②
出発の朝は、快晴だった。
午前十時、芦のアパートからすぐの道路にスタンバイしていた車の後部座席に乗り込んだ芦とみーさんは、運転席にいる宇江樹と目が合った途端、芦は全力で脱力し、みーさんは全力で嬉しそうな声を上げて喜んだ。
勿論、芦は短い距離とは言え、みーさんを連れて移動した緊張からの解放、みーさんは久しぶりに宇江樹に会えた喜びを表していたわけだが。
「お疲れ様です」
「いや・・・、うーさんこそ、お疲れ様でしょ。仕事も忙しいのに・・・、大丈夫なの?」
「はい、忙しいことは忙しいんですけど、でも、一応、それなりに休憩は取っているので・・・、あ、みーさんも、お久しぶりですね、元気でしたか?」
「みぃー!」
運転席から身体を捻るようにして後ろを向いた宇江樹は、まずは脱力しきっている芦を優しい声で労った。繁忙期とは全く無関係の、いつも通りの日常を送っている芦よりよほど忙しい日々を送っているはずの宇江樹のその心の底からの優しさに、芦は思わず、心配になる。
人を気遣いすぎる宇江樹の方こそ、大丈夫なのかと。
しかしその芦の問いに、相変わらず人の良い笑顔で応えると、自分にも声をかけて、と言わんばかりのキラキラした目で宇江樹を見ていたみーさんに向けて、にっこりと笑みを見せる。
芦と井雲にはほぼ毎日会っているが、宇江樹にはそこまでの頻度で会えないことを淋しく思ってはいるのだろう。宇江樹の注意が向いた途端、みーさんは歓声に近い声を上げて、両手まで振り回して喜びを表現してくる。
その、何の打算もない純粋な好意に、宇江樹の顔に浮かぶ笑みは更に強くなった。こんなに素直な好意を示されれば、それは嬉しくもなるだろう。
また、そんなみーさんと宇江樹の様子を見ている芦の顔にもようやく、笑みが浮かぶ。無垢な子供の純粋な喜びの姿と、善良すぎる故に苦労が絶えない善人の善良な喜びの姿は、それなりに善良な芦にとっても、素直な喜びを覚える光景なのだ。
「まぁ、とりあえず・・・、大丈夫ならいいだけどさ。でも、今日も結構長時間運転してもらっちゃうけど・・・、大丈夫?」
「えぇ、営業でもそれなりの距離があるところに行くことも多いんで、大丈夫ですよ」
「そうなんだ・・・、まぁ、でも俺が運転変われたり出来たらいいんだけどなぁ・・・、免許ないからさ」
「それは全然大丈夫なんですけど・・・、芦さんって、免許取る気はないんですか?」
「あんまり車を必要とすることってないからさ、今まで、全然そういうこと、考えてなかったんだよなぁ。最悪、井雲は運転出来るから、何かあったら乗せてもらってたし。それに、俺、反射神経とかそんなに良くないから、自分が運転なんて出来るとも思えないしなぁ・・・」
「反射神経って! 芦さん、ご老人とかならともかく、僕達の年齢なら運転に支障が出るほどの反射神経って、有り得ないですよ。というより、そこまでの反射神経を求められることってないですから、運転って」
「そうかもしれないけどさぁ・・・、俺には無理だよねぇ?」
「みぃ!」
「ほら、みーさんも同意してる」
「いえっ、それ、意味が分かっての反応じゃないですから!」
みーさんとのコミュニケーションは名残惜しいが、仕事も兼ねての行動ということなら、時間も無駄にするわけにはいかないのだろう。
前に向き直り、いよいよ車を発進させ始めた宇江樹を見ながら、自然、芦が振ったのはその運転の話しだった。免許を持っていない芦には、長時間の運転がどれほど大変なのかは良く分からない。
しかし、自分が難しそうだと思っている行為を長時間行うのだから、そんなもの、大変に決まっている、とは思っていた。
その大変な事を、人生そのものが恒常的に大変な宇江樹に任せてしまっていることを改めて案じれば、予想通り、宇江樹からは穏やかな声で芦の心配を軽く流すような返事が齎される。
しかしそれと共に齎された問いかけに、芦としては真剣に、真面目に答えたつもりなのだが・・・、それは宇江樹にとっては有り得ない答えだったらしく、苦笑混じりの反応を頂いてしまう。みーさんに同意まで貰ってみたのだが、それにも軽い突っ込みを受けて。
勿論、芦も宇江樹も、それらは顔は笑っての冗談としての会話だった。みーさんも話の内容は分かっていないのだろうが、それでも楽しげな二人の様子に、嬉しそうに声を上げている。
