命脈起動のマクガフィン Ⅰ
前線が崩壊して後、部隊は当初の意気も空しく零雨の森に無惨な敗走を強いられていた。これは敗走などではなく、まして転進でもない。幾許かの伝令を後続部隊に送り、自らが陣頭に立ち、これは背走である、我々は連合の奴原に決して屈従せぬと兵卒を激励した部隊長の姿もここにはない。彼の遺体は何日も先に通過した沼沢地帯に雨曝しにされて在る。今頃は損壊した肉塊に雨水にのってやってきたヒルや傷口に湧いた蛆が、粗方生命の標識を食い尽くした頃合であろう。
部隊は南進し、あの危険な平野部から深山幽谷へと立ち入った。青年は重量の減った背嚢を手のひらで押し上げて、濁った微苦笑を浮かべた。背嚢に収められた塩も残り少ない。友軍の遺体から拝借した岩塩の塊りは惜しみながら費消されてあったが、浸透する雨水には始末が付かない。配給の芋は先に食い尽くした。国家がこの歳若い青年に提供する保障は、腰に差した一本の短剣に尽きていた。
暗く濁った目玉が地を這う蝦蟇を捉える。物憂く短刀を引き抜くと、青年は膝から地面に倒れるようにしてそれを蝦蟇の背に突き立てた。神に宥恕を乞う罪人のように、青年は地に付した。綿くずのような蝦蟇の腸を啜り、えぐみのきつい肉を貪り、右手に背嚢から掬った塩水を啜り、天与の恵みに感謝するように曇天の空を仰いだ。
(ああ、ここでこうしているくらいなら、なんだ、食っちまえば良かったじゃないか)
彼の脳裏に池沼の草原にぽつねんと転がる木片のような何気ない物体が転写される。それは誰のものともしれぬ人間の腕であった。あの超常の力に吹き飛ばされた人間の腕であった。指先まで綺麗に形の遺った人間の腕であった。襤褸雑巾のように打ち捨てられ、憐憫と無感動を青年の胸裏に呼び起こした、人間の腕であった。胴体は近辺に見当たらない。どこか遠からぬところに転がっているのだろうが、その損壊の度合いは腕に比すべくもないだろう。爆散、という形容が相応しい惨状を想起する。
青年は蝦蟇の肉を咀嚼する。決して自らの人倫が採択した結果ではなかった。池沼の木片を食さなかった青年が、今ここに蝦蟇の肉を喰らうということは、彼に悲痛なアイロニーであった。どのようにして繋いだ命であろうとも、彼の念頭からは腰に佩いた短剣で咽喉元を突き、自決を図るという選択が常に浮かんでは消えていた。それは死体に群がる蝿声のようにとりついて離れることはなかった。彼は渋滞し止まぬ情念に自己矛盾の説明を加えながらも、自らの延命になにひとつ感動することなく、機械化された咀嚼運動に感官を麻痺させることに注力した。夢中に自己の把持を失った者の如く、断片的な情景と裁断された思考とは彼の脳裏に螺旋を切ったように捻じ込まれてゆく。そうして、唯一の部隊員となった青年は、雨中に座して今や沛然たる驟雨のなか、一人孤独に地獄のようであった。
――強力な軍事力と指導者を置く自国の有利を誰もが疑わなかった。
国境付近に小競り合いを繰り返していた幾つかの小国が連合軍を名乗り、帝国に叛旗を翻したところで、結果の明白は覆ることはない。
事実、帝国軍は善戦していた。精兵は敵国領を大きく横断する深山幽谷を越え、要衝の一つを易々と陥落せしめた。北進を続ける軍が自らの慢心に遅ればせながら気が付いたのは、農村に程近い平野部に差し掛かった時であった。
帝国の騎兵隊の得意とする見通しの良い平野。そこに、連合の兵士はこちらに身構えていた。剣士が三十人程度、弓兵が目視で十数人、そして奇妙な棒を手に持ち、地に伏した兵士が横一列に並んだ混成部隊である。戦力差は五倍以上。先遣隊の遭遇戦にしても充分な兵力差に部隊長は突撃の指示を出し、馬上弓が唸りを上げ、そうして、一方的な蹂躙は始まった。
耳を突き抜ける轟音に足元を伝わる衝撃。青年の右前方に抜剣し敵方へと突撃した騎兵が馬ごと弾け飛んだ。次いで、連続的な破裂音と共に友軍がばたばたと倒れてゆく。動揺は瞬く間に伝播し、部隊は統率を失う。我先にとその場から敗走する兵士の背に容赦なく穴が穿たれる。声もなく落馬する兵士の背中には突き刺さる矢の姿もない。それは未知の兵器群が齎した廃滅の兆しであった。
部隊はこの兵器に抵抗する術を持たず、砦へと敗走したが、道中側面からの奇襲を受け壊滅。生き残った者が漸う辿り着いた要塞は既に孤塁の体であった。そうして各々が本国に事態を知らせるべく逐電するに至ったのである。
