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二月 如月





 パシーン!

 俺の頬に痛みが走る。最悪の目覚めだった。

「やっと貴女の主様が目覚めましたわね?」

 睦月と契約を結んで何日かした時の事だった。

 ようやく睦月との生活に慣れてきた時のこともあり、特に気に止めることも無く眠たい目を擦りながら声がした方をチラリと見る。

 今日も特に普通の日と変わりない日だと思っていた。だけどいつもと違うのは俺の頬に痛みが走っている事と、そこにいる人だけだ。

 やたらと派手な服を身にまとい、その女性は俺を見下ろすように立っている。そのやたらと派手な服というのは偽メイドならぬ偽ナースでもなければ、偽チャイナだった。顔つきはどこからどう見ても日本人で、ギリギリ見えそうで見えないぐらい絶妙のチャイナ服だった。健全な男子高校生の身として朝からこれほど刺激的なものを見れば、ベッドから出ようにも出られなくなってしまう。

 睦月はニヤニヤと俺の反応を面白そうに見ていたが、キリッと偽チャイナ娘を睨む。

「どうしてここが分かったの、水無月?」

 それよりどうして土足なのかツッコミをいれてほしい。おかげで床についた泥やら石が気になる。

 ようやく俺は今起きている現状を把握した。この土足で偽チャイナ娘は睦月と同類の人なのだと。

 ここで水無月について説明でもしよう。水無月とは六月の事だ。これは中学時代に国語の時間に先生が余談で説明していたのを覚えている。それ以外は全く謎だ。主の姿がなく、契約しているのかも分からない。分かるとするなら下着の色がピンクということだけだ。ちなみにこれは窓が開いて、そりの深いチャイナ服を着ているから見えても不可抗力というものだ。実にラッキーである。

「それは極秘だから話せないかな」

「なら質問を変える。私達に何のよう?」

 さっきから睦月がピリピリしている。この雰囲気だといつ偽チャイナ娘に跳びかかっても不思議じゃない。そうなれば必然的に戦場は俺の部屋になるわけだが、それだけは勘弁してほしいな。もちろん外なら木をなぎ倒そうが関係ない。俺の目の届かないところなら暴れようが、何をしようが大いに結構だ。

 チャイナ服のスカートをヒラヒラと風になびかせ、水無月は不適な笑みを見せる。

「私と手を組まない?」

「やっぱり水無月はバカね。仮に手を組んだとしても最終的に私達は敵になるのよ?」

 ここが戦場になる確率が高くなるから、どういった形でも相手を挑発する発言は止めてほしい。欲をいうなら外で話してほしいところだ。

「そんな事は分かっているわ。けどね、もし私達が手を組めば最後まで生き残る確立が高くなるでしょ? そうなれば私か睦月のどちらかが生き残る。確立なら二分の一なのよ。結構うまい話じゃない?」

「確立なら、ね。けど最終的に手を組むのに必要なのは信用と信頼よ。それについて私から水無月に抱く信用と信頼は、残念な事にゼロに等しいの。おわかり? あなたは信頼できないって事なのよ」

「……そう。睦月が私をあまりよく思っていないのは分かりました。それでは睦月の主に問います」

「えっ? 俺に?」

 突然話をふられても寝起きのため頭が回らない。

「ええ。貴方は睦月と少しでも長く一緒にいたいですか? それとも近い間に永遠の別れに遭いたいですか?」

「一緒にいるのに越した事はないけど……」

「なら私と手を組めばそれが現実になるわ。一緒にこの戦いを乗り切らない?」

「そういわれても俺はこの戦いに何の興味も無ければ褒美とやらも関係ない。俺はもう少しだけ睦月と一緒にバカみたいな生活を楽しみたいだけだ。そんな訳で、後の話しは睦月に任せて俺は寝る。騒ぐなら外で騒いでくれよ。おやすみ」

 俺は再び布団を頭からかぶって二度寝に走る。

 薄れゆく意識の中「和人」と、嬉しそうな睦月の声が聞こえた。





 朝の不可解な出来事が嘘のように、その後は何事も無く時間が過ぎていった。

 今は昼休みで、俺は大抵一緒にいるメンバーの幼馴染、石井、金田が俺の机に集まって話している。話の内容としては「靴下とタイツの見た目の問題」について、だ。ちなみに俺は蚊帳の外だったりする。よくもこうも毎日謎めいた問題について熱く語れるものだ。俺には高等テクでついていけない。

 睦月は隣の席で他の女子と話しているようだが、どこか上の空だった。今朝の事に何らか関係がありそうだ。あの後俺は寝たため、詳しい話は分からないため後で聞いておく必要がありそうだ。

「ちょっと、和人聞いている!?」

 俺はどうにも話しについていけないため睦月を横目で盗み見ていると幼馴染の顔がドアップで現れる。

「ちけーよ! あと耳元で大声出すな」

「和人が彼女さんばっかり見ているからだよ。どうせ僕達の話なんて聞いていなかったでしょ?」

 ジト目で俺を一睨みし、流し目で睦月を見る。

「……聞いていたともさ」

「なら何の話をしていた?」

「靴下とタイツの見た目の問題について……だったような」

「その話は終わったもん! 今は和人と彼女さんの夜の関係について話していたもん!」

 そんな話を俺と睦月の側でしないでくれ、頼むから。

 俺は大きなため息をついて、

「……それで、いったいどんな結論に出た? ちなみに回答によっては貴明と縁を切らせてもらうから」

「何の冗談? 僕と和人は切っても切れない仲じゃないか。それに僕にはしっかりと赤い糸が小指に見えるよ」

「つまらんジョークに付き合っているほど俺は暇じゃない。それで、結論は?」

「いつに無く本気だね。……け、結論につきましてはいずれまたの機会に」

 焦っているのかどこか幼馴染はよそよそしかった。きっと俺が悪いほうの結論が出たに違いない。そうじゃなきゃ、この幼馴染がこんな態度をするはずがないからだ。

「……まあいいや。俺は購買に行ってくるから」

 俺は椅子から立ち上がり、ズボンのポケットに財布が入っているのを確認する。

 幼馴染に軽く手を上げながら教室を後にした。俺の態度がいつもと違うと悟った幼馴染は俺がドアに手をかけた時に「今日の和人少し変だね? 彼女さんを意識していたから……これは調査が必要だね」とか聞こえてきた。

 俺が教室を出て直ぐに睦月が俺の隣を通り過ぎたかと思えば、そのまま俺の手をとってズカズカと購買とは別の方に歩き出す。

「ちょっ、睦月どうした?」

 俺の言葉を半ば聞いていないのか、睦月は無言のまま階段を上り、特別教室が並ぶ廊下まで俺を連れ出した。

 最近この廊下にくる事が多くなったと思いながら俺は俯いている睦月の顔を覗きこむ。

「いったいどうした?」

「……和人が私に聞きたい事があるでしょ?」

 睦月は廊下の壁によしかかりながらそう言う。

 確かに俺は睦月に聞きたい事がある。それでもこうも突然ラチってまで睦月は聞いてほしいのか? それとも俺が聞きたいという素振りをしていたのか? それについては定かではないにしろ、どんなかたちにせよ今朝の事を聞けるならどうでもいいというものだ。

「確かにあるけどさ……。それより今日の睦月ちょっと変じゃないか?」

「普段と一緒よ」

「……そうか。なら聞くが、俺が寝た後に何があった? 結局あの水無月と手を組む事にしたのか?」

「それは分からない」

「分からないって……」

「一週間後にまた来るって。その時に答えを出すつもり」

 フムフム。それでさっきの教室でも睦月が上の空だったわけだな。もし断れば争いは逃れないし、手を組んだとしてもいつかは戦う日がくる。それが早いか遅いかの違いだ。

 睦月がこんなに悩んでいるのは俺がいるためだと思う。もし睦月だけなら思う存分に戦うのだが、あいにく俺という足手まといがいる。俺と相手を同時に意識しなければならない。だからこそ睦月は悩んでいるのだろう。

 俺の予想がどこまであっているのかは分からないが、それでも少なからず俺の心配をしている事には間違いないと思う。あまり誰かに心配をされた事がないため、そういった事が少し嬉しかった。

「睦月がしたいようにして、睦月の出した答えなら俺は絶対に反対はしない。俺の事は気にせずに、睦月のしたいようにしろよ」

「和人……」

「あ〜、あと俺の部屋を戦場にするのだけは止めてくれよな」

「分かった。それだけは約束するよ。……あ〜あ、和人に励まされるとは思わなかったよ。案外こういったのも悪くないね」

「ならこれから一人で何でも悩まないで、俺に相談でもしてくれ。解決ができるか保障はないけどな」

「そうね。無理難題な相談をして和人をいっぱい困らせちゃうから」

「それは遠慮しとく」

 何とか普段の睦月に戻りホッとした。こうじゃなきゃ、俺の調子がくるう。

 俺は最初の目的である購買に向かうために睦月に背を向けて歩き出す。

「パンかジュースでも奢ってやるよ」

「あら気前がいいじゃない。何か裏がありそうね?」

「……やっぱり奢ってやらん」

「うそうそ。ここはありがたく奢ってもらいます」

 先に歩いている俺の肩に背後から思いっきりわしづかみにして軽く押してきた。バランスを少しは崩したものの、それほどの威力じゃなかったためこける事はなかった。

 俺はそんな子ども染みた事をする睦月を鼻で笑いながら見る。睦月は無邪気そうな笑顔で俺の後を肩に手を置きながら歩いていた。もっともこういった睦月は珍しくはないため、俺はなされるままに歩いた。


 今日もつつがなく学校生活が終わり、俺は荷物を確認してバックを担ぐ。

 時間を見ればまだバスが来るまで時間はあるものの、時間通りにバスが来るとは限らない。そのため早めに睦月と幼馴染と学校を出る。

 幼馴染は睦月の存在をあまり好ましく思ってないのか、何かしら俺を間に挟んで抗争を繰り広げている。睦月も睦月で楽しそうに幼馴染と言い争いをして、俺の悩みの一つとなったのはつい最近の事だった。

「彼女さんは和人とどこまで関係を築いたのさ?」

 そして今も俺を真ん中に両サイドで抗争が勃発しそうだった。言うまでもないが、この抗争を始めるのはいつも幼馴染である。

 今まで何度かこの疑問で言い争いをしている。その都度睦月は真実そうな嘘をついて幼馴染の反応を楽しんでいる。

「ですから私と和人の仲は村井くんが一番知っているでしょ?」

 そう言って睦月はさり気なく俺の腕に絡んでくる。ちなみに今は玄関を出たところだから下校中の生徒から嫉妬の目で注目されている。

 俺は大きなため息をついて睦月の手からどける。

 睦月はつまらなそうに俺を一睨みするが、俺は知らない顔をしてそっぽを向く。

「和人に振られちゃったね。僕ならそんな事は絶対無いから僕の勝ちだよ」

 そう言って幼馴染は強引に俺の腕に絡んでくる。睦月ならまだしも男にそういった事をされるのは気持ち悪い。

 俺は幼馴染の手をパシッと叩く。

「あら? 完全に拒まれましたよ? 私より酷いようですね」

「違うもん! 和人の本音は腕を組みたいけど、面前の前だから照れているだけだもん!」

 どこをどうしたらそうなる。俺は心の底から拒んだぞ。

 俺は怪訝そうな顔で幼馴染を見る。

「なにさ? 和人は幼馴染の僕より彼女さんの味方をするわけ?」

「いや、そういうつもりは……」

「私の味方をするのは当然じゃないですか?」

「どういう訳さ?」

 俺の言葉は最初から聞かないようだ。

「自分で言うのは少々問題がありますが、私は女であり人並みよりモテます。ですが村井くんはどうですか? 幼馴染というカテゴリーを抜かしたら何も残らないでしょ? その証拠に私が和人にキスをしても違和感がありませんが、村井さんがキスをすれば違和感しか残りません。そうでしょ?」

「……やってみないと分からない」

 うぅ〜、と唸りながら幼馴染は俺の頬に顔を近づける。

 俺は焦りながら幼馴染の近づく顔を手で押さえる。言わなくても分かるでしょ? 幼馴染だろうが性別は男で変わりはない。どういった形でも男にキスをされるのを拒まない男はいない。もしいるとするなら怪しい関係だ。

「ほらね。それに比べてあたしなら和人は拒まないわ」

 そう言って睦月は俺の頬にキスをする。

 やられた。不意すぎて俺は避ける事ができなかった。それどころか頬に残る柔らかく温かい感触が残り、恥ずかしくもあり嬉しくもあり、色々なものが俺の中で悶々とうごめいた。

 幼馴染はあからさまにガッカリしたようで、地面にひざをついて今にも泣きそうだった。

「これで私と和人の方が親密な関係だと分かりましたでしょ? こういった事はあまり人前で言いたくはないのですが、首にあるキスマークは私のです」

 ニッコリと幼馴染に追い討ちをかける。

 幼馴染はポロリと一つの涙を流しながら校門の方に向かって走り出した。

「和人の変態でバカ! どうせ夜も彼女さんとよろしくやっているでしょ!? もう和人なんて知らないからね!!」

 捨て台詞にそんな事を面前の前で叫ぶ。ああ、言い争いをするのは一向に構わないが、誤解のうむような発言だけはしないでくれ。

 俺は首にあると思われるキスマークを手で隠しながら睦月を睨む。

「俺が寝ている時は誤解をうむような事はするなと言わなかったか?」

「私は故意にしていないよ。きっと私が寝ぼけてキスしちゃったのよ。ほら、そんなに睨まないでよ。今のキスで全部チャラ。それでいいでしょ?」

「いい訳があるか!? あとさり気なく腕を絡ませるな!」

「甲斐性がないとモテないぞ?」

「コラー! 学校の敷地内での不純な行為は慎みなさい!!」

 毎朝なにかと突っかかってくるヒステリック娘の声がした。

 声がした方を見れば、ヒステリック娘は「誰よりも美しい美化委員会長」そんな腕章をして取り巻きと共に玄関から走ってきた。しかも顔を真っ赤にして今にも爆発しそうだった。

