三月 弥生
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西尾真琴は完全無欠のスペシャルレディーだった。
だった、そういうからには何かボロを見せたのかと思われる。いや、見せてはいない。他の誰か、には。
俺は知っている西尾の正体を。違うな。知っているのではない、知ってしまった、の方がしっくりくる。
西尾は誰からも愛される存在だ。
容姿は異性どころか同姓にも認められ、性格も誰にもでも気が利くし優しい、勉強も常に学年で一位をキープするほどだ。さらにはスポーツやら音楽やら、上げるものが多すぎて省略したいほどだ。
そんなスペシャルレディーの唯一の欠点。それは何て言えばいいのか……易しい言い方をすれば人より少しエッチ。きつく言えば変態だ。
もちろんだが人前でそんな姿を見せるはずはない。だが、俺はその現場を目撃してしまったのだ。思い出せば今でも俺の健全な下半身は反応をしてしまう。うむ、恐ろしい。いやはや、実に恐ろしい。
兎にも角にも俺はそれ以降というもの岡部とは係わりたくなくても強制的に係わる事を余儀なくされた。
それでも悪いようにはされていない。
だた、西尾の秘密を誰かに喋らないように見張られているだけだ。
さらには学校では俺と岡部が付き合っているように勘違いされ、クラスを含む全校生徒から敵対関係中だ。中立になる兆しは言うまでもないが、まるで無い。あるとするならば、西尾の秘密が全校生徒に知られる以外にない。
それでも学校に西尾の秘密が知られる予定は無い。
どうしてそこまで断言できるのか。それについては仮にそんな話が学校の噂で流れたとしよう。が、その噂は一部の生徒にもみ消されるだろう。
その生徒を発見。
見た目は普通の生徒なのだが、腕に腕章をしている。その腕章には「真琴様親衛隊」と書かれている。どうでもいいが、文字が素晴らしく綺麗に縫われているのは業者さんに頼んだからなのだが、その業者さんがどういった思いで文字を縫ったのか知りたい。さぞ驚いたに違いないな。
そんなこんなな事を考えていると噂の変態……。スペシャルレディーこと西尾真琴が自動販売機通称自販機の前で腕時計を見ながら辺りをキョロキョロしていた。
以前の俺なら「可愛いぜ、こんちくしょう!」とか言いながら親指で鼻を一瞬だけ持ち上げる江戸っ子のような反応をするのだが、西尾の秘密を知った今となってはそんな気は感じられない。それどころか他人のフリをしてこの場から去りたい。
どうして俺がここまで拒絶するのかは簡単な話だ。別に変態だからとかいう理由じゃない。そう、精神的にも肉体的にも親衛隊からのイジメが激しいからだ。それでも頑張って登校している俺に褒美でもあげたいぐらいだ。
次イジメに合ったときにする命乞いのセリフでも考えようとしていると、西尾が俺の存在に気づいた。
犬のようにチョコチョコと俺の方に駆け寄り、俺の隣に立つ。仕草が甘えた犬のようにしか見えない。いや、兎か? まっ、どっちでもいいか。俺には関係ない。
「おはよう、和くん」
そうそう。偽彼女の西尾からは和くんと慕われ、西尾以外には害虫と罵られている。多分だが、いまや俺の存在は西尾以上かもしれない。悪い意味だけど、ね。ちなみにルックスは中の上(西尾曰く果てしなく上の下に近い)らしい。さらにちなみに西尾は神の領域(全校生徒曰く)との事だ。それについては俺も激しく同意する。容姿だけなら神がかりだ。
「おはよう、西尾」
外見はニッコリと微笑んでいるのだが、内心では「今すぐ離れてくれ! できれば別れてくれ!!」とか思っていたりする。だって四方八方からくる憎しみのこもった視線が浴びられるからね。俺って本当に人気者だな。この人気を誰かに分けてあげたいぐらいだよ。
何はともあれ、何時の間にか西尾が腕を絡ませてくる。
俺はギョッと西尾を見るものの、西尾は気にするに値しないのか笑みをすれ違う生徒に向けている。ああ、憎しみから殺意の視線に変わっちゃったよ。本当にどうしたらいいものかね。
「ねぇ、どうして私の事を名前で呼んでくれないの?」
何度か聞かれた質問だった。
俺はその都度曖昧に答えるか、受け流すかのどちらかだ。どうしてなのかはもし西尾の事を名前で呼んでしまえば彼女と認める以外にない。そう俺の中で思っているからだ。そのため偽りだが彼女の西尾を苗字で呼んでいるようにしている。それが俺なりのセーブの仕方というものだ。
もちろんそんな事を知るはずも無い西尾は不思議でたまらないようだけど。
「ハハハ」
今日もまた苦笑いで受け流す。
そして今日もまた西尾は頭の中で繰り広げられるピンク色の妄想を内緒にしながら、偽カップルの称号を担いでいる俺の非日常的なお話。
1
「ウーッス! 森澤!!」
誰だか知らない生徒からが俺の背中に張り手のプレゼントと共に俺の隣を通り過ぎる。
「おはようございます、森澤先輩!」
キャピキャピとした声を上げながらすれ違いざまに腕をつねる知らない後輩。
「やぁ、今日も元気そうで何よりだよ、森澤くん」
ハハハと高笑いを上げながら後頭部をド突く知らない学級委員らしい人。
「森澤さんの顔を見られて今日も幸せですわ」
どこかのお嬢さまらしい人が「あら、手が滑ってしまったわ」と言いながらわざとらしく鞄の角を脳天にぶち込む。
「おうおうおう! いい女を連れてご機嫌じゃねぇか、森澤よぉ!!」
香水の代わりに制服にタバコの臭いを振りまくヤンキーが脇腹にパンチのプレゼントを一つ。
「和人大丈夫? やっぱり明日からは一緒に行こうよ。私和人の事心配だよ……」
睦月が本当に心配そうに俺の隣に歩き、反対側の西尾を睨みつける。
さてさて、睦月以外の皆は俺に敵対しているのは分かっているが、流石にここまで敵対されていればへこむ以外に何も無い。
それより、だ。先ほどから地味に肉体的に痛めつける生徒は、言うまでもない親衛隊の皆さんなのだが、キャラが統一していないのはさすが西尾の人望というべきか。
西尾とは別のクラスなため見かける事はほとんどないが、西尾は言うまでも無いほどの人気者だ。が、睦月も負けてはいない。俺の知らないところでは西尾には遠く及ばないものの、それでも隠れファンが存在する。付き合いが長い分だけ睦月に対して麻痺しているが、それでも睦月は美しい顔つきをしている。
唯一俺の事を心配してくれる睦月の手を引いて今すぐ遊びに行きたい衝動を押さえる。
「それはダメですよ! 和くんは私と一緒に学校に行きたいに決まっています!! ね、和くん?」
それは無い。断固として無い。
だがそんな事を言ってしまえば、親衛隊に何をされるか分かったものじゃない。これ以上俺の体に負担がかかれば、今日は保健室登校になってしまうだろう。
それでも仮にここで「そうだよ」とか言ってしまえば睦月が悲しい顔をする。それもまた見たくはない。うむ、これは非常にピンチだ。
「私は和人の事を信じているから」
「――っ」
俺は危うく自分の身を守る事に気をとられ「西尾と一緒に学校に行く」と口走りそうだったが、何とか踏みとどまる。
睦月は切なそうな顔で俺を見つめ、その表情から自分の名前を呼んでくれると信じているのだがそれでも確信はない。そんな意図が掴めた。
もちろん俺にとってどちらかを庇えば何かしら代償がくる。それが肉体的にくるものか精神的にくるものかの違いで、結局のところ俺はいい結果がない。
さて、困った。
俺としては睦月の方が大切だ。それでも西尾を泣かすような事があれば何をされるか。
どちらをとるか悩みどころだった。
「……」
中々口を開こうとしない俺に痺れをきらしたのか、二人は一歩前に出て顔を近づけてくる。
しょうがないと思いながら俺は睦月を見つめる。
「和くん……」
悲しそうな声をあげてションボリとする西尾。
西尾を見つめる。
「和人……」
今にも泣きそうな声の睦月。
そんな時、「オッス! もーりーさーわー!!」無駄に元気な声が背後から聞こえた。振り返ろうとしたが、その直後に背中に痛みと衝撃が走る。
突然の出来事から俺はそのまま前に吹っ飛ぶ。さらには額を地面に強打する。
薄れゆく意識の中、「真琴様親衛隊長」の腕章がチラリと見えたのと同時に、意識が太陽の彼方まで吹っ飛ぶ。
* *
黒く荒んだ空を見上げながら俺は地面に倒れこんでいた。
アスファルトの上だというのに腰に痛みは感じられない。その代わりに腹部にだけ痛みがあった。いや、痛みのような生易しいものじゃない。激痛がそこにあった。
どうして?
知らない。
痛みを訴えているのが俺なのにも係わらず、俺は痛みから体を動かせずに、ただただその場で倒れこむしかなかった。
出来ることなら今すぐアスファルトではなく、ベッドで寝転びたい。そう思えるが、動けないのなら仕方が無い。
むしろどうしてこうなったのか知りたいぐらいだ。
が、俺は何も知らない。
知っているのは空が黒く荒んでいる事と腹部に痛みがある。それぐらいだ。それ以外は何も知らない。
どうして俺がここで寝転がっているのかも、
どうして腹部に痛みが走っているのかも、
どうして徐々に意識が遠のいていくのかも、
どうして眠くなってきたのかも、
どうして喋れないのかも、
どうして痛みが和らいできたのかも、
どうして俺は俺なのかも、
どうして分からない。
どうして自分自身の事も分からない。
どうして今置かれている状況が分からない。
どうして全てが分からない。
どうして、どうして……
「……和人」
そんな中、聞きなれた声が聞こえた。ような、気がした。それでも幻聴なのか、それとも本当に誰か俺に語りかけているのか確認を取る手段が俺にはない。もし仮にその手段があるとするならば、俺の目の前に顔を見せてくれる以外にどうしようもない。
「……」
俺は声を出したくても出せなかった。
許されるなら体を起こし、自分の目で誰なのかを確かめたい。
だけど許されない。全てにおいて許されない自分。実に惨めで、実にこっけいな姿だろう。こんな姿を誰かに見せるぐらいなら、俺はいっそう誰にも遭う事無くこの場で朽ち果てたい。
「どうして和人がこんな事に……」
誰かも分からない彼女の声は悲しさのあまりに震えていた。
「…………」
俺は何も言えず、目の前に広がる黒く荒んだ空しか見る以外になかった。
そんな時だった。
頬に人の温もりが伝わる。
そう、誰なのか分からない人の手が俺の頬に置いたのだ。
「………………」
俺は何も言えず、そっと目を閉じた。もうこれ以上目の前に広がる黒く荒んだ空を見ないように。ではなく、眠くなったからだ。
ゆっくりと閉ざす目にぼやけながらも、誰かの顔が目の前にあった。
次には俺の頬に一粒の滴が落ちる。
その滴は俺のものではない。
誰だから分からない人の涙、だ。
ただ、最後に俺のために泣いてくれている人が誰なのか、それだけを知りたかったが、そう思った次には眠りについてしまった。
夢の中で俺はアスファルトの上に寝転がっていたのと同様に、体が動かなかった。だけど腹部の痛みは無い。その代わり、何もない空間に俺は浮かんでいた。それが夢だと分かったのは直ぐだった。
不思議だ。
夢だと分かると何でもできそうな気がする。
それでも、だ。俺はいったい何ができるのか?
俺のために泣いてくれる顔も分からない君に、いったい何ができるのだろうか?
