NO.3 やあ著 『波』
「凪」
北西の風を受けて海面はざわめいていた。無数の白い三角が波間に立ち上がっては消える。二色にくっきり分けられた海と空。頭上には思いがけぬ速さで雲が流れていた。
凪が使っていた磯手ぬぐいが浜に打ち上がったのは、その日の早朝のことであった。
白地に千鳥が舞う模様は波にさらされ、色褪せてこそいたが、魔よけの印がはっきりと見てとれた。
島ではトモカヅキの妖怪伝説が、まことしやかに語り継がれてきた。トモカヅキは曇りの日、海女がひとりで漁をしている時に現れる。姿は自分に生き写し。そして片手に大きな鮑を持ち、向こうの漁場のほうがいいとばかりに手招きをする。出会った海女が差し出された鮑を受け取ったり、誘われるままに沖についていくと、命を落とすといわれていた。
佐和は娘の使っていた磯手ぬぐいを井戸水に浸してはごしごしこすった。まるで布地に沁み込んだ潮の香を、少しも残すまいとするかのような仕草だった。気丈な女性が多いとされる島の中でも、佐和はしっかり者で通っていた。ひとり娘の凪が中卒で海女を志した時にも反対をしなかった代わり、あれでは可哀そうだと集落で噂に上るほど厳しく素潜りを教え込んだ。
佐和はアルマイトの洗面器に張った水を替えながら、魔よけの印、すなわちセーマンドーマンを、凪の手ぬぐいに染め上げた日のことを思い起こしていた。岩場で獲って来たばかりのアカニシを金槌で割り、黄緑色のパープル腺をそっと取り出す。小皿に移したその浸出液に細い筆を浸しながら、予め佐和が薄く鉛筆で描いておいたセーマンの五芒星、それにドーマンの格子形を凪に丁寧になぞらせたのであった。
まだ凪が16歳になったばかりの春のことであった。染め上げたばかりの黄緑色の印を太陽にすかして、白い歯を見せて笑った凪。そのはちきれそうに健康な娘の表情が、佐和の胸を見えない針金で締め付けた。いっそ胸がひきちぎられてしまえばいいのに。かたく絞りあげた手ぬぐいを竿に広げながら、佐和は魔よけの印が日光を浴び、鮮やかな紫に変わった光景を脳裏で再現し続けた。
佐和は二十歳で凪を産み、その四年後に凪を伴って逃げるように島に戻った。海のない都会の暮らしと夫の親族との間に生じた軋轢で、すっかり心がささくれだち、憔悴しきっていた。だが離婚して子連れで帰った佐和へ周囲の風当たりは強く、両親だけが彼女の理解者といえる存在であった。やがてふたりが相次いで鬼籍に入ってしまうと、佐和は自分が強くなることでしか凪を育てることが出来なかった。
凪は大きな病気もせずにすくすく育ち、佐和も徐々に島の者たちとの信頼を回復させていった。そんな矢先、凪は明るい未来を描きながら、その下絵についに着色することなく、突然、波に飲み込まれてしまったのであった。
どんより曇ったその日、佐和は大伯母の法事の為に県外にある親戚宅を訪れていた。
黒い喪服に身を包んで玄関で靴をはこうとした途端、大きな虻が体にまとわりついた。幾度払っても虻は執拗に佐和の周りを飛び回る。伯父が佐和の首筋に止まった虻をはたき落とそうとしたのを、伯母がさえぎった。あれは虫の知らせだったのだろうか。ベルが鳴ったのはその直後であった。
昔ながらの黒電話は、けたたましい音で耳に突き刺さる。悪い報せに違いないと、佐和は無意識のうちに身構えた。果たしてそれは単独で海女漁に出た凪の溺死を伝えるものであった。
通夜、葬儀と慌ただしく日々が過ぎた。陽に焼けた凪の顔には傷ひとつなく、ただ眠っているかのように見えた。佐和は気力の全てを失い、何もかも放り出したい気持ちの底にうずくまるばかりであった。
あれから約ひと月。佐和は急に目立ち始めた白髪を黒く染め、身なりにも極力気を配るようになった。近隣の者はひとりになった佐和を気遣い、魚や野菜を届けては他愛もない世間話を差し向ける。佐和は腫れものにも壊れものにも見られたくない一心で、朗らかに言葉を返した。それはほぼ完壁な演技であり、周囲を安堵させるには充分な効果があった。
風に煽られて凪の磯手ぬぐいがはためいた。佐和は慌てて洗濯ばさみで留めながら、視界の隅に確かに一匹の大きな虻の姿を捉えた。
「もうすぐいくからね」。
凪を失って以来、佐和は不眠を訴え、医師に睡眠導入剤の処方を受けるようになっていた。その白くて小さな錠剤はシートからひと粒も外されることなく、きちんと凪のオルゴールに溜め込まれていた。
この風が凪いだら薬を一気に飲んで沖に泳ぎ出そう。その一念だけが今や唯一、佐和の心の支えとなっていた。彼岸では凪と両親が佐和が訪れるのを温かく迎えてくれるに違いなかった。