「逃げるぞ!?」

 俺は言うよりも早く睦月の手を握って走り出す。もし捕まったら帰りのバスに間に合わない以前に、グチグチと説教をされるのが目に見えているからだ。

「観念して止まりなさい! もし止まれば少しぐらいは罪を和らいであげますわ!!」

 そんな保障はまるで無い。俺が止まろうが逃げようが、どうせ明日の朝に説教が待っているに違いない。

 ヒステリック娘は以前紹介したように、どこかのお嬢さまだ。そのため体力は全く無く、それと一緒に足も早くは無い。そして取り巻きはヒステリック娘と共にいるのが仕事なのか俺を追おうとはしない。だから俺はヒステリック娘から逃げる事は難しいことではなかった。

「止まれと言っているでしょ!? ハァハァ、早く止まりなさい……森澤和人!!」

 最後の力を振り絞って俺の名前を呼んだのは分かったが、俺は完全に無視してそのまま走り去る。

 運が良かったのか、俺がバス停についた途端にバスが来た。

 先にバス停にいた幼馴染は俺と睦月が手を握っているのを目撃して悲しいのか、捨てられた犬のようにションボリとしていた。そんな顔をされるとほっとけなくなるのが人の良心というものである。

「あ〜、睦月も貴明も同じぐらい大切だから、そんな顔で俺を見ないでくれ」

 俺はバスに乗り込む寸前にバス停の前で落ち込んでいる幼馴染に言う。

 幼馴染は一瞬花が咲いたように明るい笑顔を見せたが、ほんの一瞬だった。次の瞬間にはジト目で俺を見ながらバスに乗り込んできた。

「それって哀れな僕に情けをかけたつもり?」

 昔はこれで何もかも上手くいったのに、何時の間にかこの方法が通用しなくなった。無駄なところを成長しやがって。

「そんなつもりはない。俺は事実を言っただけだ」

 さて、そろそろこの幼馴染の機嫌を直す最高の言葉を新しく考える必要があるな。

 睦月がいない間までは二人用の椅子に座っていたが、睦月が増えた事により一番後ろにある五人用の椅子に座るようになった。もちろん俺が真ん中で、バスの中だろうが口論はひっきりなしにあったりする。

 いつもの指定席に座り、未だにジト目で俺を見つめる幼馴染と、幼馴染を挑発しているかのように睦月が俺の肩に頭を預ける。もちろん俺は肩を上げてものの、何度しても肩に頭を預けるため諦めてなされるがままだ。

「やっぱり信用できない。和人と彼女さんは僕に対するあてつけのようにしか見えない」

「……」

 俺はもう完全に諦め、無言のまま流れる景色に視線を移す。

 バスに揺られて数分で辺りに木が増え始めた。それと一緒に俺のストレスも増え始める。

 俺のストレス発散方法は夜に星空を見る以外は何も無い。そのため少しイライラし始め、ため息が普段の倍以上つく。

 景色を眺めていると、一瞬だけ木の上に人影が見えたような気がした。本当に一瞬だったたし、何より木の上に人が立っているはずがないため、気のせいと思いそれ以降は特に気に留めなかった。

 バスに揺られること二十分ほどでようやく目的のバス停についた。

 俺は止まるボタンを押して三人でバスから降りる。その間ずっと睦月は俺の肩に頭を預け、その姿を悔しそうに幼馴染が見ているだけで、言葉を交わす事はなかった。

 バス停から数分だけ歩いたところで俺の家と幼馴染の家が見えてきた。

 幼馴染は家の前で、

「また明日ね」

 素っ気なくそれだけを言って幼馴染と別れた。

 幼馴染の家から俺の家までは三軒分離れているだけなので、俺も直ぐに家についた。その間は睦月と話す事無く無言で歩いていたため、睦月はつまらなそうな顔だった。

「ただいま」

 家に誰かがいるのか分からないが、一応帰った挨拶として言う。これは俺の数少ない習慣の一つだ。行く時は「行ってきます」帰った時は「ただいま」そう言うように心がけている。

 俺は睦月と一緒に階段を上って自分の部屋に入る。

 バックを適当に置いてベッドにダイブした。それと一緒に大きなため息。

 ベッドに寝転んだ事により、疲れが薄れていく事を感じながら睦月に視線を移す。

「俺はお前に恥じらいという言葉を知ってもらいたいよ」

 そう言うからにはそれなりの理由がある。

 睦月は俺がいるにも係わらず、制服を脱ぎ始めている。思いっきり睦月の下着を目の前にしたため、俺の心臓はバクバクと鼓動を早めた。何度かこういった場面に立ち会ったが、これに慣れる事はない。健全な男子高校生の特権みたいなものだ。いやな特権だけどね。

 俺は直ぐに視線を睦月から壁に移した。

「私だって赤の他人の前だと着替えないわよ。和人だから別に見られてもいいってこと」

「……」

「仮にも私達って恋人関係じゃない? 今更恥らっても何も始まらないって」

「恋人関係はフリだろ?」

「つれないのね。最近和人って私に対して厳しくない?」

「……気のせいだ」

「私が何かしたら怒るのに?」

「怒ってない。注意しているだけ」

「……まあいいや。それより校門で追っかけた人と最近仲がいいのね。ちょっと妬けちゃうな」

 適当な事ばかり言いやがって。妬くどころか、俺をいじる理由が増えて喜んでいるだろ。今に始まった事じゃないから、まあいい。

「あれで仲がいいように見えるなら睦月にメガネかコンタクトをするのを勧める」

「それって遠まわしに私をバカにしているでしょ?」

「よく分かったな? てっきり気づかないと思っていた」

「和人のくせに生意気……」

 着替え終わったのかボスっとベッドに座り込む。

 未だに壁の模様を見ているため睦月の表情は分からないが、声から相当ムカついているようだ。

「学校のお返しだ」

 俺はボソリと呟いて目を閉じた。


*     *


 貴明が学校から帰り、自分の部屋に入るや否やすぐさま部屋のカギをかける。

 もともと貴明の部屋にはカギはついてはいなかった。だが、趣味に情報収集があるため情報が他所に流失しないようにと思いカギをつけたのだ。

 貴明はすぐさまパソコンの電源を入れ、パソコンが立ち上がる間に制服を着替える。

 着替え終わった後にキーボードでパスワードを入れる。これはカギだけでは不安なため二十のロックだ。本当にパソコンについて詳しくない限りこのパスワードを破る事はできない。ちなみにパスワードは「KAZUTORABU」だ。どこまでも幼馴染の和人を崇拝して、愛しているのをパスワードに表したのだ。

 パスワードを打ち込んでから数秒でパソコンが立ち上がり、それと一緒にアニメのキャラが待ち受けに現れる。

 一瞬だけ貴明の口元は緩んだが、幼馴染である和人の彼女さんを思い出して眉間にシワを寄せた。

「絶対に彼女さんの秘密を見つけ出してやる」

 そう呟いて手馴れたようじキーボードを押す。

 ネットの中で特定の人の秘密を見つけるのは至難の業である。多くのホームページでは偽名やイニシャルを使っている。そのためそれらしい情報を見つけても、それが彼女さんと関係があるのか分からない。そもそも顔の知らない相手の情報を易々と信用ができるはずがない。そういった事は貴明が誰よりも知っている。

 貴明はネットから彼女さんの情報を見つけ出すよりも最初に学校にハッキングして彼女さんの素性を知ることから始めた。

 今まで彼女さんに対しジャラシーを覚えたのは隠しようのない信実だ。だが、さっき呟いたように「秘密を見つけ出す」そう思ったのは今日が初めてだった。それの引き金になったのは校門の前で和人に彼女さんがキスをした時だった。それがどうにも貴明は許せなかった。

 今の時代は何でもコンピュータに記憶する時代だ。紙を使って保存するより、よっぽどエコで場所をとらないためだ。それと同時に学校に保存するより安全なためでもある。それでも必要最低限の個人情報は履歴書という形で学校にも保存されているのが現時点の学校での現状だったりする。

 貴明は生徒欄を観覧し、マウスでスクロールする。

 学年とクラスから彼女さんを見つけるのは容易かった。が、彼女さんの名前と顔写真以外は「極秘」と書かれているだけで、詳しい事はまるで分からなかった。

 貴明は怪訝そうに眉をしかめる。

「……どうして? それにこのK・Kって誰だろう?」

 ほとんどが「極秘」なのに対し、最後の方にだけイニシャルの頭文字が書かれていた。

 こういった情報を漏らさないようにするには相当な権力者か、金にモノを言わせたかのどちらかだ。そのどちらかに彼女さんが関係している事で貴明の情報収集という趣味に火をつけた。簡単な秘密より、謎めいた秘密を暴いたほうが嬉しいに決まっているからだ。

「絶対に彼女さんの秘密を暴いてやる!」

 貴明は握りこぶしを作って秘かに決意した。





 水無月が土足で俺の部屋に不法侵入してから二日ほど経った。

 一週間したらまた来ると言っていたのが本当らしく、この二日間は俺の部屋は安全地帯だった。それでも睦月は水無月を信用していないのか、部屋にいる時でも常に俺の側で誰かの気配を探っていた。廊下で物音がすれば直ぐに視線をドアに向け、鳥が鳴けば睨む。この二日間の間休みなしでずっと睦月はそんな感じで落ち着きがなかった。

 それはさておき、学生の本業は勉学なため、今日も無駄に長い道のりの先にある三日月高校に向かって走るバスに揺られているわけなのだが、今日も無駄な抗争が俺を挟んで勃発している。言うまでも無いが、今回も幼馴染からの仕掛けだ。

「昨日考えたけど、本当に彼女さんが和人に相応しいのかテストをする必要がある」

 また唐突に変なイベントを考えたものだ。

 あきらかに裏があるだろ……。

「テストですか? 私は別に構わないけど、村井くんが現実に背を向けないか不安だね」

 バス内では俺が中央は当たり前として、俺の右隣に睦月、その反対である左隣に幼馴染となっている。

 睦月はヒョイッと顔を出してニヒルな笑みで幼馴染を見る。

 幼馴染もそうだが、睦月も俺の何を知っている。外面的以外は無知だろ。

「その言葉そっくりそのまま言わせて貰うよ。当たり前だけど、僕の方が和人と過ごした時間は長いからね」

「その割には私の方が親密な関係を築いていますけどね」

「……男女の差からそれは埋めようの無い真実なのかもしれない。だけど和人の秘密……和人の事なら僕は何でも知っているよ!」

 わざわざ言い換えるほど俺はやましい秘密はあるのか……。いや、自分自身だから言える。断じて俺にはやましい秘密は無い。きっと幼馴染は睦月をあおっているだけだ。

「あら、彼女の私に向かってどの口が言っているのです? 私の方が和人の外面も内面も知っていますよ。ほら、私達って深夜を共にする仲ですから」

 ニッコリと挑発。

 言い方によっては間違いではない。だけど深夜を共にするって……。誰かに誤解されたらどう責任をとってもらおうか。まあそんな事を睦月に言っても『誤解が嫌なら真実にしてしまえばいいよね?』とか笑顔で言われそうだから口が裂けても言わないけどね。

「なら問題ね! 和人の数少ないホクロは体のどこにあるでしょう!?」

 待て、俺にホクロが少ないのは百歩譲っておいて置こう。が、その体のどこって幼馴染は俺の裸をじっくりと見たことがあるのかよ。

 幼馴染は「ジャジャン」とクイズ番組でよく聞く音と「チクチク」とシンキングタイムが減る効果音を言う。無駄なところはクイズ番組に忠実だな。

 兎に角、だ。俺の見えないところで二人が争う分にはどうでもいい。好き勝手に話そうが、嘘を言ってもどうでもいい。だけど俺の目の前で言うのは正直勘弁してほしい。精神的にマイってしまうからね。それだけはこの二人に伝える義務が俺にある。

「もう止めろよな!?」

 だから言う。その義務とやらを成し遂げるために。

 睦月と幼馴染はビックリした顔で俺を見る。

「……両腕に一つずつと、背中に一つですね」

 が、ビックリした顔だけで俺の話しに耳を傾ける気はさらさらないようだ。

 俺は無駄に大声を上げた恥ずかしさと悔しさから拳を握り締めて視線を床に移した。ここまで完全にスルーされると腹が立とうにも立たない。

「せ、正解……」

 正解のようだ。両腕にホクロがあるのは知っているが、背中に一つあるのは知らなかった。

「かなり簡単な問題でしたね? なら私からの問題です。いいですか?」

「僕は構わないよ。だって僕に答えられない問題はないからね」

「でしたら私と和人は一日何回キスをしているでしょう?」

「0回!」

 即答だった。いや、それは事実だが、どうしてそれを即答できるかが謎だ。俺の部屋に隠しカメラか盗聴器でも仕込んであるのか?