……分かっている。物理的な事は俺には何もできない。それでも俺のために泣いてくれた君の事は覚えていられる。
「……そうだろ、睦月?」
そう思った時の事だった。自然に睦月の名前を出していた。さっきまで何も話せなかったのに、今はハッキリと言える事ができた。
「……」
もう一度声を出そうかと思ったが、次は何も喋られなかった。
俺は諦めたように目を閉じる。
* *
……。
…………ん。
………………あ、あん。
声が聞こえたのと同時に、どこか体が重く感じられた。
俺はゆっくりと目を開ければ、そこには男子高校生が夢見る桃源郷が広がっていた。
いや、待て。ここで一つ悲鳴を上げるのは容易い。が、そうなれば誰かが駆け寄ってくる恐れがある。ここは取り敢えず今の状況を整理しよう。
どうして体が重く感じられたのか、それについては西尾が俺の上に乗っているからだ。
どうして声が聞こえたのか、知らん! ってか、今の俺の立場って非常に不味い。
俺が寝ているのは保健室のベッド。
そして俺の上に乗っている西尾の制服は肌蹴て、普段では見えないところがチラリと見えている。その白くスベスベの肌が時折俺の肌と擦りあう。さらには胸に柔らかな感触が……。やばい、鼻血が出そうだ。
「……取り敢えず落ち着いて俺の上からどいてくれないか?」
「ダメだよ」
ニッコリと断られる。
「あのさ、ここは学校でそういった事は良くないと思うよ。それに好きでもない相手が始めてなのはどうかと……」
ちなみに言うが、西尾はこういった行為は経験していないらしい。さらにちなみにだが、俺も同じだ。
俺はドキマギしながら西尾から視線をそらす。もしこれ以上西尾を見ていたら、俺の精神崩壊と共に野獣の如く襲い掛かる恐れがある。
「和くんは私じゃ不満?」
不満か不満じゃないのかと聞かれれば、即答で不満ではないと答える。
どういう訳か、西尾の中では口では言えないあんな事やこんな事をしたいようだ。まあ変態の西尾なら考えられない事でもないけど。
それでも俺は学校でこういった事をするのは大問題だと考えている。一部の生徒は見つかるか見つからないかの瀬戸際で、破廉恥な事をするのがドキドキでたまらない。そう言っている人もいるのだが、俺としては静かなところでしたいと考えている。
「それは……」
「ならいいじゃない」
「よくない!」
俺は即答で答える。
不満か不満じゃないのかは何も言えなかったが、善し悪しの区別は別物だ。俺の性格が問われるからな。
「どうしてよくないの?」
「さっき言った通りだよ。学校では良くない」
「なら学校じゃなかったらいいの?」
「そうだよ」
「どうして学校はダメで学校以外はいいの? 私には違いが全く分からないよ」
確かに学校はダメで学校以外はいいというのはおかしな話だ。公共の場でも他の誰かに迷惑をかけなければ小さいことなら誰もが目をつぶるだろう。
なら別にいいのかもしれない。
学校中の窓を叩き割ったり、廊下をバイクで暴走したり、授業中に奇声を発して飛び出したり、他の誰かに迷惑をかける行為こそが大問題で、如何わしい行為は何も誰かに迷惑をかけるわけじゃない。むしろ自己責任で済む問題だ。
なら別にいいのかも。
そうだ。学校の日常生活に少し路線がずれた行為だと皆も認知するだろう。
別にいい。
俺はきっと如何わしい行為に対し、自分が気づかない心の奥で緊張のあまり「ダメなこと」として全否定していたのかもしれない。むしろこの好機を逃せばこういったイベントを次体験するのは相当後だ。
なら今しかない。
これを機に今後の生活がぐるりと変わるような事が起きても、だ。今さえ良ければどうでもいい。
けど睦月はどうなる?
別に睦月と付き合っているわけでもない。そう、強いて言うならただのパートナーだ。それを除けば親しい間柄。なら別に睦月を気にする事はまるでない。そう、睦月は全く関係ない。今の状況に睦月こそ無関係だ。
ばれたらどうなる?
もし仮に睦月にこの話が伝わったとしよう。睦月は悲しむ? 笑う? それとも何事も無かったかのように俺と接する? 分からない。睦月との付き合いは短いが、それでも共にした時間は長い。そう、一種の家族のように。
「俺は……」
一度は流れに身を任せようとも思ったが、睦月の事を考えたらその思いは揺れた。
睦月の悲しむ顔が頭の隅をよぎったからだ。
実際は悲しまないのかもしれない。
それでも、だ。
仮に、
睦月が、
悲しむ顔をすれば、
俺も悲しい。
揺れる。揺れ動く。
揺れた後は早かった。さっきまでの思いは完全に空の彼方に飛んでいき、その代わりに切なさと自己嫌悪が舞い降りる。
俺はゆっくりと体を起こし、制服が肌蹴ている西尾の体に俺の制服を羽織らせる。
無駄に顔が近いが、今はそれほど緊張することも無ければ視線を合わせられないことも無かった。
「自分の体をもう少し大事にしろよ」
俺はそう静かに言う。
突然俺がそんな事を言ったものだから西尾は驚いたように俺を見た。が、直ぐに俺の言ったことの意味を理解し、伏せ目で頷くと俺の上から退く。
こうもすんなりと退くとは思っていなかったものの、それでも退いてくれた事により俺の体は自由になる。
ベッドの恥で俺の制服をギュッと握りしめる西尾。
そんな姿の西尾を横目でチラリと盗み見てから俺はベッドから立ち上がる。
肌蹴て胸元があらわになっているワイシャツのボタンを閉め、乱れた制服を正す。その間もコッソリと俺は呆然と座っている西尾を盗み見ていた。別に制服の隙間から覗く肌を見ているのではない。強いて言うなら西尾の表情を見ていた。いや、けどチラリズムこそ地球が生んだ奇跡だね。マジで。
何はともあれ、だ。一時の流れとはいえ、不健全的な行為に走ろうとした俺と西尾はお互い口を閉じて時間だけがむなしく進む。
静寂がこの場に降臨してから数分経った時だった。
お互い気まずく向かい合っている時、突然ドアが開かれる。
ドアから顔だけをヒョッコリと出している睦月がそこにいた。時間を見れば既に授業は始まっているのだが、どうして? という思いよりも、よくきてくれた。そう思う気持の方が強かったため睦月が保健室に入ってきても何も言わなかった。
睦月は俺を心配そうに見て、
「大丈夫?」
と、俺の体を流す程度に見てから言う。
「大丈夫だよ」
と、俺は答える。
「打ち所が悪かったらどうしようかと思ったけど、平気そうで良かったよ。それはそうと、どうして西尾さんがベッドの上で和人の制服を握り締めているわけ?」
睦月はニッコリと微笑むや否やすぐさま触れてはいけない禁断の話題に話を持ちかける。もちろん顔は笑っていない。例えるなら般若の顔で俺を睨みつけていた。
どうしたものかと思うものの、それらしい言い訳が全く思い浮かばない。
仮にここで事の発端を一から話したとしよう。……止めた。ゾッとする。
「に、西尾が風邪を引いているからだよ」
強引な言い訳で対応しました。これ以外は何も思いつかなかった。
「ふ~ん、そう。なら一つだけ聞くけど、どうして西尾さんの至るところが肌蹴ているのかな? 私には破廉恥な事をしていたようにしか思えないけど、それって私だけなのかな?」
おしい。破廉恥の未遂が答えだね。
まっ、何はともあれ俺にとっても西尾にとっても、悪い結果にしかならないのは確かだ。
2
「授業より隣に座っている琴田の横顔を見ていた方が楽しいのは分かるが、少しぐらいはノートにメモ取った方がいいと思うぞ?」
丸めた教科書で頭を叩かれて、俺はハッとする。気がつけば先生の呆れた表情が目に入り、隣に座っている睦月が「もう」と言いたそうに呆れた表情をしていた。漫画などでよくある展開だが、ほほを赤らめて俯くといったような事にならなかったのは少し残念だが、そんな事を睦月に期待しても手遅れなので諦めるとしよう。
俺はすぐに先生に謝り、閉ざされたままのノートにペンを走らす。
黒板に書かれている事をノートに写しながら、今までの妄想について少し考えていた。
ここ最近こういった妄想をする時間が多いような気がした。ふと気がつけば妄想に浸り、記憶があいまいなまま学校生活を一日過ごす事もある。今だってそうだった。いつから妄想の世界に浸っていたのか全く記憶にない。それどころか現実と妄想の区別がつかない事もしばしばあった。
俺はコツンと頭を軽く叩き、授業に集中しようと試みる。そうでもしないといつ妄想の世界に引き込まれるか分かったものじゃないからだ。
ノートにペンを走らせている途中に無残にもチャイムが鳴り響く。やってしまったと思いつつ、後で睦月にノートを写させてもらうことにして休み時間に入った。
「はぁ……」
大きなため息をつき、ボーっと黒板の上にある時計の長針を眺める。
「ねぇ、西尾さんと今朝本当に何もなかったの?」
いつの間にか目の前に心配そうな表情をする睦月の顔が目に入った。
「西尾さん? いったい何の話だ?」
「何の話って……。ほら、保健室の話だよ」
「……」
全く話が見えなかった。さっきまでの出来事は俺の妄想だよな? いや、仮に妄想だとして、どうして俺の妄想の話を睦月が知っている。そうなれば妄想ではなく、現実の話になってしまう。
「あっ、あーあれね。本当に何もないって」
少し頭が混乱しているが、ここは上手く話を合わせる事にした。取り乱して格好悪いところを見せるわけにもいかないからな。
俺はその場から逃げるように「ちょっとトイレ」と言って教室から出た。一人になって考える時間が必要だからだ。主に俺と西尾の関係について。
今までの出来事をまとめると、俺と西尾は付き合っている事になっているようだが、いつから付き合い始めているのかは分からない。付き合うきっかけは西尾が変態で、その現場を目撃した事により、口封じのために側にいるらしい。らしいというのは、俺がその現場を見た覚えがなく、見てしまったという情報だけが脳裏にあるからだ。俺の記憶が正しければ、睦月と付き合っている設定だったはずだ。だが、睦月からそういった態度があまり見られず、それこそが妄想だったかのように思えてくる。
窓の外を眺めながら考えにふけていると、「私は誰でしょう?」という可愛らしい声に加えて視野が真っ暗になる。俗にいう目隠しをされている。「正解したら熱いチューのプレゼントつきだよ」と、うれしいサプライズイベント付きだ。
「西尾さんだよね?」
まぁ現状はどうあれ、そういった嬉しいイベントは大歓迎なので、普通に答える。いや、だって可愛らしい子からのキスって嬉しいから。
「はーい、大正解でーす! だけど名前で呼んでくれなかったから大正解から正解にランクダウンです。それでも正解は正解なので、ご褒美の大人なキスをしちゃいます! ディープなチューと普通のチューどっちがいいですか?」
後ろから抱きつかれているような形から耳元で喋られているため、少しむず痒かった。そんな事よりも今は問題のキスだ。ディープって事は言うまでもなく唇と唇でのキスだ。俺の記憶上誰かとキスをした覚えがないわけで、ファーストキスがディープなのは少しハードルが高いような気がする。それどころか、ファーストキスが学校の廊下で公然の目の前なのも少しどうかと思う。
さて、どうしたものかと悩んでいると、おもむろに頬を両手で挟まれて綺麗に90度曲げられた。急に首を曲げられたものだから、かなりの負担が首にかかって痛かった。
が、そんなささやかな痛みのプレゼントより祝福のプレゼントが待ち受けていた。
ゆっくりと整った西尾の顔が近付き、そのまま唇が重なる。何が起こっているのか理解が追い付かず、俺はただ呆然となされるがままだ。
次の瞬間、さらに衝撃が走った。口の中に舌が入ってきた。
たっぷり二十秒ほどの出来事だった。
西尾は「キャー」と黄色い歓声を上げて走り去り、俺は呆然とその場に立ち尽くした。その場で立ち尽くしてから更に二十秒ほど経ってようやく頭が整理された。それと同時に体の底から羞恥心がかけ走る。
こんな形でファーストキスが奪われるとは思いもしなかったが、相手が相手だけにラッキーだったような気がする。人よりちょっと変態さんなのは傷だが、今は目をつむることにしよう。だって、今はそれどころじゃないから。
「森澤くん気分いいみたいだね? 僕たちの気分は最悪だから憂さ晴らしに一緒に遊んでくれないかな?」
それどころじゃない現況に話しかけられた。
あれだけ堂々とキスをすれば親衛隊が近くにいてもおかしくはなく、いつの間にか俺を中心に囲まれている。
殺気立った親衛隊のプレッシャーから脂汗がにじむ。
「あ、遊びたいけど今からトイレに行くから今度にしてもらってもいいかな?」
「それは奇遇ですね。僕たちも今からトイレに行こうと思っていたところだ。一緒に行かないか? おっと、その前に一つ君に頼みごとをしてもいいかな?」
「頼みごと?」
「僕とキスしてくれ」
「は?」
いやいやいや、目の前にいる親衛隊は何を言っている。男と男でキス? ちょっと流石にそれは請け負えない。想像するだけで鳥肌ものだ。
「君はさっき真琴様とキスをしたのなら、今キスをすれば間接的に真琴様とキスした事になる。これほどのチャンスはない。だから今すぐキスをしよう」
