②
──おそらく、もうすぐ閉店するであろうぐらい、人気が無い店だった。
通り過ぎながら、三人共が店の様子を窺っていたのだが、客の姿はまるで当然のように見えず、たった一人の店員は、何もする意思がないのか、カウンターの中で携帯を弄っている。
しかも、通常、コンビニのカウンター内に存在しているとは思えない、椅子を持ち込んで、そこにしっかり腰を落ち着けて、携帯に夢中になっているのだ。
これだけで、このコンビニの状態の殆ど全てを物語っていただろう。ただ、現役コンビニ店員たる芦には、他の二人が気づかない点まで分かってしまう。他の二人が思う以上に、このコンビニが危機的状況、つまり客がいない、来ない、という状況であるという点が。
カウンターに乗っている、おでんや揚げ物の数の、あまりの少なさ。辛うじて入っている物の、長時間入れっぱなしになっているのが丸分かりの乾涸らび具合、具の沁み具合、並んでいる雑誌の種類の少なさに、その並びの粗雑な扱い、弁当の量、床の掃き具合等々。
もしもちゃんと客が来ているなら、厳しく躾けられているだろう店員としての作業があまりのも粗雑で、それでも何も言われないということは、注意すべき相手、客が来ない、ということなのだろう。
特に、商品の種類の少なさや、辛うじて並べられている商品の扱いからも、それが示されている。示されて、しまっている。哀しいことに・・・、哀しすぎて、とても他の二人にはそんな細々とした点は述べられないほどに。
だから芦は、他の二人には何も言わず、その場を通り過ぎる。三人で、歩くだけで楽しいのです、と言わんばかりに上機嫌のみーさんを連れて、すぐ目の前まで迫った墓地の入り口、そこに至る数段の階段を、先ほどとは違って階段を自分で上りたそうにしているみーさんに付き合って、のんびりと上がっていって。
階段を上る間、手を繋いでいたのは井雲だった。皆で交互に手を繋いでいたので、丁度順番が井雲だったというだけだったのだが、ゆっくりとみーさんを連れて階段を上る井雲と、そんな井雲を見守るようにして左右に並んでいた芦と宇江樹は、打ち砕かれた希望の果てに、その時、異様な『何か』を聞き取った。
『・・・っ! ぁっ、・・・よおぉー』
・・・三人の動きが、止まった。今まで楽しげだったみーさんも、大きな目を見開き、何事ですか、と言わんばかりの様子で辺りを見渡したり、三人を見上げたりしている。つまり、この場にいる、全員に聞こえたのだ、どこか遠くから、何かの・・・、おそらく、雄叫びのようなモノが。
それは一度だけではなく、断続的に何度も上がってる声のようで、しかし距離がある為、一体何を言っているのかは分からない。ただ、何故かその声を聞く度に、三人共に悪寒が走っていた。
得体の知れない異様な叫び声なのだから、悪寒の一つや二つ、走っても当然といえば当然なのかもしれないが、それにしても、何か、普通の悪寒ではなく、特殊な、それでいて覚えのある悪寒であるような気もしていたのだ。三人、ともが。
沈黙が、生まれた。その沈黙の中で、三人共がお互いの顔を見つめては、不思議そうな表情で見上げてくるみーさんを見下ろし、とにかく安心させる為に笑みを作って頷いてあげておいて、自分達自身は全く安心出来ず、不安げな表情を浮かべてまた互いの顔を見つめる、という行為を繰り返す状態が、おそらく、数分続いていた。
身動きすら出来ずに、じっと聞こえてくる声に耳を澄ます時間が、数分。
しかしそうして耳を澄ましている間に、耳が慣れてきたのか、次第に声がどの方向から聞こえてきているのかが分かってきた。