「どうしてそう思うのです?」

 俺と同じ事を思っているのか、睦月は怪訝そうに幼馴染の顔を見ていた。

「僕がそうあって欲しいと願っているからさ。それで答えは?」

 ……確信とか無いのか、こいつには。それより問題の答えに自分の願いを言うのは広い世界とでこの幼馴染ぐらいだろう。

「……正解です」

「愛あれば盗撮盗聴は不要だよ。これ、僕のポリシー。次は僕からの問題ね。そうだね、なら和人が異性に求めるヘアースタイルの上位二つは?」

「……」

 俺はもう断固としてツッコミを入れん。どうして俺の好きなヘアースタイルを知っているのかとか、どうして三つじゃなく二つなのかとかだ。全くもって今更なのだが、本当にこの幼馴染というやつは……。

「ストレートと……グルグルパーマ?」

「ブッブー! 答えはポニーテイルだけでした!! ちなみに後頭部から肩甲骨辺りまで伸びているポニーテイルがストライクゾーンです!」

 ……答えとしては紛れも無く大当たりなのだが、どうしてか悲しくなってきた。俺がポニーテイルフェチと誰かに話した記憶が全くない。それなのにどうしてこの幼馴染が知っている。個人情報保護法とかいう制度は俺にだけ無効なのか? それよりグルグルパーマって……。

「ひ、卑怯よ!」

「何が卑怯なのさ? ポニーテイルも答えられなかったのに、よくもそんな言葉が言えたものだね?」

 睦月は親指を噛んで苛立ちを表していた。

 俺の問題に答えられなかったから苛立っているのではない。きっと幼馴染にだまされ、思い通りの筋書きにならなかったから苛立っているのだと思う。思ったより睦月は負けず嫌いなのだろう。

 徐に睦月は髪をかきあげてポケットから出したゴムで結ぶ。それはまさにポニーテイルというやつだ。

「今のってズルイよね、和人?」

「もちろんですとも! 睦月をこれ以上いじめるなら貴明でも許さないからな!!」

 上目遣いで俺を見上げ、さらには髪型がポニーテイルという事もあり、口が勝手に動く。俺にここまで言わすなんてなんという破壊力だ。恐ろしいぜ、ポニーテイル。

 睦月は得意げな顔で幼馴染を鼻で笑う。

「彼女さんこそ卑怯だよ! そこまでして和人を一人占めにしたいの!?」

「村井くんは少し勘違いをしています。一人占めにするのではなく、一人占めにできる権利が私にあるだけです。分かります? 村井くんは幼馴染以上にはなれないのですよ?」

 勝ち誇った顔で頷く睦月。

 その睦月を悔しさ半分、悲しさ半分で睨みつける幼馴染。

 本当に今更だが、睦月のせいで俺の人間関係が徐々に崩れていく。睦月という存在は悪魔か、それに似た類じゃないかと最近つくづく思う。

 そんなこんなで言い争っていると目的のバス停に着いた。

 バスの運転手に定期券を見せてからバスを降りる。バスから降りても俺の両サイドは険悪な雰囲気を出しているため、盛大なため息をつく。

 盛大なため息をつきながら俺は校門の前で立ち止まる。どうせため息をつく理由がこの校門の先で待ち受けていると悟ったからだ。

「どうしたの、和人?」

 怪訝そうな顔で睦月は俺の顔を覗きこむ。

「……ちょっと先に行ってくれ。直ぐに行くから」

 俺は身をひるがえし、きた道を戻る。

「ちょっと和人! どうし……」

「教室で待っているからね。ほら、彼女さん行くよ」

 睦月の言葉を遮って幼馴染は睦月の腕を取って玄関に向かって歩き出す。

 まだ状況は把握していないのか、後ろから「和人!」と声が聞こえてきた。まあ登校中に校門の前で立ち止まり、きた道を帰る学生は実にシュールだから仕方が無い。

 何人かの生徒とすれ違いながら、校門の丁度裏側にある裏門が目的地だ。右腕にしてある腕時計で時間を確認したら授業開始まで全然時間があるから問題はない。それにヒステリック娘に捕まった方がよっぽど時間ロスだしな。

 十分程度歩いたところでようやく目的地の裏門についた。

 普段から裏門から校舎に入ろうとする生徒はいなく、今日もまた誰もいないものだと思っていたのだが、裏門によしかかってタバコをふかしている女性が一人いた。

 俺の大好きなポニーテイルにちょっとキツイアーモンド型の目。その目がどことなく人生が既に終わっているかのようで、寂しい目をしていた。それでも顔のパーツは整っている。ちなみに服装は少し男っぽいが、睦月とかに比べれば普通すぎるほど普通だ。

 俺は係わっては面倒な事になると思い、無言でタバコをふかしている女性の横を通り過ぎる。

「ヘイヘイヘイ。ちょっと待てよ、森澤和人。美人が一人で立っているのに洒落たこと一つ言わないのは野暮じゃないのか?」

 後ろから声が聞こえてきたかと思えば、首から重みがかかる。直ぐに隣を見ればそこにはさっきの女性が俺の肩に手を回して俺の隣に立っていた。

 女性はニヒルな笑みを浮かべて口にタバコを銜えている。

「……」

 俺は立ち止まることを知らない出来損ないのロボットのように無言のまま歩き続ける。

「……あたしと話したくないのなら別にいい」

 彼女は俺の隣でポリポリと頭をかきながら続けて、

「森澤和人が話したいと頭を下げる環境を無理やり作るから」

 ニッコリと微笑んだ後に、彼女は俺の服の袖を持って力任せに校舎の壁に押し付ける。

 突然押し付けられたため、俺は少し咳き込むものの、彼女を睨みつける。彼女は悪気が全くないのか、意味深な笑顔で俺を見ていた。

「……何が望みだ?」

「人聞きの悪い事を言うなよ。あたしは純粋に話したかっただけさ」

「その割には強引だな」

「あたしの話を聞こうとしないからさ。さて、ここで問題です。あたしは今から何をするでしょう? 1、頭を潰す。2、心臓をもぎ取る。3、ひき肉にして鳥の餌にする。答えはどれだと思う?」

 答えの最終地点が全て同じなのは理不尽すぎるだろう。ここはもっとソフトな答えが一つぐらいあってもバチは当たらない。

「……1?」

 どれも答えが同じだから別にシンキングタイムは不要だ。それでも理不尽な問題に数秒あきれた。

「残念。答えは4の普通にお話をする。でした」

「ベタな引っ掛けだな」

「なら問題どおりのシナリオを進めるか?」

「それは丁重にお断りします。それで、俺と何について話したい?」

「特にないな。あたしは森澤和人という個人に興味を持ってね」

「興味を持ったら無理やりにでも話すのか?」

「時と場合によってはね。それが今ってだけ」

「……まあいいや。君の名前は?」

「あたしの名前は……内緒だ。少しぐらい秘密がある女の方がクールだろ?」

 彼女はそう言って校舎の壁にタバコを擦り付けて火を消す。そのまま携帯灰皿に入れる事はせず、適当に放り投げた。マナーという言葉が実に似合わない光景だ。

 俺は校舎の壁に残っている跡と、吸殻を交互に見る。

「別に名前を聞かなくても睦月や水無月と同じなのは分かる。それより学校の敷地内でタバコの吸殻を捨てるのは止めてくれないか? 集会とかになったら面倒だからな」

 彼女は眉と肩をしかめ、面白くなさそうに俺を一瞥する。

「間抜けそうなツラの割には鋭いじゃねぇか」

「余計なお世話だ。それで、俺たちに戦いを申し込みにきたのか?」

「残念だけど、あたしにマスターはいない」

 そう彼女は言うが、へらへらと小さく笑っている。残念というよりかは、どことなく清々しいように見えなくはなかった。

 そんな姿を見ていると何か訳ありのように感じ、俺は目を細める。

「理由が知りたいのか? それは簡単な話しだ。タダ単にあたしが気に入らなかったから拒否しただけさ。だってあたしの顔を見るなり『君には萌という要素がまるで無い。出直すであります』とか言ったから、お礼に部屋中に飾ってあるフィギュアを手当たり次第ぶち壊してやったぜ。その時のあいつの顔ほど笑えるものはなかったな」

 クッククと笑いを堪える。

「鬼だな……」

 俺にはそういった類はよく分からないが、自分の趣味の物を手当たり次第壊されれば悲しいに決まっている。それを手当たり次第とは鬼以外に何があるのだろうか。

「いたいけな少女にかける言葉を間違えた当然の報いさ」

「そのいたいけな少女がタバコを吸う姿はシュールだな」

「それは皮肉か? ちなみに言っておくが、あたしはあたしを馬鹿にする奴と皮肉だけは虫唾が走るほど嫌いだ」

 俺の袖を掴んでいる彼女の手から力が伝わってくる。そして彼女は顔を近づけて、あと数センチでくっつきそうなところで睨みをかけながら言う。

 彼女の瞳はまさに狂犬そのものだった。光が宿っていないと言葉を使うのが一番手っ取り早い。どこまでも暗く、そして今にも吸い込まれそうな瞳だった。

「以後気をつけるよ」

 ホールドアップをしながら言う。

 彼女の手から力が抜け、そのまま俺の袖を離した。

 彼女は身をひるがえしてポケットからタバコを出して口に銜えるとジッポで火をつける。

「まっ、話はそれだけだ。また近いうちに会うだろうが、それまで少しのお別れだ」

 彼女が残したタバコの煙が風に吹かれて消えていく。

「一つだけ聞かせてくれ。君はこのゲームをどう思う?」

 俺は去りゆく彼女の背中に問う。

「さーね、マスターのいないあたしには関係のない話さ。あと、あたしの名前を知りたがっていたな? あたしの名前は皐月だ。中々クールでカッコイイだろ? それじゃあな」

 立ち止まる事無く、振り向く事無く、指にタバコを挟んだ手を軽く上げて皐月は俺の前から姿を消した。

 全てが突然すぎて俺は流し目で裏門を見てから、ため息を一つして歩き出す。


 教室に戻ればチャイムがなる数分前だった。

 皐月と話す前まで結構時間があったのに、思っていた以上に話しこんでいたようだ。

 睦月は少し怪訝そうな顔で俺を見ていたが、何か言うわけでもなく自分の席に座っていた。幼馴染はといえば、何時も通りニコニコと俺を見ていた。

 最近では何も珍しい事でもない。むしろ普通の日常のように感じられる。これもまた睦月がもたらした日常といえる。

 それはそうと、つつがなく授業が始まった。あまり勉強に熱心ではない俺は少しだけ真面目に授業を受けていたが、襲い掛かる睡魔という強敵に恐れをなして机に突っ伏す。これもまた日常だ。

 睡魔と闘って見事に敗北を帰した俺を迎えたのは睦月だった。

「ちょっと私に付き合ってくれるかな?」

 それだけを告げて俺の手を引く。

 俺は寝起きという事もあり、なされるがまま連れて行かれる。

 連れてこられた場所は内緒話をするお決まりの場所だ。

 特別教室が並ぶ廊下に背を預けて、睦月は俺の顔を真剣な顔で見る。

「今日の朝に何があったの?」

 当然と言えば当然の質問だ。

 仮にも俺は睦月の主であり、守られる立場だ。一緒に登校したのに、俺はチャイムギリギリで睦月は余裕をもって教室に入っている。しかも二日前に水無月の訪問ときている。これを怪しく思わない訳にはいかない。

「別に……普通に知り合いと話しこんでいただけだよ」

 嘘ではない。知り合ったのが今日だって事だけだ。

 睦月は俺を流し目で見てから視線を天井に移す。

「……そう。一応言っておくけど、私たちには同類が近くにいるのが不思議と分かるの。それでもそう言い切る?」

「ああ」

「和人は私をあまり信用していないのね」

「それは違うな。俺は本当に知り合いと話しこんでいただけだからな」

「あ〜、分かった。分かったよ。私が悪かった」

 突然だな、おい。

「……ほんと言うとね、私が和人を信じていなかった。それが正解」

「どうして信じていなかったわけ?」

 別に怒っている訳じゃない。ただ睦月の本音が聞きたいだけだ。

「強いて言うなら和人が優柔不断で八方美人だから、かな。良い言い方をすればお人よし、悪い言い方をすればバカだから」

「酷い言われようだな」

「だって本当のことだもん。それに和人って隠し事をしているようで信用性に欠けるっていうか、本当に信用していいのか分からないっていうか……」

「それは睦月の気のせいだ。俺は隠し事をするほど独特な趣味やら隠すほどの経験なんて生憎持っていない。あるとするなら睦月の存在ぐらいだけだな」

「それって遠まわしに私が邪魔だっていいたいわけ?」

「俺は時々睦月の思考回路が疑問に思うよ」

「……」

「俺はただ、睦月の力とそれに係わっているゲームを隠す必要があるだけで、睦月が邪魔とは思った事はない」

「本当かな」

 ジト目で睨まれた。

 睦月は本当に俺の事を信用していないようだ。

 俺は熱くなるこめかみを押さえながら、

「睦月が信じるか信じないかは俺がどうこうできる問題じゃない。だけどな、俺は真実しか言ってない。それだけは本当だ」

「……そう」

「兎に角、そろそろ授業が始まるから教室に戻るぞ」

 腕時計を見てみれば、チャイムが鳴る二分前だ。この特別教室から頑張って走りギリギリといったところか、ギリギリ間に合わないかの瀬戸際だ。あまり授業態度がよろしくないから、遅刻とか勿体ないことはできるだけ避けたい。

 俺は睦月の手をとり、走り出す。

 突然俺に手を握られて走り出されたため、睦月は一瞬だけバランスを崩す。それでも一瞬で、次には俺の隣で一緒に走っていた。この身体能力はさすがというべきか。

「一つだけ言っておくけど、私は和人の事は少しだけ信用しているから」

「少しだけ、か……」

「私が信用できるようにこれからも私を崇拝するように心がけなさい」

 走っているのに、ニッコリと笑みを見せるほど余裕があるようだ。俺はもうクタクタで、ベンチがあるなら今にも座る勢いなのに……。

「ちなみに言っておくけど、俺が、じゃなくて睦月が、だろ?」

「和人が、だよ」

 俺はその時、頭に皐月の最後の台詞がよぎった。「また近いうちに会う」そのままの意味なのだが、それに対して俺はどう受け止めるべきなのか複雑に思えた。今朝みたいな形で会うのか、それとも敵として会うのか、相手の事をよく知らないため俺の心は揺れている。それならこのまま会わない方が俺のためでもあり、睦月のためでもあり、そして皐月のためでもある。