そして迫る男の顔。
ちょっと待て! これは冗談で済まされるレベルをはるかに超えている。だから俺はありったけの力で名も知らない彼の顔を押える。
「親衛隊長の俺を差し置いて平の君が何をやっている! 俺が先に決まっているだろ!」
「親衛隊長だからっていい気になるなよ! 俺が先だ!!」
「ふざけるな! 僕こそが相応しい!」
俺の唇で争いが勃発した。
至るところから暴言と暴行が行われた。きっと最後に立っていた人が俺の唇を奪うチケットが進呈されるのだろう。俺の意思は全く無視らしい。
このチャンスを逃すと、きっと思い出したくもない心の傷ができるだろう。だからこの機会を逃すわけにはいかない。
「ふざけるな―。俺が真琴様の唇を奪う」
棒読みで近くの人に言いながら、コソコソとその場から離れようと試みる。が、もう大乱闘になっているため、ゴチャゴチャしすぎて思いのほか前に進めない。横から殴りかかってくる人がいたり、殴られて倒れこんできた人がいたりと、障害は多かった。
思いのほか時間がかかったが、何とか脱出に成功する。最後に調子をのって「親衛隊のバーカ!」と、ささやかな復讐をしたのが運のつき。一斉にギロリと睨まれてしまった。俺のバカ。
「おい、獲物が逃げたぞ」
「真琴様とキスをするのは俺だ。お前らはそこで指を銜えて見ていろ」
「ハンティングの時間だ」
さっきまでの内戦から一致団結。
ワサワサと手を動かして、ジリジリと距離を縮めてくる。それに合わせて俺もジリジリと後退する。どちらかが何かしらの行動を起こせば、状況の変化は見えているが、お互いジリジリと歩くだけできっかけをうかがっている。
親衛隊の前進。俺の後退。何度か繰り広げ、このままではらちがあかないため、俺は勇気を振り絞って走り出した。目的もなく、ひたすら走る。もちろん後ろかは「待たんかーい!」と、罵倒のおまけつきだ。
振り返りたいけど振り返れない恐怖に怯えながらも、俺は懸命に走った。体力と運動神経は人並より少し劣っているが、ここで捕まってしまえば最悪の結末が待っているため、無我夢中で走る。そのおかげかいつも以上の力が発揮されている。本来ならもう捕まっているに違いない。
もうそろそろ体力の限界に近付き、いつでも倒れる準備はできている時、廊下の先に追われる元凶の人物を発見。俺の状況とは正反対に、友だちと楽しそうにキャッキャッと話し込んでいる。
仮にここで西尾に助けてもらうとしよう。親衛隊の前で何をされるか分かったものじゃない。それこそ火に油を注ぐようなものだ。この提案は却下。
「あっ、和くーん!!」
提案は却下されないようでした。
西尾はキャッキャッと手を振って「こっちこっち」と嬉しそうにはしゃいでいる。本当に止めてくれ。
俺は観念して西尾のそばで立ち止まる。立ち止まると疲れがどっときた。肩で息を整えながら西尾の後ろに隠れる。格好が悪いのは知っている。だが、こうしないと親衛隊にいつ肩を掴まれるか分からない。背に腹は代えられない。
「皆で鬼ごっこしていたの?」
「……」
俺は首を左右に振る。喋ろうと思っても息が整わず、喋るに喋れない。
「ん~、なら何だろう?」
「たぶんだけど追いかけられていると思うよ」
西尾と先ほどまで喋っていた友だちAが呆れたように言う。友だちAはどうして追いかけられているのか理由も分かっているのだろう。
「えっ、そうなの和くん?」
「……」
コクコクと言葉の代わりに首を縦に振って答える。
「何か悪いことでもしたの?」
お前のせいだよ! とは言えず、首を左右に振る。
俺が西尾を盾にした事により、これ以上手を出せないと親衛隊たちは苦い表情をする。一部ではコソコソと相談している姿を見るが、西尾に嫌われてでも得るものはないと行動に出せないようだった。
取り敢えず、窮地は脱した事にホッと安堵する。それより問題はこれからだ。何も起こらなければそれまでだが、何かが起これば新しい問題が起こってしまう。
「和くんに何か用ですか?」
いつもポワポワしている西尾が珍しくきつめの口調で言い放つ。
「えっ、いや……」
「用がないなら和くんを追いかけないで下さい! 迷惑ですよ!」
「ですが森澤は真琴様に無理やりキスをしたという情報が……」
「それは違いますよ」
「え?」
「だって私から和くんにキスをしましたので。こんな感じに――」
西尾は俺の方に振り向き、またしても頬を両手で押えて半ば強引に唇を重ね合わせてきた。もちろん突然の出来事に先ほどと同様になされるがままだ。
「――ね。私からキスしたでしょ? ちなみに舌も入っていますよ」
ニッコリと親衛隊に笑顔のプレゼント。
その姿を目の前に親衛隊は様々な反応をしていた。一人はその場に崩れ落ち、一人は号泣し、一人は幻覚と現実逃避し、一人は怒りに我を忘れて暴走し、一人は見ていなかったと口笛を吹きながら外を見ているし、一人はブツブツと森澤の唇を奪えば間接キスになると言っている。上げればきりがないほど、様々な反応があった。
さて、こうなってしまった以上俺は西尾のそばから離れるわけにはいかない。仮に一人になればいつ背後から襲われるか分かったものじゃない。
「真奈美ちゃんこの人達どうしよう?」
西尾の友だちAの名前は真奈美ちゃんらしい。
真奈美ちゃんは「どうしようって……。全部真琴のせいじゃいない。自分で何とかしなさい」とやれやれといった感じに呆れた。
「ん~、私も知らなーい。和くん、真奈美ちゃん行こう」
元凶の西尾は人ごとのように俺と真奈美ちゃんの手を引いて歩きだす。少しぐらいは混乱を鎮める努力をしようよ!
「あっ、そうそう。和くんって今日の放課後は暇かな?」
「残念だけど暇じゃない」
特に親衛隊から逃げるために。これは命にかかわる大問題だから仕方ない。いやー、残念だ。本当に残念だ。
「もしかして琴田さんと関係ある?」
琴田? 琴田って誰だっけ? ……あー、睦月のことね。そういえば学校では琴田で通っている事すっかり忘れていた。
「いや、別に関係ないけど何で?」
「それならいいの。今のこと忘れて」
「? まぁ睦月とは一緒に帰る事になるけど」
「どうして?」
「いや、だって睦月とは一緒に暮らしているし」
「同棲!? 和くんと琴田さんって同棲しているの!?」
「あれ? 知らなかった?」
「そんな話聞いてないよ! どうして黙っていたの!?」
「いや、だって聞かれなかったし……」
「現代っ子みたいな事言わないでよ!! 同棲しているなんて誰も想像しないよ!!」
かなり動揺しているようで、オロオロとしている。その姿は見ていて可愛らしかった。
「あっ、もしかして親戚とか?」
残念不正解。首を左右に振る。
「血のつながらない兄妹?」
残念不正解。首を左右に振る。
「なら腹違いの兄妹?」
残念不正解。首を左右に振る。
「だったら……、家庭の用事?」
あながち間違いではないな。家庭の用事なら何にでも通用しそうだけど、そこは気にしないでおこう。
それに本当の事を言うわけにもいかないし。
「そんな感じ」
「ふーん。なら琴田さんとは何もないって事でいいのかな?」
「……何もない。と思う」
「はっきりしないなー!」
睦月とは実際には付き合ってはいないが、付き合っている設定にはなっているのだが、本当の事を言えば何かされそうで怖い。
なるようになるか、そう思いながら「ハハハ」と笑ってごまかす。
3
「ねぇ! 和くん聞いている!?」
俺はハッとする。
確かさっきまで学校の廊下にいたような気がしたりしなかったり。いや、どことなく気のせいに思えてきた。きっと妄想に違いない。だって俺が西尾にキスされるはずがない。
西尾は不満そうに俺を睨みつける。
ちなみに今は下校中のようだ。いつ授業が終わって、いつ学校を出たのかは覚えていないが、さほど重要のように感じられないので深く考えるのは止めよう。
「あー、ごめん。それで何だっけ?」
さっきまでの記憶がないので素直に謝る。それにしても彼女のような人の話を聞かないとは実にけしからん。全くもってけしからん。
「もー! ……学校の廊下で暇じゃないって言ったのに、どうして突然一緒に帰ろうって言ったのかなって」
なるほど、俺はまっすぐ睦月と家に帰るつもりだったが、何を思ったのか西尾を誘ったと。だとすると、西尾とのキスは妄想ではない事になる。今更だが、得した気分になった。
知らん!
知るはずがない!
「い、いやー……西尾と一緒に帰りたくなったから?」
「どうして疑問形なの?」
「どうしてだろう?」
「もー! 今日の和くん変! 何かあったの?」
「いや、変なのは今の状況だと思うぞ」
あえて気にしないようにしていたが、さすがに気になる。
だって俺と西尾の周りには親衛隊が囲んでいるから。
もしかして廊下の続きだろうか。それとも「いつ森澤がオオカミになって真琴様を襲うか分からないから見張っている」とかそんな理由だろうか。
理由はどうあれ、とても気になる。もうすごく気になる。気になるのは俺だけではないようで、帰り道が同じ生徒や会社帰りのサラリーマンが、不思議な光景だと興味津々の眼差しでチラチラと見ている。俺だって同じ現場に立ち会ったら同じ反応をする。
「だよね……。私と和くんの大切な時間を邪魔しないでよ!」
西尾のちょっとした反抗。
「いえ、私たちの事はお気になさらず」
「気になるから言っているの!」
「ですが真琴様の事が心配なので……。特に隣の野獣について!」
「私の隣に野獣はいませんよーだ!」
「人間の皮を被ったオオカミがおります。私には分かります」
「んもー! いいもん。和くん腕組もうよ」
俺の返事を待たず、勝手に腕を組んできた。おい、公衆の面前で何をする。
親衛隊は面白くないと「ムカムカ」「イライラ」と、あちこちから聞こえてくる。
「なに?」
キッと親衛隊を睨みつける西尾。
「いえ、私たちは心境を擬音語で表しただけです。お気になさらず」
そんな感じで下校は続いた。
帰りの途中で雑貨屋に入って「これ可愛いねー」と見たり、レンタルビデオ屋でも「これ私のオススメ!」と嬉しそうに映画を進めたり、ドーナツ屋で「これも美味しい。はい、あーん」と嬉しいイベントがありながら寄り道をして帰った。言うまでもないが、どこに行くにしても親衛隊はついてきた。「他のお客さんに迷惑だよ!」と西尾の注意を気にすることなく、俺たちを監視してきた。
西尾は親衛隊の存在に諦めたようで、ドーナツ屋を出た後はお菓子のおまけとでも思っているのか、完全に気にしないようになっていた。もちろん俺は親衛隊の殺気に怯えていた。
当たり前だが、下校だけあってゴールは必ずある。ゴールは西尾の家で、今は西尾と向かい合って立っている。後ろには親衛隊のおまけつき。第三者からはいったいどう思われているのやら。
「今日は楽しかったね。和くん」
嬉しそうな西尾とは正反対に、俺の心は沈んでいた。決して西尾と別れるのが辛いわけではない。西尾と別れた後の事を考えて沈んだのだった。
西尾は突然何を思ったのか、指をもじもじさせる。どこか頬も赤みがかかっていた。
「さようならのチュー」
ボソッと西尾はとんでもない発言をする。
いやいやいや、ちょっと待て!
後ろの親衛隊から殺気を浴びる。たぶんだが、「さようならのチューをしてみろ。明日の朝日は拝めないと思え」そんな類の事を思っているに違いない。
「チュー」
ボソッと呟いて催促する西尾。
背後からの殺気。
そして数分後の未来を想像して怯える俺。
「和くんはチュー嫌い?」
しょんぼりする西尾。
背後から西尾の寂しそうな表情に心を痛めたのか、一人から「早くチューしろ」と聞こえる。
一応親衛隊からの許しは出たが、勇気がなくて一歩を踏み出せない俺。
「……もういい」
かなり悲しそうに呟き、俺に背を向ける西尾。
俺の背中を押す親衛隊。
ようやく一歩を踏み出せた俺。
俺はそのまま西尾を後ろから抱き締める。
そして、肩を抱いて俺に振り向かせる。そのまま俺は西尾の唇を奪った。キャー! 恥ずかしい!
西尾から唇を離すと、「やっぱり和くん大好き」嬉しそうに頬を緩めていた。そういった事を言ってくれる異性は今までにいなかったため、胸が熱くなるのを感じた。きっと顔も真っ赤になっているに違いない。
あれ? 俺たちって偽りのカップルだったような……。いや、偽りのカップルなら「さようならのチュー」なんてしないか。それ以前に俺と西尾の出会うきっかけって何だっけ? ……忘れた。まっ、いっか。俺と睦月の関係は? ……忘れた。まっ、いっか。
いろいろな思いが頭をよぎるが、はっきりと分からないため「まっ、いっか」で解決した。
「さてと、和くんとさようならのチューもできたし、また明日だね。バイバイ和くん」
円満の笑顔で手を振る西尾に、「また明日ね」と俺も手を振り返す。
そういえば、さっきまで西尾と離れるのを嫌がったけど、どうしてだったかな? ……まっ、いっか。
「さて、森澤くん。今から私たちとデェートでもしようか。もちろん嫌とは言わないよね?」
よくない!