青年は虚脱した肉体をどうにか持ち上げ、物憂く歩き出した。額に張り付いた黒髪を払う気力もなく、半ば靴底の剥げかけた軍靴を引き摺り、ただ南へ。こうしている間にも敵国の掃討部隊は目睫に迫っているのかもしれない。敵性国家ばかりではない。この山に生息する獰猛な生物もまた、彼の心胆を寒からしめる脅威である。足を止める一刻の猶予もない。睡眠の不足した混濁する意識を必死に繋ぎ止めながらの行程は、爛酔の境にも似ている。けれども、彼の警戒心と恐怖とは極限まで研ぎ澄まされ、自己保存の本能を賦活していた。故に、彼は混濁した意識のなかでも、はっきりと前方に幽かな葉擦れの音を聞いた。額に小石をぶつけられたように、彼はそれを正確に感じ取った。
息を詰めた青年の身体に緊張が走る。中腰に構え、音を立てずに短剣を引き抜き、ブレードを確かめる。雨水の伝う刀身が重い。耳鳴りと共に、麻痺した五感が蘇生されたように活発化する。雨と土と、濃密な緑の匂い。雨水に押し流される砂礫の一粒一粒までが鮮明に網膜に焼き付いてゆく。近く、滝の落ちかかる音が聞こえる。
(……猪か、鹿か。それとも)
ざり、と重苦しく足音が聞こえた。青年は即座に理解する。もし、相手がこちらに気が付いていないとしたら、今が唯一の勝機だ。それでも分が悪い賭けにはなるが、こちらに気が付かれてからでは万が一にも勝機はない。あの未知の兵器でばらばらに粉砕されるか、蜂の巣のように全身に風穴を穿たれて死ぬか。今を逃せば二つに一つ。しかし、もしあれが友軍であったとしたら?
青年は逡巡を呑み込んで、意を決した。脳裏には池沼の木片と蝦蟇の肉とが激しく明滅している。短剣を握り込んだ右手には満身の力が込められ、青年は葉叢の敵影へと突進した。揺れる眼界の先、息を呑む気配を間近に感じるのと、短剣が突き入れられるのはほぼ同時であった。
両者はその場に勢いそのまま転がり回った。短剣を両手で突き入れながら青年が上体を起こして押さえ込んだ相手は、猪でもなく鹿でもなく、確かに人間であった。腹部には短剣のブレードが根元まで埋まっている。そうして、泥土塗れで荒く息を付きながら青年は更に一度、短剣を引き抜き、敵性人種の心臓目掛けて振り下ろす。声にならぬ苦悶を漏らして敵兵は青年から逃れようと身を捩り、それが為に短剣のブレードは狙い過たずとも肋骨に当たり、滑るように急所を逃れた。
激発した青年が更に見当を付けずに再度短剣を振り下ろそうとすると、敵兵のそれは上体を起こし、無防備になった青年の腹部へと向けられていた。ぱん、と一度、乾いた音が辺りに響いた。青年の腹部に衝撃が走り、次いで内臓をフックで引き摺り出されるような激痛が彼を見舞った。それでも青年は振り下ろす手を止めず、短剣は敵兵の胸元へと突き刺さり、これを殺害した。
あまりの痛みに薄れてゆく意識のなか、青年が手を当てた腹部からは止め処なく血液が流れ出していた。敵兵が右手に握り込んだ鉤型の棒の先端には穴が開き、そこから僅かに煙が立ち上っていた。握り込んだ柄の部分に輪のようなものが取り付けられており、そこへ人差し指が差し込まれている。
それを確認したところで、青年の体力は尽きた。敵兵の胸元に倒れ込み、ぜいぜいと荒い息を付き、これではもうどこにも行かれない。この身体を、どこに運んでゆくこともできはしない。
遠く、意識の片隅に誰かの喋り声が聞こえる。それは何者かに語り掛ける声。恐らくは、先程の物音に気付いた人間が、倒れ伏したこの物言わぬ敵兵へと向けた声。
(ああ、これで決定した。これで終わりだ。餓えて死ぬことを選択することもなく、自刃することを選択することもなく、ぼくはここで死ぬ)
腹部から流れ出る血液と共に青年の意識も体外へと押し流されてゆく。それは敵兵の胸元から溢れ出る黒い果汁のような血液と交じり合い、彼らの横たわる大地にゆっくりと染み渡り広がってゆく。身体は徐々に致命的な体温をも失ってゆく。足音が一歩一歩と迫り来て、
(あぁ、それでもやっぱり)
肘を突き、膝を立て、震える身体を持ち上げる。敵兵の握り締めたそれを指から引き剥がし、ベルトに差し込む。凡その方角は判っている。問題は、そこまでこの身体を運ぶことが出来るか否か。乾いた音を背後に聞いたような気がする。なにか雑多な音の集合がぐるぐると耳の回りにうねっている。
青年はその場を走り出し、そうして意識を手放した。
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