時折、フードがずれそうになって、万が一、車内が覗かれた場合を考えてその度に芦がさり気なくフードを直すが、それ以外は車内という他者をそこまで気にしないで済む空間は、和やかな空気を孕んで目的地へ進んでいた。
予定では、道に迷ったり何かの渋滞に巻き込まれたりせず、順調に進むようなら、目的地の近くまではお昼過ぎくらいに到着出来ることになっている。
・・・が、そのまますぐに神様の元へ、というわけにはいかない・・・、というより、もしそういう予定にしてしまった場合、宇江樹が同行出来ず、またもや芦一人でみーさんを連れて、ということになってしまうのだ。
何故なら、宇江樹の取引先との約束が先にあり、神様の都合も大事だが、人間の都合も大事だからだった。相手との約束の時間は午後一時、お昼過ぎに着いてから神様の元に向かって、それから行くのでは、約束の時間に間に合わない。
そこで、まずは目的地の近くまで車で向かい、どこか停められる場所に駐車、時間が間に合うようなら皆で車内で何か食べられる物を勝手昼食。時間が押しているようなら、宇江樹はお客さんと会った後でお昼、みーさんはそれまでお昼を我慢させるわけにいかないので、先に芦と共にお昼にする。
宇江樹は時間に応じてお昼がお客との約束の前後に変わるが、とにかく客に会って仕事を行うことを優先し、その間、芦とみーさんは車内で待機。今日はまずは先方との顔合わせと、今後の話を軽くする程度らしいので、予定では一時間程度で話は終わるらしいので、その後、食事がまだなら宇江樹の食事を待ってから、いよいよ目的地でもある、『蛇頭黒白神社』へ向かうことになっていた。
向かった先で、願うべきことは何か、それはメモを作ってある。一応、『蛇頭黒白神社』のことも、調べられるだけは調べた。知らずに礼儀知らずなことをしでかしたら大変だと思ったからだ。
タブーみたいなモノがないかや、何か、挨拶に決まりがあるのか等、出来る限りのリサーチをして、準備に余念はないのだが・・・、それでも、目的地が近づけば、本当に余念がないのかどうか、自信がなくなってくるのが人間というもので。特に、自分に自信がない芦達にしてみれば、不安になるのがスタンダードな状態に近いわけで。
目的地がまだ遠いうちは、世間話をしたり、みーさんに持参してきたお菓子をあげたり、飲み物をあげたりと和気藹々としていた車内は、目的地までの距離が残り僅かになっていくにつれ、次第にその空気を重く、それでいて落ち着かないものに変えていった。
「・・・あと、どのくらい?」
「えっとぉ・・・、ナビでは、一〇分か一五分程度で着くという表示になっているんですけど・・・」
「・・・そのナビは、正確なナビだったりする? 実は誤差が出たりとかしない?」
「・・・芦さん、お気持ちは凄い分かる・・・、というか、僕も心境的には全く同じ状態なので、大きなことは言えないのですが、ウチのナビ、そこまで時代遅れなヤツじゃないので・・・、すみません」
「いや、謝らないでよっ、うーさん! 俺だって、分かってる! 俺が無茶言っているんだって! 俺が、俺の不安と戦いきれていないだけだって、分かっている、分かっているんだから!」
「芦さん!」
「うーさん!」
「みー!」
「あっ、ごめん、みーさん! 突然煩いよねっ?」
「すみません!」
「違うんだ! うーさんは何も悪くない! 何も謝らないでいいんだ!」
「芦さん!」
「うーさん!」
「みー!」
「わぁー! またまたっ、ごめん! みーさん!」
「みーさん! すみません!」
「いやっ、だからうーさんは・・・!」
・・・車内は、残り時間が僅かになったところで、混迷を極めていた。勿論、芦達としてはみーさんと自分達に力を貸してくれるかもしれない神様に、自分達の意思で会いに来たわけで、つまり会いたくて会いに来ているのだから、その神様に近づくことは喜ばしいことではあった。
ただ同時に、会えなかったらどうしようとか、会えたとして力を貸してもらえるのだろうかとか、色々と心配事が山積みなので、それらの心配や不安が、会いたいような会いたくないような、という微妙な心境に芦の気持ちを揺らすのだ。
そして揺らされているその気持ちを痛いほど察する宇江樹もまた、運転し、芦を宥めつつ、実は同じように気持ちは揺らいでいて。
人間二人が騒いでいる中、何か楽しいのだろうかとその騒ぎから勘違いしているらしいみーさんだけが、楽しげな声を上げて喜んでいるという状況が数分間、無為に続くのだった。