 それでも皐月の事は今のところは置いておくとして、最初に気にする必要があるのは水無月の事だ。たぶんだが、睦月の中での答えはもう出ているのかもしれない。それによって水無月と次会うときの状況が変わる。友好関係になるのか、それとも敵対関係になるのか。そのどちらかしかない。

 言うまでもないが、俺としては無駄な争いは避けたいと思っている。だが、やはりここは水無月を以前から知っている睦月に一任したほうが懸命な判断なのかもしれない。さしずめ睦月は無駄な争いというものはなく、全てが必然の争いと思っているのだと思う。

 俺は走りながらチラリと睦月の顔を覗きこむ。

 睦月は以前のように迷いのある表情をしていなかった。それどころかニコニコと幼馴染と同じように笑みを見せていた。もう吹っ切れたのだろう。

 俺はそんな睦月を見て一度鼻で笑う。別に笑う要素があったわけではない、ただ笑顔の睦月の方が俺は好きだと思ったからだ。

「一つだけ聞くけど、睦月はこのゲームについてどう思う?」

 教室までもう少しのところで皐月にした質問を睦月にも聞く。

「私も和人と同じ」

「へ?」

 何が同じなのか意味が分からなかったから間抜けな声が自然に出る。それはそうと、俺の記憶にこの質問を誰かにされた記憶が無かった。

 怪訝そうに睦月を見ると、睦月は呆れたようにため息をつく。

「水無月が来た時に、和人が言っていたじゃない? 『俺はこの戦いに何の興味も無ければ褒美とやらも関係ない。俺はもう少しだけ睦月と一緒にバカみたいな生活を楽しみたいだけだ』って、私も同じ気持ちだってことよ」

 そういえばそんな事を言った記憶が薄っすらとある。それでもその直後に二度寝に走ったから記憶が曖昧だけどね。

 ただ、睦月も皐月も、この「ゲーム」の褒美とやらにはあまり興味がないようだ。

 睦月が今までどんな生活をしていたのかは想像もつかないが、それでも睦月がそう望むなら主として少しぐらい楽しい生活が送れるようにしなければならない。

「……そうだな。それなら俺はできるだけ睦月が楽しいと思えるようにしないと、な」

 教室の前で睦月の手を放して立ち止まる。

 睦月は突然放されたため、少しだけ距離が離れたところで立ち止まり、俺に振り返る。

「当たり前じゃない。私と和人はそういう関係だからね」

 睦月はそれだけを言い残してさっさと一人で教室に入っていった。これを本当に「つれない」と言うのだろうか。

 俺は漫画やドラマのような展開を期待していたわけじゃないけど、ここまでつれない睦月を見ていたら肩をしかめるしかなかった。

 BGMにチャイムの音を聞きながら俺はゆっくりと歩き出す。

 もっと気の利いた台詞やくさい台詞が言えるのなら今とは違った睦月と話しているのだろうか。そう当たり前の事を思いながら窓の外に視線を送る。





 静寂と闇に包まれた廃墟。

 そこにジッポの灯りがともされ、次には葉に火がともす。

 タバコに火をつけたジッポはもう用がないのか、タバコと一緒に彼女のポケットにしまわれた。

 口に銜えているタバコを軽く吸い、吐き出す。それが今の彼女の唯一の仕事のようだった。

 キツイアーモンド型の目は見るという必然の事を拒んでいるかのように閉ざされ、壁によしかかり耳だけを頼りに辺りを警戒している。

 そう、普段の彼女――皐月は必要が無ければ無駄に動く事はなく、静寂と闇に支配された廃墟の片隅で生活を送っている。

 皐月に必要なのは無になれほど静寂な場所と、雨水をしのげるだけで、それ以外は何も望まない。テレビもパソコンも机も冷蔵庫も、なにもかも望まない。ただ静寂さえあれば他には何もいらない。それが皐月の求める居場所というものなのだ。

 今の皐月はゲームを参加する事の同類語である主でありパートナーがいない。

 いや、いないのではない。

 拒絶した。

 そっちの方が正しい。

 今でも当初の主を思い出すと虫唾が走る。

 今朝久々に静寂包まれた廃墟から出て、以前からマークしていたゲームの参加者である森澤和人とコンタクトをとったのだが、それがどうにも皐月の胸の中に混沌と渦巻くものができて頭から離れない。

 最初に和人を見かけたのは当初の主の部屋をぶち壊した帰りの事だった。

 ねぐらを探すため、普通の人では決してできない芸当、木の上から探していた時の事だった。

 少し前まで一緒の邸にいて、少し前まで普通に話していた睦月の存在に気づき、道路を走るバスを見ればそこに睦月と、現段階で睦月の主である和人がいた。

 皐月と睦月はそれほど仲がいいとは正直いい難い。それでも普通に話したり、一緒にご飯を食べたりと、他の人に比べれば睦月とは親しくしていた仲だった。

 そんな睦月が本当に楽しく笑っている姿を見たのは初めてで、隣に座っている和人もまた楽しそうだった。それがどうしても皐月の頭から離れなかった。それはまるで、知らない人を見るかのようだった。

 そんな時、和人が皐月を見た。

 いや、はっきりと見たわけではない。姿を認知した程度だ。それでも異常な身体能力を秘めている皐月にはしっかりと和人の目を見据える事ができた。

 少し頼りなくもあり、間抜けそうな顔でもあり、欲望という言葉が実に似合わない男がそこに座っていたのが皐月にはしっかりと分かった。が、それと同時に「私を何とかしてくれそう」や「私を受け入れてくれそう」そう感じた。

 皐月がそう感じただけで、第一印象は最悪だ。それなのにそう感じるのにはそれなりの理由があるものだ。

 例えば睦月が楽しそうに笑っている姿を見たから。

 例えば昔の睦月と異なって見えたから。

 例えば楽しそうな睦月を見ていたら羨ましく思えたから。

 そう、全てが正解なのかもしれないし、これのどれか、だ。

 第一印象は最悪にしろ、皐月は一度和人と会ってみたい。そう思った。

 が、今日会って本当にあたしを楽しませてくれるのか、羨ましいと思った事が真実になるのか、疑問に思えて仕方がなかった。

 突然現れて、突然話しかけられれば警戒するのも当然だと自分に思い込ませたのだが、それと一緒に自分でもはっきりしない何かが胸の中でうごめいていた。

 皐月がそのうごめいている何かを悟るのはまだ時間がかかるとして、吸い始めた時よりはるかに短くなったタバコを床にねじるように消して弾くように捨てる。

 睦月はため息をついてゆっくりと閉ざされた目を開ける。

 身体能力が高かろうが、暗い中を暗視コープのように見る事はできない。そのため見えるのは暗い視界だけなのは言うまでもない。

 目を閉じようが開けようが変わらない視界に皐月は嫌気や不安がさすことない。

 それでも、この暗く、光の無い世界にいるとどうにも自分が嫌になる事がたまにあった。矛盾した思いが皐月の中にあり、それと一緒に昔の記憶を思い出す。

 皐月はゆっくりと目を再び閉じて、ポケットに突っ込んだタバコとジッポをとる。探るようにタバコを一本取り、口に銜えてからジッポで火をつける。

 体に煙が入っていくのを感じながらゆっくりと煙を吐き出す。



 すさみもオシャレも全く不要な部屋。

 何事にも無関心といっているかのような部屋にある物はパイプの簡素な作りをしたベッドに、窓際に置かれた一つの木製の椅子。そして窓辺に置かれた灰皿だけだった。その他には机も無ければ、カーテンもない本当に何もない部屋だった。

 そんな今時の女性とかけ離れた部屋に居座っているのは言うまでも無い皐月である。下着のパンツにタンクトップだけを着込み、どこからどうみてもルーズな格好をしている。

 皐月は窓際に置かれている椅子に片足を乗せて座り、膝にアゴを乗せて椅子に座りながらタバコを吸っている。

 一日のほとんどをこの部屋で過ごしている皐月がこの部屋で何をするのかと言えば、主にタバコを吸ったり、寝たり、窓の外を見るかの三通りしかない。この何もない部屋なら仕方のない事なのだが、それに関して皐月は好きでこの生活を送っている。

 コンコン。

 ドアがノックされる音と共に、ゆっくりとドアが開かれる。

 皐月はチラリとドアに視線を送った後に、短くなったタバコを灰皿で消す。が、灰皿には吸殻が山のように捨てられており、結局完全に消える事は無くほんのりと煙が上がる。それでも皐月にしては気にするという事に値しないのかほったらかしている。

 吸殻でいっぱいになった灰皿を見ながら皐月はポリポリと頭をかきながら、この吸殻をどう処理するか考える。

 部屋にゴミ箱がない以上、他のゴミ箱に捨てに行くしか方法はないのだが、幾分面倒臭がり屋の皐月にはそういった当たり前の選択肢が出た途端却下した。

 皐月は何の迷いも無く、煙が上がる灰皿を手にすると窓の外に出して、逆さにする。

 重力に従う吸殻は全て下に落ちていく。もちろん火が消えきっていないタバコも含めて、だ。

 灰皿を確認することも無く、直ぐに灰皿を元の窓辺に置く。

「何度も言うけど、窓の外に吸殻を捨てるのは止めてくれないかな? 掃除するのって僕で、吸殻の後始末が大変なのよ」

 何時の間にか皐月の部屋に入り、ドアの隣の壁によしかかる一人の男が言う。

 目が開いているのか、それとも閉じているのか分からないぐらいの細い目。日光をまるで浴びたことのないような青白い肌。そしてほっそりとした体つき。ヘタレで優男の象徴というべき人がそこにいた。

 このゲームを考えた人であり、今の皐月や睦月を養っている張本人である京道孝介がそこにいた。

 ニコニコと笑みを振りまき、怒っている仕草はまるでないのだが、皐月には京道孝介が怒ろうが暴れようが気にするに値しない。むしろ皐月はこの優男が嫌いでたまらない。そのため皐月は視線を窓の外に固定する。もし顔を見てしまったら有無を言わずに灰皿が宙を舞う事になるからだ。

「……タバコに火をつけるまでが我慢の限界だ。それ以降もこの部屋に居続けるようなら容赦はしない。さっさと部屋から出ろ」

 こういった優男にはこのぐらい冷たくあしらう必要があると皐月は知っている。だが、京道孝介はタフにタフを重ねたタフであり、皐月がどう言おうが表情を変える様子はない。

「今日こそはガツンと言う必要があってね。皐月の了解を聞くまではこの部屋からでるつもりは無いよ」

「……」

 いかに皐月を養っている京道孝介であろうと、その本人に何を言われようが日常を変えるつもりはまるで皐月にはない。それどころか悪化させてやろうとか思っていたりもする。

「最初に皐月は知らないかもしれないけど、窓の下に何があると思う?」

「さーね。あたしには関係のない事だ」

「そうだろうね。ちなみに言っておくけど、窓の下には僕が丹精を込めて植えた花があったりするのよ。それで、その大切な花に吸殻という必要も無い肥料を勝手に与えられると困った事になる」

「ハッ、あたしからの優しさを快く受け取ればいいだけだろ? きっと花だって嬉しいに決まっているさ。あたしが保障する」

 皐月はポケットに入っているタバコとジッポを取り出し、タバコを一本口に銜えると火をつける。

「それと次にたった今皐月が吸い始めたタバコに関しても苦情が来ているよ。両隣の卯月と水無月からタバコの臭いがくさいから止めろとのことだって」

 ちなみに、部屋割りは一月から一二月まで順に決まっている。

「あいつらがタバコの臭いに慣れればいいだけの話だろ?」

「そうは言ってもね、共同生活の場として他の子を気にかけるのは当たり前だよ?」

「ならあたしからも苦情だ。両隣のお二人さんがうるさい。もっと静かにしとけと言っておいてくれ」

「……その他にも睦月以外から苦情があるから、紙にまとめておいたから目を通しておいてよ」

「そんな物は焼却炉に入れれば可決するだろ?」

「あのね、皐月にはマナーという言葉を知らないのかい?」

「それなら聞くが、乙女の部屋に無断で入るのはマナー違反じゃないのか?」

「僕はちゃんとノックをしたよ?」

「あたしが返事をしてようやくそのノックは活かされるとあたしは思うが、それについてどう思う?」

「……確かにその通りだね。それに関しては僕が悪かったよ」

「ならさっさと部屋から出てってくれ。タバコが不味くなる」

「タバコの味は変わらないと僕は思うよ?」

「気持ちの問題だ」

「そうだね、なら僕は今から皐月が捨てた吸殻を掃除しに行くよ。兎に角、この苦情が書かれた紙は一度目を通しておくように」

 京道孝介はそれだけを言い残してさっさと部屋から出て行く。

 ずっと窓の外に視線を固定していた皐月は部屋に誰もいない事を確認してから立ち上がり、ドアの前に置かれている紙を手に取る。その紙を持ったまま再び椅子に腰を下ろした。

 確かにその紙には京道孝介が言った通り睦月以外の名前と、苦情の内容がきめ細かに書かれていた。

 苦情の中には風呂掃除をサボるなやら、下着姿でうろつくなやら、部屋をもっと可愛らしくしろ、などの苦情の部類に入らない事まで書かれていた。この部屋を訪れるのは睦月か京道孝介のどちらかだ。そのため、皐月にはその部屋うんぬんの苦情はさしずめ京道孝介が勝手に付け加えたのだと直ぐに分かった。

 皐月はジッポでその紙に火をつけると窓の外に捨てる。

「こらー! 窓の外に火のついた紙だけは捨てるなー!!」

 と、直後に京道孝介の怒鳴り声が聞こえたのだが、皐月はまるで聞いていない。それどころか、返事の代わりに中指を立てて窓の外に出した。

 一見理不尽極まりない行為なのだが、皐月に限ってはこれが日常のようなものだ。どうやって嫌いな京道孝介を困らすか、それだけが皐月の楽しみだったりする。


 それから何日かした時のこと。

 再び皐月の部屋に訪問者が現れる。今回もまた京道孝介なのだと皐月は思っていたのだが、ノックと一緒に部屋に入ってきたのは睦月だった。

 さしずめ誰かの差し金だろうと皐月は最初思っていた。が、少し話しをすれば苦情といった類では無かった。それどころか京道孝介や他の人のグチを言う始末だった。もちろんそこまで仲がいいとはいい難い人からグチを聞かされ、最初は戸惑ったもののそれに関しては時間が解決してくれた。

