その1
澄み渡った空があった。何一つの曇りもない、完璧な空だった。
その空を、人が一人、見上げていた。熱気の籠もった風が銀色の長い髪を吹き上げると、細い手が鬱陶しそうに髪を抑えた。
長い前髪の隙間から覗く瞳は紅く、その顔立ちはとても幼い。しかし、表情には幼さからはかけ離れた憂いがあった。
「……もしやと思ったけれど、やはりダメだったね」
諦観の籠もった言葉が、少年らしい少し高い声で紡がれる。
彼の周りに人影はない。――いや、彼の立つ地に、生者の気配は無かった。
あるのは崩落した高層建築物や踏み荒らされた道路。それらを襲った破壊行為に加え、相当な年月の経過による風化からか、基礎がむき出しになっている部分も多い。
『ま、コミュニティが維持されているのであれば、外の事態に何らかのアクションを見せなければおかしいだろうからな』
打ち寄せる大波の音をかき消すような、女性の冷静な声が響いた。
「そうだねえ……。いやはや、地上に最後に残ったエスペランサ――なんて思ったけれど、そんな都合のいい話は転がっていないわけだ」
『都合のいい話の一つや二つくらいは転がっていてもバチは当たらないだろうにね。――どうするネイト? 恐らく、人類未到の地を探検して、先々のことを決めようか』
「そうだね、ファーレンハルト。……行こうか」
少年――ネイトは長い髪を翻し、ゆっくりと、廃墟の方へ歩き出した。
廃墟を囲うは、一面の蒼海。ぽつんと浮かぶ島々の名がアトラティアであるということをネイトとファーレンハルトが知るのは、この少し後の事である。
島の反対側に出た。やはり、少年の背後に廃墟があるのは変わらない。
ただ、反対側の景色は少し違った。少年の傍らには、少女があった。
「……不可思議だ」
ネイトは少女に語りかけるでもなく、独り言のようにつぶやいた。
少女は答えない。答えられない。
美しい白い髪が風に揺れても、少女のくすんだ赤い瞳はまばたき一つすらしない。恐らく、金の意匠が施されていたのであろう衣服は、既にくすみ、ぼろ切れを頭から被っただけとしか形容できぬ状態だ。
目は見開かれたまま、空の一点を見つめている。少女は、どこかの過去の時点から停まっていた。死んでいるわけではない。肌の艶や瞳の色合いは生者のそれだ。
しかし、生者にあるべき「動」を、彼女は決定的に持ち得ていなかった。
「こんなことってあるのかい、ファーレンハルト」
『さあ。――世界の生命がお前一つとなったことだって十分不可思議だ。まるで生きているかのように死んでいる人間がいたって不思議ではないだろう?』
ファーレンハルトの言葉に、ネイトは首を横に振る。
「……いいや、死人ならこうはならない。この子は生きているよ」
『お人形ごっことは趣味の悪い』
「そうじゃない。言い方が悪かったね。この子は生きてもいないし、死んでもいない。中身がない。けれど、人のガワはしっかりと存在している――」
ネイトは少女の頬に触れた。ハリのある、十代の少女の肌だ。
「僕は生憎と人の魂の在処がどうのなんて話はついぞ理解できなかったけれど、この子の中身がなんらかの方法で抜かれたか、あるいは破壊されたか、ということはなんとなく想像できる」
『竜の次は悪魔でも狩るつもりか?』
ネイトは穏やかに微笑んだ。しかし、その細い瞳はまるで笑っていない。
「悪魔が人に仇なす存在であるのなら、それもいいかもしれないね。とりあえず、まずは僕の前に出てきてもらうところから始めようか」
『私以外の話し相手も情操教育には必要やもしれんな、確かに。――ネイト、それはつまり、お前の言う悪魔を探す、ということか?』
「探す必要はないよ。手がかりは揃ってる」
ネイトは右手を掲げた。変色した紙が一枚、何もない空間から浮かび上がる。
『それは?』
「建物――いいや、遺跡かな。拾ってきたのさ。ここが、こうなった日の記録をね」
ネイトは紙面に視線を落とした。
「日付はおおよそ千年前。空から黒い翼がやってきた――翼は街を喰らい尽くし、浮島は浮力を失い、海上へと叩き付けられた」
『……浮島? これほどの広さの島が空に浮いていたというのか?』