すっかりと親衛隊の存在を忘れていた。
西尾とのキスで俺の思考回路は麻痺していたに違いない。こんな生命にかかわる重要な事を忘れるなんて、そうとしか考えられない。
玄関のドアを開ける西尾。
俺の肩に手をまわす親衛隊。
西尾に手を伸ばす俺。
「ちょっと待ってくれ!」
命の危機を悟った俺は、無意識にそう叫んでいた。それは西尾に対するものか、親衛隊に対するものなのか、自分でもよく分からないが叫んでいた。
西尾は不思議そうな表情で俺に振りかえる。
「今日西尾の家に泊まってもいいかな?」
俺の口はとんでもない事を口走っていた。
決してふしだらな事を考えているわけではない。これは明日に生命をつなぐ大切な意味がある。ここで断れたら三割増で酷いことをされるに違いない。
『な、なんだと!?』
綺麗にはもる親衛隊の皆さん。自分で言っておきながら、俺も同じぐらい驚いている。
「和くん本気?」
西尾の頬を赤く染まり、挙動不審にあたりを見始めた。かなり動揺しているようだ。まぁ、誰だって異性の相手に「今日泊めてくれ」とか言われたら動揺するか。
「あっ、いや、何ていうか……。ごめんやっぱり今のこと忘れて! ハ、ハハハ」
「そ、そうだよね! ハハハ」
「ハハハ」
「ハハハ」
お互い発言で相当動揺し、笑って誤魔化そうと無意味に笑い続ける。
そんな時、ズボンから聞きなれたメロディーが聞こえてくる。俺の好きな映画の主題歌だった。ちなみに俺は顔に似合わず、ベタベタな恋愛映画をこよなく愛している。
普段なら決してなる事はない携帯電話のディスプレイを見る。そこには「家」の文字と、電話のマークが映っていた。
西尾に「ちょっとごめん」とだけ伝え、気持ち程度その場から離れて電話に出る。もし相手が幼馴染や学校の友だちなら、通話終了のボタンを押して後でかけなおすところだ。家庭の用事とかもあるし、極力家族からの電話は出るようにしている。
「はい、もしもし。……あっ、睦月? どうした? ……うんうん、あー、大丈夫。今から帰るから。……うん、うん。分かった。えっ? 今日は睦月がご飯作るのか。頼むから普通のご飯を作ってくれよ。……あー、いや、なんでもない。本当に頼みます! そ、それだけは勘弁してくれ! あー、けどバス――」
あったかな? と言おうとしたが、直前で俺の携帯電話が奪われた。
誰に?
西尾に。
「――和くん今日は私の家に泊まるからご飯いらないって」
言いたい事だけを言って、素早く通話終了のボタンを西尾は押す。そして携帯電話を胸に抱き、俺の表情をうかがってきた。
西尾は何を思っているのか俺には全く分からないが、その表情からは焦りが感じられた。
俺も西尾も一言も喋らず、車のエンジン音だけが辺りに響く。
「……ハ、ハハハ。なら今日は泊まっていこうかな」
先に折れたのは俺だった。
西尾に気遣って極力明るく言う。
背後にいる親衛隊の皆さんは、今の状況でふざけた事が言えないと察しているのか、傍観者となって事を見守っていた。たぶんだが、思い思い言いたい事があるだろう。それでも下手な事は言えるはずもなく、つまらないと眉間にしわを寄せるだけだった。
「お、お父さんとお母さんに何て挨拶したらいいのかな?」
「……今日はいないの」
「えっ?」
俺の聴覚が現役なら「今日はいない」と確かにそう言った。それは西尾の両親が不在という事で、果てしなく親衛隊に誤解を生みそうだ。
「今ね、二人で旅行に行っていないの。お兄ちゃんも今日は帰ってこないと思うの」
「えっ? ……えぇー!!」
本日何度目かの驚き。
「……いや、かな?」
「俺は嫌じゃないけど……。西尾はそれでいいのか?」
むしろ両親に変な誤解をされないという点では嬉しい。ただ西尾についてだ。
仮にも俺は男であり、口では言えないあんな事やこんな事に敏感な年頃だ。親衛隊の言ったオオカミも否定できない。手を出さないと心がけていても、俺の心を揺さぶるきっかけがあれば心境の変化は容易い。それに誰もいない密室で二人という状況も不味い。オオカミになる確率が三割増しだ。
言葉の代わりに頷いて答えてくれた。
西尾は頷いて恥ずかしいのか、それとも別の理由からなのか、俯いて表情は見られなかった。その姿がどうしても俺を不安にさせる。
誰に言われるまでもなく、俺と西尾が不釣り合いなのは知っている。俺はいけてるメンズとはお世辞にも言えない。西尾は言うまでもなく整った美しい顔をしている。
だからこそ俺は不安になる。
どうして俺なのか?
俺以外にも相手はいただろうに。
何か裏があるのか?
そんな素振りはなかった。
そもそも西尾とはいつ出会った?
分からない。
いつ付き合った?
知らない。
睦月は?
忘れた。
俺は何をしている?
西尾の家に入ろうとしている。
俺の事を大好きと言ってくれた。
それだけだと本音か嘘か冗談か分からない。
俺は西尾の事が好き?
……。
いろいろな思いが頭をよぎる。考えれば考えるほど、思えば思うほど、その全てがどうでもよく思えてきた。この問題はあくまで俺と西尾の問題で、睦月にしても、背後にいる親衛隊にしても、俺たち二人以外には関係のない問題だ。
だから俺は身を全て西尾にゆだねる事にする。
俺は少し気持ちが安らいだような気がした。その安らぎは言い訳のような感じがする事は、自分が一番よく分かっている。
「……和くん行こう」
西尾は俺の手を引いて玄関に向かって歩き出す。
「ちょっと待って下さい!」
「流石に二人きりは危険です!」
「も、もう一度よく考えて下さいよ!」
「私も一緒に泊まってもいいですか!?」
このままでは崇拝する西尾の危機と親衛隊が動く。最後の言葉はきっと願望だろう。
それにしても、仮にも同じ学校に通っている生徒の前で、両親がいない状態のお泊り。明日学校で噂になっても文句は言えそうにない。平凡な日常とは完全に取り戻せそうにない話である。
西尾は親衛隊の話に耳を傾けるつもりはないようで、特に何も言わずに俺の手を引く。ただ、ほんの少しだけ俺の手を握る手に力が入ったのが分かった。何かを決心した現れだろうか。それとも恥じらいからの行為なのだろうか。理由はどうあれ、西尾の中で思いが固まったのは伝わってきた。
もう西尾の家にお邪魔するのは決定なので、取り敢えず親衛隊に最高の笑みを見せておいた。俺を肉体的に攻撃しようとするから、それに対する精神的な仕返しだ。案の定ものすごくショックを受けていた。
「お邪魔しまーす」
と、お決まり文句を一言いって玄関で靴を脱ぐ。
当たり前なのだが、西尾の家は外見も含めて実に普通だった。玄関には履かれていない靴が並び、傘立てには数本の傘が並び、どこからどう見ても普通の家だった。俺の中ではもっとお嬢様のような生活をしているのだと思っていたので、少し残念なような安堵したような気持だった。
一応礼儀として靴を綺麗に並べ、廊下を少し歩く。すぐにドアがあり、居間に入る。
やはり居間も実に普通だった。いや、当たり前か。
未だに何も喋らない西尾に少し気まずさを感じ、適当に鞄を置く。
西尾も近くの椅子に鞄を置き、電気をつけてから冷蔵庫を開ける。冷蔵庫から冷えたお茶を出して、二つのコップに注いだ。
俺はそんな西尾の後姿を見つめていた。
「はい、和くん。ほら、立っていないで座ろうよ」
そう言って俺にお茶の入ったコップを手渡してくれた。
二人で近くの椅子に座る。食事の時にでも使っているのだろう。
「あのね、ちょっと恥ずかしいけど、私ご飯とか普段作らないの。あのね、けど今日は頑張って作ろうと思うの……。だから、あのね――」
「楽しみにしているよ」
俺は西尾の言葉を途中で遮り、そう言った。
西尾は嬉しそうに「うん! 頑張るね!」とやる気が出てきたようだった。
帰る途中に寄り道したため、ちょうどご飯時だった。それでも今から作るとなれば時間がかかる。さて、俺はどうしたらいいのだろうか。せっかくやる気が出ている西尾の邪魔をするわけにもいかないし、勝手に何かしているわけにもいかない。ここは素直に西尾の後姿を堪能する以外に方法はなさそうだった。
「私が頑張って作っている間に、お風呂でも入って待っていてね」
西尾の後姿と作っている姿は堪能出来そうになかった。そして「あっ、着替えはお兄ちゃんのでもいいかな? ちょっと持ってくるから待っていてね」そう言って居間を後にした。きっと今頃お兄ちゃんとやらの部屋に不法侵入して、服を物色しているに違いない。
ほどなくして動きやすそうな半ズボンのジャージと、シンプルなTシャツを持ってきた。俺に渡すと、すぐにお風呂にお湯でも溜めに行く。忙しそう走り回る西尾が可愛らしかった。
お湯が溜まるまで不慣れそうに包丁や、鍋を使っている西尾の後姿を頬が緩みながら見ていた。途中で「もー! 恥ずかしいから見ないでよー!」と怒られたりもした。初めて料理をする娘を見る父親のような気分だった。むしろ新婚さん? いや、想像だけど。
「和くんお風呂もう大丈夫だよ。ゆっくり入ってきてね。廊下に出て、階段の前にあるドアが脱衣所だからね」
と、料理の合間を見てお湯加減を見てきてくれた。
俺はお兄ちゃんとやらの着替えを持って脱衣所に向かう。もう少し西尾の姿を見ていたかったが、怒られるから我慢しよう。
脱衣所にはバスタオルが用意されていた。うむ、なぜか緊張してきた。
素早く制服を脱ぎ、カゴの中に置いておく。西尾から受け取った服も同じように放置。
「……うっ」
一歩お風呂場に足を踏み込むと自然に声が漏れた。何か不思議な物があったからではないし、浴槽も含めて一般的だと思う。ただ、裸という事もあり、少しふしだらな事を考えてしまったのだ。いや、だってほら、やっぱり想像しちゃうじゃない。
俺は想像している事を忘れようと、冷たい水をシャワーで頭からかぶる。
「冷たい」
当たり前である。
すぐにお湯を付け足し、冷えた体を温める。それでも効果はあったようで、少し頭がすっきりとしたような気がした。
俺は髪の毛、体、顔と、それぞれいつも以上に綺麗に洗う。最後に湯船につかった。
大きな深呼吸をして、どこか新婚生活を思わせる今の状況から妄想が膨らんだ。
お風呂に入り、手作りの晩御飯を食べて、その後は……。やめた。妄想するだけで頭から湯気が出そうな気がしたから。それに妄想通りの展開にならない事は俺が一番よく知っている。妄想と現実は全く違うのだ。
こうやってゆっくりと色々な事を考える時間があると、何か大切な事を忘れている気がしてくる。それでも何を忘れて、何が違うのか俺には全く分からない。西尾の事だったりもするし、睦月の事だったりもするし、俺自身の事だったりもする。
「和くんご飯できたよー」
兎に角、俺が思いにふけていると、嬉しそうな声が聞こえてきた。「はーい」と返事をし、湯船から出る。やっぱり気のせいか。と無理やり結論を出す。
テキパキと体をバスタオルで拭く。西尾が用意してくれた服を着て、制服を持って居間に戻った。
居間に戻ると西尾は既に椅子に座って準備万端のようだった。
制服を鞄の近くに置き、俺も椅子に座った。
「お風呂ありがとう」
「いえいえ、どういたしまして。さっそく食べよ」
「うん。いただきまーす」
食卓にはスパゲッティー、サラダ、そしてまさかのお味噌汁。洋食と和食の共演がここにあった。きっとスープを作りたかったのだろうが、作り方を知らなかったに違いない。
俺は最初にスパゲッティーに手を伸ばす。フォークで程よくクルクル巻いて口に入れる。
茹でる時間が短かったのか、少し硬いけど美味しい。
その後も俺は二口、三口と食べていると視線に気づく。
ふと視線を上げれば、西尾が何も言わずに俺の表情をうかがっていた。あー、そういう事か。
「とっても美味しいよ」
その返事が正解だったようで、西尾の表情がほころぶ。その笑顔を見て俺もつられて頬が緩む。
俺の返事が聞けて西尾もフォークを手にする。一口食べると少し表情が曇る。想像していた味と少し違っていたのだろうか。今にも「失敗しちゃった」とか言いそうだ。
「また今度西尾の手料理が食べたいな」
と、フォローを入れておく。西尾は元気に「うん!」と言う。俺としてはその笑顔が見られるだけで満足なのは言うまでもない。これだけでお腹はいっぱいだ。
普段料理を作らないのは本当のようで、サラダにしてもお味噌汁にしても、何かがずれていた。西尾も分かっているようで、一口食べるごとに表情を曇らせていた。それでも料理のセンスはあると思う。俺だったら普段作らない状態で包丁を持てば、何をしでかすか分かったものじゃない。それこそベタな話だけど、塩と砂糖を間違えるようなサプライズイベントがありそうだ。
兎に角、西尾の手料理を堪能し、食べ終わったら次は西尾がお風呂に入る番だった。
俺は西尾に連れられて部屋に案内される。
第一印象はとても女の子らしい部屋だった。それでも見てわかるような部屋ではなく、さりげなく所々に飾ってあった。「絶対に部屋あさらないでよ!」と何度も釘を刺され、西尾は駆け足で部屋を出て行った。大丈夫。俺はどこかの勇者のように、タンスを勝手に開ける趣味は持っていないから。そんなに心配なら居間で待つように言えばいいのに。
特に何もする事がないため、ボーっとしていると外で話し声が聞こえる。
俺はこっそりとカーテンを隙間から外を見る。
「隊長どうしましょう?」
「うむ……。ここは見守るしかない。きっと真琴様も私たちの思いに気づいてくれるはずだ」
「了解しました!」
「では食料の調達に行くとしようか。今日は寝られない夜になりそうだからな」
「了解しました!」
外では親衛隊長とその部下が話し込んでいた。今の時間ならまだ何とかなるが、真夜中も立ったまま見張っていたら不審者と間違われるだろう。そうなったら警察沙汰になり、俺と西尾も事情を聞かれそうだ。それは嫌だなー。
俺は大きなため息をする。
「おーい、早く帰った方がいいと思うぞー」
窓を開けて、どこかに歩きだしそうな親衛隊に向けて言う。
親衛隊は何事かと声のする方、俺を見る。その表情は驚きというより、怒っているようだった。
「き、貴様! 貴様がいるのはもしかして!?」
「お前たちが想像している通りの場所だ。ベッドフカフカで気持ちいいぞー」
ちなみに今俺がいる場所はベッドの上。ベッドに上らないと窓の外が見られないから。
隊長らしき人はその場に倒れこむ。すぐに部下のような人が「た、隊長!」「お気を確かに!」と言っている。