「それでね、ロクデナシが私に何て言ったと思う?」

 睦月はパイプの簡素なベッドに腰を下ろしながら言う。

 ロクデナシとは京道孝介の事であり、そう呼ぶのは睦月だけだ。もちろん皐月は京道孝介が嫌いである以上、文句も言わなければ庇う必要もない。

「さー、あたしには想像もつかない」

「女の子なのだから部屋をもっと綺麗にするとか、女の子らしい仕草の一つでもしたらどうだい? とか言うのよ! 信じられる!?」

 睦月は京道孝介の真似をしながら言い、言い終えた時にはバタバタと足をバタつかせる。

「それならそのロクデナシに仕返しでもすればいい。丁度花壇の手入れをしている途中だ。さて、丁度あたしの手には火のついたタバコがある」

 ニィっと不適な笑みを浮かべて皐月は睦月を手招きする。

 皐月と睦月は窓の外に顔を出して、現在進行形で麦わら帽子を被りながら花壇の整理をしている京道孝介に狙いを定めながらタバコを落とす。さらには付属に灰皿に溜まっている吸殻のおまけつきだ。

 火のついたタバコは麦わら帽子のツバに乗るという神業的な結果になり、それから直ぐに吸殻が麦わら帽子の上をバウンドする。

「こらー! 吸殻は捨てるなって言っただろー!?」

 と、慌てる様子もなく京道孝介は叫ぶものの、未だに麦わら帽子のツバに乗っている火のついたタバコの存在に気づいていない。それどころか、モクモクと麦わら帽子から煙が上がり始めた。

 皐月は笑いを堪えながら自分の頭をトントンと叩く。睦月にいたっては限界がきたのか、ベッドの上で笑いながら転がりまわっている。

 京道孝介は怪訝そうな顔で自分の頭に手を伸ばしながら上を見る。

「ん? 煙? ……煙!? ってか、アツッ! 僕の大切な麦わら帽子が燃えている!!」

 さっきまでの平然な様子とは正反対に、今はパニックに陥って煙が上がる麦わら帽子を取りながら花壇で消火活動にいそしんでいる。

 仕返しと言う名の悪戯が終わった頃には、当初の綺麗な花壇がどこにいったのか、植えられていた花が踏み潰され荒れる一方だった。もうそこには以前の綺麗な花壇は存在していない。あるのは見事に足跡のついた花と、そこら中に散らばる花びらだけだった。

 全てが終わった後に、京道孝介はガックリとその場に崩れ落ちる。

「僕の大切な麦わら帽子が……。僕の大切な花壇が……」

 と、今にも消えそうな声だけが辺りに響く。

 皐月は全く罪悪感を抱く事はなく、ただガッカリと崩れ落ちている京道孝介を見て小さく笑っている。

 他の窓からも京道孝介の叫び声から何事かと思い、顔を出している子の姿はあった。皐月同様に笑いを堪えている子もいれば、哀れみの視線を送っている子のどちらかしかいなかった。それでもほとんどが笑いを堪えている子で、哀れみの視線を送っている子は一人二人しか見受けられない。

 皐月は椅子に座りなおし、タバコを吸いなおすべく口に銜える。

 その時だった。

 バン!

 と、盛大な音を立てて突然ドアが開かれる。

 突然の出来事に皐月は口に銜えていたタバコが床に落ちる。

 ドアの前に仁王立ちで立っているのは師走だった。

 師走は皆の姉的な存在で、それと同時にこの皐月が京道孝介の次に嫌いな自分物でもあった。それにはそれ相当の理由がある。

「皐月さん!? 貴女がタバコを吸うことは今まで目をつぶっていましたが、それだけでは飽き足らず、小火騒動にまで発展した以上もう限界です! 私は貴女に女性のなんたるかを一から教える必要があるようですね? もちろん睦月さんも同罪ですよ?」

 皐月が最も嫌いとするもの、それは自分を馬鹿にする人と皮肉を言う人。その次に自分の性格と私生活に文句を言う人、自分の世界にズカズカと土足で入り込む人。皐月にとってその四つはどうしても許せない。それ以外なら何を言われてもいいのか? そう聞かれようが皐月は問答無用で拒むだろう。結局のところ、自分に絡んでくる人が嫌いなのだ。

 睦月は徐に嫌そうな顔で師走を見る。さっきまでのテンションが空の彼方に消えうせたかのように、未だに花壇で崩れ落ちている京道孝介と同様に睦月も肩を落とす一歩手前だった。

 視線を師走から床に転がっているタバコに移し、皐月はヒョイッとタバコを拾うと口に銜える。窓辺に置いてあるジッポで火をつけ、肺に溜まった煙を吐き出すと師走を睨みつける。

 人を殺めたような目で睨まれた師走は一瞬だけ身を引くものの、ここで引けば今後も皐月が調子に乗る一方だと悟り、生唾を飲んだ後にゆっくりと皐月に近寄る。

「で、ですからタバコは止めるように言ったでしょう!?」

 師走は皐月が口に銜えているタバコを取ると、すぐさま灰皿で消す。

「ヘイ、師走の姐さん。あんたはあたしの堪忍袋が鶏の脳みそより小さいのが知らないはずがないだろ? 今すぐ自分の足で歩いて部屋から出るのと、歩けない足であたしに廊下に放り出されるのと、どちらがお望みで?」

 今まで座っていた椅子から立ち上がり、口元は笑っているのに目は笑うどころか、睨みをつけながら皐月はグッと師走の胸倉を掴むと顔がくっつくギリギリまで近づける。

 師走の目の前に皐月の暗く、人を殺める事の悪気を知らない瞳を直視できず、無理やり視線を足元に移していた。

 まるで蚊帳の外である睦月も今の状況は非常に危ういものだと悟り、緊迫した空気が部屋に漂う。仮に今の皐月が蛇なら師走は蛙のようなものだ。それを示すのは師走が部屋を後にする以外の選択肢はないということなのだ。もし師走がこの部屋の残留を望むなら、皐月は自分の拳で師走の鼻を折ることも、灰皿で師走の頭を割ることも、壁とキスさせることも、全てたやすく、そして罪悪感に浸る事無くやってのける。それほど皐月という存在は悪に染まっている。

 師走は皐月の手を払いのけ、

「こ、今回は目をつぶります。ですが、次は無いと思いなさい!」

 捨て台詞にそういい残して、師走は逃げるように部屋を後にした。

 睦月はホッと安堵するものの、未だに暗く危うい目でドアを見つめている皐月に少し体を震わせる。ただ、師走には悪いがさっきの相手が私じゃなくて良かった。そう思えて仕方がなかった。



 タバコが当初より幾分短くなり、そろそろ限界というところで皐月は床にタバコをねじって適当に放り投げる。

 ゆっくりと閉じた目を開け、さほど楽しいとは思えない思い出から現実に無理やり引き戻した。もちろん皐月にとって楽しいと思える思い出はない。あるのは腹が立つ思い出と、この世で一番嫌いな京道孝介に悪戯をした思い出ぐらいしかない。

 皐月は徐にゆっくりと立ち上がり、伸びをする。

「そろそろ時間だな」

 そう呟く。それでも皐月は腕時計をしていなければ、携帯電話も持っていない。仮に持っていたとしても、この暗闇では確認をする手段がまるで無い。皐月にとって時間というものは自分の都合のいい時の事を指し、それ以外は決して受け付けない。

 ズボンのポケットにタバコとジッポが入っている事だけを確認し、皐月はゆっくりと歩き出す。言うまでも無いが、光の届いていない闇の中ではどこに歩こうが関係がない。そのため手で探りながら歩いている。


*     *


 ようやく学校から帰り、一息つく間も無く俺は米研ぎという仕事を押し付けられた。そのため今は制服のまま台所に立っているわけだ。

 以前にテレビで現代の若者は米研ぎの仕方を知らない。そんな感じの番組をやっていた。それを何気なく見ていたら米を洗剤で洗っていた。もちろん俺は無理やり家事を押し付けられること数年。残念な事に米を洗剤で洗うという発想は全くもってない。

 何度か米を研いだところで水を入れて炊飯器に釜を入れる。炊飯ボタンを押してようやく仕事が終わった喜びに浸りながら部屋に戻るべく階段を上る。

 部屋のドアを開けて、そのままベッドにダイブする。

 睦月は既に着替え終え、お決まりのメイド服を着込んでいた。何度も思うが、このごくごく平凡で普通の部屋にメイド服はシュール以外に何も無い。

「どうして睦月はメイド服以外の服を着ようとしない?」

 一応この部屋には睦月のメイド服以外にも妹の佳苗から借りた服が数点置いてある。それでも睦月は佳苗の服は全く手をつける様子が無く、今も部屋の片隅に薄っすらとほこりが被った状態でたたんで置いてある。唯一の救いが、ほこりと言う名で辺境した服が妹の目に入っていないということだ。

 睦月は湯飲みに煎餅という老人スタイルを維持しながら流し目で服を見る。

 湯飲みを飲み干し、机の上に置きながら、

「そうね、強いて言うならメイド服に愛着がわきつつある、と言ったところかな」

 以前までメイド服はあまり好ましく思っていなかったのに、それについては時間が解決したようだ。最初は嫌と言っていても、長い間それを維持しながら着込めば着々と自分の中で別にこの服でもいい。そう思えてくるようになってくる。ほったらかした傷口が体を蝕むのと似たようなものなのだろう。

 俺は妙に納得しながら、この部屋にはシュールすぎるメイド服にあまり違和感がなくなりつつある自分を受け入れたくない衝動に駆られる。別にメイド服を見て呼吸が荒くなったり、ムラムラとした気持ちが芽生えたりする訳では決して無い。ただ、以前まであったメイド服の価値観が俺も睦月同様に変わりつつあった。

 実のところ、睦月と同じ部屋で生活をするようになって幾日が過ぎた。その間にとりわけ事件といえるような事態は無いにしろ、それが意味するのは俺と睦月は同棲をしているだけ。その現実しかない。

 俺が睦月以外のゲームの参加者と会ったのは二人。そのうち一人は手を組む誘い、もう一人は話をしただけではあるが、それでも他の主でありマスターである俺にコンタクトしたところを見ると、そろそろゲームが本格的に始まりつつある。

 俺は睦月とバカな生活だけ送れればいい。そうは言ったものの、褒美について興味がないのかと言えば嘘になる。その褒美が果たして何なのか、それが気になって仕方が無い。

「睦月は今の生活が楽しいか?」

 時々だが、不安になる。今の生活に慣れたて楽しくなればなるほど、別れの辛さが自分に跳ね返ってくるからだ。

「毎日が楽しいよ」

 お茶も煎餅も食べた睦月がベッドの上にダイブしてくる。

 俺は軽やかに横にローリングして接触を回避する。

「俺が主で良かったと思う?」

 顔が無駄に近かった。

 一応俺たちが寝転がっているベッドはシングルであり、二人が寝られるほど大きくは無い。

 俺は睦月の目を見据えながら言う。

「そう思わなかったらこの部屋にいないよ。それにしても今日は良く質問をするのね。どういった心境なの、それは?」

「……悪い。別に答えたくなかったら答えなくてもいいから」

「私は和人を責めている訳でも、質問に辛い訳でもないの。質問がしたいならすればいいじゃない。ただ、私は今日に限ってどうしてかなって思って」

「……結局のところは睦月と同じだ」

「?」

 俺の答えの意図が掴めず、怪訝そうな顔をする。

「睦月はメイド服に愛着がわいた。そう言っただろ? 俺も睦月の事をもう少し知ろうと思ってね」

「その割には私からの質問はあまり答えてくれないのね?」

「少しぐらい秘密があったほうがクールだろ?」

「以前に同じことを言われた気がするよ」

 それは皐月の事だと直ぐに分かった。

 何となくだが、皐月にそういった第一印象を覚えたからだ。

「……そうか」

「ねぇ、和人?」

「ん?」

「キス、しようか?」

「……突然だな」

「つまらない冗談よ」

 クスリと睦月は笑う。

「だろうな……」

 俺もクスリと笑った。

 向かい合う俺と睦月はお互いの唇を重ねる事は無く、ただ見つめあうだけだった。

 俺はそんな何時もと違った時間でも悪くないように思えた。それによって睦月が何を思って、どう俺を見ているのか少しだけ分かったような気がしたからだ。





 流れるような日常が過ぎ、ようやくと言うべきか、それとも残念と言うべきか、水無月が再びこの部屋を訪れる前日となった。俺としては明らかに後者で、睦月にすれば前者なのだろう。最近の睦月を見れば、もう以前のような迷いはないし、なにより瞳の奥に潜む何かを隠しきれていない。

