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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

零度

作者: 之(ゆき)

 重苦しい氷牢の扉を開けると、凄まじい冷気と薬品の匂い、そして冷凍焼けした血生臭さに思わず目を逸らしてしまう。

 ようやく、視界が回復すると、その向こうには珍妙な世界が広がっていた。

 様々な女性の死体がそこにはある。首を吊るされたもの、四肢が人形のようにツギハギだらけで、顔と口を縫い閉じられているもの、手足を縛られたものなど、どれもが美しい女性の死体だった。

 だがその中でも一際目を引くのは中央の女性だった。

 まるで美しく舞う妖精を一瞬だけ切り取って保存したように固まる少女。その表情はこの世の幸せを一身に味わったように笑っている。

 僕は彼女が嫌いだ。だけど、彼女を愛している。

 どこまでも真っすぐな善人である彼女。

 イカれた殺人鬼に殺されたのに、なぜこんなにも幸せそうに笑えるのだろう。

『愛しているわ』

 殺人鬼に向かってそう言い放った彼女の言葉を思い出す。

 あぁ、あの愛の言葉には愛以外のどんな意味も含まれていなかった。

 僕が愛した、イカれた殺人鬼が愛した、善人で真っすぐでどこまでも狂った彼女。


 君は不思議な奴だったよ。



 彼女に初めて会ったのは、空気は少しずつ冷たさを研ぎ澄まし始めた十二月の上旬だった。

 彼女の登場は鮮烈なものだった。その溢れんばかりの美貌を振りまきながら、比喩なしで華麗にステップを決め、教壇の前に文字通り躍り出てきた。

 そしてビシッという効果音が聞こえてきそうなほど、鮮やかに姿勢を正し、凛とした声で挨拶した。

「今日転校してきた、白野香奈です。よろしくお願いします」

 なんとも不思議な登場の仕方だが、彼女の美しさが文句を言わせてはくれない。

 クラス全員があまりに不可思議な登場の仕方に唖然としていた。

 僕は正直引いていた。なんとも頭のおかしいやつが入ってしまったと思った。

 そんな僕らの間に生まれた居心地の悪い静寂を切ったのは、苦い顔をした担任の咳払いだった。

「元気な挨拶素晴らしい。席は……黒田の隣だな。仲良くするように」

 彼女の指定された席は、僕の隣の空いた席だった。思わず露骨に嫌な顔が出てしまう。

 僕は美女は好きだが、頭のおかしい奴は嫌いだ。

 そんな僕の嫌悪感など知らないというように、白野香奈はステップを踏みながら僕の隣までやってくる。

「白野香奈です。よろしく、お隣さん」

「……黒田亮です。よろしく」

 僕のぶっきらぼうな挨拶もどこ吹く風という感じで、ニパッと彼女は笑う。天気の晴れるような笑顔だった。雨の方が好きな僕には魅力的には映らない。

「黒田君ね。今日から私たちはお互いの学生生活を支えあう隣人通しよ。つまり、私と友達になりましょう」

「却下、僕は君と関わりたくない」

 何がつまりなのか、全く理解できない僕はすぐさまお断りした。

 彼女は断られると思っていなかったのか驚いて目を見開いている。

「酷いのね、あなた悪人だわ」

 今度は僕が目を見開く番だった。確かに僕は善人が吐くほど嫌いだし、これまでの自分がしてきたことを思えば、悪人と呼ばれても仕方ないと思う。

 だが、それを会って間もない頭のおかしい人間に言われるのは不本意だった。

「失礼だな、人をすぐに悪人と決めつけるなんて。君の方こそ悪人なんじゃないかな」

 僕がどこか演技めいた口調で責めると彼女はまた、僕の嫌いな笑顔を向けてくる。

 そうして、凛と胸を張ると僕に指を突き付け言い放った。

「いいえ、私は善人よ。故に私は正しい。あなたは悪人だわ。そして悪人に人権はないの。あなたは今日から私の友達、決定事項だわ」

 それ以上何も言うことはないと席に着くと僕が抗議の目を向けても完全に無視をした。


 酷い話、僕は彼女の友達にされてしまったらしい。




 彼女が入学して一週間ほど経った。わかったことは一つだけ、彼女は本当に善人だった。

 誰もやらないような仕事をステップしながらこなし、困っている人がいれば生徒であろうと先生だろうと、やはりステップで駆けつける。

 確かに褒められた行動なのにステップのせいで台無しだ。

 そんなことを校門で僕のことを待っている彼女を見て思う。僕と彼女の家は、不幸にも同じ方向らしく、彼女が転校してきた日から毎日一緒に帰る、もとい付きまとわれている。