「あっ、そう言えば今西尾ってお風呂に入っているけど、暇だしどうしようかなー」
ムクッと体を起こす。復活した。
「貴様! それをやってみろ! 心に消えない傷を植え付けた後、学校の花壇に埋めてやる! 栽培してやる!」
「ならさっさと帰れ。そうすれば俺は何もしない」
「信用できるはずがないだろ!?」
「あー、暇だなー」
「ふざけるな!」
「いや、俺はいつでも真面目だよ。早く帰った方がいいと思うぞー」
「ふざけるなと言っている!」
「やれやれ、少し汗かいたな。では俺はちょっと下に行くわ」
ちなみに言うが、俺は全く西尾の入浴を覗こうとは思っていない。ちょっと強引な取引をしている最中だ。
フリでその場を後にしようとする。と、その直後に「ま、待ってくれ!」と外から声が聞こえる。うん。そう言ってくれなかったらどうしようかと思ったよ。いや、マジで。
「……分かった。今日は身を引くとする。だ、だから約束は守れよ!」
「了解しました」
そして親衛隊の人達はその場を後にする。俺は大きくため息をついて窓を閉めた。
俺が乗った事によってシーツに出来たシワを払い、ベッドに背を預けて座った。
「やれやれ、これで不審者騒動はなさそうだな」
と、一安心したのはつかの間、「ねぇ?」と声をかけられる。
俺は背中に冷や汗をかいた。今日何度も聞いた声がドアの方から聞こえるからだ。しかも少しご機嫌斜めのようだ。
「大声で変な事言い争わないでよ! 近所に変な誤解されたらどうするの!?」
はい、叱られました。
「あれ? いつからそこに?」
「あんなに大きな声だしていたら聞こえるよ!」
「あー、なるほど」
道理で服が少し乱れ、髪の毛もボサボサなわけである。相当急いであがったに違いない。
理由はどうあっても俺が全面的に悪い。言い訳もしようとは思わなかった。俺は十分ほど正座で怒られ、俺が反省したと分かってくれたのか「……もう。本当に和くんは」と最後には呆れながらも笑ってくれた。
西尾の「少しお話しよう」その一言で、俺と西尾はベッドの背を預けて座っている。説教の前は少し明るかったものの、今はすっかり太陽が沈み辺りは暗かった。それでもどういった理由か、電気はつけていない。
「和くんは……、和くんは私のどこが好き?」
何の前触れもなく西尾はそう言う。
部屋が暗く、西尾の表情は見えないものの、その声色からは特別な何かを感じた。興味といった類ではなく、強いて言うならば、どこか安心を感じさせていた。
西尾の好きなところ。
まだまだ西尾との付き合いは短い。それ以前に出会いすらもろくに覚えていないため、短いかどうかも分からない。
「いつも楽しそうな笑顔をしているところ、俺にドキドキをくれるところ、少し強引だけど優しいところ、苦手な料理を頑張って作ってくれるところ、そして可愛いところ……。かな」
それでも、それでも俺ははっきりと答える事が出来た。少しキザだったが、別に気にはしない。それが本音だから。
部屋が暗いせいなのか、相手の表情をみえない不安と安心感、もしかしたら矛盾する二つの思いのせいなのだろうか、少しシリアスな気持ちになる。
「ふふっ、ありがとう」
「西尾は?」
「和くんはとっても優しい。私が変な事をしても嫌な顔一つしない……。今だって強引に泊まるような事になったけど、最後は笑ってくれた。だけどね、少しだけ不安になるの……」
「不安?」
「和くんが無理をしていないかって……」
「……」
「知っている? 付き合っているカップルのどっちかが、無理をしていると長続きしないって……。私はこんな性格だし、和くんに呆れられてないかなって……」
西尾の声は少し震えていた。
不安なんは俺だけではなく、西尾だって同じだった。やはり何事も話し合う事が大切なのだと、当たり前のことを思った。分からなければ話し合えばいい。不安になれば話し合えばいい。真実を知る怖さから逃げなくてはならない。
俺は西尾の本音を聞いて少し西尾が愛おしく思えた。
「それに私って嫉妬深いよね」
バツが悪そうに、西尾は苦く笑う。
「和くんが琴田さんと電話している時に、本当に一緒に住んでいるって実感がわいて、楽しそうに話す和くんを見ていたら嫌になって……。あの時の私どうかしていたよ。ごめんね。本当にごめんなさい」
「俺の方こそごめん」
「どうして和くんが謝るの? 悪いのは私で、和くんは何も悪くないよ」
「いや、西尾の前でするような話じゃなかったから……。それに俺は無理していないから。無理なんて一つもしていないからな。それに、学校でのキスや今日の下校にした寄り道や、今だって西尾と一緒にいられて嬉しいし」
本来の俺だったら恥ずかしくて悶えているにちがいない。だけど今のシリアスな気持ちからは不思議とためらう事なく本音が言えた。
「……あー、やっぱり私は和くんの事が大好きだわ。……ねぇ、一つ私の我が儘を聞いてもらってもいい? 和くんから私にキスしてほしいな。駄目かな?」
俺は言葉の代わりに右手で西尾の頬を触り、少しずつ顔を近づける。それと同時に右手を頬から後頭部に手を移動させる。
そして唇を重ねる。
右手をどうしようかと思い、背中に手を回そうと伸ばす。
「んっ……」
西尾から色っぽい声が漏れる。
俺は背中に手を回そうとしたが、暗闇から禁断の場所を触ったようだ。とてもやわらかくて、控えめでいて、それでも主張する胸に俺は触れていた。
ゆっくりと唇を離す。それでも右手はそのまま。
「……いいよ。和くん、いいよ。私初めてだから優しくエスコートしてね」
「西尾……」
赤く染まる頬にもう一度触れる。
とても大切な物を扱うように、優しく、それでいて雑に、俺は触れた。
4
「和くん。朝だよ」
耳元で囁くような声で俺は目を覚ました。いつの間にか眠っていたようだ。
声のする方、真横を見る。俺は絶句した。
うつ伏せで横になっている西尾の顔がすぐに目に入ったからだ。顔の下、胸辺りまで布団がかぶさっているが、そっと覗く肩は何かを着ている様子はない。そう、まるで裸のようだった。そういえば俺も下の方が涼しげで、なおかつ服を着ている違和感が全くない。とても解放感に満ちている。
俺は恐る恐る布団を軽く持ち上げる。
はい、俺も裸でした。
全く記憶にないが、俺は取り返しのつかない事をしてしまったようだ。言わなくても分かるよね?
「もう、恥ずかしいから私の裸見ないでよ」
怒っているのではなく、照れくさそうに言った。西尾が「もう」と言った時、大抵が照れている時だと気づく。
「えっ? あっ、ごめん」
「もう……。朝ごはんどうしよう?」
「と、いいますと?」
「時間は大丈夫だけど、あまり美味しい物を作れそうになくて……」
「あー、西尾が嫌じゃなかったら作ってほしいな」
「うん!」
嬉しそうに返事をし、もそもそと西尾は動いた。あー、そうか。ベッドから出たいけど、服を着ていないから出られないって事か。それに俺が床側って事もあるため、下着も服もとれないと。
事の真相を知った事によって、俺は少し西尾を苛めたくなった。
「どうした? ほら、作りに行かないのか?」
「和くん顔がにやけているよ? ……あっ、私を見て楽しんでいるでしょ?」
「そんな事ないって」
「……もう。チューしてあげるから目を閉じて」
「了解しまいた」
直後に体に重みがかかる。ただ、体の至るところがやわらかくて、ぬくもりを感じる。それが俺の想像を引きたてた。肌の感覚から察するに、俺の上に西尾が乗っかっている状態だ。しかも胸辺りには比べ物にならないやわらかい物が二つ。これは完ぺきに重なり合っている。
チュッ。
西尾の言った通り、とても控えめなキスをされた。
体から重みがすぐに消える。隣で布が擦れ合う音がリアルで、さらに想像を引きたった。
「和くんも制服着たら居間に来てね」
ほどなくして西尾の声に続き、ドアの閉まる音がした。
もう少し堪能したかったという感想は置いといて、俺も辺りに散乱した服を手に取り着ていく。最後にお兄ちゃんとやらから借りた服を綺麗にたたみ、鞄を持って居間に行く。その前にチラッと外に目にやった。親衛隊の姿はなかった。
居間に戻ると朝食が出来ていた。
机にはご飯に昨日のお味噌汁、黄身がつぶれた目玉焼き、タコさんウィンナーにしようとして失敗したのか、形が特殊なウィンナー。見た感じ「朝ごはんだ!」と言いたくなるようなチョイスだった。
俺は鞄を床に置いてから椅子に座った。
「いっただきまーす。それで、このウィンナーはなに?」
「……タコさんウィンナーのお刺身」
うん。やっぱりそうだったか。何となく薄々そう感じていた。
俺は恥ずかしそうに言う西尾の顔で軽く吹き出してしまった。
「もう!」
「だって面白くって。それに……んっ、とっても美味しい」
「ウィンナーは焼くだけだもん。美味しいに決まっているよ」
「あっ、それもそうか」
そして無駄話をしながら朝食を食べる。最後に「ん、美味しかった。ごちそうさま」と言うと、嬉しそうな表情をしていた。
朝食を食べた後は二人並んで食器を洗い、顔を洗っている間に登校する時間がやってきた。やはり二人並んで玄関で靴をはく。
先に西尾が出て、俺もその後に続く。てっきり外で親衛隊の人達が待っていると思ったが、さすがにそこまではいかないようだった。
外は登園する小学生で賑やかだった。西尾と話しながら一緒に歩いていると、同じ制服を着た生徒を数人見かけた。それでも俺たちに興味を示さなかった。親衛隊が異常なだけで、この反応が普通なのだろう。
「あっ、そうそう昨日の事は誰にも言ったらダメだからね」
それは約束しよう。昨日の出来事が親衛隊の耳に伝わったら……。想像するのをやめよう。本当に花壇に埋められてしまいそうだ。
いや、ちょっと待てよ。俺が西尾の家に泊まったのは隠しようのない真実であり、その事を親衛隊が知っている。そうなれば学校中の噂になってもいたしかたない。その事を西尾は気づいているのだろうか? 仮に気づいていなくても、遠かれ早かれ学校に着いたら嫌でも気づかされるだろう。
少し思いにふけたが、なるようになるか、そう結論を出した。
学校に近付くにつれて徐々に登校する生徒の数が増えてきた。それに加えて周りの目も気になってくる。俺たちを見つけると何かコソコソと話している生徒もいる。主にそれは親衛隊だったので、親衛隊の中で連絡網があるのだろうか。プライバシーという物が役にたっていない瞬間でもあった。
西尾も周りの異変に気づいているようで、かなり困った表情をしていた。
「あ、あのね、和くんに一つ謝らないといけない事があるの」
「ん?」
「あのね、怒らない?」
「たぶん怒らないと思う。まぁ、大抵の事は笑って終わらせるから、怒らないよ」
「実はね、今朝ちょっと調子にのっちゃって、和くんの首にキスマークつけちゃったの」
なるほど、これはもう大々的に公表しているようなものだ。
「どっちの首に?」
「えっとね、右の首に2つと、左に一つ」
「さ、左右!? ……今日は首を手で隠して授業でも受けるか。まっ、気にするなって」
マフラーでもあればよかったな。季節からすると、かなり場違いになるけど。
俺は開いている手で首を隠そうとしたが、やめた。もう今更だし、何より余計に怪しまれそうだから。
気にするなとは言ったものの、西尾は相当気にしているようで、ちらりと横顔を盗み見ると落ち込んでいるようだった。
取り敢えず俺は西尾の頬っぺたを突っついてみた。この行動に意味は全くない。
思いのほか頬っぺたは柔らかく、癖になりそうだった。
「な、何するの!?」
「いや、何となく」
そして俺は西尾の頭に手を置き、雑に頭を撫でる。いや、撫でるというよりかは、せっかくセットしたであろう髪をグシャグシャにしただけだ。
西尾は「わー」とグシャグシャになった髪を整い始める。そんな西尾を置いて、俺は「ははっ」と軽く笑って先に歩きだす。
「もう……。和くんのバカ」
駆け足で俺の隣に並ぶと、照れたような嬉しそうな声で呟いた。その呟きはとても小さかったが、俺は聞き逃さなかった。きっと一種の優しさと受け取ってくれたのだろう。とてもぶっきらぼうな優しさなのだけれども。
次に西尾の横顔を盗み見た時は、さっきまでの落ち込んでいる表情は見えなかった。いつもの笑顔がそこにあった。
俺は鼻で笑い、前を向いて歩く。
「ん? どうしたの?」
「いや、昨日の事を少し思い出しただけ」
西尾の耳元で囁く。
「も、もう!」
耳まで真っ赤にして、明らかに動揺している。
「うそうそ、やっぱり西尾は笑顔が似合うなって思っただけ。これ本当」
「からかわないでよ」
そんな風に話していると、所々から「バカップル」という単語が聞こえてきた。流石に白昼堂々と髪の毛をグシャグシャにしたり、頬っぺたをツンツンしたりしているとそう思われても仕方がないか。
二十分ほど歩いてようやく目的地の学校に到着した。道行く生徒から「バカップル」という単語を浴びせられ、心身共に疲れた。
学校の敷地内に入るや否や、西尾は思い出したように「あっ、先生に提出しないといけないプリントあった!」そう言って駆け出して行った。そして今はその後姿を見つめている。さて、今からどうしたものか。取り敢えず走ってみよう。
「どこに行くのかな?」
肩を掴まれて妨害されました。まぁ、分かりきった結果だけど。
取り敢えずホールドアップ。両手を上げて敵意が無い事を証明する。
「教室に行きたいけど、駄目ですかね?」
「私たちに付き合っていただければ、教室に行ってもいいですよ」
「それって今じゃないと駄目ですかね?」
「残念ですが、今じゃないと駄目ですね」
「そうです……かっ!」
親衛隊の腕を振り払い俺は走る。目的もなく走る。後ろからの足音にも負けずに走る。
玄関で今までに見ない速さで靴を変え、走り続ける。かなり恥ずかしいが、また西尾を頼ろうと試みる事にする。西尾は先生に用事があると言った。だから俺は懸命に職員室に向かって走る。
走っている途中で何度も誰かとぶつかりそうになる。それでも今は謝っている暇さえない。
あと少し。あと少しで目的地の職員室につきそうなところで、俺は曲がり角で誰かとぶつかる。お互い盛大に後ろに尻もちをついてしまった。元からヘトヘトの俺である。もう立ちあがれそうになかった。
「い、痛い」
「ごめん! 大丈夫か!?」
よく見たら相手は幼馴染の貴明だった。とても久しぶりに会うような感じだ。気のせいか?