 時間は深夜0時にさしかかろうとしていた。

 普段ならそろそろ電気を消してベッドに入るのに、今日に限ってはお互いベッドに入ってはいない。それどころか、お茶まで用意している始末だ。

 俺は眠い目を擦りながらお茶をすすっている睦月を見つめる。

 睦月は明日の朝が待ち遠しいのか、今にも笑い出しそうな表情をしていた。いったいどこに楽しい要素があるのだろうか。

「もう返事は決まっているよな?」

 一週間前に土足で部屋に入ってこられ、その最悪な目覚めを再び繰り広げないため、窓の前に敷いた新聞紙を見ながら言う。

「ええ、当然よ。それより眠いのなら先に寝てもいいのよ?」

 願ってもいないお言葉だ。

「……睦月はどうするつもりだ?」

「何が?」

「このまま寝ずに待つのか、それとも一緒に寝るのかってこと」

「私は起きている」

「どうして?」

「寝てしまったら今の気持ちが薄れそうだからよ」

 さしずめ今の睦月はアドレナリンが異常に分泌しているのだろう。

 睦月は待ちきれないのか、口元が緩む。

「……睦月は水無月と戦うつもりなのか?」

「必要であれば私はそのつもりよ。そうなれば必然的に和人も参加しなきゃいけないけど、それについての反論は聞かないわ」

「別に俺が側にいなくても結果は変わらないだろ?」

 それどころか足手まといにしかならないと思うのは俺の気のせいだろうか。

 睦月が異常なほど身体能力が高いのは以前に聞いた。それでも俺はどうだろう。普通の人間となんら変わらない。それならまだしも、並以下の運動神経しか持ち合わせていない。それを意味するのは足手まとい以外に答えがない。

 怪訝な顔をする俺とは裏腹に睦月はニヒルな笑みで答えてくれた。

「私達は契約する事によって能力を得ると同時に、契約者が側にいなければ能力を発動する事ができないのよ。和人には悪いけど、素直に私の側で見学でもしてちょうだい」

「……俺に拒否権は?」

「無いわね」

「ですよね……」

 ガックリと俺は肩を落とした。

 戦場がどこであれ、その結末を側で見なければいけない。そうなれば俺にも被害が少なからずあるということだ。

 俺は遠い目をしながら戦場に繰り出されないことを少なからず望む。が、それと同時に睦月という存在がいることで自分の思い通りにならない事は良く知っている。そのため望みは徐々に薄れていった。

「今更だけど、勝負の勝敗ってどう決まるわけ?」

「簡単よ。相手の主を亡き者にするか、相手を完膚なきまで叩きのめすかのどちらか」

 残酷な結末しか残らないってわけだ。

 睦月は簡単にいうけど、俺の生命がかかっているのに気づいているのだろうか? それとも必ず勝つという勝算でもあるのだろうか? 真相は睦月に聞かないと分からない。それでも俺にとっても相手にとってもいい結果にはならないのは確実のようだ。

 取り敢えず、今の俺に出来ることといえば無傷で生還できるように祈るぐらいだ。

 そもそも明日は平日であり、明日の授業に間に合うのか不安になってきた。今のところ皆勤賞だから出来ればそれを維持したいところだ。……自分の命より授業をとってしまった自分が情けないけど。

「心配しなくても大丈夫よ。私に全て任せれば何もかも上手くいくのよ」

 それが心配だから悩んでいるとは言えるはずもなく、

「……それもそうだな」

 と、言うしかなかった。

 俺は眠気を覚ますために淹れたコーヒーをすすりながら煎餅を食べる。が、コーヒーと煎餅は実にミスマッチで、正直に言えばあまり美味しくない。

 そもそもいったいどうして俺は起きているのかも不思議になってきた。

 別に睦月は寝たければ寝ればいい、そう言った。それならお言葉に甘えて寝てもいいのだが、どうして俺はコーヒーをすすっているのだろうか。

 うむ。考えれば考えるほど謎めいてきた。ここは素直に寝るべきなのだろうか。はたまた、謎を追求するために起きているべきなのか。

「難しそうな顔をしているけど、どうかした?」

 考えていると、怪訝そうな顔をしながら睦月が話しかけてきた。

「……いや、ちょっと初心に帰ってみただけ」

「そう、初心に帰るのは別にいいけど、寝られる時に寝ときなさい。それとも私の事を気遣って起きていたの? 私は好きで起きているから心配しなくてもいいよ?」

 ここまで言われたら素直に寝るべきなのだろうと思い、俺はベッドに横になる。

 先ほどからずっと重たかったまぶたを閉じる。

 BGMとして睦月がお茶をすする音が聞こえたが、別に耳障りではないため、まぶたを閉じて数分後には夢の中に迷い込んだ。


*     *


 森澤和人の部屋から約六百メートル離れた位置。

 見晴らしの良い屋根の上に皐月は座っていた。

 皐月が座っている位置から和人の部屋は見え、読唇術は心得ていないにしろ、和人と睦月が話し込んでいるのが分かった。

 二人の様子を監視するという形なのだが、それについて皐月は何も感じていない。

 どのぐらいの間二人を監視していたのかは、屋根に置かれているタバコの吸殻が物語っている。二本や三本といった生ぬるい数ではない。優に十本以上の吸殻が屋根の一角に置かれていた。

 ポケットからタバコを取り出しジッポで火をつける。何度も繰り返した行為により、タバコが最後の一本になった。そのためケースを握りつぶして適当に放り投げる。それでも未開封のタバコがあるため、別に気にする事もなく体に煙を取り入れる。

「覗きはお世辞でも良い趣味とは言えませんよ?」

 足音一つせずに声をかけられたのだが、皐月は驚く様子は全くなかった。足音はしなかったものの、その前から気配だけは感じ取れていたからだ。

 皐月はタバコを吸うという行為を変えるつもりは全くなく、チラリと誰かだけを確認すると再び吸い始める。

「久しぶりだな、水無月。お前の方こそ覗きにきた口じゃないのか?」

「人疑義の悪いことを言わないでくださいな。私は睦月とその主の様子を見にきただけですよ?」

「はっ、やる事は一緒じゃねぇか。それで、どうせお前は睦月に手を組もうとかぬかしたわけか?」

 水無月はいつもそうだ。別に仲が良いとか関係無しに、一緒に手を組んで結局最後は裏切るような奴だった。

 皐月は屋根から立ち上がり、お尻を何度か払った後に水無月を睨みつける。

「睦月とその主に少しでも手を出してみろ? あたしは容赦なくお前をつぶす」

「あら、主がいないのによく言えたものね?」

 水無月は恐がる事はなく、平然と皐月の目を見据えながら言う。以前の水無月には到底できなかったのだが、主がいる今となっては恐いものが何もないのだろう。

「それは睦月たちに手を出すと解釈してもいいのか?」

 が、その水無月の気持ちは仕方が無い。

「そうね。睦月の答え次第ではそう解釈してもいいわ」

 それでも時と場合によっては高飛車な発言は全て無になる。

「な、る、ほど。なるほど、それは実に残念だ」

 良い例がまさに今である。

「どういう……」

 その後の水無月の言葉は無かった。

 理由は簡単だ。皐月が水無月の顔を握り締めているからだ。

「近くに主がいなければ契約していようが関係ない。今のお前の立場は分かっているのか? 目を潰そうが、鼻を折ろうが、無理やり屋根とキスさせる事だってあたしにはたやすくできる。さて、何をお望みで?」

「にゃ、にゃるいにょうだんはにゃめて」

 一瞬で水無月の表情は曇る。

「何て言っているのかあたしには分からないな。それなら取り敢えず屋根とキスでもしとくか?」

 理不尽すぎる皐月の答えに水無月の目には涙が溜まる。

 ニッコリと皐月は微笑みかけ、そのまま力いっぱい屋根に水無月の顔を振りかざす。さらには足まで払いのけ、確実な手段までとった。

 ガシャン。

 瓦が割れる音が辺りに響く。

 尋常ではない身体能力を秘めている皐月にとっては瓦が割れようが別に驚くほどの事ではない。むしろ割れることを前提に理不尽すぎる行為をしたほどだ。

「さて、屋根とキスをした感想は?」

 割れた瓦に顔を埋め、ピクリともしない水無月の頭を持ち上げながら皐月は問う。

「……」

 何も返事がないため皐月は水無月の顔を覗きこむ。

 水無月の頬には小さく割れた瓦の破片が突き刺さり、さらには鼻血、口元からも少し血が流れていた。そして目は閉ざされており、そこから失神したのだと直ぐに皐月は悟。

 当初の美しい顔は皐月のせいで見る影もなくしたのに対して何の悪気もないかのように小さく鼻で笑う。

「……さて、こいつを土産に睦月のところに行くべきか、それともこのまま適当に捨てるか。悩みどころだな」

 慈悲の心が少しでもあるのなら、そこは迷う事無く土産として睦月のところに持っていくのが当たり前だろう。だが、あいにく皐月には慈悲の心は持ち合わせていない。

 頭を何度かかきながら数秒だけ悩む。

「まっ、土産として持っていっても迷惑になるだけだな」

 結論が出たところで皐月は水無月の頭から手を退ける。重力に正直な水無月の顔は再び割れた瓦の中に戻る。

「よっこらせっと」

 ジジくさい掛け声を上げ、皐月は水無月を持ち上げる。

 何度か辺りを見渡してから家が無い方向を見つけると、そのまま野球ボールを投げるかのように水無月を投げ飛ばす。

 数十メートル弧を描くように宙を舞った水無月の体はそのまま森の中に落ちる。

 木の枝が折れる音が聞こえ、そこから生命の危機が非常に危うく感じられたが、それについて気にすることも無く手を払うだけだった。

 何時の間にか小さくなったタバコを吐いてから靴で踏む。そのまま無造作に置かれた吸殻を適当に蹴り飛ばした。

 騒がしい外を怪しんだ家の住人が外に出てきたのだが、構う事無く皐月はその場を後にした。

 皐月が帰る場所、そこは今のところ一つしかない。

 静寂と闇に支配された廃墟。

 その住処に向かった。

「退屈な夜だ」

 皐月にとって珍しい一言を言い残して。


**


 水無月との約束の朝、俺は頬を張り手で起こされることも、耳元で叫び声を上げられることも、ましてや無理やり布団を剥がされた訳でもない。普通に目覚ましで起き、普通に自分の足でベッドから出た。

 睦月は徹夜をしたのか、ほんのりと目の下にクマがあり何杯目か分からないお茶を飲んでいる。

「……結局こなかった。ようだな……」

 昨夜のようにアドレナリンの異常分泌が嘘のように、ブルーな気持ちをあからさまにだしていた。

「……」

 返事の変わりに頷いて答えてくれた。

 睦月には悪いが、内心では良かったと思っている。争いが生むものは非情な気持ちと後に残った残酷な結末しか生まれない。もちろんそれは良心というものが少しでもあれば、の話なのだが。

 俺はブルーの睦月をどうするか、というより、このまま何事も無く平穏な生活に戻れるか、の方が気になる。

 水無月は睦月だけでなく、俺にも組もうと言った。それは少なからず組めるものなら組みたい。そう思っているのだろう。だが、今朝は現れない。もしかしたら来られない事情ができたのかもしれない。それについては追求しようにも追求する相手がいないため、どうする事もできない。それでも、だ。このまま水無月が来ないのに越した事はないし、そう考えるのが一番ピンとくる。

「……取り敢えず、だ。俺は学校に行くけど、睦月はどうする?」

 俺は制服に着替えながら言う。

「……私も行く……」

 テンションどん底なのにも係わらず、律儀に学校に行く必要もないのに睦月はメイド服に手をかける。

 廊下にでも出ていたほうが良いのかと思い、まだ着替えの途中にも係わらず、俺は無言で部屋を後にした。

「今日も朝から発情したけど失敗したかな、兄さん?」

「……佳苗」

 久しぶりに妹を見たような気がする。

「俺はお前に睦月同様に恥じらいという言葉を知ってほしいよ」

 それだけを言い残してさっさと階段に向かって歩き出す。

「ちょっと、それってどういう意味?」

 振り返ってチラリと妹の顔を見てみれば、実に興味津々のご様子だった。

 俺は大きなため息をついて、

「……あのな、お前は仮にも女の子だ。それなのに発情とか言うな」

「それを言ったら兄さんだって仮にも男の子だから、もっと女性に優しくする気持ちでも育てれば?」

「それについては育てたくてもこれ以上は育ちません」

「ナルシスト……」

「声が小さすぎて聞こえません。あ〜、聞こえません」

「子どもか!? ……まあいいや。それで、スッキリしたの?」

「何が?」

「仮にも私たちって双子で、産まれた時からずっと一緒だよ? それぐらい分かるよ」

 ふふ〜ん、と鼻を鳴らしながら自慢げに言う。

「スッキリしたかどうかはまだ分からない。それでも肩の荷が多少減ったような気がするよ」

 水無月が来ないのは不思議だけど、それでも俺の周りで争いごとが一つ減った事実は変わらない。そう言った面では肩の荷がおりたのかもしれない。

「そう。それなら良かったじゃない。まっ、スッキリしたお祝いとして何か奢ってくれてもいいよ?」

「奢れ、じゃなくて奢ってくれもいいか。一応俺の意見も尊重しとるな。けど、俺は何も奢らん」

「可愛い妹にカッコイイお兄さんを見せてくれてもいいじゃない」

「……しょうがない。それならトマトを存分に奢ってあげよう」

 ちなみに妹はトマトがゴキブリ以上に嫌いらしい。ゴキブリ以上って……この前見かけた時、大泣きしていたくせに。しかもこともあろうか、一緒に寝るとか何とか……この記憶は封印でもしようか。

