NO.9 かいじん著 喫茶店『女子トイレ潜入者の孤独』
【女子トイレ潜入者の孤独】
10月の朝、少し高くなった陽差しは、優しく地上に降り注ぎ
所々にある掠れたような雲が、高い空をゆっくりと流れて行くのが
窓から見える。
陽射しを浴びて輝いている、緑の薄くなって来た街路樹の葉が
時折、風を受けて小さく揺れている。
気持ちの良い朝の眺めだったが、これから満員電車に揺られながら
通勤しなければならない事を思うと、あまり爽やかな気分になれなかった。
僕は慌しく混雑している駅に、向かう途中、駅前の比較的大きい喫茶店で
コーヒーを啜りながら、脳内から少しでも(やる気)を引き出そうと
空しい努力を続けていた。
しかしそんな意味の無い試みは空いている店内の奥の方の席から
聞こえてきた、時ならぬ若い女性店員の甲高い声で破られた。
「お客様先ほど女子トイレを使用なさいましたよね。...男子トイレの方が
開いてるのにどうしてそちらを....失礼ですがお客様以前から...
そういう事は大変困るんです。...今後この様な事が御座いますと...」
早口で矢継ぎ早にまくし立てている、女性店員の目の前の席には
一人の若い男が座っていた。
彼は別に内向的性格とも思えないごく普通の印象の若い男だった。
イメージで言えば彼が「僕は県庁職員です。」と言えば僕よりよっぽど
信用されるだろう。
彼は店員にまくし立てられている間、時々まるでそこから何か気体が
漏れているような声にならない相槌を打っていた。
彼はその間身動き一つせず、顔には表情と言えるものが
まるで浮かんでいなかった。
或いは彼は全身で「我輩は彫刻である。」と言う演技表現を
やってる最中だったのかも知れない。
その間僕を含め、店内にいた数人の客は「無関心な人々」という
演技テーマを与えられ、その台本通りの演技を心がけつつも
意識を耳に集中し、時々(何気ない)視線をそこに送った。
言う事を言い終わると女性店員は足早にそこを去っていった。
(舞台監督)がその場を去ると彼も(オーケー)を出された我々も元の
(朝の喫茶店の客)に戻っていった。
(彼の様な場面に立たされるととてもいたたまれないだろうな...)
と、僕は思った。
いつも思う事なのであるが痴漢し好者者等はそう言う事までは
考えないのでだろうか。
彼ら自身が一番自分自身に当てはめて考えそうなものなのだが...
しばらく、そんな事を考えた後、僕は伝票を掴んで、彼よりも早く
店を出た。




