NO.5 やあ著 『クリスマス』
「クリスマス」
4年の不妊治療を経て授かった娘が生まれた翌年、一本のクリスマスツリーを購入した。
決して高価なものではない。てかてか光る丸い玉や金色のベル、小さなりんごやプレゼントを模ったオーナメントがついた、ごくありきたりのものである。
きらきらとしたリボンを枝に巻き付け、薄く延ばした綿を乗せて電源を入れる。
灯りを消した部屋の隅で色とりどりの電球が点滅し始めると、幼い娘は目をまん丸にして見つめ続けていた。
2回目のクリスマスは火をつけたろうそくをケーキに立て、娘を促した。
「ふーって、吹いてごらん」。
ようやく片言を話すようになったばかりの娘は、
「ふーっ。ふーっ」と声だけを出して嬉しそうに笑み崩れた。
小さい子どものいる暮らしは、まるでそれまでモノクロだった日々にぱっと色がついたように感じられた。
3回目のクリスマスには、娘がプレゼントを模ったオーナメントの包装を全部開いてしまって夫婦を笑わせた。包みの中は立方体に切った発泡スチロールだったので、娘に内緒で購入したサイコロキャラメルを入れて包装し直したのを覚えている。
娘はクリスマスまでの毎日、包みを開いてはキャラメルを口に放り込んだ。
4回目のクリスマス。
5回目のクリスマス。
すくすくと彼女は成長し、我が家のアルバムは少しずつ厚みを増していった。
わたしは自分が母親となったことで初めて、アルバムの厚みとしあわせが正比例の関係にあることを知った。
娘を中心にした甘く細やかな日々は、さらさらとした雪が降り積もるように重なっていった。
そんな生活に翳りが見え始めたのは、娘と6回目のクリスマスを迎えようとしていた頃であった。
数年前に良性と診断されていたわたしの胃粘膜下腫瘍が急速に増大していることが判り、切除手術を受けることになったのである。
「おなかの中に腫瘍がこぼれてしまわないうちに切ってしまいましょう」。
消化器内科から紹介された外科で、新しく主治医となった医師は柔らかく微笑んだ。
超音波内視鏡下穿刺吸引細胞診という、妙に長ったらしい名前の検査結果を聞きに行った時のことであった。
翌日からは術前の検査が次々と行われ、レールに乗せられた製品が箱詰めされるようにわたしは病室に収容されてしまった。
娘と夫に見送られて手術室に運ばれ、麻酔をかけられたあとのことは何も覚えていない。
眠っている間にすんなりと全てが終了していた。
回復は順調で、半月少々でわたしは家へ帰った。
よからぬものは全て取れたと聞かされ、再び以前と同じ陽だまりの中にいるような生活が戻ってくると信じて疑わなかった。
だが複数の臓器を取り除いたあとの日常はなかなか思うように機能せず、わたしはゆっくりと、しかし着実に憔悴を深めて行った。
1日に5ミリ水没した心は、ひと月で15センチ沈んでしまう。
ふた月で30センチ、半年で90センチ、1年後には自分の身長よりも深い水の底でわたしは背中を丸めていた。
結局、娘の世話もままならなくなったわたしは夫と姑に娘を託し、別居というかたちを選択した。幾度もの母親の入退院によって、娘の情緒が不安定になった末の苦渋の決断であった。
娘は小1になっていた。
家を出る直前のクリスマスの朝、娘の枕元に置いたのはひらがなを覚えるための知育玩具であった。
おそらく就学前の子どもを対象に作られたその玩具を選んだ時には、ぽろぽろと涙がこぼれて止まらなかった。
「あとのことは心配いらないから」。
夫はそれだけ言うと、そっとわたしから視線を逸らした。
小学校に入学して8か月が過ぎても娘はひらがなもろくに書けず、言葉も遅れていたのだ。
わたしは移り住んだ小さなアパートで外来治療を続けながら、時間をかけて健康を取り戻していった。
月に何度かは夫が娘を連れて訪れた。娘はいつの間にかすっかり落ち着いて、夏休みには3回、秋が深まる頃にも2回、ひとりでアパートに泊まってはわたしを喜ばせた。
家を出て1年が経ち、再び12月が訪れた。
ある日、わたしはポストの中に一通の封書が入っているのを見つけた。宛名は見慣れた夫の文字である。
怪訝に思いながら開封すると1枚のキャラクター柄の便箋が入れられており、娘が書いたであろう、たどたどしい文字が並んでいた。
「サンタさんへ。 クリスマスプレゼントはおかあさんがいいです」。
わたしはツリ―で点滅していた色とりどりの電球を思い出していた。
真っ暗な闇の中にいてこそ、小さな光を明るく感じることが出来るのだろう。
わたしはあたたかな気持ちでその短い手紙を読み返し、いつ家へ帰ろうかと考え始めていた。