 妹はトマトという単語が出た途端に険しい顔をする。

「この悪魔!」

 後ろから聞こえたが、知らん顔で洗面所に入る。風呂場からシャワーの音が聞こえる。誰かが入っているようだ。きっと父さんだろう。

「この鬼!」

 真後ろから何かが聞こえるが、取り敢えず顔を洗う。あ〜、何も聞こえない、聞こえない。

「この変質者!」

 歯ブラシを手に取り歯を磨く。今日もいい天気だな。あっ、別に裸で外を徘徊しようとは断固として思ってないから。

「この痴漢野郎!」

 今日のバスには良い娘が――っておい! 一応言っておくが、俺は痴漢とかも断固としてしないからな。

「この変態野郎!」

 全てをまとめてきたな、おい。

「あ〜、分かった。分かったからもう変態扱いするな」

「ってことは?」

「何でも奢ってやる……」

 元から薄い俺の財布が見るも無残な薄さになる未来を想像しながらため息をついた。

「それでこそ自慢の兄さんだよ」

「そりゃどうも。嬉しすぎて泣きたくなってきた」

「泣きたかったら私の大きな胸で泣いてもいいよ? ほれほれ」

 グイグイと胸を強調するかのように俺に胸を向ける。

 妹の小悪魔の笑みが実に腹ただしい。

「俺にその自称大きい胸は俺には少し荷が重過ぎるよ」

「それって嫌味?」

「違う。真実だ」

「ふんだ。せっかくその自称大きな胸の一つでも触らせてあげようかと思ったけど、絶対に触らせてあげないから」

 プイッとそっぽを向いて、妹はズカズカと洗面所を後にした。

 俺は濡れている顔をタオルで拭き、制服に着替えるべく部屋に向かって歩き出した。

 それより実の妹の胸を喜んで触る兄……それこそ変態野郎だな。

 睦月は既に着替え終わっており、鞄の中を整理していた。俺もいつまでも中途半端の格好のままでいる訳にもいかないため、直ぐさま制服に着替える。

「なぁ、睦月は誰かと戦いたいとか思っているのか?」

 昨夜の睦月を見ていたらそう質問する以外になかった。あの睦月は戦いに飢えていた。そう感じ取れるほどだった。そのため今までの睦月と昨夜の睦月、どちらが本当の睦月の顔なのか不思議でたまらない。

「どうして?」

「いや……何となく、かな」

「そうね。出来るなら誰とも戦いたくはないのが本音ね。けど必ず誰かと戦わなければいけない時がくる。その相手が強敵なら誰とも戦っていない私は確実に負けるでしょうね。だから強敵じゃない相手と手合わせがしたかった。それもまた本音ね」

「なるほど」

 それなら昨夜の睦月はいつもの睦月の線上なのだと納得がいった。

 それでも、それでもできるなら昨夜の睦月はあまり見たくはなかい。笑顔が似合い、いつも楽しそうな睦月の方が俺は断然に好きだ。できるならいつまでも今のままの睦月を見ていたい。

「それにしてもいったいどうしたのかな?」

 制服に着替え終わったところで、俺は問う。別に真実が知りたい訳でもなければ、答えを求めている訳でもない。ただ、話しの流れとして聞いておく必要があった。

「さあね、大方期限の一週間の間に他の誰かにやられて戦線離脱したのがオチでしょう?」

「そんなものなのかね〜」

「それ以外に考えられないよ。兎に角、もう水無月の事は忘れるに越した事はないわ」

 残念そうに皐月はため息をついた。

「そうだな。水無月の事は忘れて今の問題を解決しよう」

「ん? 何か問題でもあるの?」

「そろそろ幼馴染がくる頃だけど、まだ朝ご飯も食べていなければ、学校の準備もしていない。さて、どうしたものかね」

「簡単よ。どちらかを諦めればいいだけじゃない」

「……簡単だな」

「ええ、簡単よ。それで、和人はどっちを選ぶのかな? 今から朝ご飯を食べに行くか、私が朝ご飯を食べている間に学校の準備をするのか。まっ、私は事前にしてあるから問題はないけどね」

「……そうだな」

 睦月が着替えていたからできなかった。とは言えない。仮に言ったところで「私の事は気にせずにすればいいじゃない」と不思議そうな顔をするのが目に見えているからだ。

 俺は今日の授業の教科書が一つも入っていない鞄を手に取り、教科書をありったけ出してからドアの方に向かう。こんなに軽い鞄を持つのは実に久しぶりだ。

「あら、学生の本業より空腹を満たすのが先決なのね」

「教科書なんぞ睦月に見せてもらえば何とでもなるからな。けど空腹だけは食べない事にはどうにも、な」

「そう。だけど私が見せるとは限らないよ?」

「その時はその時で考えるよ」

 軽く肩をすくめて俺は朝ご飯を食べに廊下を歩いた。





 水無月に体裁と言う名の理不尽をしてから数日したある日。

 太陽は既に昇っているだが、静寂と闇が支配している廃墟に太陽が昇ろうが沈もうがまるで関係がない廃墟に皐月は横たわっていた。

「……ん……ん〜」

 目を擦りながら皐月は目を覚ます。が、廃墟は常に静寂と闇が支配しているため、目を覚ましても夜なのか朝なのか区別がつかない。

 目覚めのいっぷくをするため、傍らに置かれたタバコを手探りで探すと、口に銜えてジッポで火をつける。

 まだボンヤリする頭の状態でタバコを吸うのは実に不健康なのだが、このゲームに無理やり参加させられ、常に死と隣り合わせの皐月には不健康だろうが健康だろうか関係は無い。自分のしたいようにし、したくなければしない。そんな生活を送っている。

 そんな時、グゥ〜と皐月のお腹が食べ物を求めている音が鳴る。皐月の性格と正反対に、その音は実に可愛らしいものだった。

 そういえば昨日の昼から何も食べていない。そんな事を思いながら皐月はお腹を擦る。そんな事をしても空腹が紛れる事も、膨れるはずもない。ただの気休めだ。

 かといって、今の皐月はお金も食料も無い。

「どうしたもんかね」

 考えたところで何もいい案が浮かびそうになく、無駄に時間を浪費するのと一緒に余計に空腹になるだけだった。

「……あたしの頼れそうな人はっと……睦月に森澤和人、後は京道孝介ぐらいか。京道孝介は嫌いだから排除するとして、残った睦月ペアは……」

 悪くない案が浮かぶ。

 睦月と和人は全く知らないのだが、一応二人は皐月にカリがある。

 皐月はニヒルな笑みを浮かべると口に銜えたタバコを消す。

「よしっ、飯でも食いに行きますか」


 皐月が向かった先。

 まだ朝が早く、そのため玄関のドアはカギで閉ざされている森澤家の屋根。そこに皐月は立っていた。

 皐月は二階にある窓を一通り調べ、廊下にある窓が開いているのを確認してから靴を脱ぎだす。脱いだ靴をどうするか考えた末、森澤和人の部屋に通じるベランダに置いた。

 廊下の窓から難なく森澤家に不法侵入し、何食わぬ顔で居間に向かう。

 いつもなら場所をわきまえずにタバコを吸っている皐月なのだが、そんな姿を家族の誰かに見られたら警戒される恐れがあるため、吸いたい衝動を抑える。

 階段を下りたところで森澤和人の母とばったり遭遇する。が、取り乱す事は全くなかった。むしろ好都合だと口元が緩む。

「あっ、おはようございます」

「おはよう。佳苗のお友達?」

「申し送れました。私は和人くんとお付き合いしている皐月といいます。今後ともよろしくお願いしますね」

 皐月はニッコリと微笑み、森澤和人の母は同様を隠し切れていないのか、数歩後退し、信じられないものを見るかのように皐月を凝視する。

 睦月同様に偽りの彼女を演じ、このまま家に居座るのが皐月の目的だった。もちろんこの場に森澤和人が居合わせていれば追い出されていただろう。だが、この場に森澤和人も睦月もいない。これほどのタイミングは早々ないため、皐月の口元は余計に緩む。

 グゥ〜。

 と、その時。皐月のお腹から可愛らしい音がなる。

「す、すいません。実は家庭の事情で昨日のお昼から何も食べて……いえ、今の話は忘れてください」

「……と、取り敢えず。もう少し朝ご飯ができるから、それまでシャワーでも浴びておいで。洗面所とお風呂は一緒だから、誰かに見られないように気をつけてね。詳しい話は朝ご飯を食べながら聞かせてちょうだい」

 それが合図かのように、森澤和人の母は混乱する頭を制しているかのようにこめかみを押さえて居間のドアを開けて入っていく。

「はぁ〜い」

 皐月はウキウキする気持ちを抑えながら言われた通り洗面所に向かう。予想外の展開とはいえ、それでも汗を流したい気持ちが皐月にあった。

 洗面所に入ったところで皐月はすぐさま服を脱いで何も入っていないカゴに放り込む。

 銭湯や温泉のような公共の施設ではないため、タオルで前を隠すなどはしなく、性格とはまるで正反対の柔肌をさらけ出し、シャワーを頭から浴びる。

 言うまでも無いが、皐月が今まで生活を送っていた廃墟でシャワーが浴びられるはずがなく、サッパリと気持ち良さそうに笑みがこぼれる。さらには気分が乗ってきたのか、鼻歌まで歌いだすしまつだ。もちろん人前では鼻歌どころか歌すらうたわない。それほど皐月の気分は最高潮だった。

 いつもポニーテイルで縛っている長い髪をシャンプーで洗っていると、

「近くに誰かがいる気配がするから、気をつけて和人」

 そんな睦月の声がドア越しに聞こえてくる。

「残念。ドア越し、が正解かな」

 ボソリと呟き、鼻で笑う。

 皐月は楽しんでいた。このまま何事も無く朝食を食べているところに睦月と森澤和人が現れるのもよし。睦月と森澤和人が朝食を食べているところに現れるのもまたよし。どう転んでも二人が驚くのは確実なのだ。その驚きと慌てる表情を想像するだけで笑いが込み上げてくる。

「まっ、別に気をつけるほどでもないだろ」

 森澤和人は実に興味が無いように言う。

 仮にも今はゲームの最中であり、寝ていようがお風呂に入っていようが襲われる心配がある。それなのに森澤和人はまるで自分に関係の無いように「気をつけるほどでもない」と言ってのけた。どうしてそう言えるのか皐月は気になって仕方が無かった。

「どうしてよ?」

「そうだな。強いて言うなら悪い奴じゃないと思うからかな」

 怪訝そうな睦月の声が聞こえてきた途端に意味深な事を森澤和人は言う。

「? まあいいや。もし向こうが襲ってくるなら私も遠慮はしない」

 睦月が言い終えた直ぐに廊下を歩いていく足音が聞こえてきた。それでも森澤和人、または睦月がドア越しにいるのは変わりない。そのため皐月は注意を払いながらシャンプーを洗い流す。

「さ、て、と。俺と睦月に何のようだ、皐月?」

 スモークガラスの向こうに森澤和人の声と背中のシルエットが濃く浮かぶ。


*     *


 俺はドアによしかかりながらチラリと隣に置かれているカゴに視線を送る。

 カゴの中には可愛らしい下着と、一度見たことのある服が置かれている。その前に睦月は気づいていないが、ベランダに靴が置かれていた。それだけでも怪しいというのに、妙にそわそわした母さん。

 俺はカゴに入っている服を見た途端に全ての元凶は皐月だと察したのだ。

 皐月とこうして話すのは二度目になる。一度目は数日前に学校で少し話し、二度目は今この時だ。どうも皐月は気の向くままに行動しているようだ。

「……睦月はあたしの存在に気づいているのか?」

「さっきの睦月とのやり取り通りだよ。意外と睦月は鈍いから気づくまで時間がかかるだろうな」

「そうか。ならどうしてあたしに気づいた?」

「いつも見慣れない物が至る所にあるからかな」

「なるほど、な。やっぱり顔に似合わず鋭いな」

「そりゃどうも。話を戻すけど、俺たちに何のようだ? 俺としては良い話意外は聞きたくはない。それを踏まえて教えてくれ」

「腹が減ったからだ」

 我が家をファミレスと勘違いでもしているのだろうか。それとも空腹を満たすのを建前に何か仕出かすのだろうか。

 付き合いがまるでない分、何を考えての行動か全く分からなかった。

「……」

「警戒するのは仕方がない。だけどな、仮にもあたしにカリがある。そのカリを今返してもらおうかと思って」

「カリ? 何のことだ?」

 俺の記憶が正しければ、皐月が介入した事件は無い。もし介入していたとするならば、俺の知らないところで、俺の目の届かないところでしていたのかもしれない。

「どうして水無月が現れなかったのか分かるか?」

「……もしかして……」

 水無月。以前俺と睦月の前に突然現れ、手を組もうと言ってきた敵だ。その水無月が約束の朝に現れなく、それを俺たちは来られない訳ができたと解釈していた。その裏に皐月の存在があったとは今の一度も考えもしなかった。

「良くて当分はゲームに参加できない。悪くてゲームをおりたってところだな。まっ、あたしに逆らった当然の報いさ」

 仮にも水無月は契約していて、仮にも皐月は契約していないはず。そんな皐月が契約している水無月に理論上は勝てるはずもない。それなのにどうして皐月が勝ったのか。それがどうにも気になるところだ。

「……それは皐月が水無月を倒したって事だよな?」

 言葉に出して聞いても信じられない。まっ、それもそうか。それで信じられたら逆に変だ。

「そうだ。あたしが水無月を倒して、睦月を戦場に向かわせなかった。森澤和人にとっても睦月にとってもいい結果が残っただろ?」

「俺の事は和人でいい」

「和人は睦月と水無月が戦っている様を見たかったか?」

「いや、できるなら見たくはないな。まっ、睦月は戦いを望んでいたけどな」

「意外だな。睦月は他の奴らと比べたら戦いに向いていないような気がするのに」

「それは俺も同じ意見だ。けど睦月はどうにも弱い相手と手合わせをしたいようだ」

「なるほど、睦月は弱い相手から徐々に潰すタイプか……思ったよりグロイな」

「グロイかどうかは置いといて、どうやって俺の母さんを手玉にとった? 了解もなしに風呂に入るほど常識が無いわけじゃないだろ?」

 皐月と会うのは二度目で、以前の皐月は……あれ? 常識らしいところを見てないな? ……いや、一回が常識外れなだけで、実際は常識があるに違いない。そう思っておこう。

「どう手玉にとったのか言ってもいいが、それによって和人は傷つくかもしれないぞ?」

 やっぱり常識外れだ。

 何も実の母親に息子の傷つくような事を言う人がどこにいるというのか……。もしいるなら教えてくれ、同士として歓迎するよ。

 それは兎も角だ。皐月が母さんに何を言ったのか聞き出す必要がある。少なからず今なら何とか誤解という形で母さんと和解できそうだしな。けどもし仮に和解できなかったらどうなる? 今も肩身の狭い生活を送っているというのに、これ以上肩身が狭くなれば発狂するに違いない。

「……傷つく覚悟で教えてくれ……」

「そう言うなら覚悟して聞いてくれよ」

「ああ……」

「和人の母さんにはあたしと付き合っていると伝えた。いや、こんなに美人な彼女がいて嬉しいだろ?」

 ……デジャブだ。

 睦月がこの家に居座った理由とまるで一緒だ。

 いったい俺が皐月に何をした?