 僕がいつも通り校門に居る彼女を無視して帰ろうとすると、ステップを決めながら僕の前に躍り出て、そのままいつも通りついてくる。

「いい加減、付きまとうのやめてくれないかな」

「付きまとってないわよ。一緒に帰ってるの。青春でしょ」

 僕がそう不快さを滲ませて言っても、彼女は聞く耳を持たない。

 いつもだったらこのまま無視をして歩き続けるところだったけれど、今日は何となく疑問を解消することにした。

「ところで、目障りな君。君はなんで目障りなことにそんなステップを踏みながら日々を過ごしているの?」

 『目障り』をわざと強調して、皮肉を混ぜて彼女に問うてみたが、やはり彼女はそんなものどこ吹く風という様子でステップをしている。本当に目障りだった。

「楽しいからに決まっているでしょう。人は楽しいから、幸せの足跡を刻むためにステップを踏むの。そんなの、当たり前じゃない?」

 さも常識と言わんばかりの彼女の憮然な態度に頭が痛くなる。この女はやっぱり頭がおかしい。自分が正しいと信じて疑っていない。

「……それは君だけだと思うな。普通の人からしたら、それはただの奇行だと思うよ。」

「そうなの?皆ステップを踏むほどの楽しいことも、幸せと感じることもないのかしら。可哀そうだわ」

「ステップを踏むほどの幸せなんて、一体何があるって言うのかな……」

 余りに理解しがたい彼女の言葉に僕はどこか独り言のような口調で尋ねた。事実、彼女がそれに応えなくても良いと思っていた。

 そんな僕の気持ちなんて少しも理解しない彼女は嬉しそうに笑顔を向けてくる。

「あら、簡単なことよ。新しい環境に想いを馳せた時、誰かの助けになれた時、私が生きていると感じる時、貴方と友達になれた時、そして、そんな友達とこうして一緒に帰る時……幸せなんて、ふとしたところに大小関係なく転がっているものよ」

 常識でしょ?と、幸せそうに彼女が笑う。 

 その心底幸せそうな表情に胸の内に黒い澱みが溜まっていく感じがした。内心、苛ついて仕方なかった。自分と絶対に相容れない存在が傍にいることで心が荒んで行くのを感じる。

 新しい環境なんて不安で面倒なことだらけだし、誰かの助けなんて面倒なこと進んでやろうとは思えない。

 なんとなく生きているだけの日々はただただ苦痛だ。

 それに、僕は彼女と友達になんてなりたくなかったし、こうして一緒に帰るだけでも正直億劫でしかない。

「……僕にはわからないな」

 だから、自分の一番素直な言葉を口にした。お前のことなど理解できないと、絶対の否定をそこに入れて。

「当り前じゃない。あなたは悪人で、私は善人だもの。人種が違うの」

 それなのに彼女が放ったのは余りに自分本位で、それ以外の正しさを認めない強さを持った言葉だった。だから、気付いてしまったのだ。

 彼女は本物だ。本物の善人だ。どんな理論も彼女の前では意味をなさず、自らの正しさ以外を認めない善人という名の暴力者。

 きっと僕では彼女を否定し切ることは出来ない。するだけ、時間の無駄だ。

 そう思って諦めたように溜息を吐けば、彼女は何故か嬉しそうにこちらを見ていた。

「どうしたの?そんな気色悪い笑みを向けて」

「何でもないわ。貴方って、本当に素敵な人だなって思っただけ」

「はぁ?」

 本当に意味が分からない。今までの会話の流れのどこに素敵な要素があったのだろう。

 やっぱり、彼女の言う通り人種が違うのだろう。常人では彼女を理解することなんてきっと一生できない。

 これ以上の会話は時間の無駄だと思い歩き出そうとすれば、彼女がステップで僕の前を塞いで許してくれない。

「ねぇ、今私とっても良いことを思いついたの」

 絶対に碌なことじゃない。そう思って無視しようとしても、巧みなステップの動きで僕の歩く方向を完全に塞いでくる。どう足掻いても彼女の提案を聞くまでは返さないつもりらしい。

「観念したわね。ありがたく私の素晴らしい考えを拝聴しなさい」

 これ以上、無駄な体力を使いたくない僕は溜息を吐きながら、壁にもたれかかり話を聞く体勢につく。

「……聞くだけだよ」

 その言葉を聞いて彼女は当たり前のように僕の隣に来て嬉しそうに話しだした。

「ステップを踏むほどの幸せが分からないなら、一緒に幸せになれることをすればいいのよ。つまり、今週末私とデートをしましょう」

「絶対に嫌だ。休みの日まで君の顔なんて見たくない」

 やっぱり時間の無駄だったと、もたれた壁から離れようとすると、彼女は素早く前に回り込み僕の後ろの壁に手を突き、迫ってくる。キスでも出来そうなほどに顔が近い。俗にいう壁ドンというものだった。