それは丁度、当初の予定では今頃歩いている道、つまり墓地を迂回する人気の無い通り、その道を進んでいった方向から、声は響いているようで、その事に気づいた三人が、更にそちらの、声が聞こえる方角を意識して耳を澄ますと、殆ど聞き取れないでいた叫び声のうち、たった一つの単語だけは辛うじて聞き取れたのだ。
『・・・っ、かみ、・・・かっ、みよっ!』
三人は、黙った。
元より黙っていたのだが、更に黙った。
重々しく、黙った。
あまりに重々しすぎて、地面が割れるのではないかと思えるくらい、黙った。
──神よ、・・・と、途切れがちの声は、確かに叫んでいたからだ。
三人は、そういう叫びを上げる人物を、とてもよく知っていた。そして、聞こえてきたその叫び声の主が、間違いなく、その単語を叫んでいる確信もあった。何故なら、他に彼女が上げるべき叫びはないからだ。・・・奇声は、よく上げているが。
重すぎる沈黙は、地面を割る代わりに、三人の間に漂っていたその重い沈黙そのものを打ち砕く。割れた沈黙の間を縫って咄嗟に三人が向けた視線の先は、足元にいる小さな神様。あの叫びが、求めている存在。
見た、というより、確認した、という形のその視線に応えるように仰向いたみーさんは、フードの影に隠れてはいるが、何かを感じているかのように微かに震えているのが分かった。
そして、それさえ分かれば充分なのだ。三人が、動き出すには。
咄嗟にみーさんを抱き上げたのは、手を繋いだままだった井雲で、その井雲を誘導するように肩を押し、先へと促すのは芦で、その二人を追ってから匿うように二人の後ろに回り、背後に続く道を警戒しているのは宇江樹だった。全ては、あの存在への対応の為に。大切な、小さな神様の為に。
全ての力を振り絞り、駆け上がれば短い階段はすぐに終わりを迎えた。続く先には、すぐに墓地の入り口があり、三人はまるで結界にでも逃げ込むように中に駆け込む。
そしてすぐ傍に植えられていた胴回りの太い木の後ろに隠れ込み、たったそれだけの距離で荒れてしまった息を整えつつ、身を縮めて気を潜めること、数分。
異常なほど澄まされた耳は、激しくなった心音をものともせず、あの雄叫びを捉えていたのだが、しかしやがて、徐々にではあるがその叫び声が遠ざかっていくのが分かった。
最初は、自分達の希望、願望によるものだと思われたのだが、心音が通常レベルの音に収まっていく頃になると、確信を持って遠ざかったと断言出来るレベルにまでなっていたのだ。
まず最初に、固く、固くみーさんを抱き締めていた井雲が、安堵の溜息をついた。その息で、安全になったことを悟ったのか、みーさんがほっとしたような小さな鳴き声を上げ、それから自分が盾になると言わんばかりに仁王立ちしていた宇江樹が力が抜けたようにへたり込み、そして芦が・・・、芦が、茫然とした呟きを漏らす。
「俺・・・、もしかして・・・、もしかするのかなぁ・・・」
「・・・なにが?」
「どうかしたんですか? 芦さん?」
「いや、だって、ほら・・・、なぁ?」
「なぁって言われても、全然分かんねーけど。ってか、だからどうしたんだよ?」
「どうしたっていうか・・・、俺、もしかして、目覚めちゃったんじゃないかって思うんだけど・・・」
「・・・は? なにが?」
「芦さん?」
「だって! ヤバイだろ!」
「だから何がっ!」
「俺もなんか、神様的な力がついたのかも!」
「・・・あぁ?」
「・・・芦さん?」
「俺っ、だって、分かっちゃったじゃん! 声とか、聞こえてなかったのに、あっちはヤバイって! これ、神様的な力なんじゃないのっ? 俺、目覚めちゃったみたいな感じなんじゃ・・・!」
「・・・」
「・・・」
芦は、興奮していた。他の二人は、何かを偲ぶように、黙った。そしてみーさんは、訳も分からないまま、ただ、興奮している芦を見て、楽しそうに笑った。