「なんだ、貴明か。なら別にいいか」
「か、かずとぉ~。やっと会えたよー」
そう言いながら震える声で俺の方に近付いてくる貴明。体調がよくないのか、かなりフラフラで歩いてくる。それとも俺がぶつかったせいなのだろうか。たぶん後者だと思う。
幼馴染は俺の側にくると、力尽きたように倒れこむ。どこか頬が赤く、息が荒かった。おでこに手をのせると熱かった。前者のようだった。
「僕が風邪で休んでいる間に好き勝手にやっているようだね。全部彼女さんから聞いたよ。携帯に電話しても出ないし、メールも返事返してくれないし……。体にムチをいれて学校まで来ちゃったよ!」
あっ、そう言えば俺の携帯電話は未だに西尾に拉致されたままだった。それよりも酷い話ではあるが、今の今まで幼馴染の事はすっかり忘れていた。顔を見るまで存在自体すっかりだ。
幼馴染の声は今にも消えそうで、辛いのがすごく伝わってくる。それよりも「彼女さん」とは誰を指しているのだろうか。西尾の事だろうか。それ以外に俺は誰かと付き合ってはいないと思う。いや、俺が誰かと付き合えるほど手回しがよくない。うむ。本当に誰の事だろうか?
先ほどまで俺は追われる身であり、ここで悠長に話し込んでいる暇は全くない。案の定追い付かれてしまった。かといって病人を放置して逃げるのもまた酷い話である。やれやれと思い、俺は逃げるのを諦めた。
数十秒としない間に俺はすっかり囲まれてしまった。
「さぁ、観念しろ!」
「私たちから逃げられませんよ!」
「覚悟は出来ているか?」
嫌な笑みを浮かべてジリジリと近付いてくる親衛隊。
「あー、また今度でもいいか? 風邪引いている幼馴染を家まで送ろうと思っているのだが……」
「あいにく俺たちは病人相手でも容赦はしないと考えている」
「……」
これこそ酷い話である。親衛隊には良心というものが存在しないようだった。
「おい、こいつらの弱み何かないのか?」
「ん~、えっとねー。この手帳に全部書いてあるよ」
病人が幼馴染と知った途端、親衛隊の表情が青くなる。しかも「村井が休んでいるから大丈夫だと思ったのに!」と聞こえた。なるほど、幼馴染は何日か休んでいたようだ。そしてその幼馴染に何か弱みでも握られているようだ。
俺は幼馴染から受け取った手帳を見る。ふむ、なるほど、名前が分からないから見てもさっぱりである。
手帳を閉じて、次に顔を上げた時には親衛隊の姿はなかった。逃げてしまったようだ。俺は安堵し、手帳を幼馴染のポケットにしまう。
「さっ、一緒に帰るか」
俺は幼馴染を落とさないように背中におんぶする。
「今日の和人優しいね。惚れ直しちゃったよ」
「気持ち悪い事を言うな。そういう事は俺じゃなくて、異性の相手にでも言ってやれ」
「ははっ、僕は和人しか見てないから」
「……」
やれやれ、幼馴染もここまで来ると重症だ。たぶん熱で頭がいかれているに違いない。
取り敢えず勝手に帰ると後が面倒なので、いったん職員室に行く。担任の厳つい田中先生に「今日休んでいいですか?」と言ったところ、問答無用で殴られそうになった。学校まできて「休んでもいいですか?」って流石に教師をバカにしているように思えて頭にきたのだろう。だけど背中におぶっている幼馴染を見ると、申し訳ないような表情になり「森澤……。お前って良い奴だな。いきなり手を出そうとしてすまなかった。村井を家まで送ってやってくれ」と、了解してくれた。一瞬ヒヤッとしたのは俺だけではないようで、職員室にいた他の教師もヒヤッとしていた。今のご時世教師が手を出すと、いろいろと問題があるから。時代は変わったのだよ、時代は。
幼馴染の事を考えると、今すぐに帰るのが一番なのだが、その前に俺は西尾に会って携帯電話を返してもらう必要があった。あれがないと何かと不便だし。俺も現代っ子というわけである。
誰かをおんぶしながら廊下を歩いていると、ものすごく注目を浴びた。
「あー、貴明? 西尾のクラスってどこだ?」
「四組」
「了解」
ちなみに俺たちは五組である。今まで知らなかったが、お隣さんのようだ。
取り敢えず教室の前にまでやってきた。幼馴染を教室の前に少し放置し、他のクラスに突入する。
目的の西尾は外に視線を送り、何か考えにふけているようだった。その姿もまた絵になるな。
俺の存在に気がついたクラスの人達は、表情を曇らせる。きっと何か言いたい事でもあるのだろう。想像だが、俺たちの安らかな一時を邪魔しないでくれ。そんなような事だろう。
「あー、西尾? 今大丈夫か?」
「ん? あれ和くん! どうしたの? それよりも和くんが私たちのクラスにきたのって初めてだね!」
先ほどまでの考えにふけている表情はどこかに行ったようで、嬉しそうに笑顔になる西尾。どこかで舌打ちが聞こえたような気がする。
「そう言えばそうだな。それで俺の携帯持ってないか?」
ついさっき初めて西尾のクラスを知ったとは、口が裂けても言えるはずがなく、誤魔化そうように笑って本題に入る。
西尾は「あっ」と思いだしたようで、制服のポケットから俺の携帯電話を取り出す。すっかり忘れていたようだ。
「ごめんね」
と、申し訳なさそうに謝ってくる。
「いや、気にするなって」
取り敢えず西尾の頭を少し雑に撫でる。そのせいで髪をクシャクシャになる。登校中もそうだが、西尾のフワフワした髪をクシャクシャにするのは少し面白い。西尾の反応も含めて癖になりそうだ。
西尾は「わーわー」と少し取り乱していた。
「もー! 和くんの何するのっ!?」
「いや、何となく」
「何となくで、髪の毛グシャグシャにしないでよ……。あっ、今日も一緒に帰ろう」
「あー、それはちょっと無理だ」
俺が西尾の誘いを断った事で、一瞬教室中がざわつく。クラス中の人達は俺たちの会話に興味津々のようだ。所々で「断ったぞ」と聞こえてきた。
「えー、どうして? どうして?」
「ちょっと幼馴染が風邪で倒れて、今から家に送りにね」
「そうなの……。ならさようならのチューしてあげる~」
「遠慮させていただきます」
そしてより一層教室中がざわつく。「また断ったぞ。勿体ない。むしろムカつくな」と聞こえてきた。それ以前に、人前でするような事では決してない。それに突っ込もうよ。
今更だが、西尾には変なところで恥じらいがないようだった。
「照れなくてもいいのに。いいもん。勝手にしちゃうから――」
「ちょっと待ってくれないかな。僕の目が黒いうちは和人にふしだらな事はさせないよ。和人にふしだらな事をする時は僕に了解を得てくれないかな?」
西尾の言葉を遮り、床を張って幼馴染が登場した。その姿はさながら映画のワンシーンのようだった。もちろんホラーだが。
「和くんだれ?」
「さっき話した幼馴染」
「なるほど。……幼馴染さん。和くんにさようならのチューをしてもいいですか?」
「いいよ」
いいのかよ!? 俺は心の中で突っ込みをいれる。
幼馴染は「あれ? カメラどこ? カメラどこ?」と、激写するためにカメラを探しているようだったが、見つからないみたいだった。探しても見つからないようで、心のカメラで激写するか俺たちを凝視している。
「幼馴染さんがいいよって言ってくれたから、さっそくさようならのチューをしよう」
「いや、あのね。人前だと流石に抵抗が……」
「人前じゃなかったらいいの?」
「もちろん」
「そっか。和くんがそう言うなら我慢するね」
「かずとぉー。さようならのチューはまだー?」
今までの話を聞いていなかったのか、早くしてくれないかな? みたいな事を幼馴染は言う。
「……」
俺は大きなため息をつき、怪訝そうに見つめる幼馴染に近寄る。
「ほら、バカな事言ってないで、さっさと帰るぞ」
幼馴染をおんぶするため近くに腰を下ろすと、ナメクジのように背中に上ってきた。それがとても気持ち悪く、背中に嫌な汗をかいた。
落とさないように軽く持ち直す。
「では帰ります。また明日」
こういった時、なんて言えばいいのか分からなかったため、少し他人行儀になってしまった。
「また明日ね。授業中いっぱい和くんにメールするね!」
「ちゃんと授業受けてください!」
「えー、私がいないと寂しいでしょ?」
「心配しなくても和人には僕がいるから大丈夫だよ。和人は僕が側にいると、いつもニコニコしているからね」
「それはお前の妄想だ」
突然変な事を言う幼馴染をこの場に放置して、一人で帰ろうと一瞬本気で思った。
「では本当に帰ります。また明日」
「また明日ね。授業中にいっぱい和くんにメールするね!」
二回目のやり取り。なんか無限ループしそうだった。
「……楽しみにしているよ」
「やったー!」
俺は諦めた。西尾は嬉しそうに頬が緩みきっている。こんな幼い表情をしている西尾を見ていると、本当に何でもこなすスペシャルレディーなのかと信じられなくなってきた。
完全に身を俺に預けている幼馴染を持ち直し、俺は廊下に向かって歩き出す。
廊下に出てもう一度西尾を見ると、笑顔で手を振っていた。それに答えるかのように俺も笑顔を見せる。
「彼女さんに帰る事言わなくてもいいの?」
廊下を歩き、玄関で靴を変え、バス停に向かっている時に突然そんな事を言ってきた。
さっきもそうだが、幼馴染は「彼女さん」という。一体誰の事を指しているのか俺にはさっぱり分からなかった。
「それにしても次は三日月高校のマドンナか……。敵はどんどん巨大になっていくね。それよりも三股は少しやりすぎじゃないかな?」
「ん? お前は誰かと勘違いしてないか?」
「してないよ。和人の事だよ」
「俺が三股できるほどモテモテになった覚えはないぞ? ちなみに残りの二人は誰だ?」
「うわー。それはちょっと酷いよ。睦月ちゃんとポニーテイルの皐月ちゃんの事だよ。忘れちゃったの?」
「……」
俺は何も答える事ができなかった。
幼馴染に言われ、ここ最近少しずつ何か大切な事を忘れかけているように感じる。西尾との出会いもそうだ。以前は西尾との出会いを覚えていたような気がする。だが今は完全に記憶にない。睦月と皐月だってそうだ。幼馴染の口から「睦月ちゃんとポニーテイルの皐月ちゃん」と出なければ睦月と皐月の存在をすっかり忘れていた。
考えれば考えるほど、俺の頭は混乱する。
何かとても大切な事を忘れているような気がしてならなかった。だけど何が大切で、何が大切じゃないのか分からない。それが無性に腹が立ち、無性にイライラする。
「ちなみにお前はいつから学校を休んでいる?」
「酷いなー。昨日だよ。ほら、昨日メールしたよね」
「なるほど。ちなみに俺はいつから西尾と付き合っているか知っているか?」
「知らないよ。どうして僕に教えてくれなかったの?」
「……俺は本当に睦月と付き合っていたのか?」
「そうだよ。家族の前で付き合っているって言っていたじゃない。本当にどうしたの? 僕が休む前は彼女さんとラブラブだったじゃない。何度も僕の軟なハートを粉々にしちゃってさ。それに西尾さんと仲が良かったなんて知らなかったよ。いつの間に付き合うような事になったの? あっ、もしかして彼女さんとグルになって僕の事をからかっているの? そうでしょ?」
「……いや、そんなつもりはない」
何かがおかしい。
昨日は西尾の家に泊まった。それは確かだ。口で言えないような事もしてしまった。それも真実だ。西尾の口からはっきりと聞いていないが、昨日今日の付き合いではないような感じがする。幼馴染が言ったように昨日初めて出会ったのだろうか? いや、違う。記憶にはないが、もっと前から会っていたような気がする。それでもどうしてだろうか。昨日以前の記憶が全くない。もしかしたら昨日がファーストコンタクトだったのかもしれない。だって西尾との出会いが全く覚えていないから。俺の中の西尾は昨日からの西尾で、それ以前の西尾は知らない。
分からない。何が分からないのかも分からない。
そもそも、だ。幼馴染が言ったように、どうして俺は睦月と付き合っているのに、西尾に手を出したのだろうか。
知らない。
そしてどうして俺は睦月と一緒に住んでいるのだろうか。
俺が聞きたい。
どうして俺は皐月と一緒に住んでいるのだろうか。
そうしたいから?