「悪人に人権はないの。もちろん、断る権利も」

 だがその体勢から放たれる言葉は愛のささやきなんて生易しいものじゃなく、善人という暴力者の理不尽なものだ。

 悪人にだって主張する権利くらいはあると反論したがったが、彼女の前では余計な体力を使うだけなと諦めた。

「行けばいいんだろ、行けば」

「納得したみたいね。よろしい」

 そう言えば彼女はやっと僕を離してくれる。その表情は何にも代えがたいほどに嬉しそうだった。

「では、当日、汚れてもいい動きやすい服装と、使い捨ての軍手を忘れずにね」


 デートとは思えない服装の要求に、僕は自分の投げやりな肯定を早くも後悔した。



家にたどり着き、放課後の彼女と結んでしまった約束を思い出して溜息を吐く。最悪の気分だった。そんな時の気分転換はいつも決まっている。

 自室を出て、愛しい『それ』が待つ巨大な冷凍室へと向かう。

 僕の家は大手の食品業界を牛耳る元締めの家だ。家の中にも商品を保存する巨大な冷凍室をいくつか持っており、僕が向かうのはアイスなどを保存する冷凍室。その少し奥にある僕のための専用の部屋だ。

 冷たく重い扉を開ければまず香ってくるのは薬品の匂い。そして目に入るのは愛おしい者たち。僕はそれを愛でて自分の荒んだ心を更地へと戻していく。

 あの善人は最悪だ。付きまとい、心の内側に我が物顔で入り、踏みにじってくる。

 彼女が思い浮かんでは荒む心を、愛しい者を愛でることで解消することを延々と繰り返す。 


 本当のことを言うと、彼女と話すたびに自分の中に溜まっていく澱みの正体をこの時の僕には知りえることはできなかった。


その色が白なのか黒なのか、憎しみなのか愛欲なのかさえも。

 


 ついに迎えてしまった週末。結論から言うならば、僕の嫌な予感は的中した。

 時刻は午前五時。冬の夜は長く、空はうっすらと白み始めているがまだ夜の気配は消えていない。気温は低く、服の布地の隙間を突き刺すように寒さが纏まりついてくる、そんな時間。

 僕らは街の外れにある裏山に来ていた。

「で、なんで僕たちは冬のこの時期にこんなゴミ溜めに男女で来てるのかな……」

 目の前に広がるのは捨てるのに困ったのか、使われなくなった電化製品と時折混じる一般ごみが形成するゴミの山だった。いわゆる不法投棄の現場と言うものだ。

「あら?健全な高校生らしいデートスポットだと思うけど?休日の暇な時間も潰せて、街も綺麗にできる。一石二鳥じゃない。」

 彼女はそう言うと、軍手を付けていそいそとゴミの整理を始めてしまう。

「世の高校生はもう少し遊び心がある場所に行く思うんだけど……君はやっぱり普通じゃないよ」

 僕が侮蔑交じりにそう言うと、彼女は不思議そうにこちらを見た後、突然噴き出して笑い出した。

「今更何を言ってるのよ。私は善人であなたは悪人。私たちが普通の人と同じことをする訳ないでしょ」

 どうやら自分が普通じゃない自覚はあったらしい。いきなり笑われた時はイラっとしたが、その言葉を聞いて僕の中の彼女への評価がほんの数ミリだけ上がった。

 今すぐ帰ろうと思っていたけれど、何となく気分が変わり僕も手伝い始める。自分でも不思議だった。

「ところでさ、片付け始めたのは良いんだけど、このごみの処理はどうするの?不法投棄された物は費用を払ったとしても、回収は難しいと聞いたことがあるけど」

 当然の疑問が上がったので聞いてみれば、彼女はこちらを見て、したり顔で笑った。

「抜かりないわ。土地の所有者にも、地方公共団体にも話はつけてあるもの。処分費用を出すと言って小一時間ほど説得したら許可をくれたわ。小さなごみは袋に、家電なんかの大きなものはまとめておけば後は頼んでいた業者が来て何とかしてくれるわ」