・・・おそらく、時間にして十数秒程度。一分にすら満たないほどの沈黙だっただろう。たったそれだけの沈黙で、全ては決着してしまったのかもしれない。
少なくとも、井雲と宇江樹の結論は出てしまい、芦もそれを察するのと同時に、二人の結論に従うしかないと悟ってしまった。芦としては、多少、残念なことに。
「・・・それ、ないだろ」
「・・・たぶん、違うと思います」
「・・・やっぱり、違うかなぁ?」
間を開けて、きっぱり断言する井雲。
間を開けて、躊躇いがちに断言する宇江樹。
間を開けて、自信がなさそうに確認する芦。
再び僅かな沈黙が漂った後、小さな溜息を漏らしながら、最初に井雲が口火を切る。
「・・・いや、それ、ただ単に本能とか呼ばれてる能力だろ」
「・・・危機が多いですからね」
「・・・まぁ、そうだよな。うん、なんか、悪い、ちょっとハイになってた」
「みぃー」
井雲の再び下す断言に、傷ましげな表情で慰めるような声をかけてくる宇江樹、それに、ようやく冷静さを取り戻したのか、反省を示す芦に、そんな三人のやり取りの意味が全く分かっていなさそうな、みーさんの鳴き声。
危険は、回避された。あとは、すぐ近くだろう目的地に向かうだけ。そして目的の行為を果たすだけ。ただそれだけなのだが、なんだか妙に力を落としている、三人だった。
・・・気を取り直すことは微妙に出来そうになかったが、それでも三人はその、すぐ間近まで迫った目的地に向かい始める。
同じような墓石が並んでいる墓地は、そこまでの広さではなかったが、一つずつ墓石を探していくには数があったので、最初に寺の住職さんに、場所を確認することになった。
勿論、住職に場所を聞くのは、社会人としての対人スキルを持っている宇江樹だ。他の二人が自分で聞くのを躊躇している姿を見て、颯爽と先陣を切って向かってくれたのだ。その後ろ姿に、頼もしさとときめきを感じる二人を残して旅立った宇江樹は、さして時間をおかずに戻ってくる。
しっかりと、成果を上げてきた男の顔をして。
「こちら側の一番奥の、一番大きなお墓だそうですよ」と告げる宇江樹に先導されるようにして、目的の墓へと向かって歩くこと、一分足らず。大して歩かずとも、その墓は見えてきた。
明らかに他とは違う大きさの、立派そうなお墓。金ピカであるとか、可笑しな装飾がされているとかではないが、その立派そうなサイズと重量感の所為か、なんとなく、流石金持ち、という印象を三人に抱かせるような、一目でそれと分かってしまう墓だった。
その墓の周りの墓は、心なしか距離を取っていて、やはり特別感を醸し出している墓の墓石には、『影沼』の文字が刻まれている。地主、つまり先祖代々この地にいたのだろう人の墓は、歴史のようなものを感じさせた。地主であることを知る三人には、そう感じられて。
三人とも、神様を匿い、連れて歩いてはいるが、基本的に三人とも今まで無神論者で、今でも他の人間のような敬虔な気持ちを持って神様を敬っているわけではない。
ただ、実際に存在してる神様を目の当たりにしているので、いるのだ、という確信をしているだけで、それはいってみれば、信仰のように信じているのではなく、存在を知っている、というだけの状態だった。
つまり、一般的な信心は持っていない、今時の、所謂、典型的な日本人的無宗教の状態。
以前からそうだし、今もその状態ではあるのだが・・・、これもまた、ある意味日本人らしいといえば日本人らしいのかもしれないが、墓という宗教的な存在を前に、三人は何も信じていないのに、酷く敬虔で厳粛な気持ちになっていた。
霊の存在を信じているわけでもなく、墓参りという行為に何かの効果があるとも思っておらず、そもそも先祖とか故人に対する何らかの思いを抱くようなこともないし、必要ともしていないのに、何か、宗教的な存在に対して、無条件で敬虔で厳粛な気持ちを抱くのが、日本人の習性なのだろう。