違う。何か理由がある。だけどその理由が分からない。
とても大切な何かを俺は忘れている。幼馴染も知らない大切な何かを俺は忘れているような気がする。
謎が謎を呼び、俺の頭では処理しきれなくなった。
ただ一つ、何かがおかしい。それだけは理解できた。
バス停で無言のまま立っていると、ほどなくしてバスがやってきた。俺は幼馴染をおんぶしたままバスに乗り込み、近くのシートに座らせる。俺もその隣に座った。幼馴染の息は少し荒く、顔も赤い。その姿を見ているだけで辛くなってきた。
「ねぇ、和人。一言いってもいいかな?」
他に乗り込む客がいないようで、俺たちがシートに座ると発射のブザーと共にドアが閉まる。
「ん?」
ゆっくりと発進するバス。
「彼女さん泣いていたよ――」
バスに揺られながら動揺する俺。心が大きく揺れた。
「――和人がいないって、彼女さん泣いていたよ――」
俺のポケットから切ない音楽が流れる。誰かからの着信が着たようだった。その音楽が切なくて、俺の心を締め付ける。
「――せっかく作ったご飯を食べてくれないって……。彼女さん泣いていたよ」
幼馴染の言葉が俺の心を何度も締め付ける。一言いうたびに、俺は胸が苦しくなった。今にも泣きだしてしまいたい気分にもなる。
「……」
俺は何も言えなかった。手で顔を覆う以外しか知らないかのように。俺はその場で何もできなかった。
* *
三日月高校では一時間目のチャイムと同時に、授業が始まった。
西尾真琴は退屈な授業を受けながらも、昨日の出来事を考えていた。その事を考えると頬が熱くなり、今にも「キャー」と言いたそうにしていた。
昨日の出来事。彼氏の森澤和人と関係をもった出来事である。一時の出来心とはいえ、後悔はしていない。それどころか好きな相手と、そういった事が出来た事に喜びさえ感じていた。
西尾真琴はおもむろに携帯電話を取り出し、黒板でチョークを走らせながら、教科書を通りに進めるあまり面白みのない先生に見つからないようにメールを打つ。相手は言うまでもなく森澤和人だった。
メールの内容としては「和くんはもう家についた? 授業は暇だよー。私も一緒に帰ればよかったかもー」と、心境を知らせる内容だった。絵文字や顔文字を一切使わない、今時の女子高生には少し花のないメールでもあった。西尾真琴はあまりメールをしない人なので、そういった事は不慣れだった。
森澤和人にメールを送っても、中々返事が返ってこない事に少し寂しさと不安を感じていた。
何度もメールの確認をしても、誰からのメールも来ない。何度も何度もチェックしている間に授業終了のチャイムが響く。結局その授業は全く聞いていなかった。ノートも書いていない。普段の西尾真琴を知る人からすれば、とても珍しい光景のように思えただろう。
授業が終わると、駆け足で隣のクラスに顔を出す。
森澤和人の教室。
もしかしたら戻ってきたかもしれない。そう思ったのだった。だけど現実は裏切られる事となる。近くの生徒に聞いても「いや、今日はきてないよ」そう返事が返ってくるだけだった。
西尾真琴は森澤和人に電話をしようと何度も携帯電話を開く。ほんの一時間程度だが森澤和人に会えない。連絡が取れない。たったそれだけなのに胸が苦しかった。
「真琴どうしたの?」
同じクラスの友だち、黒崎真奈美に心配そうに話しかけられても、西尾真琴はため息をするだけだった。話し声が聞こえないわけではない。聞こえているのだが、頭に入らないのだ。
「また彼氏の事? 何だっけ? 森澤くん?」
森澤和人の名前が出た事で、西尾真琴の集中が黒崎真奈美に移る。
「真琴さ、いつから森澤くんと付き合っているわけ? 私に一言ぐらい言ってほしかったな。つれないなー」
「いつからって……」
西尾真琴もまた気づいた。森澤和人と同様の事に。
いつから付き合っているの?
忘れた。
出会いは?
忘れた。
森澤和人は優しくて、少し意地悪な所があるけど一緒にいると嬉しい。私に笑顔をくれる。そして少し会わないだけで――私の胸を締め付ける。私の中で一番大きな存在。
西尾真琴は過去の事を忘れてしまった。それでも森澤和人がどういった人なのかは分かっている。それだけで満足のはずなのに、それ以上の何かを求めようとしていた。忘れてしまった過去を。取り戻そうとしていた。
「ちょっと和くんの家に行ってくる!」
そう思ったら西尾真琴はすぐに行動した。机の隣にかけてある鞄を手に取り、黒崎真奈美の「ちょっと! 授業はどうするの!?」という言葉に耳を傾ける事無く、西尾真琴は走り出した。もう西尾真琴には森澤和人の事しか考えられなかったのだ。
西尾真琴が教室を出た後、黒崎真奈美は「全く……。学校より、友人より、彼氏が一番ですか」そう呆れるように呟いた。ただ、黒崎真奈美の表情は呆れるというより、少し嬉しそうだった。西尾真琴にも春がきた事に。
担任に一言もいわずに学校を抜け出したのは言うまでもなく初めてで、ワクワクしながら西尾真琴は走った。だが、一つ重要な事を忘れている。それは森澤和人の家がどこにあるのか、最も大切な事を西尾真琴は知らなかった。
携帯電話で時間を確認すると、もうそろそろ二時間目の授業が始まりそうだった。
西尾真琴は急いで黒崎真奈美に電話をする。
「もしもし! 真奈美ちゃんにお願いがあるの!」
「取り敢えず落ち着いて、それでお願いって?」
「あのね、和くんの家どこにあるか聞いてほしいの!」
「あんたって人は……。ちょっと待って」
そして少しの沈黙。
今の西尾真琴には一分一秒も待てない状態だった。たった三十秒ほどの時間も長く感じられるほどだった。
「えっとね、学校の側にあるバス停に乗って、八つ先のバス停だって。あっ、真琴の家と反対の方向に八つ先ね。家はちょっと説明しにくいから、バス停を降りたらその先を一分ほど歩いた先にあるって。その辺りはあまり家がないから、すぐに分かるみたいだよ」
「ありがとう真奈美ちゃん!」
「どういたしまして、今度何か奢ってよね?」
「うん!」
西尾真琴は携帯電話を鞄にしまい、バスの時刻表を見る。時間を確認すると後五分ほどでバスが到着するようだった。さほど時間が経たないうちに、学校からチャイムが聞こえる。そこでようやくサボったのだと実感が湧いた。
今の西尾真琴にとって五分という時間はとても長いような気がした。道の先からバスが早くこないかと、ひたすら見つめる。何度も腕時計を見る。だけど時間は進まない。それを何度も繰り返していた。
ほどなくして待ちに待っていたバスがやってくる。西尾真琴は急いでバスに乗り込み、近くのシートに座りこんだ。
* *
俺は幼馴染を家まで送り、ベッドに寝かした。幼馴染の家には誰もいなく、少し不安だったが「僕の事はいいから、彼女さんの所に行ってあげなよ。彼女さん和人の家にいるはずだよ」その言葉を聞き、俺は家に入るのをためらっている。後から聞いた話だが、睦月は今日学校を休んだようだ。理由は定かではないが、病気のような類ではないらしい。
何分ぐらい家の前で立っているのだろうか、中々決意が決まらず、ドアの取っ手に手を伸ばすものの、ドアを開ける事はなかった。
頭の中では何度も幼馴染の言葉が流れている。「彼女さん泣いていたよ。和人がいないって、ないていたよ。せっかく作ったご飯を食べてくれないって……。彼女さん泣いていたよ」その言葉が繰り返し俺の頭に響き渡る。
今ここで睦月に会って何を言えばいいのだろうか、それが俺の思いだった。それが家に入れない理由だった。
俺の決意が固まらず、玄関の前で立っていると、突然ドアが開かれる。その先にいたのは、双子の妹の佳苗だった。
「さっさと入れば、兄さん。いつまでも玄関の前で立っていたら不審者みたいだよ」
「佳苗……。学校は?」
「休んだ。お母さんが睦月ちゃんの事が心配だからって……。それで私も学校を休んで一緒にいるわけ」
「悪いな」
「どうして兄さんが謝るわけ?」
「いや、だって……」
俺は佳苗の顔を見る事が出来なかった。
「あっ、もしかして睦月さんが泣いた事知っているの?」
「……」
「そっか、そっか。兄さんも女泣かせの一面があって私は嬉しいよ。これ私が最初に思った事。今の兄さんは格好悪い。いつまでもウジウジして、睦月さんに会えない兄さんは格好悪い」
「……」
「ほら、早く睦月さんに謝ってきな。その後に昨日何があったのか、洗いざらい話してもらうから覚悟しとくように!」
そして佳苗は俺の背中を押す。その後押しで俺は家の中に入る事ができた。
一歩一歩ゆっくりと歩き、俺は自分の部屋に向かった。そこに睦月がいるから。睦月が待っているから。
部屋の前で俺は立ち止まり、大きく深呼吸をしてノックをする。
「あー、睦月? 入るぞ」
心臓の行動が早くなったのが分かった。
睦月は俺のベッドで横になり、小さな寝息を立てていた。まだ何を言えばいいのか分からなかったから、その姿に安堵する。
ベッドの側で腰を下ろし、睦月の頬を軽く撫でる。
「ごめんな。ごめんな。俺……、睦月の事、忘れちゃった」
睦月は喋ってくれない。
「睦月との事全部、全部忘れちゃった。……ごめんな」
そっと、優しく睦月の頬を撫でる。その頬に一粒の滴が流れる。
俺は最後に一言「ごめんな」と言い、その場を後にする。部屋を出る際に「私も和人の事忘れちゃった。ごめんね」その睦月の声が俺に届く事はなかった。
部屋の前には佳苗が立っていた。佳奈は無言で歩き、俺もその後を追う。
佳奈と外まできた。玄関の前に座り、俺もその隣に腰を下ろす。
「それで、昨日は何があったの? 睦月さんが兄さんに電話をした後に、大泣きして大変だったよ」
「……昨日さ、女の家に泊まった」
「はっ! 信じられない! ……まぁ、いいや。それで?」
「俺も最初は帰るつもりだった。だけど電話中に相手に携帯をとられて、睦月に今日は帰らないからって言った」
「……なるほど、それで帰るに帰れないと。ばっかじゃないの! 兄さん大馬鹿野郎だよ! 最低野郎だよ!」
「……」
答えられない。佳苗の言うとおりだから。
「それで、もちろん泊まった女の人とは何もなかったよね?」
「……」
俺の視線は泳ぎ、明らかに動揺しているかのように体を一瞬震わす。
「信じられない! ……寝てないって言いなさいよ! 何もなかったっていいなさいよ!」
佳苗は俺の胸倉をつかみ、無理やり俺の目を見据える。
俺はその視線から逃げるように目をそらした。だって「寝ていない。何もなかった」とは到底いえないからである。
「っ!」
佳苗は俺の頬をビンタで叩く。力いっぱい叩いた。
口の中で鉄分の味がする。
「……俺さ、睦月の事何も覚えてない。睦月の事全部忘れてしまった」
「そんな冗談いわないでよ!」
「冗談じゃない。本当だ。いつ睦月と出会って、いつから睦月と一緒に暮らしているのか、俺と睦月の関係。その全部覚えてない」
「ふざけないで!」
佳苗は手を振り上げる。俺は横目で、また叩かれるのか。そう思った。
「――和くんを叩かないで!」
今から振り下ろそうとする佳苗の手が止まる。
昨日から何度も聞いた声、西尾の声が辺りを響く。横目で道路の方を見れば、そこには息を切らした西尾の姿があった。
西尾は懸命に俺のところまで走る。
「もしかしてあの可愛い子が?」
「……ああ、そうだ」
「っ!」
次はグーで殴られた。
俺はその場に叩きつけられる。
佳苗は何も言わず、俺の胸倉から手を離して家の中に入っていく。
「和くん大丈夫!? ちょっと待ってね」
西尾はすぐ近くにある水道でハンカチを濡らし、俺の頬に当ててくれた。熱を帯びた頬が冷たくて、気持ちよかった。
「さっきの子は?」
「双子の妹の佳苗だ」
「妹さんすごく怒っていたけど、それにしても殴るなんて酷いね。大丈夫?」
「なんとか」
「いったいどうしたの? 妹さん怒らせるような事したの?」
「……ちょっと色々あって」