 俺の平穏な生活をこれ以上壊さないでくれよ、マジで。

 きっと母さんは俺が何食わぬ顔で二股をしていると勘違いしている。それだけならまだしも、睦月がいるのにも係わらず、皐月という新キャラが登場し、さらには泊まったのだと勘違いしているだろう。

 非常に不味い。学校行きのバスが無期限の運休になったぐらいに不味い。

 一見してみれば、二人の美女を両手にウハウハしているかのように思われる分にはまだいいが、実際は全く良くないけど……。それでも部屋に二人の美女と俺、この組み合わせはどう考えてもよからぬ方向に解釈しても仕方ない。それが母さんならなお更だ。

 このまま俺と睦月、そして新キャラの皐月が同時に母さんの前に現れれば、きっと母さんの標的は俺にくるだろう。言葉の攻めに追いやられ、その結果として精神と物理的に俺のガラスのハートは無残にも粉々になること間違いないし。

 こうなれば先手を打って先に母さんに皐月が冗談を言ったのだと誤解を解く以外に方法はない。

「かぁーずぅーとぉー!?」

 睦月の叫び声が居間から聞こえてきた。

 はい、俺の計画失敗。それにしても間が悪いな。こうなると睦月と皐月が打ち合わせしていたみたいだ。

 ドカドカと睦月の足音が聞こえてくる。しかも早歩きで。

「和人の死に場所はここらしいな。葬式にはしっかり出席するから安心しな」

 俺が死ぬこと前提かよ!

 この無茶な計画を企てた責任を取れよ!

 一番の被害者なのに、この流れだと完全に俺に非がある前提に話が進められる。それだけはごめんだ。かといって真実を言ったところで軽やかにスルーされるのは経験上間違いない。そのせいでもあり、これから待ち受ける緊急事態を想像すると嫌な汗で背中がびしょびしょだ。

 それはさておき、だ。ドア越しで皐月を睨みつけている間に睦月が険しい顔で登場した。

「正直に事の真相を言いなさい」

 声のボリュームは小さいにしろ、何との言えない迫力が表情以外にあった。そう、例えるなら一般民(武器は木の枝)に襲い掛かる寸前のツキノワグマといったところだろうか。

「いや……あの……」

 迫力負けした俺は、無駄に近い睦月の顔から視線を逸らす。

 睦月は俺の胸倉を掴み、あいた片方の手で俺の両頬を掴むと強引に自分の方に向けさせる。あっ、やべ、この迫力にちびりそう。

 涙目の俺に睦月は容赦なく睨みつける。それほど睦月は怒っているようだ。

 俺が二股だろうが、他の誰かとラブラブしようが睦月は怒るどころか笑うだろう。だが、相手が悪かった。

 このゲームの参加者であり、元同じ邸で生活を送っていた皐月となれば話は別だ。きっと睦月は知らない間に他の参加者と面識があり、それを言わなかった事に腹を立てているのだろう。さらには影で何度も会っていたのだと睦月は勘違いをしているに違いない。本当は今日で二度目なのに。

 俺は両手を上げ、無実を形から表す。

「と、取り敢えず落ち着いてくれ。あと俺の頬を掴むのは止めてくれ。話しにくい」

「これを落ち着いていられるならよっぽどのバカか、和人を信じきっているかのどちらかよ。あと、その提案は却下」

 睦月が俺を信じていないのは以前に聞いた。それでも二度言われると流石にショックだな。

 俺が窮地に追い込まれていると知っているはずなのに、ドアの向こうから皐月の笑い声が聞こえてきた。どうにも俺の身近な知り合いは俺をオモチャか何かと勘違いしているようだ。

 どうしたものかと思いながらも、弁解を言わなければ何も始まらない。

 俺は後ろから聞こえる笑い声にイラッとしながらも睦月の恐ろしい顔を見据える。

「最初に言うが、俺は無実だ。皐月と話すのも今日で二度目だし、睦月が思っているほどの仲じゃないって」

「へ〜、ならどうしてこの場に皐月がいる事を黙っていたのかな? さらに言えば、最初会った事を隠していたのかな?」

「そ、それは……」

 言葉につまる。

 睦月の言葉は隠しようのない事実であり、何を言ったとしても言い訳程度にしか聞こえないだろう。

 まさに万事休す。

「和人は純粋に睦月を心配させたくなかっただけだろ。そんなに和人を責めるなよ」

 そんな時、後ろからドアの開かれる音と共に皐月が俺の横をすり抜ける。

 睦月同様に羞恥心とやらがまるで無いのか、それとも俺を異性と思っていないのか、顔色一つ変えずに裸で出てきた。そのためモロに皐月の裸を見てしまった。いや、これはあくまで反射的に見てしまった訳で、決して狙って見た訳じゃない。おい、そんな目で俺を睨むなよ、睦月。

 皐月はタオルが山積みになっているカゴから一つヒョイッと手に取ると、実に面倒くさそうに体を拭く。もちろんそんな光景を目の前で繰り広げられれば、男の象徴が反応するのは当たり前であり、居所が悪く思えてしょうがない。

 頭の中で悶々と繰り広げられているピンク色のモヤと格闘していると、何時の間にか皐月は服を着ていた。

「前回も今回もあたしの独断だ。だから和人を責めないでくれ」

 皐月は俺の胸倉を掴んでいる睦月の手を握って制す。

 中々いいところがあると感心する。まあ全ての元凶は皐月だが、この際目をつぶろう。一応命の恩人だしね。

「まっ、けど和人に乙女の柔肌を見られたのは隠しようのない事実だけどな。あの全身を嘗め回すような視線はどうかと思うぞ?」

 前言撤回。皐月は悪魔だ。

 皐月が睦月の手から退けるのと同時に、睦月は開いた手で拳を作ると上げる。

「ちょ、ちょっと待ってくれ! 確かに俺は皐月の裸を見たかもしれないけど、チラッとしか見てないから!」

「そう、それだけ?」

「それだけって!? 皐月の言葉に惑わされちゃダメだ! ここは言葉のキャッチボールがまるで出来ていない!? それに気づいてくれ!!」

「他に何か言いたい事は?」

「で、できれば殴らないでくれ!?」

 俺がここまで焦る理由は一つしかない。睦月が人並み以上の身体能力で俺を殴れば、それは車が俺に突っ込むのと同じで、俺の生命がこの場で途絶えるのもまた同じだ。

 睦月はニッコリと微笑む。

 ようやく俺の説得に応じてくれたのかと思ったが、拳を解いただけで手を下げる様子は無かった。一応グーからパーにランクダウンしただけで、何の解決にもなってない。

「無理だよ」

 睦月は上げていた手のひらを俺に振りかざす。

 パシーン!

 一瞬過ぎて気がつけば俺の頬に激痛が走る。

「異常なまでの腰のフリと手のスナップだな。まっ、全力の半分以下だったのが救いだったな」

 詳しい説明をする皐月を涙目で睨む。

 皐月は知らん顔でそっぽを向き、関係ないと言っているかのような悪気の無い顔をする。それどころか楽しそうに口元が緩んでいる。

 尋常じゃない頬の痛みを手で擦りながら、睦月が全力でビンタをした時の想像をする。……やめた、バッドエンドしか思いつかなかった。


「今日から皐月ちゃんも家に泊まっていきなさい」

 朝ご飯が並べられている机の椅子に座るや否や、母さんが呟くように言う。

 いや、待て。そうなった経緯とやらを聞きたいものだ。理由によっては平穏な生活を守るために断固として講義も許されるだろう。

 睦月は突然の出来事に呆然と母さんを見て、その後に俺を睨む。俺を睨むのは場違いじゃないのか? 皐月は皐月で、笑みをかみ締めている。

「……なぜそうなる?」

「彼氏なら皐月ちゃんの家庭の事情ぐらい知っているでしょ!?」

 しらねぇよ!

 ってか、彼氏ですらねぇよ!

 それ以前に二股について少しは触れろよ!

 そろそろ今時のぐれる子どもになってもいいよね? 許されるよね?

 皐月をチラリと見れば、分かりづらいジェスチャーをしている。あいにく俺にはそのジェスチャーがタコの口から出る墨を両手で包む漁師にしか見えん。ここは見なかった事にして、この嘘ばかりの話に真実を告げたいのはやまやまだが、後から何をされるか分かったものじゃない。俺の体を大事にするなら話を合わせる方法しかない。

「……そうだったな。その事をすっかり忘れていたよ」

「私は反対だからね!」

 観念してこの場を譲ろうとしたが、睦月はこの展開に不満らしい。

 外見では驚いたように見せかけ、内心では睦月を応援する俺に対し、皐月は意味深な笑みを浮かべるや否や、ポロリと一つの涙を流す。

「ひ、酷いわ。私が睦月さんに何をしたの? 確かに私は睦月さんと和人くんが付き合っていると知りながら和人くんに告白をしました。ですが、私と和人くんが付き合ったのを知りながら睦月さんは私にも和人くんにも何も言わなかったじゃない。それなのにどうして今更……どうして……」

 言葉を失うとはまさにこの事だろう。

 以前の皐月はボーイッシュで言葉の一つひとつにトゲがあった。それなのに今はどうだろう? このけな気な口調は。この演技力は実にけしからん。いや、恐ろしいとしか言えない。

「そんな嘘ばかり並べないでよ! 和人も一言皐月に言ってやってよ!?」

 そこで話を振られても困る。

 確かに睦月の言っている事は真実だ。

 だが、真実がどうあれ、ポニーテイルの子を易々見逃すのも気が引ける。

 俺は考える。

 仮に俺が睦月の味方をするとしよう。そうなれば皐月が適当な事を言って俺に悪人になる。

 仮に俺が皐月の味方をするとしよう。そうなれば睦月からの仕返しで適当な事を人前で暴露される恐れがある。

 両方からの視線が痛かった。睦月は目を見開いて顎で言えといっているし、皐月はポニーテイルをなびかせて俺を拝むように見つめてくる。

 どっちに転んでも俺には安らぎとは反対の言葉しか思い浮かばず、どうしたものかと悩む。

「あれれ? これって修羅場? 修羅場だよね?」

 ややっこしい奴が一人増えた。

 声と口調からして言った本人を見るまでもない。幼馴染以外に考えられない。

 幼馴染は空いている椅子に座る。

「和人の大好きなポニーテイルの子は新顔だね?」

「この子は皐月ちゃんで、和人の彼女よ」

 母さんはため息をつきながら言う。

 幼馴染は「彼女」と言う言葉に反応し、さっきまでのニコニコした表情から一変し皐月を軽く睨みつける。

「今回のお題はなに?」

「皐月ちゃんを家に泊めるか、泊めないかについての話し合いよ」

 またいらぬ事を言う母さん。

「それで、今はどっちに有利なの?」

「私的に皐月ちゃんが半歩リードってところかしら。やっぱりこの話の決定権は全て和人だし、大好きなポニーテイルの子が相手もあるから睦月ちゃんが何を言っても心は皐月ちゃん優先だしね」

 いらぬ事を言うせいで、睦月からのやつ当たりが全部俺に回ってくるのをそろそろ察してほしいな、マジで。言うまでもないが、幼馴染をどうにかしろ、的な行為が実際に机の下で行われている。

「なら僕は彼女さんの味方をさせてもらうよ。やっぱりこれ以上和人の彼女が増えるのは僕にとっても彼女さんにとってもよくないからね」

 やはり二股には触れないのね……。

 こんな事を自分の口から言うのはいささか虚しいが、彼女いない暦は歳の数だし、誰かに告白さえもされた記憶もまた無い。それなのに誰もが振り向きそうな美人を両手に抱えるのは疑問に思うだろ。まあそう思わないのならそれもまた嬉しいのだけどね。

「……そろそろ真面目に時間がヤバイから、学校から帰ってきてから話の続きをしてもらってもいいか?」

 授業開始までまだ時間は十分にあるが、それでもバスの都合上そろそろ行かないと間に合わない。実際今も走って間に合うか間に合わないかの瀬戸際だ。

 睦月たちは俺を睨みつける。

 空気を読めていないのは俺が一番知っている。が、それよりも学校の方が俺にとっては大切だ。行けるときに行かないと、後々何かあって出席数の問題で留年なんてオチはご免だ。

 無言のまま居間は静まり返り、居心地が悪くなる。

「……分かった。ならこうしよう。少しの間だけ一緒に生活をして、それまでに何か問題があったら睦月の好きにすればいいし、もし何もなかったら皐月の好きにする。これなら問題はないだろ?」

「お母さんは和人がそう決めたのなら何も言わないわ。それでも睦月ちゃんか皐月ちゃんどっちかにだけに優しくするのだけはなしよ? 睦月ちゃんも皐月ちゃんもそれでいいわよね?」

 安心してくれ母さん。もしどっちかだけに優しくしていたらボコボコにされるから。あくまで俺は中立の立場で見守るよ。

「……お母様がそう言うなら……」

 と、苦虫を噛んでしまったような睦月。

「これからよろしくお願いします」

 と、笑みを浮かべる皐月。

 幼馴染は実につまらなそうにしているし、我が家で存在が最も薄くて発言権がまるでない父さんに限っては気づかない間に椅子に座って朝食を食べている始末だ。さらには妹も父さん同様に気づかない間にソファに座りながら不適な笑みを浮かべている。

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