ネイトが現在地である反対側に移動するまでに要した時間は三日だ。
途中にいくつかの箇所を探索したとはいえ、決して狭い地ではない。
『信じられん……。なにより、千年前にそのような話は一度たりとも聞いたことはなかったぞ』
ネイトは楽しそうに微笑んだ。
「つまり、このアトラティアという地――いや、国はあらゆるものからの秘匿の内に生まれ、そして葬られたということ。しかも、彼らはその事を知っていた」
『ほう?』
「この紙切れの日付は、墜落すると書かれた日の二週間前だ。これは墜ちたあとの記録じゃない。墜ちる前の予言だ」
紙切れは、紅い光を放って消える。
『予言……しかし、この結果から見るに、予言は役に立たなかったということかな?』
「予言は役に立ったんだよ、ファーレンハルト。結果は違わなかった。――この地の記録には予言という言葉が嫌ってほど出てくる。人の死から明日のお天気まで、この国は予言で運営されていたって言っても過言ではないだろうね。予言は国の基盤であり、それが滅びの予言であろうと、彼らは平然と受け取っていたんじゃないかと思う」
まあ、実際のところは分からないけれど、と、ネイトは付け加えた。
その視線は、再び停まった少女の方に向けられている。
『……この者は受け入れていたのかな?』
空を見上げる少女は、最後の瞬間に何を見ていたのだろうか。
「わからない。だけど、何にせよ、悲しいなって。きっと他の人は墜落の衝撃で死んでしまったのだろうし、よしんば生き残ったとしても、ここは太平洋のど真ん中だ。溺れ死ぬのが関の山だよ。でも、この子は一人で、千年経ってもこうして存在してる。それってなんだか、寂しくないかな」
『つまり、お前は寂しいということかな?』
「――僕にはファーレンハルトがいるからね。寂しくはないよ。ただ、もしこの世界に、たった一人でも人が残っていて、僕がそれを見つけてあげられていないとしたら、それはとても悲しいことだなとは、ずっと思って来たけれど――」
ただ、と、ネイトは平坦な口調で言葉を続ける。
「誰かを悲しむって……長らく忘れていたけど、やっぱり嫌なものだね」
ネイトは少女の髪を撫でた。白い髪は手触りよく、未だに血が通っているかのように思える。
『感情の揺れにはエネルギーを使うからな。多かれ少なかれ』
「そういうことじゃないよ、ファーレンハルト。ま、それはそれとして――もう一つね、久しぶりに思い出したよ」
紅い瞳には、爛々とした強い光が宿っていた。
「僕は、悲しいことはやっぱり嫌いだ」
悲しみを消す、その途方もない願いこそ、彼が地上最後の生命となってしまった原因だ。
願いは少年を闘争へと導き、その闘争は新たな悲しみを生み、その悲しみを消すための新たな闘争が必要となった。それはもはや闘争の無間地獄といっても過言ではない。常人にはとても耐えられまい。
しかし、そんな無間の地獄を越えうる力が、彼にはあった。
「――決めたよ、ファーレンハルト。考えてみれば簡単なことだ。僕の力は、悲しいことをなくすために振るわれるべきもの。目の前にこうして打ち払うべき悲しみがあるのなら、僕には力を使う義務がある。その力がどんなものであれ、解決策に成り得るのなら」
『……本気か? お前が思っているよりも、恐らく遙かに有用な使い方ができるんだぞ? キーポイントとなる戦局に飛べば、まず間違いなく戦況を一変させられる。勝敗さえも変えられる可能性がある力だ』
「確かに、ファーレンハルトの言うことは正しいと思う。どちらかの勝利をもって千年戦争を終わらせるのも一つのやり方だ。僕がバランサーとして戦局を操作すれば、双方に不要な被害を出すこともない……」
『それがわかっていて、なぜ、この見ず知らずの、今日初めて降り立った地を守るためなぞに力を使おうとする?』
「それは、今更だよ、ファーレンハルト。僕が今まで守ってきた人の大半は、顔や名前もろくに知らないし、一度たりとも足を踏み入れたことのない土地ばかりだ。守れなかった人はその逆だけどね」
悲しみをたたえるでもなく、ネイトは淡々と言った。
『……その、守れなかった人を守るために力を使う、ではいけないのか?』