 それを聞いて驚きで目を見開く。

「……君、何者?」

「私は善人でもありながら、聡明でもあるのよ」

 得意げに笑った彼女を見て、諦めたように溜息を吐く。どうやら彼女はただの常識知らずなのではなく、良いところのお嬢様の常識知らずらしい。厄介極まりない。

 これだけの御膳立てをされ一度手を出してしまったのだから、この善良な活動に手を貸すことからは逃れられない。

 反吐が出るような思いをしながら、僕もゴミの整理を再開した。



 それからは二人とも黙々と、延々に作業をし続けた。

 夕暮れまでかかってしまったとはいえ、二人だけで一日で終わらせることが出来たのは彼女の並外れた手際の良さのおかげだった。

 非常に不本意だけど、聡明だということも認めなければいけないようだ。

 業者に運ばれていく自分たちがまとめ上げた粗大ごみを見送った後、僕はその場に座り込んだ。

「疲れた……もう二度と付き合わないからな」

 項垂れてそう言う僕に彼女は優しい微笑みを浮かべた。彼女は常に笑顔を振りまいているけれど、ここまで優しい笑みは初めてだった。

「ええ、悪人にしては上出来の仕事だったわ。また、お願いするわね」

 そんな優しい微笑みから紡がれたのは、ブラック企業の社長も驚くような言葉だった。

 どうやら彼女の耳には僕の言葉は入らないようだ。

「ふざけんな」

 ため息交じりでそう返して、帰り支度を始める。そこでふと疑問が浮かんできた。

「それにしても、今回僕が来なかったらどうしてたの?まさか、一人でやったとか?」

「んー……あなたにそんな権利はないのだけど……まぁそうね。一人でやっていたと思うわ」

 その答えを聞いて、少しだけいたずら心が湧いてきた。

「なら、それは辞めたほうがいい。最近は物騒だし、キミは見てくれが良いからね。キミくらいの年の子が行方不明になってる事件がここら辺で相次いでいるらしいし、攫われちゃうかもよ?」

 その犯人が誰か知っていて、僕はからかい半分で彼女に忠告する。ほんの出来心からだった。それなのに

「あら?心配してくれるの?あなたのそういうところ含めて、私は好きよ。愛してさえいるくらいに」

 そんな言葉を吐いてきた。その瞬間、僕の胸の内から黒い澱みが逆流してきて吐き出しそうになった。

「辞めてくれ、僕は君が嫌いなんだ」

 彼女は善人だから、嘘をつかない。その言葉はどこまでも真っすぐで、きっと今の何気ない愛の言葉も本物なのだろう。

 だからこそ僕も本音で答える。精一杯の嫌悪を混ぜて。

 僕は彼女が、嫌いだ。

「だと思った」

 それなのに彼女は二パッとあの笑顔を向けてきた。あの、幸せそうな晴れやかな笑顔を。

「それにきっとその犯人は私のことを狙わないと思うの」

 ステップを踏みながら僕に笑顔で断言する。

 吐き出すのをこらえ、作り笑顔を浮かべながら震えた声を絞りだす。

「なんで、そう思うの」

 彼女はそんな僕にすり寄り、抱きしめるように囁く。

「きっと、私のことが嫌いだから」


 彼女の心は晴れのまま、僕の好きな雨にはならない。



 彼女との最初のボランティアという名のデートから数週間がたった。

 あれからも、僕は何度も彼女の善良な活動を手伝わされては土日を潰され、気付いたら冬休みに入っていた。

 この時の僕には自分のことがよくわからなくなっていた。

 彼女といる時間は何事にも代えがたいほどに苦痛なはずなのに、彼女からの要請が入るたびに断れず、その手伝いをしている自分のことが。

 彼女の笑顔が、彼女の言葉が、彼女という存在が、僕を分からなくさせる。気付けば僕の日々の中には彼女が、白野香奈がいることが当たり前になっている。彼女がいない生活など想像できなくなり始めていた。

(どうして、僕は)

 自分の中で途切れなく繰り返される、不可思議な問いについて考えていると頭が痛くなってきた。

 一度思考をリセットさせようと、溜息を深く吐いてベッドに腰かけると部屋のドアを叩く音が僕の部屋に響いた。

「入るぞ」

 そう言って僕の返事も聞かずに部屋に入ってきたのは父だった。蓄えられた髭はその厳格な雰囲気に合ってはいるが、四十代前半というには見えないほどに老けさせている。

「なんだいるじゃないか。まったく、返事くらいしなさい」

「返事を待たずに入ってきたのは父さんの方だよ……それで、何の用事?」

 不躾な父の態度に、僕も相応のそれで返す。別に仲が悪いわけではなく僕らは互いに親子らしく似て愛想が無いだけだ。

「なに、最近あの悪趣味な真似を辞めたのだと思ってな」

 そう言われて、思いつくのは一つ。冷凍保存された愛しい者たちを作り、愛でることを言っているのだろう。

「悪趣味だなんて、父さんにだけは言われたくないんだけど。……母さんを殺したくせに」

「殺したとは人聞きが悪いな。私たちは合意の上だ。それに私は真に愛したものだけを選んでいる。お前の場合は無差別すぎる」

 僕らのこの家に母親はいない。母は、僕を産んですぐに父さんのモノになったからだ。

「まぁいい。この事について議論しても不毛なだけだ。それでどうした。最近何かあったのか?あの場所にもしばらく行ってないだろう」

 理由を聞かれても答えようもない。自分でもわからないからだ。あれ程愛したあの場所が、あの時が、僕の中で意味のないものに変わり始めていることに僕自身が戸惑っていたほどだ。

