぶのが手じゃないか?」
「だがそれだと一度きりの深夜が……」
「慌てるな。そこで先走ったら失敗に終わるからな。ゲームの世界でもそうだろ? 恋愛ポイントが不足した状態で告白はできない。皆と一緒になっても慌てず騒がず、下心がないことを理解してもらった上でこっそり誘えばいいじゃないか」
「……そうだな。それでいこう」
ようやく夕食後のスケジュールが埋まる。
「次も難題だぞ……」
夕食も終わった、自由時間も終わった、次はいよいよ就寝の時間となっている。
下心全開の石井直人にとって、これが何より重大な時間帯であり、そして「ひと夏のアバンチュール」を実現させる通過点だと思っている。これが失敗に終わる。イコール旅行の失敗とも言えるほど彼には重要な事だった。
こんもりと太った鞄を尻目に鉛筆を持つ手に力が入る。
「部屋割だが、ここは男女混合でいこうと思う」
額に薄らと汗を浮かべ、どんな妄想をしたのか心なしか息が荒げて石井直人は呟く。
友人の異変に気付いた金田祐輔は机を叩く。
「それはやめろ! それこそ死亡フラグだ!」
そして静寂が部屋を包む。
たっぷりと十秒ほどの沈黙に終止符をうったのは石井直人だった。
鉛筆を机に置いて指をからませ、その上に二重アゴを乗せる。
「……お、俺だって薄々感づいている。俺にはひと夏のアバンチュールは無理だ……。言いたくはないが、俺には女性の免疫どころか誰かに好意を寄せられた経験がない。女性を目の前にしたら息が荒くなって、ついつい下心が出てしまう。頭の中だって真っ白になる。……なぁ、こんな俺に彼女ができると本気で思ってないだろ? だから俺は……ひと晩のアバンチュールに変更しようと思う」
「い、石井お前ってやつは……」
その言葉に心打たれた金田祐輔は薄らと涙を浮かべる。
「それにさ、西尾様と琴田さんも森澤と一緒の部屋がいいだろ? 俺のためにも、そして美しい彼女らのためにも、これは現実にしたいと思う。……そう思う俺は間違っているか?」
「お前ってやつは……このバカ野郎。お前は何も間違っちゃいない! 俺達で実現してやろうぜ!」
グッと涙をこらえて金田祐輔は石井直人の手を握る。
ここでもまた男同士で茶番が繰り広げられていた。
「そうと決まれば部屋割の時に何て言って説得するか考えようぜ!」
* *
――森澤和人と睦月が喧嘩した頃と同時刻の村井家。
「ぐふ、ぐふふふふ」
ここでもまた文字で埋め尽くされた紙と睨めっこする青年がいた。
先ほどは「恋愛スケジュール」に対し、こちらは「和人奪還計画」と題されていた。
平たく言えば恋敵である睦月と西尾真琴からいかにして、幼馴染の森澤和人を奪い取るかというものだ。
「ここ最近僕の出番がないのは二人のせいだからね。もう容赦はしないよ……ぐふ、ぐふふふふ」
そして不敵な笑みを浮かべる。
計画の全貌が書かれた大学ノートを片手に、間違いがないかもう一度チェックする。
その計画を簡単に説明すると、電車の中でペアシートに座る。ホテルについたらベッドをくっつけ、誰にもその場所を取られないように荷物を置く。着替えて海に行ったら女性陣がくる前に海に連れ込む。入浴の時は邪魔者がいなくなるため攻めあるのみ。食事の時は森澤和人を壁際に誘導し、その隣にちゃっかりと座る。食後の散歩に誘って浜辺を二人並んで歩く。就寝の時はベッドがくっついているため、さりげなく森澤和人のベッドに転がり一緒に寝る。
そんな感じの計画だった。
本人は必ず成功すると思っているが、女性が好きで何があっても男に恋する森澤和人ではない。絶望的な計画とも言える。
だが美化された未来予想図は止まる事を知らず、「これで完璧だ」と何度も頷くのであった。
「おっと、カメラのチェックもしないと!」
荷物とは別に用意した少し大きめのカメラバックの中を見始める。
そこには立派な一眼レフカメラを始めとし、水中でも撮影可能なデジタルカメラ、さらには水陸両々のビデオカメラまでもがあった。
将来の夢がカメラマンだとか、写真に収めるのが好きな訳ではない。
森澤和人を撮影するのが好きなのだ。
ただそれだけのために買いそろえたカメラである。
「うん、カメラの方も準備は大丈夫そうだね。これでまた和人との思い出が作れるよ」
コンコンコン。
嬉しそうに頷いている時に、突然部屋がノックされる。それから直ぐにゆっくりと部屋のドアが開かれる。
まだまだ身長が小さい村井ミクが背伸びをして、ぶら下がるようにドアを開けている姿があった。
「貴明お兄ちゃーん。ミクね、ママと一緒にお守り作ったの!」
嬉しそうにはしゃぐ村井ミクの手には、確かに二つのお守りが握られていた。
「勝手に部屋に入るなっていつも言っているじゃないか」
そんな妹を尻目に苛立ちで顔を歪め、村井貴明は文句を言う。
どうしてここまで実の妹を邪険にするのかといえば、やはり森澤和人が村井ミクを溺愛している所にいきつく。
普段はニコニコと誰にでも笑みを浮かべるが、森澤和人が絡むとあからさまに態度にでてしまうのが村井貴明である。もちろんそれは実の妹も例外ではない。
そんな兄を気にすることなく村井ミクは兄の元に駆け寄る。
「和人お兄ちゃんにもあげてね!」
母親がミシンを使ったため、見た目は本格的なお守りだった。お守りの中央には「たかあきおにいちゃん」「かずとおにいちゃん」と、母親の手を借りながら不慣れながらも一生懸命書いた文字がある。
これを森澤和人の元にしっかりと渡れば、それはもう大喜び間違いなしの一品だった。
用はそれだけだったようで、お手製のお守りを渡すとさっさと部屋から出て行く。
「……やれやれ、明日の朝は僕が霞むじゃないか」
そうは言うものの、しっかりとカメラバックにお守りを結ぶ兄だった。
それぞれの想いを心の中に秘め、夜が明けて行くのだった。