NO.8 かいじん著 刀 『生き様に死す。』
五月雨は 露か涙か 不如帰
我が名をあげよ 雲の上まで・・・淡青紫色の花を咲かせた紫陽花の葉を生暖かい風が、小さく揺らした。
空一面が厚い雲で覆われて、今にも大粒の雨が振り出して来そうな気配があった。
西国街道で、清水詣りの者を見かける事は
別にめずらしい事では無いが、その参詣の一群には、只ならぬ気配があった。
粗末な身なりに、胴や草摺だけと言った様な不揃いな具足を身に付け、槍をかついで行く者達がいるかと思えば、きらびやかな甲冑に身を固めた騎馬武者もいる。
巻いた火縄を携え、鉄砲を担いだいかつい面構えの僧兵達までいた。
三階菱に五つ釘抜きの旗指物を靡かせながら街道を北上して行くその一群を人々は、不安な表情で見送った。
永禄8年5月19日(西洋暦1565年6月17日)
三好三人衆(三好長逸、政康、岩成友通)松永久秀らは清水参詣と称して一万の軍勢を入洛させ、「訴状の事あり」と、公方、足利義輝の居館、二条御所に押し寄せた。
「推参なり。臣下の者共が弓矢を持って訴え事とは何事であるか」
義輝は色をなした。・・・義輝の父、足利義晴(12代将軍)は管領、細川晴元との争いに敗れて度々、京を追われ、
その都度、義輝も父と共に、近江坂本、朽木谷などで
流亡の日々を送った。
「力無き公方など、天下にとって無用の長物じゃ」
11歳で父より、職を譲り受けた義輝は思った。
「強くあらねばならぬ」
そう思ったが、どうすれば強くある事が出来るのかわからなかった。
わからぬままに、道を求めるがごとく、的に向けて弓を引き、武芸の鍛錬に励んだ。
長じてからは、上泉信綱、塚原ト伝と言った天下に名を知られた兵法家に剣の教えを乞うた。
その間、管領、細川晴元が誇っていた権勢はその家臣であった三好長慶に取ってかわり、長慶亡き後、今はかつてその配下にあった松永弾正(久秀)、三好三人衆などが、京や畿内で幅を利かせている。
「かような有様では、いずれは百姓の家に生まれた者が関白の位を賜る様な世になるやもしれぬ」
かつて義輝は周囲の者に戯言で言った事がある。
・・・やがて、外の方から武者達の雄叫びが聞こえ鉄砲を放つ轟音が鳴り響いた。
義輝は、松永、三好のこの度の入洛の意図が自分を弑する事にある事を悟った。
「どうやら、わしが命も、今は是までの様じゃ」
女連中を御所の外に出した後、義輝は、立ち上がって近習に命じた。
「この館にある刀を掻き集めよ」
義輝は最期を自害では無く、武家の棟梁、公方として、
自らの生き様を貫いて死ぬ事を決意した。
しばらくして、御所の玄関になだれ込んできた武者達は目の前の光景に思わず息を飲んだ。
直垂姿の男が一人で太刀を構えて立っている。
その後ろには十本程の太刀が畳に突き立てられていた。
「あれなるは、公方、義輝様じゃ、掛かれ、是へ掛かれ」
侍大将の下知で武者達が義輝に向かって槍を繰り出した。
義輝は最初に繰り出された槍を体を変えて交わすとそのまま素早く踏み込んで、その武者を袈裟に切り瞬時に刃を翻して隣の武者の胴を払った。
さらに二人を切り伏せて、武者達がひるんだ所で、太刀を構えたまま、後ろに下がり刃こぼれした太刀を投げ捨てると、畳から新しい太刀を引き抜いた。
その様にして、義輝はたちまち十人以上を討った。
「何をしておる、公方は一人じゃ。掛かれ、掛かれ一勢に掛かってお首級を頂戴するのじゃ」
侍が大声で下知するが、返り血を全身に浴び鬼神の形相で、太刀を構えている義輝に武者達は恐れをなし容易に掛かれない。
「如何した、者共。臆したか、この首欲しくば打ち掛かって参れ」
義輝は叫んだ。
結局、最期は寄せ手に四方から畳、襖を投げ入れられそこから一斉に槍で突きかかられて、討ち取られた。
最期まで御所から退去する事を頑として聞き入れなかった義輝の生母、慶寿院も、燃え盛る炎に包まれて義輝と命運を共にした。
足利義輝 享年30歳であった。
(冒頭は義輝の辞世)