「別に……特に理由はないよ」

 だから、答えを持ち合わせてない僕にはそう言うしかなかった。

 父は僕のそんな様子を見て「そうか」とだけ言うと部屋を出ていった。これ以上は疑問を解消することは出来ないと判断したのだろう。

 父さんが扉を閉める音を最後に、僕の部屋をまた静寂が包む。

 なんとなく今日は疲れた。そう思ってベッドに横になり携帯電話を確認すると、一件だけメールが入っていることに気が付いた。白野香奈からだった。

『クリスマスの夜に駅に集合。暖かくかつ動きやすい服装で来ること。もちろん、断る権利は無いわ。』

 いつも通りの簡素なメール文に溜息を吐く。どうせ、断れないのだろうと思って『了解』と一言だけのメールを打つ。

 今度はいったい何をさせるつもりだ……と嫌になる。嫌な、はずだった。

 メールを返し、電源を閉じた画面に映る自分の表情に驚いた。

 笑っていたのだ。まるで彼女との約束が楽しみで溜まらないというように。

 思ってもいなかった自分の表情に戦慄したのと同時に、胸の内からいつも溢れ出てくる黒い澱みが僕の全身を包み込むような感触が広がり、理解した。自分のこの嫌悪だと思っていた彼女に対する澱みの正体を。

 嫌悪というには白すぎて、好意というには黒すぎる、汚い感情。


 僕は彼女を愛してしまったのだと。


白野香奈


 十二月二十五日、駅前にたどり着くとそこは人で溢れ返っていた。天気予報の通り、夕方から降り始めた雪は少しずつ街を白く染めて景色を変えている。

 今日という日に、こんな場所で、高校生位の少女が意外なものを持っているのが珍しいのか通行人にはよく見られている気がする。

 私はいつも通り困っている人を見かけては手助けをして、ある人を待っていた。

 いつもと違ってもう三十分も遅刻をしているけれど待つ時間は苦痛じゃなかった。彼なら絶対に来てくれると信じていたからだ。  

 彼は悪人らしく嘘つきだけれど、約束だけは何故か破る存在ではないということをこの数週間の短い付き合いで理解していた。

「まぁ、君のことだからそんな事だろうと思ったけど……今度は何をやらかす気なの?」

 だから、後ろから掛けられた聞き慣れた声に驚くことはない。振り返ればいつもと同じように不機嫌そうな顔の彼、黒田亮がそこにいる。

 驚きも不安もない。けれどやはり、彼が来てくれることは嬉しかった。何にも代えがたいほどに幸せな気持ちになれた。

 この感情を恋と呼ぶには、余りに重い。

「遅かったわね、悪人さん。こんな夜にレディを待たせるのはモラルに反するんじゃない?」

「悪人にモラルを求めるのはどうかと思うよ、善人さん。それに君みたいな子はレディとは言わない。意地悪なハートのクイーン辺りのほうがしっくり来るよ」

 そんないつも通りの他愛ない会話を済ませる。私はこの悪人との会話が好きだ。この悪人といる時間が何よりも愛おしい。

「で、そんなものを持って今日は何をさせるつもりなの?」

 どこか呆れたように私の持っているものを指さして問いかける。

 全く不思議なことを聞く人だと思う。この道具を使う理由なんて一つしかないのに。

「除雪用スコップを持ったら、やることは一つだと思うけど?今日はホワイトクリスマスよ」

「君が言うと、こんなにもロマンスが消え去るんだね……」

 当然の答えを返しただけなのに、彼は呆れた表情のままため息交じりに呟いた。

 本当に不思議なことを言う人。ホワイトクリスマスに、男女二人で夜の街を奉仕する。これ以上ないくらいロマンスに溢れていると思うのだけど。

 まぁそんなことはどうでもいい。今日はクリスマス。一人の神の誕生を祝福するために沢山の人が外に出ている。

 もちろんお店なども混雑するはずであり、このまま雪が積もり放置されたら、足を滑らせたり誰かが怪我をしてしまうかもしれない。そんなことは放っておけない。

 私はいまだ、諦めたような表情をしている悪人に除雪用スコップを一つ渡すと、二人で夜の街に駆り出した。



 駅前から始まり、周辺を転々としながら雪かきをして数時間。あれ程溢れていた人の数はまばらになってきた。

 幾人かの人からお礼の言葉も頂けた。私はそれだけで、自分は生きていると実感できて幸せな気持ちになれる。彼はずっと不機嫌なのか苦々しい表情をしていたが、いつものことなので気にしない。悪人に人権はないのだ。