墓参りもすれば、クリスマスもし、盆を迎えて送っては、イースターまで手を出そうとする。
寺と神社の違いも分からないのに、とにかくそれらしき場所に行けば、畏まる、ある意味、無節操な人種。その典型でもある三人は、ただみーさんが来たがっていたし、何となく、関係者の人だからという酷く漠然とした理由で来ただけにも関わらず、とても真面目で、敬虔で、厳粛な面持ちで、墓の前に立ち尽くしていた。
誰が促すでもなく、自然と両手を胸の前で合わせながら。
「なんか・・・、何も持ってこないできてしまいましたね」
「あー・・・、花とか、そういうのってこと?」
「えぇ、せっかくだから、何か持ってくれば良かったのかなって」
「そっか、墓参りって、そういうモンだっけ・・・、なんか、した事なかったから、そこまで気が回らなかった・・・」
「人生初の墓参りの気がするなぁ・・・」
「掃除くらい、少ししましょうか?」
「掃除道具、あんのかな?」
「あっちに用意があるそうですよ。先ほど、住職さんにお聞きしました」
「流石うーさん、抜かりなしだなぁ」
「そういうわけじゃないんですけど・・・、じゃあ、ちょっと取ってきましょうか? 水も使えるみたいなので、桶っていうんですかね? そういうももあったので、汲んできますよ」
「あ、じゃあ、俺も手伝うから・・・、芦はみーさんと待ってろよ」
「了解」
墓の前までくれば態度がそれなりになるのだが、それまでは本当に何も思うことはないので、一般的な墓参りに必要なものすら持って来ていなかった。その事にようやく気づいた宇江樹の提案で、急遽行われることになった掃除の為、道具を取りに宇江樹と井雲が再び寺の方向へ向かった。
二人の後ろ姿を何となく見送った芦は、それから墓に視線を戻し、改めて静かに佇む滑らかな石の表面を眺める。『影沼家』という文字は読み取れるが、他に、卒塔婆に書かれている文字はただ波打った線にしか見えないし、墓の形式のようなものも、たとえば各部分の名称も分からない。
むしろ、墓を前にどういう作法を取るのが正しいのかすらも分からないのだから、もう手を合わせてしまった後は、何も出来ずに眺めて、二人が戻ってくるのを待つしか無く、手持ち無沙汰になってしまう。
その、何をすることも出来ない時間の中で、芦の視線が自分以外の存在に向かうのは、当然の流れだっただろう。自然と向けた視線の先、自分より大分下に位置するみーさんの顔は、見えない。
小さなみーさんを見下ろす形になってるので当然ではあるのだが、恐竜を模した服のフードを被った頭だけが見える状態なのに、芦は何となく、いつもと雰囲気が違うような気がした。
テレビを見ている時ですら、頷いたり、楽しげに身体を揺らしたりしているみーさんが、じっと、身動き一つせず固まっていた所為なのかもしれない。もしくは、顔は見えずとも、その視線が墓に釘付けになっていた所為なのかもしれない。
或いは、その視線の先にある墓に眠っている人が、みーさんに関係しているのだという予測が事前に成り立っていたから、そんな風に見えてしまうだけなのかもしれない。
どれが本当の理由なのか、それともどれでもないのか、分からないまま、芦は気になって膝を折り、驚かさないように音量を抑えた声でみーさんに呼びかけながら、その顔を覗き込んでみた。
みーさんがどんな表情でいるのか、いつもと違う様子に色んな理由を思い浮かべながらも、その表情を予想することもなく。
・・・まるで、泣き出すのを耐えるあまりに、拗ねたような表情になってしまった人間の子供のような表情をしていた。