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蟲毒  作者: 東間 重明
序章
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命脈起動のマクガフィン Ⅱ



 奥深い山懐には外界との交流を立ち、独自の文化を形成する部族があった。彼等は自らをイルマと呼称する。彼等は山中に幾つかの集合的な住宅を持ち、狩猟や工芸品の製作を活計に山中をあちらからこちらへと移り住んでいた。帝国と連合の戦火から逃れ、彼等の多くは被害の及ばぬ位置へと居を移していたが、未だ危険域から離れぬ者も少なからず存在した。どうして我から場所を譲り渡すことがあるものかと、一所に留まる頑なな者もあれば、止むなき事情があって、当地に留まる者もあった。

 

 その事情から、戦火に程近き位置に一人、川へと水を汲みに山から降りる少女の姿が在った。歳の頃は十五、六であろうか。獣皮の腰巻に蔦を編んだ靴を履き、生成りのシャツから覗く胸元には銀貨と貝殻で作られた装身具が軽やかに音を立てる。幼き面貌にはイルマ特有の模様が浮かぶ。目尻から頬にかけて二条の羊歯植物のような曲線が伸び、切り揃えられた黒髪にはイルマを象徴する鳥の羽が差されている。

 

 先日の荒天が嘘のような晴天の下、少女はそろそろと川辺に近づいた。幾らか増水してはいるが、氾濫する程ではないようだ。水瓶を下ろした少女の視界の先、崖から突き出した樹木の陰に見慣れぬものが転げていた。それは歳若い男のようであった。


(大変だ! 人が倒れてる。……でも、マーテルが云っていた。あれは多分、帝国の軍服だ)


 イルマは完全に中立な立場であることをここに牢記しておく必要がある。彼等はどのような場合にも、それが生活に最低限必要な交易である場合を除き、他者に対しては徹底して関わろうとはしない。それだから、少女が若者の軍服から軍隊の威力を恐れて態度決定の留保をしたということは、それだけで従来のイルマの考えからは外れた代物であった。平均的なイルマであれば、部族の人間でもなければこれを平然と捨て置いていたことであろう。

 

 恐る恐る近づいた少女は若者が酷い傷を負っていることを知ると、たちまちに決心をした。


(山神さまの所へ連れていかなきゃ! あぁ、でも、私じゃきっと最後まで運べない。とにかく、山神さまに報告して、ここへ来て頂こう!)


 少女は慌てふためいて、地面に置いた水瓶もそのままに来た道を駈け戻っていった。


 ◆


 貌をまさぐられる不快な感触に目を覚ますと、僕は沢のほとりに倒れているのだった。背や足首に石の感触。川の調べ。傍らに見知らぬ少女が控えている。咄嗟に身動ぎして、尚も顔面に差し出される両の手を払う。帝国では見かけぬ様相の少女は、しかしそれに頓着する様子もない。僕はそっと手を背中に回し、連合兵から鹵獲した例の武器を探ったが、それは散逸していた。或いは少女がそれを取り上げたのか。いずれにしても、僕が警戒を解く様子もないことに今更ながら気が付いたらしい。少女は小首を傾げ、


「あ……う、たふさぁー!!」何事かを大声で叫んだ。


 耳慣れない音韻は山岳に棲むという未開人の言語であろうか。僕は上体を起こし、事態の推移を注意深く見守った。幸いにして、腰に差した短刀は健在である。


 それにしても、妙に脇腹や貌やあちこちが痒い。虫に刺されたようにちりちりとした疼痛が全身に拡がっている。それは意識し出すと余計に気になってどうにも堪えられない。頬を指で引っ掻くと、付着した血液と共に、なにやら虹色に偏光する鱗粉のようなものがべったりと指先に付着している。