 その悪人はというと、今はすっかり疲れた表情をしていた。数時間もひたすら雪かきをしていれば疲労もたまるだろう。

 時刻は夜十一時を回っている。町を白く染め上げていた雪もその勢いを弱め始めている。 

そろそろ潮時だろう。

「もうそろそろ、良い時間ね。そろそろ終わりにしましょうか」

「やっとか……」

 そう言うが早いか彼は除雪用スコップを放り出し、近くのベンチに座りこんだ。余ほど疲れたのだろう。

 そんな彼を愛おしそうに見つめてから、放り出された除雪用スコップを拾って彼の隣に腰かける。

「今回もお疲れ様、悪人さん」

「お疲れ様、善人さん。次からはもう手伝わないけれどね」

「ありがとう。またお願いするわね」

 デートの終わりのいつも通りの会話。彼はいつも次は来ないというけれど、毎回きちんと来てくれる。まぁ断る権利などないのだから当然のことなのだけれど。

 次は二人で何をしよう。もうすぐ年末、初詣なんてものもある。境内の掃除やゴミ拾いなんて素敵だろう。そう思って、早速彼に提案しようと思い彼の方を見やると彼はどこか遠くの方を眺めていた。

「何を見ているの?」

「ああ……いや、人がいなくなってから見るイルミネーションは悪くないものだなと思ってね」

 そう言って彼が見ている方向に目を向ければ豪華なイルミネーションに飾られた木が一本、寂しそうに立っていた。

 あれ程豪華な装飾を施されたならば、さぞや様々な人の待ち合わせなどに使われていそうだ。だからこそ、寂しい。

 沢山の人に愛されたのに、今は置いて行かれてただ一人ポツンと立っている。何故か少し胸が痛くなった。

「そうね、とても寂しくて、綺麗だわ」

 私がそう呟くと彼はこちらを見て、フッと笑った。それは出会ってから始めて見せる笑顔だった。

 笑っているはずなのに、その笑顔は雨のようだと思えた。冷たく寂しげな冬の雨。

「そうだね。珍しく君と意見が合ったよ」

 意見が合うなんて、珍しいことを言う彼に少しだけ驚く。今日は大分いつもと違う姿を見せてくれてるような気がした。

 訝しくなって彼をちゃんと見れば、その姿からは悲しいような寂しいような、今にも泣いてしまいそうな、そんな脆い雰囲気を醸し出していた。

「なぁ、君はまだ僕を好きなの?」

 そう言って、私を静かに、その胸に抱き寄せてくる。少し驚いたけれど、そんな驚きは押し寄せてくる幸福に押し流された。

 抱きしめられている場所から彼の体温を感じる。それはこの世の何者にも代えられない程に私を満たしてくれる。

 好きかどうかなんて、答えは決まっている。 いつも不機嫌そうな仕草も、ぶっきらぼうな言葉も、その瞳の奥に隠された狂気も、私は彼の全てを愛おしいと思っている。

「えぇ、好きどころか愛しているわ」

 だからその思いを隠すことなく言葉にする。

 この愛の言葉が軽薄なものにならないように、私の全てをそこに絞り込めて、愛の言葉をささやく。

「私は貴方を、黒田亮を愛している」

 私を包み込む彼の腕に更に力がこもる。私も同じように彼の背中に腕をまわして自分の持つ全力の力で抱き締める。この温もりを離さぬように、どこにも行けないくらいに、強く抱き締める。