──『蛇頭黒白神社』は、規模としてはそこまで有名ではないが、歴史的にはかなり長く続く神社らしい。
とうとうその姿が多少見える位置まで辿り着いてしまうと、騒ぎに騒いでいた車内は自然、静まり返っていった。
本殿の周りが豊かな木々に囲まれている為、敷地の外、通りを挟んで少しだけ距離を保った場所にある駐車場に停めた車内から伺う芦達にはその全貌は見えないが、色々インターネットで調べた後の所為か、少しその姿が窺えるだけで、何となく、恐れ入るような心境になってしまう。
古い、古い神社。古い、古い神様。白から黒に染まった、蛇の神様。人間に力を貸してくれた、今尚、力を貸す為にあの場所にいらっしゃる神様。そう、伝わっている神様。・・・少なくとも、人間はそう伝わっていると伝えている、神様。
でも、他の神社仏閣と同様に、本当に神様がそこにいるのかどうかは、まだ、分からない。
また人間が勝手に言っているだけで、やっぱり神様がいなかったらどうしよう・・・、という不安が、芦の胸の中に爆発的に広がっていくのを、芦自身は為す術もなく、眺めていた。
ただ、同じ不安を宇江樹にまで広げるわけにはいかない、という思いはあって、だから広がっていく不安を口には出さない。
飲み込んで、願うだけだ。どうか、いらっしゃいますように、と。
「時間・・・、少しありますね。僕、適当にお昼買って来ちゃいますよ」
「あ、マジで?」
「はい。芦さんは、みーさんと一緒に、ちょっと待っていて下さい」
「りょーかい!」
「みぃ!」
広がってしまった沈黙の中から、ふいに、宇江樹の現実的な提案が聞こえてきて、それでようやく、芦の不安な物思いも一旦、終止符をつけた。
有り難いその申し出に頷き、フットワークも軽く車外に出る宇江樹に、軽く手を振っていると、それを真似たみーさんも元気に手を振り、なんだかそれだけで、芦も宇江樹も何かが癒やされるような気がして、自然と顔に笑みが浮かぶ。
そしてその笑みのまま、すぐ傍の通りを歩いて行く宇江樹を見送り、待つこと、十数分。
急いで買って戻って来たのだろうと分かる様子で車内に戻って来た宇江樹の手には、芦が働いているコンビニとは違うコンビニのマークが印字されたビニール袋がぶら下げられていて、中にはほかほかに温められた、幕の内弁当が三つ、入っていた。
「・・・すみません、唐揚げはなかったんです」
弁当を凝視する芦とみーさんに、宇江樹の筆舌し難いほどの苦悩が満ちた声がかけられ、多少、哀しげな様子を見せたみーさんを慰めつつ、三人はどうにか弁当を食べ、そして・・・、当然のことながら、一番食べるのが遅いみーさんを残して、慌ただしく宇江樹は客に会いに車を飛び出して行った。
芦は食べ終わった弁当の空箱を眺めつつ、金を出して買った唐揚げ弁当を出されなかったことでもしや自分の体面は守られたのだろうかとか、でも一度でも誰かが金を出して買った唐揚げ弁当を差し出せば何かが変わったのだろうかとか、体面とか諸々を横に置いておいてもみーさんが喜ぶなら唐揚げ弁当食べさせてあげたかったとか、というかゆっくり弁当も食べられずにあんなに慌てて飛び出して行くなんて社会人はやっぱり大変だなとか、そんな、考えても考えても何も答えの出ない諸々を考えていた。
勿論、時折、芦を見上げて食べ慣れない弁当の中身を示しつつ、何かを伝えたがるみーさんの相手をしつつ、だったが。
・・・それから、待つこと、約一時間と少々。
宇江樹が車を出て行ってから、みーさんが弁当を食べ終わるまでに、三〇分近く掛かったのだが、それから更に、一時間と少々が経っていた。当初の予定ではもう戻ってる時間なのだが、しかしいまだに宇江樹は戻らない。
予定通りに戻って来られないなんて、やっぱり社会人は大変なんだなと思いつつ、芦はみーさんを相手にしながら、ひたすら宇江樹の帰りを待った。
幸い、みーさんはテレビがなくとも芦が用意しておいたお菓子や飲み物のおかげで上機嫌だったし、携帯に入っているパズルゲームをやってみせると、内容は分からないだろうが、それでも画面がくるくる変わっていく様に、飽きることなく楽しげにしている。
おかげで、時間を持て余すこともなかったのだが・・・、ただ、宇江樹の戻りが更にこのまま、数時間に及んだらどうしようかと、そんな心配だけが脳裏を横切っていた。
そして時刻が二時を回って、少しした頃・・・、変化は、宇江樹の戻り以外の事象として齎された。