 そうして眠りから覚めた五感が感覚を取り戻してゆくと、僕は先まで自分を苦しめていた痛みが全く取り除かれていることに気が付いた。シャツを捲くり、腹部を確認すると、下腹部にかけて乾いた血液はそのままであったものの、穿たれた傷痕はすっかりと塞がっていた。虹色の鱗粉はやはりここにもべったりと付着している。


 そうとすれば、僕は目の前におろおろと困じ果てた様子の少女に助けられたのか。しかし、少女はなんとも頼りなく、医術の心得があるようにも思われない。第一、医術に通暁した者の手であったとしても、こうまで見事に傷を塞ぎ、痛みを取り除くことなどできそうにも思えない。それほど完全に、僕の身体は快復していた。全癒していた。どこか身も軽く、平素よりも調子が良く感じるほどだ。


 僕が怪訝な顔で目の前の少女を眺めていると、近くの雑木林から軽快に足音を立て、少女がもう一人こちらへと駈けて来た。先に僕の傍らに控えた少女より、幾分年嵩の少女だ。草の葉を編んだ背嚢を背負い、小脇に水瓶を抱えた少女は僕の近くまで走り寄ると、荷物を置いて同郷人と一言二言を交わした。


 会話が理解できないというのは、随分と居た堪れないものだ。僕はなんの気なしに、その場に立ち上がった。


「ア、アナタハ、スワッテイロ。コレヲノメ、ゲンキ二ナレル。コレモ」


 驚いた。どうやら年嵩の少女はこちらの言葉を話せるらしい。差し出された水瓶には川の水が並々と注がれ、添えられた木の葉の包みには獣の乾し肉。知らず、自分の咽喉元がごくりと音を立てた。真っ当な食事に餓えていた僕は、しかし真っ先に彼女に向けて語りかけた。僕はなにより、他者との会話に餓えていたから。


「君は、言葉がわかるのか?」


「アー、ワカラナイ。スコシ」少女はそう云って、気恥ずかしそうにはにかんでみせる。


 文法の正誤などこの際どうでも良い。必要最低限のコミュニケーションが図れればそれで充分だった。


「君が、僕を手当てしてくれた?」


 数瞬をおいて、少女は僕の傍らに在る少女を指差し、ヤマガミサマ、タスケタ、と口にする。指差された少女は嬉しそうに、たふさぁー、と声を上げて年嵩の少女に駆け寄る。ヤマガミサマ、というのが年少の少女の名なのだろうか。先程の僕の見当は間違いであったらしい。どうやらヤマガミサマが僕の治療に当たったものらしい。


 その後話したことを整理すると、年嵩の少女はタフサという名であり、年少の少女はヤマガミサマという名であるらしい。年少の少女に敬称を用いる点には些かの不整合が見られるように思えたけれど、そもそも音韻から推断しているだけなので、本当のところが判らない。ともあれ、僕の身体を治療してくれたのが、タフサの胸に抱きついて幸せそうに笑っている、ヤマガミサマと呼ばれる少女であることは確かなことであるようだ。


「そうか、有難う。お陰で僕は元気になったよ」


 少女二人は僕に笑ってみせた。それがあまりに屈託ない様子であったからだろうか。人によれば馬鹿みたいな話だろうが、僕はタフサが着いて来いと云う、カゼノトウへの同行を快諾した。それが彼女達の住居であることを知り、道中にて水瓶の水と乾し肉を喰った。乾し肉は筋張っていて獣臭かったが、噛み締めてゆくと旨味が出てくる。僕は久しぶりに、人間に戻れたような気がした。蘇生されたような気がした。


 それで、僕は先導する少女二人に導かれるようにして、山道を登っていった。僕にはそうする他なかった。任務を放棄するつもりか。幾人の犠牲をも顧みず。そんな声が聞える。けれども、どうしても僕には血臭に満たされたあの戦場が、人間の進み往く道先であるとは到底思えなかった。


 山頂に向けて僕らは進む。あの不吉な戦場の音律も、今は耳に届かない。







ここまでお読みいただき、ありがとうございます。

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