 何よりも幸福な時間が静かにゆっくりと流れていく。けれど、それは永遠のものではなかった。あれ程強く抱きしめてくれていた彼の腕は私を優しく引き離す。

 その顔を見れば、彼は泣いていた。どうしようもない残酷な現実が目の前にあるみたいに、泣いている。

「僕は君が嫌いだ。大嫌いなんだ。でも、愛している。大嫌いな君を愛してしまったんだ」

 そして泣きながらそう言った。それは何より待ち望んでいた言葉だ。どうしようもないくらい幸せで残酷な言葉。

 私はその言葉の意味を知っている。聡明な私だけが知っている。それが私たちの別れの言葉なのだということを。

 だって、私は最初から知っていたのだ。

 彼が悪人だということを。

「そう……それなら、あなたは……私を殺すのね」

 私のその言葉を最後に意識は暗闇に閉じた。最後に感じたのは、薬品の匂いと彼の手の温もりだった。



 彼のことを知ったのは、今の学校に転校する一ヶ月前のことだった。

 私はその時、年端も行かない少女たちが何人も行方不明になっていることが許せなくて、誘拐事件の調査をしていた。

 親の知り合いにいる警察関係者をお酒で酔わせて話を聞いたり、近隣の住民に聞き込みを行ったりして情報を集めていた。

 けれど、どれだけ探して見ても痕跡は一切見つからなかった。随分と慣れているのだろう。いかに私が聡明であると言っても警察ですら難航している事件を解明することは出来なかった。

 だから、あの出会いは本当に偶然と幸運の産物と言えるだろう。

 街の外れにある裏山。近くには不法投棄現場があり、人の気配はない。誘拐をするには打ってつけのような場所だった。

 そこを調査していた時に本当に偶然見つけてしまったのだ、私と同じくらいの歳の一人の少年の姿を。

 その少年の近くには大きな黒い鞄があって、何かを待っているようだった。

 私はその少年のことが気になって、息を殺して観察し続けていると、やがて一台のワゴンがやってきた。恐らく迎えの車なのだろう。

 彼は重そうに鞄を持ち上げ、車のトランクにそれを仕舞いと車に乗車すると、そのままどこかに行ってしまった。

 聡明な私は見逃さなかった。彼が鞄を持ち上げた時、その鞄が中に何かいるように少しだけ動いたのを。


「見つけた」



 意識を閉ざしていた私は、頬に触れた冷たい床の感触に目を覚ました。

 全身に襲ってくる冷気と薬品の匂い。そして冷凍焼けしたような血生臭さが私の鼻孔を刺してくる。

 私は起き上がり、辺りを見回した。そこには予想していた光景が目の前に広がっていた。

 恐らく十人以上はある死体が並んでいた。美しく保たれたものもあれば、天井に吊るされていたり、ツギハギだらけのものもある。

 その全てに共通していたのは、美しい女性の死体ということだった。

「私のことは、どんな風に保存してくれるのかしら」

 死体の一つに近づいて呟く。その時大きな扉の向こうから声がした。

「起きたの?」

 彼だ。私をここに放り込んだ張本人。この世の何より愛おしい人。

 声の方向に近づいて、その分厚い扉に手を重ねる。

「えぇ、よく眠れたわ。少し寒いけれど」

「こんなところで、よく眠れるなんて。やっぱり君は普通じゃないね」

 私はその言葉を聞いて思わず笑ってしまった。

 無理していつも通りを装っているのが丸わかりだからだ。

「私は善人で貴方は悪人。私たちが普通の人と同じな訳ないじゃない。そうでしょう?悪人さん」


 きっと今、彼の心は揺れ動いているのだろう。


「そうだね、本当に……その通りだ。いつから気付いていたの?善人さん」


 かける言葉を間違えなければ、私はここから出して貰えるかもしれない。そのくらい、自分が彼にとって特別な存在であることを理解している。


「最初からよ。あなたが悪人で、危ない人だなんて、最初から気付いていたわ」


 でもそんなことは望んでいない。


「驚いた。本当に君は何者なんだ」


 助けなんて、いらない。


「ただの善人よ。今からは何者でもなく、あなたのモノになるみたいだけど」


 だって、私が望んでいることはたった一つだけ。あの日、貴方を見つけた日から私は望み続けた。






「ねぇ、聞いていい?」


彼女が何気無いふうに、いつも通りに語りかけて来る。


「うん、何でも答えるよ」


彼はそれに、震えた声で返して来る。いつもとは違うとても弱そうな声で。普段は見せない弱そうな彼の声に、胸の奥が、疼く。


「私と一緒に居た時間はどうだった?貴方にとって幸福なものになったかしら?」


彼女の声も、震え出していた。いつもの憮然な態度なんて嘘みたいに、震えた声で、不安げに聞いて来る。

やめて欲しかった。そんな声、聞きたくなかった。愛おしくてたまらなくて、僕が僕でいられなくなりそうだった。

やっぱり僕は、君のことが嫌いだ。


「すごく苦痛だったよ。君は僕の話を聞かないし、理不尽だし、デートなんて最悪だったよ。やりたくもないボランティアを手伝わされて」


いつも通りの嫌悪が混ざった彼の言葉に、ほんの少しだけ安心した。声は震えて、涙声だったけれど、言葉の中に含まれていた本物の嫌悪に、この扉の向こうにいる存在が彼なのだと、何よりも安心出来ててしまう。