「それは僕の自己満足にしかならない。何より、結末を変えることには繋がらない。――いや、結末を変えうることができるかどうかの確証がない」
『……それは、この土地の者達を救うことにも言えるだろう?』
「うん。確かなものなんか何もない。時間を巻き戻したとして、結局のところ、僕は今に収束させてしまうのかもしれない」
ネイトは空を見上げた。
この清廉な空を見上げるものは、もはや地上に誰も、何もいない。
「……僕はね、友達をみんな救えたとしても、結局はこうなってしまうんじゃないかって、思ってしまうんだ。その現実を思うだけで、たまらなく恐ろしい。もしそうなってしまったら、僕は――自分が何をしでかすか分からない。それも怖い」
口に付いた畏れの言葉に、ファーレンハルトはしばし沈黙で応えた。
「それに、僕は友達からありったけをもらったんだ。命さえもね。だから、これ以上何かを望んだら、贅沢すぎるよ」
『お前も……それだけのものを与えてきたと思うがな。友にも、人にも』
「与えてきたんじゃない。奪ってきたんだ」
世界は、一人の少年に奪い尽くされたのだ。
「僕が与えることができたものなんて何もない。平和も、勝利も、融和も――何もね」
世界に満ちるのは、無だ。
「その先を知っている僕が、彼らとまた顔を合わせたとしても――きっと、いい結果は生まれない。結局僕は奪うしかないんだから」
生に溢れた世界を、無の世界へと変えた、人の英雄。
「だったらば、未来の友達のために、世界をよりよい方向へ導けるよう、過去で戦う。その方が、幾分か建設的でないかな?」
『その手始めに、この土地を救う根拠は?』
「決まっているよ」
振り向いたネイトの表情には、柔らかな笑みが一杯に広がっていた。
「この悲しい出来事を、僕はもう知ってしまった。それを見て見ぬふりなんてできないよ。それに――時期もちょうどいいと思うし。これはいわゆる運命というやつだよ、ファーレンハルト」
『千年前の、いつだ?』
「二〇一六年の七月――。人と竜の全面開戦のちょうど四年前だ。僕達には四年の時間がある。さすがにファーレンハルトが表立って動くことはなかなかできないだろうけど、それは彼らにとっても同じ事だ。それに、僕はヒトの全盛期というものを、一回見てみたいんだ」
一際強い潮風が吹く。背中から吹き抜ける突風で、銀色の髪は大きく広がった。
背中を押すような風に、ネイトは目を細める。
「――もしかしたら、彼らと同じ結論に至るかもしれない。それはそれで、有意義な結論だ」
『わかった』
ファーレンハルトの短い返答で、西暦――という暦が続いていたとすればだが――三一〇〇年に生きる最後の人類は、この時代を去る結論を下した。
「行くよ、ファーレンハルト。果てはどうあれ――まずは、この悲しみを消しにいかないと」
『承知した』
稟とした返答が、青い翼と共に舞い降りた。
王を迎えるかのように頭を垂れる、白い人型の化身。人は便宜上こう呼ぶだろう。
人型兵器――ロボットと。
煌々と光る青い灯りを見上げながら、ネイトは申し訳なさそうな顔を浮かべた。
「ごめんね、ファーレンハルト。たぶん、納得してないと思うけど――」
『わかっているなら言うな。それに、私もお前の一部だ。お前が決めたことを否定したりはしないし、尊重するよ』
ファーレンハルトが差し出す手の平に、ネイトは飛び乗った。
人の身体よりも遙かに大きい黒い手の平の上で、はじまりの言葉がつぶやかれた。
「外殻解除。汝が真の姿を示せ(我が竜を見よ)」
その言葉に反応に、蒼い瞳は紅へと色を変えた。人型の装甲に紅い輝きが奔り、さながら、血の巡る血管の如き様相だ。細い紅い光は輝きを強め、ついには、装甲全てを覆い尽くした。
紅い光は膨張し、地を、海を、空を覆った。しかし、その異様を目にするものは誰もいない。何もいない。
光は程なくして収束し、空を見上げたまま停まった少女の側にいたはずの機体も、少年も、その姿を消していた。
少女は停まり続ける。この星が死に果てるその日まで。もはやそれを見届けるものは誰もいない。星は静かに、孤独に、その果てへと進んでいく。
ここに、ヒトの歴史は終わりを告げた。