「そうなの……」
そして言葉が途切れた。
俺は何かをするわけもなく座り、西尾は俺の目の前に座って頬にハンカチを当ててくれている。
「……あのね、私謝らないといけない事があるの」
沈黙を遮ったのは西尾だった。
「あのね、和くんとの思い出なにも覚えていないの。忘れちゃったの――」
俺は目を見開いて西尾を見つめた。俺と同じだった。
「――和くんといつ出会ったのか、和くんといつ付き合ったのか……。昨日の夜より先の事が全然思い出せないの」
耳元で「ごめんね」と言い、俺に抱きつく。非力ながらも力いっぱい俺を抱きしめた。
俺は見開いている目を閉じ、西尾の背中に手を回す。俺も西尾の思いに答えるかのように、力いっぱい抱きしめる。もう少し力を強めれば折れてしまいそうな、華奢な体を抱きしめる。
「俺も西尾と同じ。西尾の事忘れちゃった。……ごめんな」
「いいの。お相子だね」
ヘヘッと笑い、西尾は少しだけ体を離す。
目の前には西尾の整った顔があり、手はまだ後ろに回されている。抱き合いながら見つめあっている状態だ。
そして西尾は突然顔を近づけてくる。何度目かのキスをされた。
一瞬驚いたが、次には俺も目を閉じる。
「かぁー! 真っ昼間からアツアツだな! ついに睦月が嫌になったのか?」
俺と西尾はビクッと体を震わす。
声がする方を見ると、そこにはポニーテイルで目付きの悪い女性が煙草を吸いながら俺たちを楽しそうに眺めていた。
俺はこの女性をどこかで見た事のあるような気がする。名前は覚えていない。
「えっと……。どちら様でしたっけ?」
「それは冗談のつもりか? 全く笑えない冗談だな」
俺の言葉に腹を立てたのか、俺と西尾を引き離すと片手で俺を持ち上げる。
西尾はポニーテイルの女性の乱暴な態度にビックリして放心状態だった。
「なぁ、和人? あたしはそういった類の冗談は嫌いだ。お前も知っているだろ?」
「知るかっ! い、息が! 頼むから下ろしてくれ!!」
「それならいたいけなあたしを弄んでごめんなさいと謝れ」
「ふざけるな!」
「……もう飽きた。和人も頑固者だな」
そう言ってポニーテイルの女性は俺を下ろす。そして何を思ったのか、女性は俺の口にさっきまで吸っていた煙草を押しこむ。
「まぁ、一服つけて落ち着け」
俺は今までに煙草を吸った事がなく、肺は予想外の物を取り込んだと押し返し、そのせいで俺は涙目になってむせる。
「お、俺は煙草なんて吸わない!」
「そうだったか? けどお前の部屋って煙草臭いぞ?」
「皐月のせいだ!」
俺は自然とポニーテイルの彼女の名前を叫んでいた。
「ほら、あたしの事知っている。二日家から離れて寂しかったか? それに何だ、その頬っぺた。さては睦月に叩かれたな」
ぺしぺしと叩いてくる。痛いからやめろよ。
「……俺と皐月の関係って何だ?」
「はっ? 何を今更言い出すと思えば、そんなくだらない事を聞くわけか。そうだな……。あたしは和人を利用して、和人もあたしを利用しているって感じかな。設定上では彼女がどうのこうのって話だ。まぁ、実際にはあたしと和人は付き合ってもいないし、キスだってしていない関係ってところだな。ところでどうしてそんな事をあたしに聞いた? 何か訳ありか?」
「そうか……。訳ありと言えば訳ありだ。ちょっと最近記憶がおかしくて……。睦月の事も、皐月の事も、今までの事全部忘れてしまった……」
「なるほど。そりゃー、話は簡単だ――」
皐月は大きく息を吸い込み、
「――てめぇーの仕業なのは分かっている!! さっさと出てこい!! 霜月!!」
誰かに言うわけでもなく、そう大声で叫んだ。
俺と西尾は何を言っているのだろと顔を見合わせ、皐月はキョロキョロと辺りを見渡している。
数秒の沈黙のあと、
「いい夢は見られましたか? 私からのささやかなプレゼントです」
どこからともなく声が聞こえた。あたりを見渡しても俺と西尾、そして皐月の三人しかいない。皐月は顎で向こうを見ろと合図を送る。
合図の先、さっきまでは誰もいなかった道路に知らない女性が立っていた。
お金持ちのパーティーに着て行きそうなドレスを身にまとった女性がそこに立っていた。
シンプルそうな作りのドレスのように見えるが、それでも卓越したセンスに洗練された色づかい。とてもではないがド田舎には不釣り合いな格好だが、その姿はとても幻想的で、美しかった。
「つまんねー夢からさっさと解放してやれ」
「あら? 森澤和人様は私からのプレゼントはお気に召しませんでしたか? それは残念です。ではお望み通り記憶を戻してあげましょう」
そう言ってドレスの女性――霜月は指を鳴らす。
瞬間だった。
俺の頭には色々な情報が流れる。それは忘れていた記憶であり、大切な記憶だった。睦月との出会い、睦月との関係、皐月との出会い、皐月との関係、そして忘れていた西尾との出会い。全てが思い出される。
一瞬で頭に色々な情報が流れ、俺の頭は悲鳴を上げる。
俺はその場に膝をついて霜月を睨みつける。
「混乱しているようですね。では私から説明でもさせていただきます。昨日の早朝に私は森澤和人様、西尾真琴様、そして睦月さんの三人の記憶を操作させていただきました。時々ですが、一瞬時間が飛んだような感じがあったと思います。それも私の仕業です。少しずつ古い記憶を消させていただきました。西尾真琴様と睦月さんの事を忘れてしまったでしょ? そうそう、西尾真琴様との出会う設定は私が勝手に操作させていただきました。少し刺激的で、楽しかったでしょう?」
俺だけの情報が流れた西尾は平気そうな表情をしていたが、事の真相を知ってワナワナと震える。
「ちょっと! 私そんなにふしだらな女の子じゃありませんよ! 和くんに変な誤解されたらどうするの!!」
西尾は女の子だった。普通なら情報操作について突っ込みをいれるところだろう。だが、西尾はそれどころではなく、自分の設定に不満を持ち、文句を言っている。
皐月もそんな西尾を見て「こりゃ、大物だ」と、こっそりと笑っている。
「あ、あの西尾?」
「どうしたの?」
「えっと……。何ていうのかな。別に付き合っている訳じゃないのに、あんな事やこんな事をして、ごめんな」
思い出したようで西尾の頬は真っ赤になる。今にも湯気が出てきそうなほどだった。
「そ、それなら責任をとってください! 和くんは私のファーストキスと初体験を奪いました! だから責任とってください!」
「いや、でも……。西尾は別に俺の事好きでもなんでもないだろ?」
「……和くんの優しさはいっぱい知っています。私じゃ駄目ですか? やっぱり琴田さんの方が和くんは好き?」
西尾の今にも泣き出しそうな瞳、今にも泣き出しそうな声。生涯最大の衝撃を受けた。もしこれが物理的な攻撃なら即死レベルだった。
皐月は我慢できず、その場で大笑いしている。笑いすぎて涙を流しながら、「和人よかったじゃないか。あたしも睦月も別にお前と付き合っている訳じゃない。その可愛らしい彼女の気持ちに答えてやれ」と言っている。
「お、俺でよかったら……」
「うん! これからもよろしくねっ!」
とても嬉しそうに頬が緩む西尾。敵の霜月を無視して、ここに本物のカップルが誕生した瞬間であった。
「森澤和人様、西尾真琴様よかったですね。恋のキューピット役になれて私は幸せです」
「うん! ありがとうございます! 綺麗なお姉さん!」
「いえいえ、どういたしまして」
敵となれあう西尾。まぁ西尾にとっては、敵味方なんてどうでもいい事か。
それよりも騒がしい人が一人増えそうだ。さっきから家の中からドンドンと足音を鳴らして、近付いてくる人がいる。顔を見るまでもない。睦月だ。
力いっぱいにドアを開け、ズカズカと睦月が登場した。
「遅いご登場ですね。睦月さん」
「かぁーずぅーとぉー! どういう訳か説明しなさい!」
「あら、私の事は無視するのですか? 寂しいですね」
「あんたは少し黙って! 何があったのか全て私に説明しなさい!」
「取り敢えず落ち着け。そうだな――」
「私のおかげで、そこにいる西尾真琴様と晴れてカップルになったのですよね」
俺の言葉を遮って霜月が結論を言う。西尾も「キャッ」と恥ずかしそうに顔を手で覆い隠す。
睦月はその回答が気に食わなかったのか、皐月と同じように俺の胸倉をつかんで持ち上げる。
「私が悩んでいる時に和人は彼女とよろしくやっていた訳ね」
「そうですよ。だってファーストキスと初体験を奪っちゃったみたいですから」
と、霜月。その言葉で今以上に胸倉に力が入る。
「睦月、お、落ち着いてくれ」
俺はギブギブと睦月の手を叩く。
「私が大泣きしている間に彼女とイチャイチャしていた訳ね」
あっ、もう無理。そろそろ限界。
今にも気絶しそうな時に皐月の助け船がやってきた。
「そろそろ離してやれよ。今回の事は睦月にも少なからず責任があるだろ?」
「どうして私が!?」
「霜月の存在に気がつかなかったのは誰だ? 一緒になって霜月の思い通りになっていたのは誰だ? お前だろ。そうしたら和人はどうなる? お前の八つ当たりを受けている和人はどうだ。あたしは和人に同情するね」
「もう!」
睦月は俺を乱暴に下ろし、霜月を睨みつける。ものすごく機嫌が悪いようだった。
「えっと、誰だっけ? そこの可愛い子」
「私ですか? 私は西尾真琴ですよ」
「そう、西尾さん。和人の事は忘れてさっさと家に帰りなさい」
「それは無理です」
「どうして?」
「だって今日は和くんと一緒にいるって決めましたから」
「……話にならないわ。和人、あなたからも彼女に言ってやりなさい」
そして再び胸倉を掴まされた。もう勘弁して下さい。
「何を!」
「私が言った事を復唱しなさい。俺はもう君とは付き合えない。別れましょう。ほら、とっても簡単でしょう?」
「ふ、ふざけるな!」
「私は真面目よ。ほら、気絶する前に言いなさい」
「さ、皐月! 助けてくれ!」
やれやれと言いながら、実に気だるそうに俺たちに近付く。
「いい加減にやめておけ。いったい睦月は何がしたい。あたしには我が儘な子どもにように見える」
「だ、だって! 和人は私を裏切った! だから私は――」
「いつ和人が睦月を裏切った? 可愛い彼女と関係をもった事か? それは違うだろ。和人は自分の意思で彼女と関係をもって、自分の意思で付き合った。睦月、お前はどうだ。和人にキスの一つでもしてやったか? 和人と体の関係をもったか? 和人とお前は別に付き合っている訳じゃない。それ以前に和人はお前の主で、お前は和人の物だ。それを忘れるな」
「もう、和人なんて知らない! 和人も皐月もバカ!!」
そう言って睦月は家の中に走り去って行った。
残された俺たちは呆然と睦月の後姿を見つめる。
「まっ、窒息死しなくてよかったな」
皐月はそう言って俺の肩をたたく。
俺はまた一つ大きな問題ができたと、大きなため息をつき立ちあがる。
さて、その大きな問題の前に解決しなければいけない問題が目の間にある。俺はニコニコしている霜月の顔を見つめる。
「もうお話は終わりましたか?」
「おかげ様でね」
「それはなによりです」
「それで、君は一体何をしにきたのかな? まぁ、想像はつくけど」
「ご想像の通り、森澤和人様と睦月さんをやっつけにきました。皐月さんはどうします?」
「あたしは別にいいや。見学させてもらうよ」
まるで興味がないかのように手を振ってその場に座る。
西尾は何が始まるのかワクワクした感じに俺たちを交互に見ていた。まるでヒーローショーが始まる寸前の子どものような感じだった。
明らかに俺と霜月には戦力の差がありすぎる。現段階では睦月が助けてくれそうにないし、皐月も見学すると言っている。これは非常に由々しき事態である。
「では私からもう一つプレゼントがあります。楽しんでいただけると幸いです」
霜月が一礼し、指をパチンと鳴らす。
――刹那。
俺の視野には黒く荒んだ空が広がった。