私はそんなあなたが、好きで好きで仕方がなかった。あなたが愛おしくて、あなたに愛されたいと私はずっと願っていた。


「あら?そう言う割に毎回欠かさず来てくれたじゃない」


今の僕らは本当に滑稽な存在だと思う。お互いがお互いであることを証明するために、必死に『いつも通り』を絞り出している。そんなこと、全然できていないのに。

僕らは笑った声で、どうしようもなく、泣いていた。


「あぁ、自分でもよくわからなかったよ。反吐が出るほど嫌なのに、いつも断れなかった。君を、白野香奈という存在を無視できなかった」


本当に、不思議な人。私を無視するなんて、そんなこと出来るはずないのに。そんなこと、私が許さない。

どれだけあなたに嫌われても、憎まれても、あなたに愛されたい私が、あなたを逃がすはずがない。

だから私は憮然と笑う。『あなたと一緒にいる私』を全力で絞り出して。


「無視なんてさせるわけないじゃない。だって、私たちは友達なんだから、絶対に私を見ないなんて真似、させるわけない」


彼女は常識だと言わんばかりに笑って言った。見なくてもわかる。きっと彼女はこの扉の向こうで、僕の嫌いな笑顔をしている。天気の晴れるような、あの笑顔を。


「本当に理不尽だよね、いつも頭のおかしいことばかり言うし、無理に連れ回したりするし。そういうところが僕は大嫌いだった」


本当に大嫌いだった。いつも見せる笑顔も、目障りなステップも、善人という名の暴力者である君のことが、嫌いで嫌いで仕方なかった。

それなのに、


「愛おしかったんだ。嫌いで仕方ないはずなのに、たまらなく愛おしかったんだ。

君といる時間はどうしょうもないほどに苦痛だった。……けれど。どうしようもないほどに、幸せだったんだ」


あぁ、本当に彼は狡い人だ。こんな、血を吐くように、歪な愛を、幸を叫ぶなんて、本当に狡い、悪人だ。こんなの嬉しくないわけがない。私は一体どれだけあなたに幸福にされるのだろう。

死んでもいいと、本気で思う。


「ねぇ、悪人さん。最後に一言いい?」


だから、私も、返そう。私の全てをたった一言に込めて。黒田亮に私の全てを伝えよう。


「……うん、いいよ。善人さん」


 これが最後の言葉だ。彼と交わせる最後の言葉。その言葉は愛以外の何物もいらない。

私の全てをイカれた悪人である彼に、イカれた善人である私の全てをその言葉にして届ける。


 精一杯、笑え。


「愛しているわ。亮」


 あぁ、愛しい人。私が望むのはたった一つだけ。私はあなたの永遠になりたい。

私は、あなたのモノになりたい。



黒田亮



『愛しているわ、亮』

 向こうから聞こえてきた彼女の声は確かに笑っていた。幸せそうに笑っていた。

 いつもの、彼女らしい偽りのない真っすぐな言葉。

 こんな状況でそう言われたのは初めてだった。僕のこの狂気を受け入れてくれた人なんて誰もいなかった。

 それなのに彼女は、あんなに幸せそうに『愛している』と言ってくれた。

「君は……ずるいな。そんな風に言われたら、僕はもう……他の誰も愛せないじゃないか」

 もう僕の心はあの性悪な善人に支配されてしまった。僕はもう彼女以外の人間を愛せない。

 けれどそれは、僕の心をどうしようもなく幸福で満たしてくれた。

「幸せなときは……ステップを踏むんだよな」


 僕は踵を返して、幸せの足跡を刻み続けた。



白野香奈


 扉の向こうから彼がステップで去っていくのが聞こえた。少し不慣れそうなその音についつい笑みが零れる。その音を聞いて、私もステップを踏み始める。


 小さい頃からの癖。幸せの足跡を刻む行為。


 私は善人だ。誰かのために生きることが一番の幸せだった。でも、私の一番はあの日書き換えられた。

 あの日、彼を見つけた時。私は通報することをしなかった。彼が鞄の中身に対して向けた愛おしそうな表情が今までの私を書き換えた。


 欲しいと、思ったのだ。あの狂気さえ滲み出るほどの歪んだ愛を、私も彼から欲しいと願ってしまったのだ。あの一瞬で私の心は黒田亮に奪われていた。


 それがもうすぐ叶う。彼のモノになれる。


 冷凍室の気温は下がり続け、体はもう動かなくなってきた。


 寒くて苦しいはずなのに、こんなに幸せなのは何故だろう。


 歪んだ愛でこんなにも幸せにしてくれるなんて。


 あなたは不思議な人だ。

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